そのご縁、切らせていただきます
人の出会いは一期一会、と言いますが。
結ばれるのが良縁とは限らないわけで。
中には、悪縁を断ちたい方もいらっしゃるでしょう。
とはいえ、捨てる神あれば拾う神あり。
あなた様が不要だというのならば――
そのご縁、切らせていただきます。
***
今日も夕飯はいらない、と夫の拓司から連絡がきたのは、時計の針が二十時を示した頃だった。
やっぱりか。私はため息を吐いて、メッセージアプリを閉じる。返事代わりのスタンプを押すのすら億劫だった。
念のためと用意していた料理にラップをし、冷蔵庫に入れる。立ち上がったついでに、風呂も落とした。どうせあの人はホテルのシャワーで済ましてくるだろう。石鹸と女物の香水を身体に纏わせて、隠しもしないのだから。
テレビで適当なバラエティを流しながら、私はいつものようにスマートフォンを弄り始めた。不倫、と検索ボックスに入力すれば、「不倫 離婚 後悔」「不倫 慰謝料 相場」などのサジェストが上がってくる。見慣れた文字列だった。私は今日もそれらをタップし、これまた何度も読んだサイトを読み返す。
拓司が不倫していると知ったのは一年前。結婚して三年目の頃だった。
きっかけは、よくある不倫の兆候だ。彼がスマートフォンを弄っているとき、私が後ろを通るとホーム画面に戻したり、慌てて電源を切ったり。私の予定をしきりに気にして、機嫌を伺ってきたり。どれだけ言っても改善しなかったレシートをポケットに突っ込む癖が、急に無くなったり。どれも些細な変化だったが、怪しい行動だった。私は拓司を疑い、彼が寝た後、こっそりスマートフォンを覗かせてもらった。どうせパスコードは名前を数字に変換したものだ。
画面を開けば、いくつかのマッチングアプリが目についた。タップしてトーク履歴を見れば、何人かの女とマッチングしていることがわかった。
その中でも、サラという女とは半年前から交際が続いている。それぞれアカウントを交換して、メッセージアプリでも連絡を取り合っていた。震える手で会話内容を確認すると、そこには女とデートをする約束や事後の話、私の悪口などが書いてあった。
私はすぐにスマートフォンを切って、家から飛び出した。かろうじて持ってきていた財布を頼りにネットカフェに入り、一晩中泣いた。怒りよりも悲しさの方が優っていたのだ。
愛しているのに、裏切られた。どうして、と。
生活が不満だった? 仕事のストレスが原因? それとも、私が嫌いになったの?
不倫する側の心理なんて、私にわかるはずがない。そうして無意味な問答をしているうちに朝になったので、拓司に不審がられる前に、私はネカフェを出た。
帰宅すれば、拓司は起きていた。「朝からどこに行っていたの?」と眠そうに質問する彼に、「卵が切れちゃったからコンビニで買ってこようとしたけど、無かった」と見えすいた嘘を吐いた。私がパジャマ姿で外出したことも、目元が赤く腫れていることにも触れず、拓司はただ「そっか」とだけ言った。
後日、もう一度彼のスマートフォンを覗こうとしたら、パスコードが変更されていた。
それ以降、拓司は頻繁に夕飯を外で取ってきたり、平気で朝帰りをするようになった。
舐められている、と、頭ではわかっている。私が何も言わないのをいいことに、段々開き直っていく拓司に、腹が立っていないといえば嘘になる。
だけど、どうしても離婚に踏み切ることはできなかった。
元々、私は気の弱い方だ。誰かと言い争ったとき、自分の非でなくても、私が先に折れてしまう。口論するというのが、どうにも苦手だった。
それに加えて、私は今、専業主婦だ。職歴はあるが、ブランクが長いため、就活したとしても正社員は難しい。
私の性格上、年単位で働くというのも無理だとわかっている。おそらく、契約社員や派遣社員が現実的だろう。拓司と離婚して慰謝料をもらったとしても、経済面はかなり厳しくなる。財産分与だって、貯金が少ない私達ではたかが知れていた。
