第15話 役ではなく、名前で呼ばれる
村へ向かう馬車の窓から見える景色は、王都のそれとはまるで違っていた。
石造りの建物が肩を寄せ合う代わりに、畑の畝がやわらかく地面を区切っている。遠くの林はまだ朝の湿り気を含み、風が渡るたび、葉の裏だけがきらりと白く返った。道は整えられているが、王都のように見栄えのために磨かれてはいない。人が通り、荷が運ばれ、季節を越すために必要だから、そこにある道だった。
馬車が村の入口で止まると、案内役の代官補佐が一歩先に下りた。
「こちらでございます」
セレフィーナも続いて地面へ足を下ろす。踏みしめた土はほどよく乾いていて、昨夜の風で表面だけが少し固くなっていた。
村人たちは、侯爵令嬢が来ると聞いていたのだろう。井戸のそばにいた女たちは手を止め、納屋の前にいた男たちは帽子を取って頭を下げた。子どもたちは最初だけ好奇心を隠さず見ていたが、大人の様子を見て、あわてて母親の後ろへ隠れる。
敵意はない。
けれど、はっきりとした距離はあった。
それは当然だと、セレフィーナは思う。
領民にとって自分は、まず侯爵令嬢なのだ。しかも王都から戻ってきた、何やら妙な噂のある令嬢。冷たいだの厳しいだの、その程度の話はたぶんここまで届いている。王都ほど濃くはなくても、風の向き次第で届くものは届く。
「本日は、井戸まわりと荷車道、それから納屋を順に見ていただければと」
代官補佐がそう言うと、村長らしい老いた男が緊張した面持ちで前へ出た。
「お、お運びいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。急に伺う形になってしまってごめんなさい」
「い、いえ、とんでもございません」
返事は丁寧だったが、身体はまだ固い。言葉のひとつを間違えたら失礼になると考えているのが見て取れた。
ならば無理にくだけた空気を作ろうとしない方がいい。
セレフィーナはそう判断し、まずは井戸の方へ歩き出した。
◇
最初の相談は、井戸の足場だった。
井戸そのものは大きくはないが、村の女たちや子どもが日に何度も使う場所らしい。縁のまわりに置かれた石板のうち、二枚ほどが少し傾いている。雨のあとにはそこへ泥がつきやすく、滑れば足を取られそうだった。
「転んだ者はいるの?」
セレフィーナが尋ねると、年若い母親が緊張しながら答えた。
「大けがではございませんが、子どもが一度」
「頭は打っていない?」
「膝を少し擦りむいた程度で」
「それならよかったわ」
しゃがみ込み、石の縁に指を触れる。表面の欠け方と下の土の緩み方を見れば、単に石が古いのではなく、土台の一部が沈んでいるのだとわかった。
「この二枚だけ先に外して、下の土を詰め直しましょう。石を全部替える必要はないわ」
「全部では、なくてよろしいのですか」
驚いたように口を挟んだのは村長だった。
「ええ。危ないのは今、ここだけですもの。全部を直すと時間も人手も余計にかかるでしょう」
「たしかに……」
「ただし、雨のあとに泥がたまるのは別の問題ね」
セレフィーナは井戸の脇を見回した。
「水を捨てる溝が少し浅いわ。子どもがよく立つ側だけでも掘り直せば、滑りにくくなるはずです」
「それなら今日の午後には」
「できるわね」
短く返すと、村人たちの表情に小さな変化が生まれた。
もっと大ごとになると思っていたのだろう。あるいは、目で見たところだけを形式的に褒めて終わる視察だと思っていたのかもしれない。
けれど実際には違った。
危ない場所はどこか。今すぐ直すべきものは何か。全部をいじらずに、どこを先に触れば困りごとが減るか。
セレフィーナはただ、それを見て言葉にしているだけだった。
次に見た納屋でも、それは同じだった。
戸が閉まりきらず、片側だけが少し浮いている。冬になれば隙間風が入り、干し草や道具を傷めるだろうという話だった。
「戸そのものを作り直すほどではないわね」
「では」
「蝶番の片方が痩せているの。戸板より、先にそちらを替えた方がいいわ」
納屋の持ち主らしい壮年の男が目を丸くする。
「見ただけで、そこまでわかるものですか」
「見ればだいたいは」
「王都のお方というのは、もっと……」
男はそこで言葉を飲み込んだ。
「もっと?」
「い、いえ、なんでもございません」
たぶん、帳面の上でしか物を見ないと思っていたのだろう。
セレフィーナは責める気にはならなかった。そう見られてきたこと自体は、間違っていないからだ。王都では実際、そういうものしか求められていなかった。
「戸板は冬前まで持たせられるわ。今直すなら蝶番だけで十分です。あとは閉まり方を見て、雪が来る前に隙間へ布を詰める準備を」
「承知しました」
声に、さきほどより迷いが少ない。
そういう変化は小さいが、ちゃんとわかる。
◇
荷車道の相談は、子どもの話から始まった。
村の広場から少し外れた道が西の畑へ続いており、そこを荷車が日に何度か行き来する。大人たちは気をつけていても、遊んでいる子どもがふいに道へ飛び出すことがあるらしい。
「今のところ、大事にはなっておりませんが」
そう言ったのは若い父親だった。言いながら、彼はちらりと自分の息子らしい男の子を見た。子どもは遠くの杭のそばで、こちらを気にしながら土を蹴っている。
