第18話 これは恋愛劇ではない
夕方の光が、机の端からじわじわと紙を舐めていた。
領地の帳簿と古い記録が、机いっぱいに広がっている。その隅に、母からの手紙と、ノアの短い走り書きが押しやられるように置かれていた。
セレフィーナは、何度も見返した一枚から目を離せずにいた。
「……やっぱり、おかしいわ」
指先が止まっているのは、三年前の水害の記録だった。隣領との境に近い小さな村で、水路が崩れた年だ。
本来なら春のうちに補修するはずだった。けれど予算は半分に削られ、工事は見送られた。その夏、増水した泥が畑を潰し、井戸まで濁った。作物はほとんど駄目になり、村を離れた家がいくつも出たと書いてある。
そこまで読んでから、セレフィーナは隣の帳簿へ視線を移した。
同じ月。
王都では“聖女の再来”を祝う祝宴が三日続いていた。式典準備費、庭園の整備費、来客用の装花代。名目は綺麗に分かれているのに、金の流れを追えば、どれも同じところへ吸い込まれている。
しかも、その一部は侯爵領の負担になっていた。
「水路は直せないのに、薔薇は植え替えるのね」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど冷えていた。
泥水を飲んだ子どもがいたかもしれない。畑を失って、冬を越せるか怯えた家もあったはずだ。
その横で王都は、磨かれた床に灯りを落として、銀皿に菓子を積んでいた。
これを、たまたまの支出の偏りでは片づけられない。
「……ゲームの知識だけでは、説明がつかないわ」
向かいで紙を整えていたリズが、静かに顔を上げた。
「はい」
短い返事だったが、それで十分だった。
十歳で前世を思い出した時、セレフィーナはこの世界を乙女ゲームに重ねた。
平民出身の少女が選ばれ、高位貴族の令嬢が嫉妬深い悪役にされる。自分はその役にぴたりとはまる位置にいた。
けれど、もうそれだけでは説明できない。
学園の中だけの話なら、せいぜい誰かの好意がもつれて終わる。
だが今回は違った。王都がざわつき、神殿が焦り、領地の暮らしまで削られている。誰かの恋心で、村ひとつが沈むはずがない。
セレフィーナは古記録の束を開いた。紙の端は黄ばんで脆い。
そこに残っていたのは、四十年ほど前の伯爵令嬢の名だった。
アデール・フェルナー。
記録にはこうある。社交界を乱した。嫉妬深かった。婚約話から外された。
けれど、肝心の「何をしたのか」は、驚くほど曖昧だった。
そのかわり、彼女が消えた直後に王都で何が決まったかは、妙にはっきり残っている。神殿儀礼の拡大。婚姻規定の見直し。派閥の組み替え。
紙を閉じた時、リズがぽつりと言った。
「アデール様は……自害した方、ですね」
セレフィーナは顔を上げた。
「知っているの?」
「祖母が、昔、一度だけ口にしました。悪女だったのではなく、悪女にされたのではないかと。そう言ったあと、すぐに黙りましたけれど」
リズの唇がきつく結ばれる。
「婚約話から外された冬に、自害したとだけ記録されていました。けれど何をして、誰に恨まれ、どうしてそこまで追い詰められたのかは、どこにもない」
「……ええ」
「今回のお嬢さまの件と、似すぎています」
部屋がしんと静まる。外では鳥の声がしたのに、その音まで遠く感じた。
セレフィーナは、帳簿の上に置いた手をゆっくり握る。
「たぶん、偶然ではないわ」
喉の奥が少し痛んだ。
「誰か一人が私を嫌っていた、という話ならまだ楽だったの。でも、そうじゃない。もっと前から、こういうやり方で片づけてきたのよ」
「……人を使い捨てるために、ですか」
「ええ」
セレフィーナの視線は、再び水害の記録に落ちた。
「誰かを薪みたいにくべて、その火で王都のぬくもりを守るのよ。恋だの噂だの、綺麗に見える言葉を被せて」
言ってから、自分の声に吐き気が混じっているのがわかった。
「そんなものが、この国のやり方だったというの?」
「お嬢さま……」
リズの声もかすかに震えていた。
「人ではなく、順番札みたいに扱っています」
「そうね」
「お嬢さまはお嬢さまでしかないのに。ミレイア様だって、誰かの見せ場のために並べられる方ではありません」
セレフィーナは、かすかに目を伏せた。
自分がたまたま今回そこへ押し込まれた。
それだけのことだ。
けれど、だからこそ見えた。
「私は降りてよかったのよ」
はっきりと言うと、リズが息を呑んだ。
「戻っていたら、私も同じ記録にされたでしょう。嫉妬深い侯爵令嬢。空気を乱した娘。処理されて当然だった誰かとして」
「そんなこと、認められません」
「認めなくていいわ。でも、ありえた」
セレフィーナは一枚の紙を持ち上げる。
水害の年の帳簿。アデールの失脚後の古記録。王都への不自然な送金。ばらばらだった線が、ようやく一本に寄り始めていた。