年齢も年齢だ。私は今年で三十歳。晩婚化が進んでいるとはいえ、この歳で離婚して、再婚相手を探すのは骨が折れる。世間体も良くない。バツイチ、という肩書きは、自分に自信が持てず、気が弱い私にとって、到底耐えられるものではない。
うじうじと離婚しない方が良い理由ばかり考えて、私は拓司の不倫を見て見ぬふりをしていた。
こういう時、夫婦で腹を割って話せる関係が羨ましい。私と拓司には無理な関係だ。どうしたら私は、彼と対等になれるのだろうか。
スマートフォンを弄るのに飽きて、私はなんとなしにテレビを眺め始めた。
有名な旅番組の特集が流れていた。どうやら、全国にある有名な神社を次々訪問していくらしい。
『こちらは縁切りで有名な神社です』
神主らしき男性と共に、見慣れたテロップが映し出された。
『縁切りといえば、人間関係――例えばパートナーと不倫相手の縁を切る、などが多くあげられますが、それ以外にも、病気やギャンブルなどの悪縁を断つお願いごとをされる方も、多くいます』
テレビの説明に、私は少し興味を持った。画面に映されるのは、恨みつらみが書かれた絵馬や、大量に供えられたハサミ。おどろおどろしい光景に、番組リポーターが驚き、スタジオの観客の悲鳴が効果音として入る。ネガティブなイメージを視聴者に持って欲しくないのか、神主がすかさずフォローした。
『まあ、ちょっと怖いですよね。ただ、ほら、こういう絵馬のように、自分の優柔不断さを直したいと参拝する方もいます。それと、実は縁切りと縁結びを兼ねている神社も多くて、こちらの神社も続いてほしい縁はハサミを糸でぐるぐるに巻いてお供えしたり――』
神主の説明は聞き流した。それよりも、私は本当に効果があるのかどうか気になり、番組で紹介されていた神社を検索してみた。
口コミでは、中々の評価だった。嫌いな上司が青森に異動した、いじめっ子が大怪我をして卒業まで学校に来られなかった、などなど。もちろん、中には男女関係の話……浮気や不倫が解決した話も多かった。
「いいなあ……こうなるなら、私も」
高評価な口コミを読んで、私は淡い期待を抱いた。
「神様に、縁切りお願いしたいなあ」
突然、インターホンが鳴った。私はスマートフォンを弄るのを止めて、モニターの前に立った。
時計を見れば、二十二時を指していた。こんな時間に誰だろうかと、私は訪問者を確認する。
黒。
黒だ。
黒い、女性だった。
黒髪に黒い瞳、そして黒い着物を着た、十代後半か二十代前半ぐらいの、若い女性。
全てが黒いわけではない。肌は生白く、唇は赤い。それに、女の私から見ても、とてつもない美人だ。
だけど、なんでかわからないけれど、そういった情報全てを言葉にできず、私は彼女のことを「黒い女性」としか言い表せなかった。
「こんばんは」
訪問者である女性が喋った。私は驚いて、返事をしてしまう。
「あ、あの、どちら様でしょうか」
「夜分遅くにごめんなさい。安井百合、さんでお間違いないでしょうか」
「はあ。そうですけど……私に何かご用で?」
「ああ、申し遅れました。私、ゆかりという者です」
彼女は軽く頭を下げた後、
「あなたの、要らないご縁を貰いにきました」
怪しい笑みを浮かべて、そう言った。
「はあ……? あの、なんの冗談ですか?」
いたずらか、あるいは新手の新興宗教か。
私はゆかりと名乗った女性を警戒した。すぐ管理人に通報できるよう、スマートフォンを握りしめる。
「ふふ。そのままの意味でございます」
ゆかりは笑みを浮かべたまま、丁寧な口調で話し始めた。
「私は、縁切りを生業としている者でして。他人様の要らない、必要無くなったご縁をいただき、かろうじてこの世に留まっているのです。今宵はあなた様に呼ばれ、不必要なご縁を切りに参りました」
何なの、この人は。
話している内容が一つも理解できない。
凄く怪しい。きっと変質者なんだ。管理人にではなく、警察を呼ぶべきかな……と、悩んでいると、モニター越しにゆかりが語りかけてきた。
「――よろしいのですか? しがらみに、縛られたままで」
