第22話 神殿の使者
神殿の使者が侯爵領へ着いたのは、空がもっとも明るく見える昼前だった。
知らせが入った瞬間、館の空気は目に見えないまま一段だけ張った。
誰も騒がない。使用人たちはいつもどおりの足取りで動き、声も荒げない。けれど、銀器を運ぶ手つきも、廊下を曲がる角度も、わずかに硬い。
高位司祭の名代。
その肩書きが持つ重さを、侯爵家で知らぬ者はいない。
しかも相手は王都の本邸ではなく、わざわざ領地まで来たのだ。礼儀の形を取っていても、それだけで十分に異常だった。
自室でその報せを聞いたセレフィーナは、鏡の前で自分の顔を一度だけ確かめた。
怯えている顔はしていない。怒ってもいない。ただ、冷えていた。
「客間へお通ししております」
リズが衣の襟元を整えながら告げる。
「ノア様は?」
「別室に下がっていただきました。今回はお嬢さまと神殿の面会でございますから」
「そうね。その方がいいわ」
神殿は、見るべきものしか見ない。
ならばこちらも、見せるべきものだけを見せればよい。
「お嬢さま」
リズが低く言った。
「曖昧なお返事は不要でございます」
「ええ」
「言葉尻を拾われる可能性がございます」
「わかっているわ」
セレフィーナは立ち上がった。
神殿の怖さは、剣や怒声の形を取らない。
祈りと祝福と配慮の顔をして、決められた場所へ戻ることを求めてくる。
だからこそ厄介だった。
◇
客間に通された使者は、五十代半ばほどに見えた。
神殿の衣は華美ではない。だが、布の質と仕立てだけで高位の側にいる者とわかる。髪はきちんと撫でつけられ、指先まで静かだった。笑みも浅く柔らかい。けれど、その柔らかさは相手を安心させるためというより、断りにくくするためのものに見えた。
セレフィーナが入ると、使者は完璧な角度で一礼した。
「お目にかかれて光栄に存じます、アシュクロフト令嬢。突然の来訪、どうかお許しくださいませ」
「ようこそお越しくださいました」
「ご静養の折にお時間を頂戴しましたこと、心苦しく思っております」
「構いませんわ」
席を勧めると、使者はもう一度礼をして腰を下ろした。声も所作もすべて整っている。神殿で長く人を説いてきた者の話し方だった。
「お加減はいかがでしょうか」
「領地の空気に助けられております」
「それは何よりでございます。神殿もまた、常に令嬢のご平安をお祈りしております」
平安。
その言葉が、なぜか少しもやさしく聞こえなかった。
リズが茶を置く。使者はきちんと礼を述べ、カップにはすぐ手をつけない。まず言葉を尽くすと決めているのだろう。
「王都はまもなく、祈りに満ちた季節へ入ります」
使者は穏やかにそう切り出した。
「学園の卒業舞踏会、そして星冠祭。若き方々の門出と祝福の巡りが重なる、尊い時節にございます」
「ええ」
「このような時には、しかるべき方々が、しかるべき場にお立ちになることが大切でございます」
しかるべき方々。
しかるべき場。
セレフィーナはその言い回しを、心の中で静かに反復した。
「王都はいま、多くの心が祈りへ向いております。正しき形が整うことを、皆が願っております」
「……そうでしょうね」
「ええ。そして、そのためには令嬢のお立場が必要なのです」
来た、とセレフィーナは思った。
まだ命令ではない。圧も表には出ていない。
けれど、最初からここへ着地するために言葉を積んでいたのだとわかる。
「私のお立場」
「はい。アシュクロフト令嬢は、ご自身が思われている以上に、多くの方の目に映るお方でございます」
「そうかしら」
「王都は、しかるべき席にしかるべき方があることで、初めて安らぎを得るものです」
安らぎ。
今度は、はっきりと不快だった。
使者は続けた。
「令嬢がご体調を崩され、ご静養に入られたことは、まことに惜しまれております。ですが、もしお心身の状態が整いつつあるのであれば」
「……」
「ぜひ王都へお戻りいただきたいのです」
それは勧める声音だった。
懇願にも命令にも聞こえないよう、ひどく丁寧に調整された声。
「卒業舞踏会と星冠祭のあわいは、そう何度も巡るものではございません」
「ええ」
「今ここでお戻りにならないのは、まことに惜しまれます。皆が正しき形を求めておりますゆえ」
正しき形。
その言葉を聞いた瞬間、セレフィーナの中で何かが冷たく固まった。
使者は最初から今まで、一度も自分の意思を尋ねていない。
具合はどうか。休めているか。領地で何を見つけたか。
そうした問いは、表面を撫でるために使われただけだ。
本当に確かめたいのは、ただひとつ。
戻るか。
立てるか。
所定の位置へ復帰可能か。
それだけだった。
「ご配慮には感謝いたします」
セレフィーナは、ゆっくりと言葉を置いた。
「神殿が私の心身を気遣ってくださることも、王都の時節が重いものであることも、理解しております」
「ありがとうございます」
「ですが、現時点で王都へ戻るつもりはございません」
使者の微笑みは崩れなかった。
崩れないまま、わずかに静まる。
「令嬢」
