第11話 王子からの手紙
侯爵領へ移ってから、セレフィーナはようやく、数字を数字として見られる時間を取り戻しつつあった。
王都では、帳簿も予定表も、最後には必ず人の顔へつながっていた。誰がどう受け取るか。誰の機嫌に触れるか。どの順で出せば角が立たないか。数字のあとに視線があり、視線のあとに空気があり、空気のあとに役割があった。
ここでは違う。
「この区間は、昨年の補修で終わったはずでは?」
机の上に広げた水路図を指先で押さえながら、セレフィーナは顔を上げた。
向かいに立つ領地付きの古参役人は、白髪交じりの眉をわずかに動かし、帳面を覗き込む。
「終わってはおります。ですが春の融雪で、土手の一部が緩みまして」
「補修が足りなかった?」
「いえ、材は持ったのですが、水の逃がし方が少し急でした」
「なら、次は深さより流し口の角度を変えた方がいいわね」
言いながら、セレフィーナは帳簿の余白へ短く書きつけた。
必要な修正。必要な順番。誰が見ても同じ結論に着けるような整理。
それだけで済む話は、やはり楽だった。
窓の外では、春を越えた水が細く光っている。王都のような石造りの圧迫はなく、風は広く、音は低い。人の気配がないわけではないのに、視線の熱だけが抜け落ちている。
リズが新しい帳面を差し出しながら、ふと笑った。
「最近は、数字をご覧になる時のお顔が少しやわらかくなりました」
「数字は裏切らないもの」
「人は裏切る、と」
「そこまでは言わないけれど、数字の方が黙っていてくれるわ」
「それは確かに」
古参役人が咳払いをした。けれど口元だけは、かすかに緩んでいる。
こういう小さな笑いは、王都では意外と少なかった。あちらでは笑いにも意味がつき、誰かを立てる形が求められ、気づけば軽口ひとつにも配慮が要った。
ここでは、水路は水路だ。帳簿は帳簿だ。不具合があれば直し、足りなければ足す。
誰かのための舞台装置ではない。
そのことに、セレフィーナは自分でも驚くほど救われていた。
そこへ、控えめだが急ぎを含んだノックが入った。
室内の空気が、ほんの少しだけ変わる。
「どうぞ」
リズが声をかけると、入ってきた若い使用人が深く一礼した。手には、見慣れた領地内の報告書ではなく、厚手の封書が載った銀盆を捧げている。
「王都より急ぎの書簡にございます」
その言葉だけで、窓の外の風が一瞬遠のいた気がした。
銀盆の上に置かれた封書には、王家の紋章が押されている。白い紙は整っていて、封蝋も崩れていない。けれどそれは、今この部屋の中では妙に場違いなほど硬質だった。
王都の空気が、紙一枚で入り込んでくる。
セレフィーナはすぐには手を伸ばさなかった。
リズも黙っている。古参役人は視線を落としたまま、一歩だけ引いた。
「置いてちょうだい」
言われた使用人が卓の端へ封書を置き、静かに退出する。
扉が閉まる音がやけに薄く聞こえた。
「王家の印でございますね」
リズが低く言う。
「ええ」
セレフィーナはようやく封書を手に取った。重くはない。だが軽くも感じなかった。
王都を出る時から、こういうものが届く可能性は考えていた。考えていたし、むしろ来ない方が不自然ですらある。
けれど、予測していることと、実際に目の前へ置かれることは別だ。
封を切る瞬間、王都の舞台がこちらへ向き直る。
そんな感覚があった。
中の紙を開く。整った筆跡。過不足のない挨拶。差出人は、やはりルシアンだった。
セレフィーナは最初から最後まで一度で読み終え、それからもう一度、今度は言葉の並びと省かれたものを確かめるように読み返した。
文面は丁寧だった。
体調を気遣う言葉がある。急な帰領で驚いたことも、無理をせず静養を優先してほしいという配慮も書かれている。領地の空気が彼女の心身を落ち着かせるなら、それは喜ばしいともある。
だが、そのあとに続く内容が何より雄弁だった。
どうして急に王都を離れたのか。
一度きちんと話がしたい。
できることなら、卒業前の舞踏会には出席してほしい。
王都へ戻ることは難しいのか。
どの言葉も礼を失してはいない。
けれど、その礼儀正しさの奥にある前提は、あまりにはっきりしていた。
戻ってくるのが当然。
話せば整うはず。
舞踏会は、まだ出るべき場。
つまりこれは、謝罪ではない。
理解でもない。
復帰要請に近い。
「いかがですか」
リズの声は静かだった。
セレフィーナは手紙から目を離さず、少しだけ息を吐いた。
「丁寧だわ」
「ですが」
「ええ。丁寧なだけ」
その言葉に、リズは小さく眉を寄せる。
「殿下は、お嬢さまがどうして王都を離れたのか、まだ……」
「わかっていないのでしょうね」
セレフィーナは紙をそっと折り返した。
「心配しているのは本当だと思うわ。けれど、それと理解していることは別よ」
気遣いの言葉はある。だが、自分が王都でどんな位置に押し込まれつつあったかへの言及はない。舞踏会へ出てほしいと書く時点で、彼の中ではまだ、あの舞台が当然の前提として残っている。
なぜ降りたのかではなく、なぜ戻らないのか。
見ている向きが、最初から違う。
「話がしたい、とありますね」
「ええ」
「それは……」
「対話の申し出に見えるけれど、実際には事情説明の要請に近いわね」
セレフィーナはかすかに首を傾けた。
「私の言葉を聞きたいのではなく、私が戻る条件を探している」
「お戻りになる前提で」
「そう」
不思議と怒りはなかった。
呆れに近い。