やけに、惹かれる声だった。
モニターを見る。ゆかりは相変わらず笑っていた。
「私を拒むのは簡単です。しかし、今を逃せば、この先ずうっと、煩わしさとしがらみで雁字搦めになって――一生を、消費してしまいますよ?」
ゆかりの言葉は私を責めているように聞こえた。夫婦の問題を解決どころか話し合いすらできない、臆病者だと。
……その通りだ。私はただ悩んでいるだけで、一人では何にも行動できない。決断もしない。都合の良い期待を抱いて、無為に日々を過ごしているだけ。
そんなので現実が変わるわけないのに。
「私なら、できますよ」
私の心を見通したように、ゆかりが言う。
「私なら、あなたの人生を、変えることができますよ」
「………」
怪しい女の言葉に耳を貸してはいけない。
頭ではわかっている。
だけど、知らない女と歩く拓司が脳裏をよぎった。
私は……
私は――
――扉を開けた。
*****
「それで、百合さんは何のご縁をお切りになりたいのですか?」
ゆかりはリビングのソファに座るや否や、私の事情を聞いてきた。
初対面の女性に夫の不倫について話すのを、私は躊躇った。だけど、隠していても仕方が無い気がした。私は「夫の不倫に悩んでいる」と、ゆかりに簡潔に伝えた。
「まあ、そうだったのですね。ご心労、お察しいたします」
ゆかりは口元を黒い袖で覆い、同情した眼差しを私に向けてきた。私はその態度がなんだか嘘臭く感じた。
「……事情は話しました。それで、その、縁切りというのを、早速お願いしたいのですが」
「ふふっ。百合さん、そう急かないでください。まだ、必要な準備は終わっていませんわ」
「準備?」
「ええ。縁切りには、まず、百合さんの膨大なご縁の中から、本当に要らない縁を探さなければなりません。誤って違うご縁を切ってしまったら、大変なことになりますから」
ゆかりの説明は胡散臭かった。壺でも買わされそうな雰囲気だ。やっぱり、こんな怪しい人を家に上げたのは間違いだったかも知れない。私は早々に後悔し始めた。
「……あの、失礼ですが、本当に縁切りなんかできるのですか? あなたのやり方は、テレビとかで聞いた話とは全然違いますが……」
「あら、信じていらっしゃいませんね」
ゆかりはふふっと笑って、床を見た。対面にいる私も、釣られて下を向く。
無数の糸が、床一面を覆い尽くしていた。
「ひっ」
咄嗟に口を押さえる。大量の糸はまるで髪の毛のように数え切れないほど存在し、ぐしゃぐしゃに絡まっていた。そして、何より気持ち悪いのは、それら全てが私から伸びていることだった。まるで足の裏にくっ付いているように、大量の意図が私へと収束している。
ゆかりは床に手を伸ばし、何本かの糸を掬った。彼女の右手にはいつの間にか、糸切りばさみが握られている。ところどころ錆びていて、年季の入った古いハサミだった。
「驚いたでしょう? 人は知らず知らずの間に、これだけのご縁と結ばれているのです。ここから必要のないご縁を探すのは、ええ、それはそれは、骨が折れます」
ゆかりは手のひらの糸を指で摘んだ。
「ほら、この薄青色の縁はあなたのご友人、折尾沙樹さんとのです。もうあまり出会っていないようで、縁が切れかかっていますわ。こちらは、ご両親ですね。香春信雄と、香春すみれ。あら、あまり折り合いが良い様子ではなさそうで。少し、黒ずんでいますわ」
私は息を飲んだ。ゆかりが、私の人間関係を次々と言い当ててくるからだ。
折尾沙樹は中学時代の友人だ。成人式以降会っていない。両親も、私が東京で暮らすことや拓司との結婚に反対していた。結婚式を挙げなかったことを根に持っているのか、実家に帰っても嫌味ばかり言われるので、よほどのことがない限りもう帰る気はない。
ゆかりの不可思議な能力に、私は気圧された。彼女は頬に手を当て、わざとらしく困ったように言った。
「まあ、多少は見当が着くので、ここらをバッサリと。切ってしまってもよろしいのですが。ついうっかり、大事な縁も一緒に切ってしまうかもしれません。――たとえば、この世とのご縁、とか」
