第21話 ミレイアからの手紙
その手紙が届いたのは、昼の光が少し傾き始めた頃だった。
客間には、まだ昨夜の続きを引きずるように紙が広がっていた。招待状の控えは束ね直されたものの、席次の写しや神殿側の確認印が入った進行表は、机の端に残ったままだ。ノアはそれらを眺めながら、王都で拾った噂と記録の継ぎ目を、気まぐれに見えて妙に執拗な手つきで拾っていた。
そこへ使用人が入り、銀盆の上の封書を差し出した。
「王都より、個人のお手紙にございます」
セレフィーナは何気なく受け取りかけて、差出人の名を見た瞬間、指を止めた。
ミレイア。
ただ四文字の名が書かれているだけなのに、客間の空気がわずかに変わる。
最初に反応したのはリズだった。
「お嬢さま」
低い声だった。
「無理にお読みになる必要はございません」
「……そうね」
セレフィーナはまだ封を切らないまま、白い封筒を見つめた。王家の紋章はない。神殿の印もない。紙質は上等だが、侯爵家や王家から届く書簡のような厚みはなく、個人の手で選ばれたものらしい控えめさがある。
だからといって、安心できるわけではなかった。
ミレイアは王都で“選ばれる側”にいた。
自分は“退く側”へ押し込まれかけた。
その距離は、帳簿や記録の上では整理できても、紙一枚を前にした瞬間には別の重さを持つ。
「誰かに書かされた可能性もございます」
リズは続けた。
「王都側の意向を、別の形で運ばせているだけかもしれません」
「ありえるね」
ノアが静かに言った。
軽口はなかった。
「だから読むなら、捨てる前提でも、ここで読んだ方がいい」
「捨てる前提なの?」
セレフィーナが問うと、ノアは少しだけ肩をすくめた。
「読まないまま置いておくよりは、って意味」
セレフィーナは封筒を膝の上へ置いた。
読まないという選択もあった。むしろその方が、心は乱れないかもしれない。ミレイアが何を書いてこようと、自分はすでに王都の構造を見始めている。今さら一通の手紙で何かが覆るわけでもない。
けれど、それでも。
自分が“役で裁かれる苦しさ”を知ってしまった以上、差出人の名だけで相手の言葉を切るのは、違う気がした。
「読むわ」
そう言うと、リズはすぐには返事をしなかった。だが、反対もしなかった。
セレフィーナは封を切った。
◇
便箋は二枚。筆跡は整っているが、ところどころに迷いが見えた。書き直したくて止まった線。少し窮屈な言い回しのあとに続く、率直すぎるほど率直な文。
最初の一行を読んだ時点で、セレフィーナは少しだけまばたきをした。
この手紙を書いている人は、たぶんあまり上手に言葉を飾れない。
少なくとも、王都で誰かに読ませるための文ではなかった。
ミレイアは、最初に詫びた。
けれどその詫びは、よくある「誤解を招いたのなら申し訳ありません」という逃げ道のあるものではない。もっと拙く、だからこそ逃げがなかった。
わたしは、あなたにいなくなってほしいと思っていたわけではありません。
その一文を目で追った瞬間、セレフィーナは無意識に背筋を少し伸ばした。
読み進める。
ミレイアは、自分がセレフィーナを追い出したかったわけではないと書いていた。むしろ、去ったと聞いた時、嬉しかったのではなく怖かったのだと。
けれど、その怖さを口にすると、周囲は困ったような、がっかりしたような顔をしたらしい。
殿下も、学園の令嬢たちも、教師たちも、皆が「これでよかった」と言いたげだった。自分が安心した顔を見せれば、もっと喜ばれたのだろうとも書いてある。
だが、そうできなかった。
セレフィーナは次の段を読んだ。
わたしは、みなさまに守っていただくのが正しいのだと思おうとしてきました。
でも、守られるというのは、思っていたよりずっと苦しいことでした。
リズが、少しだけ息を呑んだ気配がした。
ミレイアは率直だった。
王子や周囲の人々が、自分を“守るべき少女”として扱うこと。傷ついたはずの子。選ばれるべき子。報われるべき子。そういうふうに持ち上げられるたび、自分の本心はその下へ押し込まれていったのだと。
誰も「あなたはどうしたいの」とは聞かなかった。
代わりに、「きっとつらかったでしょう」「きっと怖かったでしょう」「これからは幸せになれるわ」と、まだ自分でも形になっていない気持ちに名前をつけてくる。
そしてセレフィーナが去ってからは、その期待が一気に重くなった。
笑っていてほしい。
殿下の気持ちを受け止めてほしい。
皆が納得するようにふるまってほしい。
その役目を引き受けるのが当然だと、何も言われないまま求められる。
それが怖い、とミレイアは書いていた。
わたしは、誰かが悪いことになって、そのかわりに選ばれたいわけではありません。
でも、そう言うと、みなさまが困った顔をします。
それで、何も言えなくなります。
セレフィーナは、そこでいったん目を止めた。
同情したわけではない。
少なくとも、それだけではなかった。
ミレイアの手紙には、自分を善人に見せようとする整い方がなかった。セレフィーナへ責任を押しつける気配もない。ただ、自分がどこで息苦しくなっているのかを、下手なりに必死で掴もうとしている文章だった。
それが、かえって刺さる。
ミレイアは勝者の顔をしていない。
選ばれる側へ押し上げられて、そこへ立たされることの苦しさに、まだうまく名前がつけられないまま震えている。
手紙の最後には、短くこうあった。
あなたが読むのも嫌なら、それでかまいません。
