第16話 帳簿の中の違和感
その日、セレフィーナは執務室の長机いっぱいに帳簿を広げていた。
水路補修費。備蓄の出納。村ごとの修繕費。祭礼関連の支出。冬支度の買い入れ。王都からの要請に応じた協力金の控え。
小さな綻びをその場しのぎで塞ぐだけでは、いずれまた別の場所がほころぶ。
どこで毎年金が重くなり、どこが後回しにされやすいのか。領地の流れそのものを見ておかなければ、先へは進めない。
セレフィーナは指先で頁を押さえながら、年ごとのまとめを順に追っていた。
「こちらが三年前までの年次整理です」
リズが最後の一冊を重ねる。厚みのある帳簿は革の縁が少し擦れていて、何度も開かれてきたことがわかった。
「ありがとう。これで揃ったわ」
「お茶をお持ちいたしましょうか」
「少しあとで。先に流れだけ掴みたいの」
窓の外は明るい。午前の光が机に落ち、数字の列を妙にはっきり見せていた。
最初の数頁は、予想どおりだった。
春先は水路。夏前は道と荷車まわり。秋口は納屋と穀物庫。冬前は備蓄と戸締まり。
金の動きには土地の季節がそのまま出る。
この領地は贅沢ではない。
けれど無計画でもない。
少しずつ不足し、少しずつ回し、それでも何とか翌年へつなぐ。そういう堅実さが、数字の並びにも表れていた。
「……そうよね」
セレフィーナは小さく呟く。
井戸の石が一枚欠けたまま残るのも、納屋の蝶番が痩せたまま冬を迎えるのも、決して怠慢ではないのだ。毎年、どこかを優先すればどこかが遅れる。その選び方が、ぎりぎりのところで続いてきたのだろう。
だからこそ、不自然な年はよく目立った。
最初に引っかかったのは、四年前の秋だった。
「神殿への特別献納……?」
費目そのものは珍しくない。祭礼や祈祷で神殿へ金が動くことは、領地でも王都でもある。
だが、額が大きい。
同じ年の水路補修費を半月分削り、冬備蓄の補充も抑えて、なお捻り出したような数字だった。
頁をめくる。
翌年は静かだ。
その次の年で、また少し妙な膨らみが出る。
「王都式典準備費……」
今度は神殿ではなく、王都側の名目だ。
額は前回より少し低い。だが、それでも軽くはない。その年の村道修繕が見送られ、倉庫の戸の交換が翌年へずれている。
さらに遡る。
「学園卒業関連寄付金」
今度はそれだった。
名目は違う。
神殿への特別献納。王都式典準備費。学園卒業関連寄付金。
ばらばらに見える。
けれど、膨らむ年の空気が妙によく似ている。
どの年も、王都関連の支出がまとまって増える。
しかもその時だけ、領地内の補修や備蓄が露骨に絞られている。
セレフィーナは帳簿の端へ細い印を入れ、別紙へ年と費目を書き出し始めた。
数字だけ見れば、破綻ではない。
領地はちゃんと回っている。翌年には不足分を少し取り戻してもいる。
けれど、回っているからこそ気味が悪い。
これは一度の無理ではない。
毎回、似たような形で押しつけられてきた負担だ。
前世で、こういう数字を何度も見たことがある。
舞台制作の予算表。宣伝費だけが膨らんだ年。主演の衣装に金が流れ、小道具庫の修繕が後回しにされた年。公演は華やかに終わったのに、裏方は翌月の立て直しに追われた年。
美しく見せるための金は、いつも目立たない場所から削られる。
「……嫌な数字ね」
思わず口をついた。
書棚の前にいたリズが振り返る。
「何かございましたか」
「まだ断言はできないけれど、王都へ流れる年だけ、領地の小さな補修がきれいに削られているの」
「王都へ、ですか」
「ええ。しかも、名目が毎回違うのに重なり方が同じ」
リズは近寄ってきて、書き出した別紙をのぞき込む。
「神殿、式典、学園……ばらばらに見えますね」
「見えるだけ、ね」
セレフィーナは次の帳簿を開いた。
その年は井戸まわりの石の交換が先送りされている。
別の年は南の支流の補修が仮止めで終わっている。
さらに別の年では、穀物庫の虫除け薬の買い足し量が露骨に少ない。
この領地の暮らしを守るための金が、王都の“何か”のためにじわじわ抜かれていた。
しかも帳簿の中では、そのことがほとんど説明されていない。
当然のこととして、そういう年が来る前提で処理されている。
その曖昧さが、いちばん不気味だった。
「代官を呼んでいただける?」
「はい」
◇
代官は、呼ばれてすぐに執務室へ現れた。
白髪の混じる髪をきちんと撫でつけ、帳簿を前にしても怯む様子はない。実務に慣れた人間の落ち着きだった。
「お呼びでしょうか」
「少し確認したいことがあるの」
セレフィーナは別紙へ書き出した年号を指で押さえた。
「この年と、この年、それからこの年。王都関連の支出だけが不自然に膨らんでいるわ」
「……はい」