ハサミを糸に当てるゆかりへ、私は目を瞑って叫んだ。
「わかった! 信じますから! この怖い光景を消して!」
私はゆかりへの猜疑心よりも、現状に対する恐怖心が勝った。気弱な私が、目の前で起きた超常現象をすんなりと受け入れられるわけなかった。ましてや、そんな能力を持つゆかりに反抗するなど、できるわけないのだ。
「あら、ごめんなさい。怖がらせるつもりは、なかったのですが」
もう大丈夫ですよ、とゆかりが言った。恐る恐る目を開ければ、確かに、あの無数の糸は無くなっていた。私はホッと胸を下ろした。
だが、ゆかりが持っていた数本の糸は残っている。私は思わず、彼女から距離を取った。
ゆかりはやはり、笑みを浮かべたままだった。
「そんなに怖がらないで。これらは、百合さんとご主人、そして不倫相手の、ご縁でございます」
そう言ってゆかりは、三本の糸を私に見せてきた。
糸は刺繍糸のように細いが、それぞれが絡まっているため一本の太い糸のようになっている。簡単には解けそうではなかった。
「百合さんは、ご主人の不倫を解決したいと仰っていましたが、具体的にはどうされたいのでしょうか?」
「どうって……」
「ご主人と離婚したいのか、それとも、ご主人と元の関係に戻りたいのか」
私はすぐに答えた。
「決まっています。拓司と、元の関係に戻りたい。だから、拓司と不倫相手の縁を切ってください。そうすれば、全部元通りに――」
「嘘ですね」
ゆかりが食い気味に断言した。私は鼻白んで、すぐには言い返せなかった。
「う、嘘って。何を根拠に。あなたに私のことがわかるわけないじゃない」
「わかりますよ。私は、百合さんの要らないご縁をいただきに参ったのです。ご主人と不倫相手の縁切りを望んでいるだけなら、私はここに呼ばれていません。それこそ、神社にでも行って絵馬に恨みつらみでも書いてくればいいのですわ」
ゆかりは顔を上げ、私を見た。
「百合さんは、自分に嘘をついてます」
真っ黒な瞳が私を映す。
私が、自分に、嘘をついている?
「百合さん。ねえ、百合さん。ご主人の不倫に悩んでいるのに、どうして離婚しないのですか?」
簡単に言ってくれる。
離婚して、はい終わり。と、済む話じゃないの、これは。
お金の問題がある。世間体の問題もある。離婚して、これ以上に惨めになる可能性がある。
そんなリスクを背負ってまで、私は大きな決断をしたくない。
「ふふっ。百合さん、大事なことが抜けています」
ゆかりは手のひらにある糸を見ながら言った。
「あなた、ご主人に対して、どういった感情をお持ちなのですか?」
「――それは」
私は口を噤んだ。
「百合さんは、とても慎重な方です。離婚した後の己の不利益をきちんと考えていらっしゃる。しかし、肝心なところが抜けています。ご主人に対する気持ちが、です」
ゆかりは、糸を摘んで持ち上げた。
「百合さんとご主人。そして、不倫相手との縁が絡まっているのは、それぞれしがらみがあるからです。しがらみを解くためには、百合さんが本心を自覚する必要があります」
「私の、本心」
私の、拓司への気持ち。
それは……
それは――
「言霊を知っていますか? 言葉に宿る霊力のことです。馬鹿馬鹿しいですが、しがらみを解くには、言霊によって本心を自覚するのが一番手っ取り早いです。ねえ、百合さん。お話ししてくれませんか?」
ゆかりはいつの間にか私の隣に移動していた。
「安井拓司さんと、あなたの関係を」
彼女は、持っていた糸を私に渡してくる。私は、それをぼうっと眺めた。
「――あなた達のご縁が、どうやって結ばれたのかを」
耳元で囁かれる。やっぱり、やけに惹かれる声だ。ゆかりの言葉は、私を惑わし、彼女の都合の良いように動かされている気がした。
不思議なことに、嫌な気持ちでは無かった。むしろ、なんだか楽になれそうな気がした。
だから私は、手のひらの絡まった三本の糸を眺めながら、口を開いた。
「拓司とは、デキ婚でした」