でも、わたしがあなたにいなくなってほしかったわけではないことだけは、お伝えしたかったのです。
セレフィーナは静かに便箋を重ねた。
◇
「……どう思われますか」
先にそう言ったのは、リズだった。
警戒はまだ残っている。だがその問いは、さきほどまでのような拒絶だけではなかった。
セレフィーナはすぐには答えなかった。
ミレイアを哀れだと思ったわけではない。簡単に許そうという気持ちが湧いたわけでもない。そもそも許すも何も、まだ何かが整理されたわけではないのだ。
ただ、ひとつだけ、はっきりしたことがある。
「この子は」
セレフィーナは手紙の上へ指を置いた。
「無邪気な勝者ではなかったわ」
リズが黙る。
「ええ」
「自分が選ばれることを、ただ喜んでいる人間の文ではない」
「ですが、お嬢さまを止めたわけでは」
「止められなかったのでしょうね」
その言葉は冷たく聞こえたかもしれない。けれど、セレフィーナの声色は責めるものではなかった。
「私が舞台から降りる時、この子にもたぶん余裕はなかった。自分がどこへ立たされているのか、やっと怖くなり始めたところだったのだと思う」
そして、それはよくわかった。
退く側へ押し込まれる苦しさは、セレフィーナ自身が知っている。
だが今、この手紙を読んで見えたのは、それだけではない。
選ばれる側もまた、人としてではなく役として扱われれば息ができなくなる。
立ち位置は逆でも、本質は同じだ。
「この子もまた、舞台の上で息ができていないのね」
その理解は、すとんと胸へ落ちた。
守られる役。選ばれる役。祝福される側。
一見すれば、退場させられる側よりずっと楽に見える。だが、そこへ本人の望みと無関係に押し込まれれば、それもまた檻になる。
セレフィーナは便箋をノアへ差し出した。
「読んで」
「いいの?」
「ええ。むしろ、あなたの目でも見てほしいわ」
ノアは受け取ると、最初から最後まで黙って読み通した。読みながら眉をひそめることも、皮肉げに笑うこともない。ただ、言葉の癖をひとつずつ確かめるような目をしている。
読み終えると、彼は便箋を机へ戻した。
「これ、たぶん誰にも触らせてないね」
「そう思う?」
「うん」
ノアは紙の端を指で軽く押さえた。
「添削されてたら、もっと綺麗になる。王都向けの文って、たいてい安全で、曖昧で、傷つかないように整うんだよ。でもこれは違う」
「どこが」
「揺れてる」
その一言は、妙にしっくりきた。
「言い回しが一定じゃない。謝りたいのか、弁解したいのか、自分でも迷ってる箇所がそのまま出てる。だから逆に、本音っぽい」
「作られた文なら、もっと上手にまとまる」
「そう。あと、勝者の顔をしてない」
ノアは珍しく軽さを挟まなかった。
「自分が正しい位置に立ったと思ってる子の文じゃないね。むしろ、立たされてから怖くなってる」
「……では」
リズが慎重に言う。
「やはり、この方も」
「舞台装置の一部にされかけてる、ってことだろうね」
ノアが言い切ると、客間の空気が少しだけ沈んだ。
ヒロインと悪役。
それだけの構図なら、どれほど理不尽でもまだわかりやすい。
だが今、目の前にあるのは違う。
退く役を押しつけられたセレフィーナ。
守られる役を押しつけられたミレイア。
位置は反対でも、どちらも人としてではなく、場に必要な役名で扱われている。
その形が、ようやくはっきりしてきた。
「返事は、なさいますか」
リズがそう問うた時、セレフィーナはすぐには頷かなかった。
「今はまだ、書かない方がいいわ」
「警戒が必要、ということでしょうか」
「それもあるけれど……」
セレフィーナは、自分の言葉を探した。
「今ここで『わかります』と返したら、それは違う気がするの。私はこの子の苦しさを読めた。でも、だからといってすぐ隣に立てるほど、まだ全部がほどけたわけではない」
「ええ」
「ただ、読んでよかったとは思う」
それは本心だった。
読まずに捨てていたら、ミレイアをずっと“選ばれる側の勝者”という役のまま見ていたかもしれない。そうしていれば、たしかに気は楽だっただろう。
けれど、それでは王都と同じになる。
人を役でしか見ないという意味で。
ノアが、小さく息を吐いた。
「構図が崩れたね」
「ええ」
「これで“ヒロインと悪役”の芝居は、かなりやりづらくなる」
「最初から無理があったのでしょう」
「たぶん、見る側が無理を無理だと思ってなかっただけだ」
セレフィーナは、重ねた便箋をそっとたたんだ。
ミレイアの文字は最後まで少しだけ揺れていた。整っていない。だからこそ、読んだあとに妙に手の中へ残る。
守られること。選ばれること。祝福されること。
それらは普通なら、やさしい言葉のはずだ。けれど、役として押しつけられれば、退場と同じだけ人を窒息させる。
セレフィーナは、静かに呟いた。
「守られる役も、楽ではないのね」
リズはその言葉にすぐ返事をしなかった。
ノアもまた、軽口を差し挟まなかった。
ただ、誰も否定しない沈黙だけが客間に落ちた。
窓の外では、領地の風が庭木を揺らしている。
舞台のように整えられた風ではない。ただ、そこにあるものをそのまま撫でて通っていく風だった。
セレフィーナは手紙を膝の上へ置き、ゆっくりと息を吐いた。
これで終わりではない。
だが少なくとも、もう“選ばれる側”と“退く側”を、単純な敵味方として見ることはできなかった。
それは厄介だった。
けれど、たぶん必要な厄介さでもあった。




