第2話 噂は脚本より先に広がる
その夜、セレフィーナの私室には、紙をめくる音だけが静かに満ちていた。
窓の外はすっかり暗い。昼間の学園に満ちていたざわめきが嘘のように、侯爵家の屋敷は深い静けさに包まれている。厚い絨毯は足音を吸い、燭台の灯りは机の上だけを切り取るように照らしていた。
その明かりの下で、セレフィーナは何枚目かの紙に目を落としていた。
日付。場所。相手の名前。交わした言葉。
短く、要点だけを。
感情はなるべく削ぎ落とし、事実だけを並べていく。
こつ、と控えめな音がして、リズが湯気の立つ茶器を載せた盆を手に入ってきた。
「お夜食はご不要と伺いましたので、せめてお茶だけでもと思いまして」
「ありがとう。そこへ置いて」
リズは一礼し、机へ近づく。そこでようやく、卓上いっぱいに広がる紙の束に気づいたらしい。丸い目が、わずかに見開かれた。
「……お嬢さま、これは」
「最近あったことを書き出しているの」
セレフィーナは羽根ペンを置き、乾ききらない文字列へ視線を落とした。
昼間、中庭で見た光景はあまりにも出来すぎていた。
王子が守る人。
編入生が守られる人。
なら、その反対側には誰かが必要になる。
あれを見た瞬間に走った悪寒は、まだ胸の奥から消えていない。
だからこそ、整理が必要だった。
「記録していたのですか」
リズの声には驚きと、少しの心配が混じっていた。
セレフィーナは一枚を指先でそろえながら答える。
「現場は記録が命よ」
「現場、でございますか」
「ええ」
前世の職を詳しく話すには、まだ言葉が多すぎる。けれど、この感覚だけは本物だった。
曖昧な不安のままでは、人はすぐに自分を疑い始める。
気のせいかもしれない。考えすぎかもしれない。たまたま運が悪かっただけかもしれない。
そうやってひとつずつ飲み込んでいるうちに、気づけば逃げ道がなくなっている。
だから、まず並べる。
紙の上に落とし、形にする。
「見てもよろしいですか」
「もちろん」
リズは盆を机の端へ置き、紙束を覗き込んだ。几帳面に書きつけられた内容を目で追ううち、眉がじわりと寄っていく。
「……図書室」
「一つ目ね」
セレフィーナはその紙を引き寄せた。
「三日前の放課後。北棟の図書室。ミレイア嬢が閲覧制限の棚へ手を伸ばしていたから、申請が必要だと伝えたの。規則の説明と、利用手順の案内をしただけ」
「はい。私もその場におりました」
リズはすぐにうなずく。
「あれは叱責ではありません。むしろ、お嬢さまはお声を抑えていらっしゃいました。ほかの方に聞こえないようにと気遣っておられたくらいです」
「ええ。でも噂になると、こうなる」
セレフィーナは隣の紙へ視線を移した。
「『侯爵令嬢が平民出身の編入生を図書室で叱りつけた』」
「……」
「『大勢の前で恥をかかせた』」
「どこをどうすれば、そのような話になるのですか」
「構図が整っていれば、中身は案外どうでもいいのよ」
リズの顔がはっきり曇った。
「お嬢さまが何をおっしゃったか、聞いていた方もいたはずです」
「いても、必要な物語のほうが強いの」
セレフィーナは別の紙を手に取った。
「二つ目。昨日の茶会」
それを聞いた途端、リズが低く息をつく。
「席順の件でございますね」
「主催家の令嬢が緊張していたでしょう。上座と下座が半歩ずれて、そのままでは後から困る並びだった」
「ですから、お嬢さまがさりげなく直されました」
「ええ。主催家が恥をかかないために」
社交の席では、座る位置にも意味がある。誰がどこに座るかは、単なる好みではなく、その場の敬意と関係を形にするものだ。
少しのずれなら笑って済むこともある。けれど、あの日の席順は違った。気づく者が見れば、主催の未熟さを笑われかねない形だった。
だから直した。
それだけだ。
「でも噂になったのは」
セレフィーナは紙を軽く叩いた。
「『侯爵令嬢が身分を振りかざした』」
「……ひどい話です」
「『平民出身のミレイア嬢を、わざと端へ追いやった』」
「違います」
「『自分が殿下の近くに座りたくて押しのけた』」
最後まで読み上げてから、セレフィーナは一瞬だけ目を閉じた。
見事なほどに“悪役令嬢”らしい振る舞いへ整えられている。
リズが悔しそうに口を開く。
「お嬢さまが手を入れなければ、恥をかくのは主催家の令嬢でした。助けた側ですのに」
「そうね」
「それを、こんなふうに……」
セレフィーナは苦笑しようとして、うまくいかなかった。
「今の空気では、作法を守ること自体が高慢に見えるのよ。少なくとも、私がやれば」
身分ある令嬢として振る舞うこと。礼を守ること。場を乱さぬよう整えること。
本来なら評価されるはずのそれらが、いまは全部、別の意味へ塗り替えられる。
厳格。
冷たい。
平民に厳しい。
王子に執着している。
そういう物語に一度足をかけてしまえば、あとは何をしても都合よく読まれていく。
セレフィーナは最後の紙を引き寄せた。
「三つ目。殿下の予定確認」
今度こそリズは露骨に顔をしかめた。