*****
よくある話です。
私と拓司は会社の同僚でした。
一般職として就職していた私は、営業である彼と面識はありませんでした。
彼と仲良くなったのは、会社の忘年会がきっかけです。
人と話すのに疲れた私は、酔いを覚まそうと居酒屋を出ました。そこで、私は厄介そうな酔っ払いにナンパされたんです。
こんな性格ですので、酔っ払い相手に強気に断ることはできませんでした。しつこいナンパに私が困り果てていたとき、助けてくれたのが拓司だったんです。
私は気弱な性格ですが、恩人に何の礼をしないほど薄情ではありません。助けてくれたお礼にと後日ランチを奢った時、拓司とは意外にも話が合いました。
趣味や些細な価値観、食べ物の好き嫌い。
彼の側にいるのは心地良く、とても楽しかったです。
それを機に、私達は距離を縮めていきました。
拓司と付き合い始めるのも、時間はかかりませんでした。
身体の関係を持つのも、二十半ばなら自然な成り行きでしょう。
ただ、私達は考えが甘かったんです。
避妊はしていました。だけど、やっぱり、授かる時は授かるものなのでしょう。
拓司と付き合ってから一年後。
私は妊娠しました。
よくある話です。
当時の私は二十六歳でした。
子供を産むにも、結婚をするにも、丁度いい頃でした。
拓司に妊娠していることを告げれば、彼は「責任を取って結婚する」とプロポーズしてくれました。
だから、私は彼と結婚したんです。
二人で将来を話し合い、互いにパートナーとして認め合ったのではなく――できてしまったなら仕方ない、と。常識や世間体に流されて、結婚しただけなんです。
私は拓司を愛してましたよ。
結婚までは、考えていませんでしたが。
ともあれ、私は彼のプロポーズが嫌でもありませんでしたから、彼と結婚して、しばらくは穏やかな新婚生活を送りました。
あの時は、多分、うまくいっていたと思います。
拓司も私も協力して、互いに良き夫、良き妻になろうと努力していました。私は仕事で忙しい拓司を支えましたし、彼は妊娠中で不安定な私を支えてくれました。
私達二人は、産まれてくる子供を楽しみに、仲良く過ごせていたんです。
ですが、妊娠して半年後。
私は流産しました。
よくある話です。
インフルエンザに、罹ったんです。
年が明けた頃でした。最初は拓司がインフルエンザに罹って、そのあと私が。
ワクチンを打っていたとはいえ、やはりダメなときはダメなんですね。
初めは軽い症状でも、すぐ重症化して、入院して、そしてお腹の子は……。
拓司を恨まなかったといえば噓になります。
流産した直後は彼に対して憎しみしかありませんでした。あなたがもっと気を付けてくれていれば、こんなことにならなかったのに、と。
ですが、流産を知ったときの拓司の泣き顔と、その後の彼の献身的な態度に、私の怒りは長続きしませんでした。
元々、誰かと争ったり、誰かを憎んだりするのは、苦手だったのもあります。だから私は、拓司を恨むのをやめました。
そして、彼とはまだやっていけると思っていたんです。
赤ちゃんは流れてしまったけれど、私達はまだ若いし、これからだって。
きっかけはデキたことだったけれど、私は彼と結婚したことを後悔していない。きっと、彼も同じ気持ちのはず。
……ですが、現実はそううまくいきませんね。
先ほどもいったように、私達は二人で話し合って結婚したわけではありません。
常識や世間体に流されて、結婚しただけ。
かすがいであったお腹の子が流れてしまえば、互いの心が簡単に離れてしまうのも、そうおかしな話ではありません。
それに加えて、不倫なんかされれば、普通ならさっさと離婚したほうが身のためだと思います。
……でも、それでも。
離婚を考えたとき、お金や生活、世間体なんかの問題よりも、もっとくだらないものが、頭をよぎるんです。
拓司との、何気ない思い出が、頭から離れないんです。
趣味の音楽で盛り上がったこと、入ったラーメン屋が外れだったときに愚痴を言い合ったこと、産まれてくる赤ちゃんの名前をいっぱい考えたこと。