「私はいま、領地におります。ここでの務めもございます」
「それはもちろん尊いことにございます。ですが」
「私の立つ場所は、少なくとも私が決めます」
使者の目が、初めて少しだけ細くなった。
ほんのわずかな変化だった。だが、祈りの顔の下にある硬さが見えた気がした。
「神殿としては、令嬢のご存在が王都に必要であると考えております」
「神殿のお考えは承りました」
「では」
「ですが、その必要が私の意志を先回りして決まることはございません」
客間が静まり返る。
リズは一歩も動かなかった。
茶器の音ひとつ立たない。
使者は数拍の沈黙のあと、やはり柔らかく言った。
「令嬢は、思っておられる以上に重い位置にいらっしゃいます」
「そうなのでしょうね」
「だからこそ、皆が惜しんでおります」
「惜しまれているのは、私でしょうか。それとも」
セレフィーナはそこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「私の空いている場所でしょうか」
使者は答えなかった。
答えないこと自体が、答えに近かった。
だがセレフィーナは、それ以上追わなかった。ここで感情を露わにした方が負けだと知っている。
「必要なことがおありなら、どうぞ文書にてお寄せください」
「……承知いたしました」
「王都への復帰についても、現時点でお約束できることはございません」
「重ねてご再考をお願い申し上げます」
「ご心配には感謝いたします」
最後まで礼は崩さない。
使者もまた、それ以上踏み込まずに立ち上がった。
礼をし、惜しむように目を伏せ、静かな声で告げる。
「どうか、皆が願う正しき形が損なわれることのありませんよう」
「祈りは、それぞれの場所で捧げるものでございましょう」
セレフィーナがそう返すと、使者は初めて言葉を継がなかった。
ただ、深く一礼し、客間を辞した。
◇
扉が閉まったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
静けさが戻ったのではない。
使者が持ち込んだ圧だけが、まだ部屋の中に薄く残っていた。
最初に息を吐いたのはリズだった。
「……なんて失礼な」
「失礼ではなかったわ」
「だから余計に不快でございます」
その言い方に、セレフィーナはわずかに目を閉じた。
本当に、そのとおりだった。
怒鳴られたわけではない。脅されたわけでもない。
礼も尽くされた。気遣いの言葉も並べられた。
それなのに、これほど嫌だった。
その理由は、もうはっきりしている。
あの使者は、自分を人として見ていなかった。
心がどう動いたか。何を恐れたか。何を望むか。
そういうものには、まったく興味がない。
見ていたのは、ただ位置だけだ。
戻るべき席。立つべき場。欠けている部品。
そこへ自分が収まるかどうかだけを測っていた。
別室の扉が静かに開き、ノアが姿を見せた。彼は面会の内容をおおよそ聞き取っていたのだろう。いつもなら何か軽口を挟むところだが、今日は珍しく、しばらく何も言わなかった。
「やっぱり、神殿は怖いね」
やがて低くそう言う。
「ええ」
「怒鳴らないし、命令もしない。でも“正しき形”って言葉で、人を元の場所へ押し戻そうとする」
「ええ」
セレフィーナは、まだ使者が座っていた椅子を見た。
整っていた。乱れひとつ残していない。
まるで最初から、そこに人ではなく儀礼だけが座っていたみたいだった。
「あの人たちは」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
リズとノアが、同時にこちらを見る。
「私がどうしたいかを、一度も聞かなかった」
その一言で、ようやく胸の中の嫌悪感が形を持った。
祈り。祝福。平安。正しき形。
どれも美しい言葉なのに、その奥には自分の意志が入る余地がなかった。
戻るべきか。
立てるか。
今の季節に間に合うか。
それだけだ。
「ええ」
リズが、はっきりと答えた。
「お嬢さまのお気持ちなど、最初から数に入っておりませんでした」
「入れるつもりもなかったんだろうね」
ノアの声も静かだった。
「だからあれほど丁寧でいられる。相手が人なら、あそこまで形ばかりきれいにはならない」
セレフィーナは窓の外を見た。
領地の空は高く、雲はゆっくり流れている。切り替わりの演出も、祈りの季節も、ここにはない。ただ風が吹いて、木々が揺れているだけだ。
その当たり前の景色が、今はひどくありがたかった。
神殿もまた、舞台装置の側にいる。
しかも王都や学園より、もっと上手に。
もっと丁寧に。
もっと“正しいこと”の顔をして。
だからこそ、あれほど嫌なのだ。
セレフィーナは、ゆっくりと息を吐いた。
嫌悪はもう、疑いではなかった。
はっきりとした輪郭を持って、胸の中に沈んでいる。
ここから先は、もう王都だけの歪みを見ていれば済む話ではない。
神殿が何を祝福の顔で固定しようとしているのか。
それもまた、見に行かなければならない。
そう思った時、指先は不思議なほど冷えていなかった。




