第10話 ノアは客席から見ている
ノア・ヴェルナーは、面白い時ほどあえて退屈そうな顔をする癖があった。
その日も彼は、王都の石畳をいつもどおりの足取りで歩いていた。学園へ向かう途中で立ち止まることもなければ、王宮からの急ぎの呼び出しに慌てるふうもない。黒髪は風に乱されてもそのままに、片手には書簡入れ、もう片方の手には買ったばかりの薄い焼き菓子を持っている。
傍から見れば、少し気の利く伯爵家次男が、軽い顔で用事をこなしているだけだ。
だがその実、ノアの頭の中では、朝から拾った小さな違和感が勝手に並び始めていた。
ひとつ目は、令嬢たちの茶会の話だ。
昨日から今朝にかけて、二つの家でそれぞれ開かれた集まりが、どうにも疲れるものだったらしい。疲れる、というのは妙な言い方だ。誰かが粗相をしたわけでも、露骨な口論が起きたわけでもない。むしろ表向きは穏やかで、上品で、なにも問題などなかったことになっている。
それなのに、終わったあとの侍女たちの愚痴が妙によく似ていた。
「なんだか据わりが悪くて」
「皆さま、やけにお疲れで」
「話が噛み合わないわけではないのに、どうにも滑らかでなくて」
そういう種類の愚痴は、派手な失敗より厄介だ。大ごとではないから記録にも残らないし、責任を負う相手も決めにくい。けれど社交の場を本当に知る人間ほど、その「なんとなくうまくいかない」を嫌がる。
ふたつ目は王宮だ。
王子付きの予定表が、朝からやけに汚い。書き直しの痕が重なり、面会順が差し替わり、返答の控えが二重になっている。誰か一人が無能になったわけではない。全員がいつもどおりきちんと働いているのに、細部の収まりだけが妙に悪い。
三つ目は神殿だった。
これがいちばん変だった。
神殿は本来、貴族家の令嬢が静養に出た程度でここまで顔色を変えない。表では微笑み、内では数を数え、必要な時だけ静かに動く。それがあの連中のやり方だ。
なのに今朝、神殿側の下働きと話した書記官見習いが、妙な顔でこうこぼした。
「侯爵令嬢のご静養の件、あちらが何度も確認してくるんだ。いつ発ったのか、どの名目か、誰が許可したのか」
「神殿が?」
「そう。あれはちょっと、気にしすぎじゃないかと思う」
ノアはその時、焼き菓子をかじりながら軽く肩をすくめただけだった。
「神官さま方もお暇なんじゃないですか」
「そう思いたいけどね」
それで会話は終わった。だがノアの中では、まだ終わっていない。
学園がざわつくのは、まだわかる。王子の婚約候補が一人抜ければ、噂好きの生徒は勝手に意味をつける。令嬢たちの茶会が妙に収まりを失うのも、社交というものが小さな配慮の積み重ねで出来ている以上、ありえない話ではない。
王宮が面倒を起こすのも、まあ理解できる。あそこは人手が多いわりに、時々びっくりするほど前提に甘える。
だが神殿までが、侯爵令嬢の帰郷にそこまで神経を尖らせるのはおかしい。
ただの恋愛沙汰では、反応の範囲が広すぎる。
ノアは学園の門をくぐりながら、ほんの少しだけ目を細めた。
朝の校舎はまだ落ち着いている。遠くで授業の始まりを告げる鐘が鳴り、回廊には革靴の音と低い話し声がゆるやかに流れていた。上品に整えられたこの場所は、いつもなら見る者に安心を与える種類の静けさを持っている。
今日は違った。
静けさの中に、妙な継ぎ目がある。
誰かが言葉を止める一拍。視線が交差してから逸れるまでの間。噂として口にするにはまだ早いが、気にしていないふりをするには少し長すぎる沈黙。
ノアは、そういうものを拾うのが得意だった。
角を曲がった先で、二人の令嬢が低い声で話しているのが耳に入る。
「昨日も、なんだか疲れましたわ」
「ですわね。誰も間違えてはいないのに」
「ええ、そうなの。だから余計に困るのよ」
彼女たちはノアに気づくと口を閉ざし、優雅な会釈だけを残して立ち去っていく。
追いかける必要はなかった。必要な部分はもう聞こえている。
誰も間違えてはいないのに困る。
それはつまり、場の流れを見て先回りしていた何かがなくなった、ということだ。
ノアはゆっくり歩きながら、ふとセレフィーナの顔を思い浮かべた。
アシュクロフト侯爵令嬢。成績優秀。礼儀正しい。どこへ出しても恥ずかしくない。何をさせても無難にこなす。立ち位置がきれいで、言葉の選び方が正確で、場の乱れを嫌う。
正直に言えば、以前のノアは彼女をあまり面白い人間だとは思っていなかった。
優秀だが退屈。
そんな評価だった。
もちろん退屈というのは、能力が低いという意味ではない。むしろ逆だ。隙がなさすぎる人間は観察対象としては少しつまらない。変な転び方をしないし、気分で噛みついたりもしない。きちんと正しい場所へ立ち、きちんと正しい言葉を選ぶ。
そういう人だと思っていた。
だが今になって考えると、その「きちんと」がどれほどの働きをしていたのかを、周囲の誰も見ていなかったのかもしれない。
目立たない形で整える人間は、整えていることを自己申告しない。
だから、いなくなって初めて困る。
しかもかなり間抜けな形で。
昼前、王宮に戻ったノアは、書記室で顔なじみの先輩が予定表を片手に唸っているのを見つけた。