どれもこれも、もう昔のことなのに。
ずっと、頭から離れないんです。
本当は、離婚したくない理由なんて一番私がわかっているんです。
よくある話です。
だって、私は。
私は――
不倫されてもなお、拓司を愛しているんですから。
*****
「馬鹿な女だと、笑ってくれてかまいません。でもやっぱり、自分の気持ちに嘘は吐けない。私は、拓司を愛しているんです……!」
私は震える手で三本の糸を握りしめた。
そうだ。私は拓司を愛しているんだ。だから、裏切られて悲しかったし、別れたくない。
私が本心をゆかりに伝えれば、彼女は俯いたまま返事をした。
「それが、百合さんの本心で、よろしいのですか?」
ゆかりの声は震えていた。私に同情してくれたのだろうか。私は必死に頷いた。
「はい。今まで忘れていたけど、私は拓司と一緒に過ごす時間が幸せだったんです。だから、このまま離婚なんかしたくない」
「離婚せず、どうすると? ご主人は不倫しているというのに?」
「そんなの、決まっています。あのサラとかいう女と、拓司の縁を切れば、私は――」
私は、もう一度、幸せになれるんです。
そう、ゆかりに告げれば、彼女は顔を上げ――爆笑した。
「ふふ、ははは! ゆ、百合さん、それはありえません! ふふ、よ、よりにもよって! 愛しているなんて! あはははっ! おもしろい!」
大声で笑うゆかりは、先ほどまでのミステリアスな雰囲気から一転、年相応の女性に見えた。
ゆかりの馬鹿にしてくるような態度に、私は怒りよりも戸惑いを感じた。
「な、なんで笑うんですか。おかしいとこなんて、どこにも」
「嫌ですわ、百合さん。もし、とぼけていらっしゃるのなら、それはとんだ食わせ者ですわ。ふふ、無自覚なら、それはそれで愉快ですが」
ゆかりはついっと私の手元に目をやった。
「ねえ、百合さん。あなた、ご両親との縁が、黒ずんでいたのを覚えています? 赤い糸というように、ご縁というのは、色も重要なのでございます」
「色……? それが、何の関係があるの?」
「ご縁が結ばれている同士の、関係性を表しているのが、糸の色なのです。例えば、恋人なら赤、友人なら青、そして、恨み・つらみがあるのなら……黒、といったように、ね」
ゆかりは私の握りしめた手にそっと指を伸ばし、手を開こうとする。
開かれた手からは、三本の糸が徐々に見えてくる。
……あれ、そういえば。
この糸、何色だったけ。
「言霊を使うのは、しがらみを解くにも必要なのですが、もう一つ役割があります。それは、私が、虚言を見抜くために、必要だったんです」
手を完全に開かされた。
ゆかりが問いかけてくる。
「ねえ、百合さん。あなたはご主人を愛しているというのに、どうして」
――この糸は、真っ黒なのですか?
開かれた手の中にあった糸は。
三本の糸は、全て黒かった。
「う、嘘よ!」
私は咄嗟に否定した。
「私は拓司を愛しているわ! だって、彼といた時間はあんなに幸せで、離れるのが辛くて……!」
「愛していると口にするわりには、恐い顔をしていますよ? まるで、そう思い込んで自分を納得させようとしているみたいです」
思い込む? 納得?
私が、拓司を愛していると思い込んでいると言いたいの?
「ええ、百合さんはご主人を愛しているから離婚しないのだと、言い訳しているんです。もっといえば、ご主人と争わなくて良い理由を探しているだけです」
「そ、そんなこと……」
私は反論ができなかった。ゆかりの言う通りだからだ。
口論や、喧嘩は嫌いだ。争わなくていいのなら、それに越したことはない。
私が我慢して済むのなら、私が先に折れてきた。そういう風に生きてきた。
だけど、それとこれとは違う。私が拓司を愛していることと、私が喧嘩を嫌う理由とは、関係性がない。
そう言い返せば、ゆかりの口元は弧を描いた。
「ふふ、頑固ですこと。では百合さんに、これから少し意地悪しますね」
――流産したとき、ご主人にこう言われませんでしたか?
