第12話 戻りません
返書を書く前に、セレフィーナは母の部屋を訪ねた。
エヴァリーヌは、セレフィーナを送り出したあともすぐには王都を離れられなかった。侯爵家の本邸で片づけるべき用向きと、王都側へ残しておくべき体裁があったからだ。数日遅れて侯爵領へ入り、今はこの屋敷の南向きの客間を使っている。
侯爵領の屋敷は、王都の本邸より光の入り方がやわらかい。午後の陽は深く差し込み、応接室の絨毯に長い四角を落としていた。窓の外では木々が静かに揺れ、遠くで水の流れる音がかすかに聞こえる。
その静けさの中で、卓上の王家の封書だけがひどくよそよそしかった。
エヴァリーヌは差し出された手紙を一度で読み終えた。読み返しはしない。文面の温度を測るようにほんの少し目を伏せてから、便箋をきれいに畳み直す。
「丁寧ですこと」
母はそう言った。
「ええ」
「でも、丁寧なだけね」
「私もそう思いました」
セレフィーナが答えると、エヴァリーヌは小さくうなずいた。
「心配はしているのでしょう。気遣うつもりもある。けれど、あなたがなぜ王都を離れたのか、その理由そのものには届いていないわ」
「戻れば整う、と思っていらっしゃる」
「ええ。だからこそ舞踏会の名が出るのですもの」
母はそこで微笑んだが、その微笑みはやさしいだけではなかった。
「つまりこれは、謝罪ではなく復帰の打診です」
「はい」
その言葉が、いちばんしっくりきた。
話がしたい。体調が心配だ。できれば舞踏会へ出席してほしい。
どれも表向きは穏やかだ。だが芯にあるのは、やはり「戻ってきてほしい」だった。もっと正確に言えば、「戻ってきて当然の人に、元の場所へ戻ってほしい」に近い。
エヴァリーヌは指先でカップの持ち手をなぞりながら、静かに続けた。
「返すのなら、感情で拒んでは駄目よ」
「ええ」
「腹立たしいでしょうけれど」
「腹立たしい、というより、少し呆れています」
それが本音だった。
もう少し理解されているかもしれないと期待していたわけではない。けれど実際に文面として届くと、その浅さがひどくはっきり見える。
母はそんな娘を見て、わずかに目を細めた。
「なおさら、礼を崩してはいけないわ」
「礼を守った拒絶が、いちばん効く」
「そう」
セレフィーナが先に言うと、エヴァリーヌは満足そうにうなずいた。
「乱暴な言葉は相手に逃げ道を与えます。若さゆえの感情、体調ゆえの神経質、傷ついた娘の一時の反発。向こうはそういう場所へ話を押し込めることができる」
「でも、礼を尽くして断れば」
「残るのは拒絶そのものだけです」
それは、あまりにも侯爵夫人らしい答えだった。
やわらかく、上品で、逃げ道を残さない。
セレフィーナはようやく肩の力を少し抜いた。
「お母さまは、こういう時に本当にお強いのね」
「強く見えるのなら、たぶん何度か似たものを見てきたからでしょうね」
その答えは軽かったが、セレフィーナには十分だった。
王都の空気を理解しすぎている母。その理由を今ここで深く掘る必要はない。必要なのは、その理解が今、自分の味方をしているという事実だけだ。
「では、どう返すかを整えましょう」
「はい」
エヴァリーヌは卓上へ新しい便箋を置いた。
「お礼はきちんと」
「ご配慮への礼を、まず最初に」
「ええ。そのうえで、しばらくは静養と領地での務めを優先すると書く」
「必要なことは文書で受ける」
「それから」
「舞踏会への出席は、現時点ではお約束できない」
母娘の言葉は、もう半分ほど重なっていた。
感情の相談というより、ほとんど実務の確認に近い。けれどそれが、セレフィーナにはひどくありがたかった。今の自分に必要なのは、激しい慰めではない。きれいに線を引くための言葉だった。
◇
書き物机に向かった時、セレフィーナは一度だけ窓の外を見た。
領地の午後は明るい。遠くの畑と水路が、風の中でそれぞれ別の色をしている。王都のように、どの景色にも誰かの視線が絡みついてくる感じがない。
ここでは、紙は紙だ。
書かれた言葉も、少なくとも最初はその意味だけで机に置かれる。
それがどれほど贅沢だったのかを、王都を離れてから少しずつ知った。
リズがインク壺を寄せ、便箋の位置を整える。
「いつでも」
「ありがとう」
セレフィーナはペンを取った。
書き出しは丁寧に。気遣いへの礼は欠かさず。王家に対して無礼は作らない。だが、余地も作らない。
ご配慮に深く感謝申し上げます。
まずその一文を書いたあとで、セレフィーナは自分の呼吸が思った以上に落ち着いていることに気づいた。