「神殿への特別献納、王都式典準備費、学園卒業関連寄付金。名目は違うけれど、時期が近いの。どういう要請だったの?」
代官は別紙を見て、少しだけ考えた。
「王都から要請が来ましたので」
「どこから」
「神殿筋の年もあれば、王都の式次第に絡む年もございます」
「誰が決めたの?」
「詳しくは……」
そこで代官は言葉を切り、穏やかに首を下げた。
「代々、そういう節目にはいくらか余分に出るものと引き継がれておりました」
「節目?」
「はい。王都にとって大事な年は、神殿も王宮も何かと物入りになりますので」
あまりに自然な言い方だった。
まるで、冬前には薪が要る、というのと同じ重さで、王都の大事な年には余分な金が要ると言っている。
その当たり前さに、セレフィーナはかえって背筋が冷えた。
「領地にとっては軽くない出費よ」
「承知しております」
「それでも毎回出していたのね」
「断れる類の要請ではございませんでした」
代官の口調に不満はない。ただ、長く実務をしてきた人間の慣れと諦めがあった。
「この年など、水路補修が半分止まっているわ」
「ええ」
「この年は備蓄も薄い」
「翌年に補いました」
「その翌年まで持てば、でしょう?」
代官は黙った。
責めたいわけではない。
むしろ彼は、この領地を守るためにぎりぎりの帳尻を合わせ続けてきた側だ。問題は彼ではなく、理由の曖昧なまま続いてきた流れそのものにある。
「その“節目”というのは、具体的に何なの」
「学園の卒業時期と重なることが多かったかと」
「卒業舞踏会?」
「そのあたりは、はい。ただ……」
代官は少しだけ眉を寄せた。
「毎回それだけではなかったようにも思います。王都から届く文書にも、“大事な選定の年につき”とか、“特別な年回りにつき”といった曖昧な文言があったような」
「選定」
その言葉に、セレフィーナは手元の紙へ視線を落とした。
「誰の?」
「そこまでは」
代官は首を振る。
「実務に下りてくる頃には、すでに支出の形式だけが決まっておりました。神殿と王宮、どちらにも顔を立てる年なのだろう、と」
「知らないまま払ってきたの」
「はい。……そういうものだと」
そういうもの。
その言葉が、妙に重たく残った。
意味を知らないまま払う。
理由を知らないまま、領地の補修を削る。
王都で何か大事なことがあるらしいから、というだけで、舞台の外から金を流す。
それが代々続いてきた。
セレフィーナは代官を下がらせたあとも、しばらく黙っていた。
◇
夕方、執務室の光は斜めに傾き、帳簿の影を濃くしていた。
リズがお茶を淹れてくれたが、セレフィーナはしばらく手をつけなかった。
代官の言葉を頭の中で反芻しながら、年ごとの支出を書き出した別紙をもう一度並べ直す。
「卒業時期と重なることが多い、か……」
最初は、そこだと思った。
今回もまた、学園と卒業舞踏会が舞台だったのだから。
王都で誰かを選び、誰かを立たせ、誰かを悪役に据える。そういう見世物に合わせて、神殿や王宮が金を集めているのではないかと。
だが、並べた年を見ているうちに、違うことに気づく。
「……おかしい」
卒業舞踏会の年だけでは、合わない。
一度、学園側の寄付がほとんどない年がある。
その代わりに神殿献納が大きく膨らみ、王都式典準備費がその前後で増えている。
別の年は卒業寄付の名目があるのに、舞踏会そのものは小さかったと記録に残っている。
つまりこれは、学園の年中行事だけを基準にした金の動きではない。
セレフィーナは指で年号を順に追った。
この年。
この年。
そして、この年。
共通しているのは、“誰かが前へ出る年”だ。
神殿が特別に動き、王宮が顔を揃え、学園や式典がその表向きの舞台になる年。
卒業舞踏会はその一部にすぎない。
その時、毎回、領地から金が抜かれている。
舞台の外の金で、舞台の中央が整えられている。
セレフィーナの指先が、帳簿の端で止まった。
「……これ、卒業舞踏会の年だけじゃない」
声に出した途端、部屋の静けさが一段深くなった気がした。
リズが息をひそめる。
セレフィーナは年号の並びを見つめたまま、低く続けた。
「“誰かが選ばれる年”に、毎回増えている」
その言葉が落ちた瞬間、今まで別々に見えていた数字が一本の線になった。
乙女ゲームの筋書きが再現されているのではない。
もっと前から、もっと何度も、王都では“役を作る年”があったのだ。
そしてそのたびに、舞台の外にいる者たちが、その費用を払わされていた。
夕方の光が帳簿の頁をなぞる。
そこに並んでいるのはただの数字なのに、見ているうちにひどく冷たいものへ変わっていく。
セレフィーナはようやくカップへ手を伸ばした。
お茶は少し冷めかけていた。
けれど、その温度が今はちょうどよかった。