「柵を立てるほどではない、と思うのです。ですが、毎回ひやりといたしまして」
「柵を立てると、今度は荷の出入りが面倒になるでしょうね」
「はい」
「なら、道そのものを閉じるのではなく、子どもが“ここから先は荷車の道”と見てわかるようにしましょう」
セレフィーナは足元の道幅を見た。
「杭を二本ずつ、間を空けて立ててください。そこへ色のついた縄を通すの。高くしすぎると荷が見えにくいから、子どもの胸より少し低いくらい」
「縄、でございますか」
「ええ。越えられないことが大事なのではなく、越えてはいけない線が見えることの方が大事よ」
父親は少し考え、それから深くうなずいた。
「それなら、すぐできます」
「子どもたちにも一度、そこで止まるよう教えてあげて。鐘のあと、遊ぶ時間に」
「はい」
そのやり取りのあいだ、後ろで聞いていた村人たちの空気が、だんだん変わっていくのがわかった。
最初の緊張はまだ消えていない。けれど、“侯爵令嬢が見ている”から“話を聞いてくれている”へ、わずかに重心が移っている。
それは、王都ではなかなか得られなかった種類の手応えだった。
相談がひとつ終わるたび、別の誰かが、おずおずと口を開く。
「ついでに、井戸脇の石も少し欠けておりまして」
「納屋の戸だけでなく、蝶番の下の木も少し柔らかくなっていて」
「荷車道を走るのは、うちの末の子もよくやるもので……」
どれも大げさな訴えではない。
ついでに、なのだ。
だが、その“ついでに”こそが信頼の形だと、セレフィーナは知っている。ほんとうに聞いてもらえないと思っている相手には、人はついでの困りごとなど口にしない。
だから彼女は、そのひとつひとつに短く返した。
「それは先に見ましょう」
「寸法だけ測っておいてちょうだい」
「その時間なら荷の通る前ね」
「だったら危なくないわ」
短くても、曖昧にはしない。
聞いたこと、覚えたこと、判断したことが相手へ届くようにだけ言う。
それで十分だった。
◇
一通り見終えたあと、井戸のそばで少しだけ休んだ時だった。
白い髪をきっちり結い上げた老婆が、おそるおそる前へ出てきた。最初から何度か視線は感じていた人だったが、ずっと遠慮していたらしい。
「あの……」
声は小さいが、よく通る。
「なにかしら」
「いえ、あの、井戸のことも、道のことも……よう見てくださって」
皺だらけの手が胸の前で重なる。礼を言い慣れているのに、今は少しだけ言いよどんでいるようだった。
「ありがとうございます、セレフィーナ様」
その呼び方に、セレフィーナは一瞬だけ息を止めた。
老婆の方も、言ってから気づいたのだろう。目を丸くし、すぐに言い直そうとする。
「い、いえ、その、お嬢さま」
「そのままでいいわ」
セレフィーナは自分でも驚くほど早く、そう言っていた。
老婆がはっとして口を閉じる。
その一瞬のあとに落ちた沈黙は、居心地の悪いものではなかった。むしろ、言葉の形がようやく落ち着くまでの静かな間だった。
「ありがとう」
セレフィーナは今度こそ、ちゃんと微笑んだ。
「そう呼んでくださって」
老婆は何度も頭を下げたが、その顔はさっきまでよりずっとやわらかかった。
セレフィーナ様。
その呼び方が、思っていた以上に胸へ残った。
侯爵令嬢でもない。婚約候補でもない。アシュクロフト家の娘でもない。まして、誰かのための悪役候補でもない。
今ここで、井戸の石を見て、納屋の戸を見て、子どもの走る道を見た自分へ向けられた名前。
それは肩書きの確認ではなく、たしかに自分へ届いた呼びかけだった。
どうしてこんなにうれしいのか、すぐにはうまくわからない。
ただ、ずっとどこかで待っていたものに、ようやく追いついたような気がした。
◇
館へ戻る馬車の中で、セレフィーナは窓の外を見ていた。
村はもう少しずつ遠ざかっている。井戸のそばではさっそく石のまわりを確かめる男たちが動き、道の方では子どもが縄の位置を真似るように腕を広げていた。
どれも小さな動きだ。
けれど、小さいまま暮らしに効いていく種類の動きだった。
「お疲れではありませんか」
向かいに座るリズが尋ねる。
「少しだけ。でも、嫌な疲れではないわ」
「そうでございますか」
「ええ」
そこでセレフィーナは、ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た。
王都では、肩書きが先に歩いていた。
侯爵令嬢。婚約候補。アシュクロフト家の娘。そういう“役”が先に場へ入り、そのあとで自分が追いつく。何を言っても、まずその役の一部として受け取られる。
けれど今日は違った。
井戸の石と納屋の戸と荷車道の話をして、そのあとで名前が呼ばれた。
先に届いたのは役ではなく、自分の言葉だった。
その順番が、こんなにも人を軽くするのだと、セレフィーナは今になって知る。
「リズ」
「はい」
「名前で呼ばれるのって、不思議なものね」
「王都では、あまりございませんでしたから」
「ええ」
それだけの返事で、十分だった。
馬車が緩やかに揺れる。窓の外では、風が畑を撫でている。見せるためではなく、ただ季節どおりに揺れている景色だった。
セレフィーナは指先をそっと膝の上で重ねる。
王都では肩書きが先に歩いた。
でもここでは、ようやく私が私として話している気がした。