怒っているのではない。
傷ついたまま手を震わせているのでもない。
これは、自分の場所を自分で決めるための返書だ。
だからこそ、静かだった。
「お嬢さま」
横からリズが、控えめに声をかけた。
「はい?」
「文書にて承る、の一文は先に置いた方がよろしいかもしれません」
「どうして?」
「“一度お話ししたい”へのお返事として読まれますので」
なるほど、とセレフィーナはうなずく。
「そうね。舞踏会の件より先に置きましょう」
「その方が、お気持ちではなく方針として伝わります」
「本当にあなた、最近はよく噛んでくれるわ」
「噛まないと飲み込みにくい手紙ですので」
思わず、セレフィーナは小さく笑った。
こうして言葉を整えていく時間は、王都での“立ち回り”とは少し違う。あちらでは誰かの期待に沿うために選ばされることが多かった。今は違う。自分の意思を、相手に誤読させないために選んでいる。
その違いは大きかった。
しばらくは静養と領地の務めを優先いたしたく。
必要の儀は文書にて承ります。
舞踏会への出席は、現時点ではお約束いたしかねます。
書き進めるほど、線ははっきりしていく。
やわらかな文面だ。拒絶だけを取り出せば冷たいとも言える。けれど礼を尽くしている以上、その冷たさは単なる失礼には変えられない。
それがこの返書のいちばん大切なところだった。
セレフィーナは最後の署名を入れ、ペンを置いた。
「……これでよいと思います」
「ええ。とてもよろしいかと」
リズが言い、少し離れたところで見守っていたエヴァリーヌも静かにうなずいた。
「戻らないことが、きれいに伝わるわ」
「はい」
戻らない。
その言葉を心の中でなぞった時、セレフィーナは改めて理解した。
ここで戻れば、ただ王都へ移動するだけでは済まない。
また、当然そこにいる人へ戻される。
また、誰かの見せ場の背景として、空気の継ぎ目を埋める人へ押し戻される。
また、息を浅くして立つことになる。
今の自分は、ようやく呼吸できている。
この呼吸を手放してはいけない。
それは甘えでもわがままでもなく、たぶん、自分を人のまま保つために必要な最低限のことだった。
「封をいたしますか」
「ええ」
リズが便箋を丁寧にたたむ。その様子を見ながら、セレフィーナは窓の外へもう一度目を向けた。
風は静かだ。
王都からの手紙は、この静けさを少し乱した。けれど、それだけだった。もうこの場所の空気は、紙一枚で簡単に奪われるほど薄くはない。
◇
返書が王都へ届いたのは、そこから三日後のことだった。
ルシアンは、侯爵家からの返答が来たと聞かされた時、正直に言えば少し安堵した。少なくとも返事は来る。沈黙ではない。それなら、まだ話の余地があると思ったのだ。
執務机の前で封を切り、一行目を読む。
礼は尽くされていた。気遣いへの謝意も、王家への敬意も欠けていない。
だが読み進めるうちに、ルシアンの眉はゆっくりと寄っていった。
しばらくは静養と領地の務めを優先する。
必要の儀は文書にて承る。
舞踏会への出席は、現時点では約束できない。
どの言い回しもやわらかい。拒絶だけをむき出しにしたものではない。むしろ丁寧すぎるほどだ。
だからこそ、逃げ道がない。
「……文書で、か」
低くつぶやく。
そばに控える側近は答えなかった。答えにくいのだろう。
ルシアンはもう一度読み返した。三度目には、もはや内容を確認するというより、どこかに戻ってくる含みがないか探していた。
だが、ない。
曖昧に濁しているようでいて、むしろよく整っている。こちらの誘いに正面から反発はしていない。だが、乗るとも言っていない。気遣いへ礼を述べ、そのうえで距離を置く。
それがこんなにも重いものだとは、読んで初めてわかった。
「殿下」
側近が慎重に口を開いた。
「舞踏会の件は」
「未定だ」
「はい」
「……いや、未定ですらないのかもしれない」
そう口にした瞬間、ルシアン自身が少し驚いた。
セレフィーナは怒っているのではない。少なくとも、怒りを前へ出してはいない。感情をぶつけられた方が、まだ話の持って行き場があったかもしれない。
これは、整えられた拒絶だ。
だから思った以上に硬い。
ルシアンは無意識に便箋を持つ指へ力を込めた。
そこまで拒まれるようなことだったのか。
そう思った自分に、すぐ次の違和感が生まれる。
そこまで、という言い方自体が、もうずれているのではないか。
だがその違和感は、まだ明確な形にならなかった。
王宮の中では、返書の要点だけがすぐに共有された。