「まだ直してるんですか」
「まだ直してるんだよ」
「たいへんですねえ」
「他人事だと思って」
先輩は疲れた顔で紙面を見せてくる。余白には細かい訂正がいくつも入っていた。
「昨日のうちにまとまっていたはずなんだ。ところが今朝になって、返答の順番がまずいだの、伯爵家への案内が先だの後だの、妙に揉めてな」
「揉めるほどのことです?」
「揉めるほどのことじゃないから疲れるんだよ」
まったくその通りだと、ノアは内心でうなずく。
派手な失敗には、まだ直しようがある。誰が悪いかもはっきりする。だが小さな不格好は、全員に少しずつ責任が分散するぶん、誰にも止められないまま長引く。
「前はもっと、こう……気づいたら収まってた気がするんだけどな」
先輩がぼやく。
その言い方に、ノアはわずかに目を上げた。
「へえ。誰が?」
「誰がって」
「そこですよ」
先輩は一瞬考え、それから面倒そうに肩を落とした。
「わからん。そういうのを考えなくて済んでたから困ってるんだ」
言われてみればその通りだ。
整っている時、人はそれを「整えられている状態」だとは認識しない。ただ「これが普通だ」と思うだけだ。
普通が消えた時、ようやくそれが誰かの働きだったとわかる。
ノアは笑いそうになったが、実際に笑うには少し早かった。
「殿下は?」
「気づきかけてるが、まだだな」
「まだですか」
「まだだよ。今日一日でちょっと苛立ってはいたが、原因まで辿れてない」
「でしょうねえ」
それもまあ、予想の範囲内だ。
ルシアンは愚かな王子ではない。善意もあるし、誠実でもある。だが、自分の足元で誰がどんなふうに床を平らにしていたかには、驚くほど無頓着だ。
王子という立場の人間は、整えられた後の場だけを受け取って育つことが多い。
それを責めるのは簡単だが、ノアに言わせれば構造の方が悪い。
だからこそ今、この王都は面白いことになっている。
整えていた人間が消えた。
それも、自分から降りた。
結果、場を当然のものとして踏んでいた連中が、一斉に足を取られ始めている。
少し不謹慎だが、見物としてはかなり上等だった。
もっとも、それだけで済まないから、なお面白くない。
午後、王宮の一角で神殿付きの神官と書類を交わしていた下役が、珍しく渋い顔をしていた。
「どうかしました?」
「いや」
「その顔は、どう見ても“いや”ではないでしょう」
「おまえ、最近ずいぶん口が軽いな」
「もともとです」
下役は嫌そうに眉を寄せたが、結局ぽつりと漏らした。
「神殿が、アシュクロフト侯爵令嬢の件をしつこく確認してくる」
「ご静養の?」
「ああ。いつ戻る見込みか、正式な話か、体調不良は本当か」
「それはまた」
「変だろう」
変だ。
ノアは軽くうなずきながら、内心ではすでに一歩先まで考えていた。
学園が困るのはわかる。茶会がぎくしゃくするのも、王宮の予定表が汚れるのも理解できる。
だが神殿がそこまで確認したがるのは、どう考えても重すぎる。
ただの婚約候補の一人が静養に出た。
その程度の出来事にしては、扱いが大きい。
しかもあの連中は、気にしていることを表に出したがらない。隠したまま、必要なところだけ押さえようとする。その神殿が、ここまで露骨に確認を重ねるのなら、本当に困っているのだろう。
つまり。
セレフィーナは王都にとって、ただの「婚約候補の令嬢」ではなかった。
誰かにとって、別の役を担わされていた。
そこまで思考が進んだところで、ノアは窓の外へ目を向けた。
王都の空は、どこまでも穏やかだった。人も建物も、表面だけなら整って見える。けれどその内側では、次に進むための台詞が誰の口からも出てこない。
令嬢たちは据わりの悪い茶会に疲れ、王宮は些細な調整に何度も手を取られ、ルシアンは違和感の正体にまだ届かず、ミレイアは善意に押し上げられて息苦しくなっている。
そして神殿だけが、不自然なほど真顔だ。
これを恋愛劇と呼ぶには、困っている範囲が広すぎる。
ノアはそこでようやく、笑みを消した。
面白い。
だが、面白がるだけでは済まない。
セレフィーナ・アシュクロフトがいなくなったことで、王都は「正しい展開」を失ったのだ。誰かが悪役を引き受け、誰かが正義の顔をし、誰かが報われて終わる。そういう見えやすい筋道が、途中でぽっきり折れてしまった。
だから皆、次の台詞に進めない。
あの侯爵令嬢は、ずっと自分が悪役にされる前提を嗅ぎ取っていたのかもしれない。嗅ぎ取ったうえで、舞台そのものから消えた。
それは見事だと思う。
同時に、王都の人間の鈍さには少し呆れた。
誰も彼女を必要だとは思っていなかったのに、いなくなった途端これほど困るのだから。
ノアは廊下の柱にもたれ、ゆっくり目を閉じる。
観客席から舞台を見るのは楽だ。全体が見えるし、役者の間違いにもよく気づく。
けれど今見えているのは、ただ配役が一人欠けた程度の崩れ方ではない。
舞台の床板そのものが、一部抜け落ちている。
消えたのがただの婚約者候補なら、ここまで困るはずがない。
つまり彼女は、誰かにとってもっと別の役を担わされていた。