「見えた以上、もう放ってはおけない」
リズはその言葉に、静かに頷いた。
怒っていた。怯えてもいた。けれど目を逸らさなかった。
◇
同じ頃、王都ではノアが学園の裏手を早足で歩いていた。
夕方の廊下は、人が減る。
だからこそ見えるものがある。
舞踏会の準備で使われる大広間の脇では、給仕見習いが盆を運び、下働きが花台を拭いている。いつもの光景に見える。
だが、その中に一人、どう見ても手つきの違う男がいた。
白い給仕服の袖からのぞく手首が太い。盆を持つより、剣を握る方が馴染んでいる手だった。
すれ違いざま、裾の内側に縫い込まれた銀糸がちらりと見える。神殿騎士の下衣に使われる印だ。
ノアは歩みを緩めなかった。
見間違いではない。二人目もいた。こちらは花の搬入口の脇に立っている。立ち方が護衛のそれだ。
給仕に化けた神殿騎士。
舞踏会の準備に、そこまでいるか。
嫌な汗が背中を伝った。
さらに角を曲がった先で、扉の隙間から声が聞こえた。
「立ち位置は変えるな。あの娘が中央から外れると困る」
「では、侯爵家の娘の席は」
「視線が流れる場所でいい。前へ出すな」
ノアは立ち止まらない。止まったら終わると、本能が告げていた。
帳場へ戻るふりをして廊下を抜け、ようやく人目の少ない書記室へ滑り込む。扉を閉めた瞬間、肺の奥に溜まっていた息が一気に抜けた。
「……冗談じゃない」
ただ座席を決めているのではない。
誰を見せ、誰を隠し、どこで空気を作るかまで決めている。しかも神殿の騎士が裏に立っている。
紙に書ける話ではなかった。
書いた手紙が途中で開かれたら、それだけで終わる。
ノアは便箋を一枚だけ引き寄せた。迷う時間が惜しい。
王都で見たものがある。
紙には書けない。
すぐそちらへ向かう。
そこまで書いて、少しだけ考える。
それから、最後に一文だけ足した。
あんたの勘は当たってる。これは茶番で済む話じゃない。
乾ききる前に紙をたたみ、封をした。
窓の外は赤い。だが見慣れた夕焼けのはずなのに、今日は妙に息苦しい色をしていた。
誰かがどこに立つかまで決められた場所で、のんびり手紙の返事を待つ気にはなれない。
ノアは封書を懐へしまい、立ち上がる。
今すぐ王都を出る。
この茶番の裏を、まとめて叩き割るために。
第3章までお読みいただき、本当にありがとうございます。
ここまで付き合ってくださって、とても嬉しいです。
この章では、セレフィーナが王都を離れたあと、ようやく少しずつ「息をすること」や「眠ること」や「働くこと」を取り戻していく時間を書きました。
第1章と第2章は、どうしても王都の息苦しさや、役を押しつけられる苦しさが強かったので、第3章では少し空気を変えて、舞台の外にもちゃんと暮らしがあって、ちゃんと人の呼吸があることを書きたいなと思っていました。
領地での仕事は、王都みたいに華やかではありません。
水路や帳簿や井戸や納屋みたいな、拍手のない現場ばかりです。
でも、そういう場所でこそセレフィーナの力が素直に役に立って、「助かった」と言ってもらえる。
それはたぶん、彼女にとってすごく大事なことだったのだと思います。
そしてこの章では、セレフィーナがようやく「侯爵令嬢」や「婚約候補」ではなく、「セレフィーナ」として見てもらえる感覚にも触れました。
名前で呼ばれること、ちゃんと話を聞いてもらえること、自分としてそこに立てること。
そんな当たり前のことが、彼女にとってはずっと遠かったのだなと、書きながら何度も感じました。
ただ、落ち着ける場所に来たからこそ、逆に王都の歪みもはっきり見えてきました。
帳簿の中の違和感、昔の記録に残る“悪役だった誰か”、そして神殿の不自然な気配。
ここまで来てようやく、この話はただの婚約騒動ではなくて、もっと古くて、もっと根の深いものにつながっているのだと、セレフィーナ自身も見え始めたのかなと思っています。
第3章は、少しほっとできる章でありながら、物語の奥にあるものがじわじわ見えてくる章でもありました。
読んでくださった皆さまにも、「領地編、いいな」「でもこれ、思ったよりだいぶ根深いな……」と感じていただけていたら嬉しいです。
そして次からは、いよいよもう少し踏み込んでいきます。
王都の舞台の裏で何が動いていたのか。
誰が、何のために、誰かを“役”へ押し込んでいたのか。
そのあたりを、セレフィーナたちと一緒に追っていけたらと思っています。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
感想や応援にも、いつもたくさん力をいただいています。
続きも楽しんでいただけましたら、とても嬉しいです。