静養継続。
文書でのみ対応。
舞踏会の出席は約束せず。
それだけで、側近たちの空気が目に見えて重くなる。
「では配置の見直しが」
「招待順も再確認が必要かと」
「侯爵家への扱いは、これ以上粗略にできません」
誰も大声は出さない。だが、困っていることだけははっきり伝わってくる。
セレフィーナが戻るかもしれないという曖昧さが残っているうちは、皆どこかで先送りにできた。だが礼を尽くした返書は、その曖昧さをかなり削った。
戻る前提が崩れ始めている。
それだけで、王宮はこれほどざわつく。
◇
神殿では、もっと空気が冷たかった。
返書の内容を伝え終えた神官は、顔を上げることもできずにいた。高位司祭の前では、沈黙そのものが圧になる。
「舞踏会への出席は」
「現時点では、お約束いたしかねるとのことです」
「文書対応のみ」
「はい」
「ふむ」
それだけ聞けば、まだ礼を守った返答に見える。だがこの部屋では、その穏当さは何の慰めにもならなかった。
高位司祭はしばらく黙り、やがてゆっくりと言った。
「代役では、足りません」
報告した神官の背がわずかに強張る。
声は静かだった。叱責ではない。だからこそ、余計に重かった。
「彼女でなければ、整わないのです」
その一言で、部屋の空気がさらに冷えた気がした。
神官は喉の奥で息を詰めたが、何も言えない。
ただの婚約者候補ではない。
ただの悪役でもない。
その認識だけが、神殿の奥で他の誰より先にはっきりと形を持っていた。
◇
返書を送り出した夜、セレフィーナはひとりで窓辺に立っていた。
領地の夜は王都より暗い。そのぶん星が近く、風の音がはっきりする。遠くに見える水路の線は月に淡く光り、人の都合とは無縁の速さで流れていた。
王都では、今ごろもう返書が読まれているだろう。
ルシアンは驚くだろうか。王宮はざわつくだろうか。神殿は、もっと別の困り方をするのかもしれない。
けれど、もうそれは自分が慌てて整えるべきものではなかった。
セレフィーナは夜気を吸い込み、ゆっくり吐いた。
戻りません。
その一言を紙の上で言い切るまでに、思っていたより時間はかからなかった。むしろ遅かったくらいだと、今は思う。
王都は、自分を悪役にする準備はしていた。
だが、自分がいなくなる準備はしていなかった。
そのことが、ようやく相手側にも届き始めたのだ。
窓辺に吹き込んだ風が、机の上に置いた控えの紙をわずかに揺らす。
セレフィーナはその音を聞きながら、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
礼を守って断った。
それだけのことなのに、王都はずいぶん困るらしい。
なら、困ればいい。
少なくとも今夜の自分は、そう思ってもよいはずだった。
第2章までお読みいただき、本当にありがとうございます。
この章では、セレフィーナが王都を離れたことで、ようやく向こう側のほころびが見え始めました。
誰かを悪役に置いてしまえば、あとはきれいに話が進む。
そんな前提で回っていた空気が、本人不在になった途端に少しずつ噛み合わなくなっていく。
今回は、その「じわじわ困る感じ」を大事にしながら書いていました。
茶会の座りの悪さ、王宮の段取りの乱れ、ルシアンの違和感、ミレイアの息苦しさ。
それぞれ別の形ではありますが、誰もが少しずつ「当然そこにいてくれると思っていた人」がいなくなった重さを受け取る章になったと思います。
特に第2章で書きたかったのは、セレフィーナがいないことで困るのは、単純に恋愛の都合だけではない、ということでした。
そしてもうひとつ、ミレイアもまた、ただ楽な立場にいるわけではないのだと見えてくる章にしたかったので、そこを受け取っていただけていたらとても嬉しいです。
章の最後で、セレフィーナはきちんと「戻りません」と意思表示しました。
感情で叫ぶのではなく、礼を守ったまま線を引く。
この静かな拒絶が、第2章のいちばん大事な着地点でした。
ただ、王都が困り始めた理由は、どうやらそれだけでは済まなさそうです。
神殿の反応も含めて、少しずつ見えてきた“恋愛劇以上の歪み”を、次からはもう少し深く書いていけたらと思っています。
ここまで読んでくださったこと、本当に励みになっています。
感想や応援、いつもありがとうございます。
続きでも、セレフィーナがようやく取り戻した呼吸をどう守っていくのか、そして王都の舞台の裏に何があるのかを見届けていただけましたら嬉しいです。