ルシアンは愚かではない。誠実さもある。だからこそ、こういう形になるのだろう。自分では十分に配慮しているつもりの文面で、肝心の足場だけは変わっていない。
それが何より未熟だった。
卓の上へ置いた王家の封書を見つめていると、再びノックが入った。
今度は、先ほどより少しだけ気楽な音だった。
運ばれてきたのは、王家の紋章などとは無縁の、軽く折られた私信である。封の仕方も几帳面だが、どこか肩の力が抜けている。
差出人の名を見る前に、誰からのものかだいたいわかった。
ノア・ヴェルナー。
セレフィーナは思わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「こちらは、読む前からお顔が違いますね」
リズが言う。
「予想がつくもの」
「内容まで?」
「いえ。少なくとも、王家ほど“戻ってきてほしい”とは書かないでしょうね」
封を切る。中の便箋は案の定、王家の手紙より二段ほどくだけた筆致で始まっていた。
侯爵領のお水は王都よりまともでしょうか。
最初の一文からして、まったく礼を失しているわけではないが、真面目にかしこまる気もあまり感じられない。
セレフィーナは読み進めた。
王都は滑稽なくらい段取りを失っていること。
茶会はどこも「誰も間違えていないのに、なぜか疲れる」ものになっていること。
王宮の予定表は書き直しだらけで、皆がようやく“自然に整っていたもの”の存在に気づき始めていること。
誰もあなたを必要だとは言わなかったくせに、いなくなった途端ずいぶん困っております。
その一文に、セレフィーナは鼻先で小さく笑った。
「ノア様らしいですね」
「ええ」
手紙は続く。
ルシアンは苛立ち始めているが、まだ原因に名前をつけられていないこと。
ミレイアは善意に押し上げられて、どうも居心地が悪そうなこと。
そして最後に、神殿が妙に真面目な顔で侯爵令嬢の静養を気にしていること。
そこだけ、ノアの文面は少しだけ軽さを失っていた。
学園がざわつくのはわかる。王宮が予定表を汚すのも、まあ理解できます。けれど神殿があれほど真顔になるのは、少々笑えません。
恋愛劇にしては、困っている範囲が広すぎます。
セレフィーナはそこで指を止めた。
やはり、見えている。
核心まではまだ届いていないとしても、少なくともノアは、これがただの婚約候補同士の揉め事ではないと理解している。
ルシアンより、ずっと早く。
「ノア様は、かなり正確に見ていらっしゃいますね」
「ええ。面白がってはいるけれど、面白がるだけでは済まないとも気づいている」
セレフィーナは便箋を閉じ、王家の封書の隣へ置いた。
並べてみると、違いがよくわかる。
片方は丁寧だが浅い。もう片方は軽いが深い。
ルシアンは自分を王都へ戻すことを考えている。
ノアは、王都がどう崩れ始めているかを伝えてくる。
どちらの手紙も、ある意味では今の王都を正しく映していた。
そしてそのどちらもが、セレフィーナにひとつの事実をはっきり示している。
王都は、自分を悪役に置く準備はしていた。
だが、自分が盤面から消えることは想定していなかった。
だから、呼び戻す。
だから、困る。
だから、神殿まで真顔になる。
「お返事は、いかがなさいますか」
リズがたずねた。
セレフィーナはすぐには答えなかった。窓の外では、領地の風が紙の端をかすかに揺らしている。王都のように意味ありげではない、ただ流れていくだけの風だ。
その音を聞きながら、セレフィーナは静かに笑った。
「私を悪役にする準備はしても、私がいなくなる準備はしていなかったのね」
皮肉だが、当然でもあると思った。
舞台の上に立っている人間は、しばしば舞台そのものを壊す選択肢を持たないと思われる。与えられた役を拒まない。いて当然。立っていて当然。必要なら黙って焼かれてくれる。
王都はたぶん、本気でそう思っていたのだろう。
だから今さら、こんなにも困る。
「王家へは、まず体調に問題がないことと、静養を優先する旨だけ返しましょう」
「舞踏会については」
「触れなくていいわ。あちらが“出てほしい”と言うのと、私が“出る”は別だもの」
リズがうなずく。
「ノア様へは?」
「お礼を書くわ。あと、“見ていてくださって助かります”と」
「それだけで伝わりますか」
「十分でしょう。あの方は余白を読むのが得意だから」
王家の封書を閉じる。ノアの私信も重ねる。
紙の上だけを見ても、今や立場ははっきりしていた。
王都はざわついている。ルシアンはまだ理解していない。ノアは観客席から舞台の綻びを数えている。神殿は代役の利かなさに気づいて焦っている。
そして自分は、もうあの舞台の中央にはいない。
戻れと言われて戻る側ではない。
どこまで応じるか。何を返すか。どこから先は拒むか。
それを、自分で決める側だ。
セレフィーナは水路図の上へ視線を戻した。
王都の封書は静けさを乱した。けれど、静けさそのものを奪いはしなかった。
紙一枚で呼び戻せると思われているのなら、それはずいぶん甘い。
「続けましょうか」
そう言ってセレフィーナは、帳簿の余白へ新しい指示を書き入れた。
「この流し口は、来季まで持たせるなら角度を変えるべきです」
「承知いたしました」
古参役人が頭を下げる。
その受け答えは、王都のように誰かの次の台詞を待つものではなかった。必要なことがあり、必要な人間が動き、それで前へ進む。
今のセレフィーナには、その単純さが何より心地よかった。




