第13話 領地の空気は、ちゃんと吸える
朝、目を覚ました時、セレフィーナはしばらく天井を見上げたまま動かなかった。
領地の館で与えられた自室は、王都の本邸ほど華やかではない。けれどそのぶん、壁も床も静かだった。誰かの視線を前提に整えられた美しさではなく、長く使うための落ち着きがある。
寝台から身を起こし、窓辺へ向かう。
カーテンを開け、留め金を外す。窓がわずかに軋み、外の空気がするりと部屋へ流れ込んできた。
冷たい。
けれど、その冷たさは少しも苦しくなかった。
土の匂いがした。夜の湿り気をまだ少し残した草の匂い。遠くの水路から流れてくる、水を含んだ風の匂い。朝の空そのもののような、澄んだ冷たさ。
セレフィーナは無意識に、深く息を吸っていた。
そこで初めて、自分が深呼吸をしていることに気づく。
胸の上だけで浅く終わるのではなく、吸い込んだ空気がそのまま肺の奥へ落ちていく。冷たさが喉を通り、内側から身体の輪郭を確かめるようだった。
王都の朝は、こんな匂いではなかった。
香油の残り香。磨かれた石の冷たさ。まだ人通りが少なくても、もう誰かの都合が染みついている空気。馬車の音。開かれる扉の気配。姿を見せる前から、こちらを見ているような圧。
あの場所の空気には、いつも人の目が混ざっていた。
ここには、それがない。
セレフィーナは窓枠にそっと手を置いたまま、もう一度静かに息を吸う。
冷たいのに、苦しくない。
それが、思っていたよりずっと不思議だった。
◇
朝食室には、焼いたパンの匂いが満ちていた。
王都の本邸のように格式ばった広間ではない。領地の館らしい、ほどよい広さの部屋だ。窓から差し込む朝の光が白い皿の縁にやわらかくのり、スープの湯気が静かに立ち上っている。
席につくと、リズが母からの手紙をそっと差し出した。
「今朝の便でございます」
「お母さまから?」
「はい」
封を切る。母の筆跡は、いつ見ても整っていて、それだけで少し呼吸が落ち着く。
内容は簡潔だった。
王都ではまだざわつきが続いていること。返書はきちんと届き、こちらの意図も十分に伝わっているらしいこと。けれど今は、無理にそちらへ気を向けず、まずは領地での暮らしと務めに馴染みなさいということ。
文面は穏やかで、余計な不安を煽らない。けれど必要なことだけはきちんと入っている。
まずはそちらで落ち着きなさい。
その一文に、セレフィーナはかすかに口元をやわらげた。
「奥様らしいお手紙ですね」
リズがパンを取り分けながら言う。
「ええ。余計なことは書かないのに、必要なことは全部入っているわ」
「お嬢さまも似ていらっしゃいます」
「私はもう少し面倒な書き方をすると思うけれど」
「それは否定できません」
あまりにも迷いのない返答で、セレフィーナは小さく笑った。
スープを口に運ぶ。温かさが素直に身体へ落ちていく。以前は朝食を前にしても、何をどれだけ食べたか曖昧な日が多かった。空腹だったのかさえ、今となってははっきりしない。
今は違う。
味がする。温度がわかる。朝食が、ただこなすものではなくなっている。
それだけのことが、少しうれしかった。
「王都はまだ騒がしいようです」
「でしょうね」
手紙をたたみながら、セレフィーナはうなずく。
「でも、お母さまが“まずは落ち着きなさい”とお書きになるくらいなら、少なくとも今すぐこちらへ押しかけてくる気配はないのでしょう」
「それだけでも十分でございます」
「ええ」
十分だった。
完全に安心できるわけではない。王都からまた手紙が来るかもしれないし、別の形で人が動く可能性もある。けれど少なくとも今朝のこの食卓までは、王都の空気は入り込んでいない。
それだけで、救いになる。
◇
朝食のあと、執務室へ向かう前に外套を整えていると、リズが背後でふとつぶやいた。
「こちらへ来てから、お嬢さまはよく眠っていらっしゃいます」
セレフィーナは振り返った。
「そうかしら」
「はい。夜中に何度もお目覚めになることがなくなりました」
「……そんなにわかりやすかった?」
「王都にいらした頃は、朝のお顔が今とは少し違っておりました」
リズは襟元を整える手を止めずに続ける。
「疲れていらっしゃる、というより、ずっと何かを噛んでいらっしゃるようなお顔でした」
「噛んでいる」
「はい。眠っていても、まだほどけていないような」
その言い方に、セレフィーナは少しだけ目を伏せた。
自分では、そこまでわかりやすいとは思っていなかった。王都ではそれがもう普通になっていて、眠れていないとも、休めていないとも、はっきり自覚しないまま日を過ごしていたのだろう。
「こちらへ来てからは」
リズはそこで、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「朝、窓を開ける前のお顔が違います」
「窓を開ける前」
「はい。まだ何も考え始める前のお顔です」
セレフィーナは思わず、困ったように笑った。
「あなたは本当に、よく見ているのね」
「侍女でございますので」
「それだけでは足りないわ。ありがとう」
礼を言うと、リズは一瞬だけ目を丸くし、それからきちんと頭を下げた。
王都では、眠ることさえ防御の外へ出るみたいだったのかもしれない。
ここへ来て初めて、身体の方が先にほどけていた。自分ではまだ慎重に構えているつもりでも、眠りと呼吸は、もう先にこの土地を信用し始めている。
そう思うと、少しだけおかしかった。
◇
執務室へ向かう廊下の途中で、セレフィーナは足を止めた。
窓の外には朝の光が広がり、水路の一部が銀色に見えている。館の使用人が庭の端を歩き、遠くで農具の音が短く鳴った。どれも生活の音で、こちらの顔色をうかがう音ではない。
それでも、不安が消えたわけではなかった。
王都からまた何か届くかもしれない。ノアからの報せが増えるかもしれない。神殿がどう動くのかも、まだ見えない。母の手紙が穏やかだったからといって、すべてが静まったわけではない。
ただ。
不安があるままでも、息は吸える。
それが王都にいた頃との、いちばん大きな違いだった。
あちらでは、不安がある時点で、もう呼吸ごと浅くなっていた。先回りして構え、考え、言葉を選び、気づけば胸の上だけで息をしていた。
今は違う。
手紙を持ったままでも、王都のことを思い出しても、窓を開ければ風が入る。その風がちゃんと肺まで届く。
セレフィーナは静かに息を吸い、ゆっくりと吐いた。
朝の空気はまだ冷たい。けれどその冷たさは、自分がここにいることをはっきりさせるだけだった。
ただ息をするだけのことが、こんなにも難しかったなんて、王都では思い出せなかった。