「それは、婚約者候補として当然の確認ではありませんか」
「そうよ。学園行事と王宮側の予定が重なれば、侯爵家の準備や同行にも関わるもの」
セレフィーナは事実だけをなぞるように言う。
「でも、外から見れば違う」
「……『監視している』、ですか」
「ええ」
「ひどすぎます」
リズは机の端をきゅっと握った。
「殿下のお近くにいるご令嬢方なら、皆さま多少は確認なさっているでしょうに」
「他の方がやれば確認。私がやれば執着」
「そんな」
そんな理不尽があるのかと、リズの顔が語っていた。
セレフィーナはその表情を見て、ほんの少しだけ救われた気がした。
自分の感じている気味の悪さは、独りよがりではないのだとわかるから。
それでも、紙の上に並んだ三つの例は十分すぎた。
図書室。
茶会。
王子の予定確認。
どれも、それ単体ならわざわざ弁明するほどでもない、小さな行き違いで済まされる程度の出来事だ。
だからこそ厄介だった。
ひとつひとつは軽い。
だが軽いものほど積み重なった時、人は「なんとなくそういう人なのだろう」と納得してしまう。
机を挟んだ向かいで、リズがしばらく紙を見つめていた。
やがて彼女は、怒るより先に痛いものへ触れてしまったような顔で、そっと顔を上げる。
「お嬢さまは」
少しだけ言葉を探してから、リズはゆっくり続けた。
「何もしていないのに、これから何かしたことにされるのですね」
その一言は、思っていたよりずっと深く胸に入ってきた。
セレフィーナはすぐに返事ができなかった。
自分の中で整理していたものを、別の口から言葉にされる。それだけで、曖昧だった輪郭が急に冷たく固まる。
「……ええ」
ようやく出た声は、少しかすれていた。
「たぶん、そういうことなのだと思うわ」
「こんなの、何をしても後から別の意味をつけられてしまいます」
「そうね」
「弁明なさっても?」
その問いに、セレフィーナは乾いた笑みを浮かべた。
「弁明も、見せ場になるだけよ」
困った顔で釈明すれば、取り繕っているように見える。感情的に抗議すれば、嫉妬深い悪役令嬢らしいと喜ばれる。黙れば認めたことにされる。
舞台に立った時点で、もう役から逃げきれない。
その感覚が、前世の記憶とともに嫌というほどわかってしまう。
セレフィーナは机の端に置かれた招待状控えへ目を向けた。金の縁取りが入った厚手の紙。来月の卒業前舞踏会のものだ。
王立学園の卒業を祝う、華やかな夜会。
表向きは、そういうことになっている。
けれど実際には、学園の人間関係も、婚約の空気も、王都社交界の視線も、さまざまなものがもっとも“意味づけ”されやすい場だ。
誰が誰の隣に立つのか。
誰が選ばれ、誰が外れるのか。
誰が泣き、誰が許され、誰が責められるのか。
そういうものが、もっとも美しく見える場所。
「……舞踏会」
リズが、その紙に気づいて小さくつぶやいた。
「ええ」
「まさか……」
その先を、リズは言い切れなかった。
けれど、セレフィーナには十分だった。
昼間の中庭は前振りにすぎない。
ああいう場面は、それだけでは終わらない。もっと照明の強い場所で、もっと多くの目にさらされる形で、最後の意味を与えられる。
「まだ断定はしないわ」
そう言った自分の声が、思ったより冷えていることにセレフィーナは気づいた。
「でも、結末をつけるなら、あの場が一番都合がいい」
リズはお茶に手を伸ばしかけて、止めた。湯気はもう少し細くなっている。
「皆さま、気づかないのでしょうか」
悔しさを押し込めた声だった。
「こんなに不自然なのに。こんなに、きれいにお嬢さまだけが悪く見えるよう並んでいるのに」
その言葉に、セレフィーナはしばらく答えなかった。
燭台の火が小さく揺れる。
紙の上に並んだ文字が、その明かりの中で妙に整然と見えた。
図書室。
茶会。
予定確認。
どれも小さい。どれも弱い。どれも、少し気にしすぎだと言われればそれまでで済んでしまう程度のものだ。
けれど、小さいからこそ積み上がる。
小さいからこそ、人は疑わずに飲み込む。
セレフィーナはようやく茶器へ手を伸ばし、一口だけ含んだ。少しぬるくなり始めた茶の香りが、喉の奥へ静かに落ちていく。
それから、紙の上へ視線を戻したまま言った。
「雑な脚本ほど、客席には受けるものよ」
リズが息を呑む気配がした。
「王子が守って、平民の少女が困っていて、その向こうに高位貴族の令嬢が立っている。中身が粗くても、配役だけで皆さま勝手に意味を補ってくださるわ」
「……そんなの」
「ええ。ひどい話よ」
静かに言ってから、セレフィーナは紙を一枚、重ね直した。
紙の上に並んだ出来事は、どれもそれだけなら小さい。
けれど小さいからこそ、積み上がった時にはもう、誰かにとって都合のいい物語になってしまう。
夜は深い。部屋は静かだ。
それでも机の上だけは、もう十分に騒がしかった。
ここに並んでいるのは偶然ではない。
少なくとも、自分がそう信じて眠れるほど、無邪気ではいられなかった。