――『百合、ごめんな。謝っても許されることじゃないってわかっている。でも言わせてくれ、俺は百合を愛している』と、いったようなことを。
ゆかりの言葉に、私は顔を青くした。
一言一句、とまでは言わなくとも、似たようなことを拓司から言われていたからだ。
「な、なんで、知っているの」
「いいえ、知りませんよ。ただ、お話を聞いて、百合さんとご主人の性格を考えたら、こんなやり取りがあってもおかしくないと思っただけです」
ゆかりは続ける。
「百合さんは人と争うのが嫌だというのは、よく伝わってきました。そして、あなたがただ気弱なだけでなく、人から嫌われたくないと、いい人でいたいという下心があるということも。ご主人は、そこを利用していたんでしょうね」
嫌な汗が頬を伝う。
「例えば、付き合う際もご主人からの告白がきっかけで、身体の関係を持ったのも彼が強引に迫ったから、拒否できなかったとか」
心臓がどくどくとうるさい。
「例えば、妊娠した際、お仕事を辞めることになったのも、ご主人からそう乞われて、続ける選択肢を無くされたとか」
耳を塞げばいいのに、指一本すら動かせない。
「例えば、流産して本当は今でも根に持つほど恨んでいるけど、必要以上な献身に罪悪感を持ち、許さざるを得なかったとか」
ゆかりは嗤った。
「例えば、愛していると言われて、その好意を手放したくないから、大して好きでもない相手を愛していると自分に言い聞かせているとか――ね?」
ゆかりは口を閉じた。私の反応を伺っているようだった。
私は、何も言えなかった。
ゆかりの言葉のほとんどは、過去の拓司の行動と一致していた。付き合うことになったのも彼の告白がきっかけで、専業主婦になったのも「妻が同じ職場だと気まずい」と言った彼からの頼みだった。
もし、ゆかりの言う通り、拓司は私の下心を利用していたのなら――。
でも、彼と過ごした時間が楽しかったのも事実で――。
私は、本当に拓司のことを愛しているのかわからなくなっていた。
そんな私を見透かしたように、ゆかりが言った。
「ええ、全部が全部、嘘だというわけではありません。百合さんがご主人と過ごした時間が、全てが不幸だったわけではないでしょう? おそらく、百合さんがご主人を愛していたのも、本当なのですよ」
ですが、とゆかりは言葉を区切った。
「愛とはいずれ冷めるもの。そのきっかけがあった。ご主人は――あなたの悪口を、不倫相手に漏らしていた」
ああ、そうだ。
思い出したくもない、あの会話。
「ねえ、百合さん。あなたは、それを見て、どう思ったんですか?」
「どうって――」
「きちんと、本心をお答えくださいね」
あの時、あなたは何を見て、どう感じたのか。
ゆかりが楽しそうに言った。不思議と、彼女の態度は癪に触れなかった。
あの時、こっそり拓司のスマートフォンを弄り、開いたトークアプリ。
有名キャラクターを背景に浮かぶいくつもの吹き出しは、今でも覚えている。
――嫁がうざいんだよね。飯もうまくないし笑
――流産したの俺のせいにしてくるの酷くね
――あいつと結婚したの間違いだったわ笑笑
――愛しているのはリサだけだよ♡
――早くあいつと別れてーわ笑
「私だって、別にお前とじゃなくて良かった」
口が、自然と動いた。
「愛していると言ってくれたから、愛したのに。それだけなのに、どうしてこいつはこんなに偉そうなの。裏切られたのは、私の方なのに」
スルスルと言葉が出てくる。
「裏切られと知ったときは、悲しかったわ。悲しくて、仕方がなかった。こんなにも愛してあげたのに、私が報われないことが、悲しかった」
一度本心を自覚してしまえば、もう止まらなかった。
ゆかりは相変わらず笑っていた。
「本当は、流産したことをずっと根に持っている。行かないでって言ったのに、忘年会に参加したり、実家に帰省したりして、インフルエンザに罹ったのはどこの誰よ」
「飯がまずいですって? 自分の実家の味付けが馬鹿みたいに濃いから舌が狂っているだけでしょう。そのせいでお義母さんが当てつけしてきたこと、忘れてないんだから」
「大体、あっちが私に家事を押し付けてきたんじゃない。育休を取るって言ったのに、社内恋愛でデキ婚したのが周りにばれるのが嫌で、結婚式も挙げず無理やり私を辞めさせたのは拓司でしょう。おかげで私は、キャリアが途絶えて散々だっていうのに」
「会社員時代からそうよね。見栄ばかり張って、そのしわ寄せを私に押し付けて。そんな調子だから営業内でも嫌われて、同僚みたいに出世できないのよ。いいざまだわ」
「本当はあんな奴視界に入れたくない。結婚したのが、いえ、そもそも付き合ったのが間違いだったわ。離婚すれば、さぞや清々しい気分になるでしょうね」
言葉にして、私はようやく拓司との関係をどうしたいのか理解した。
ゆかりと目を合わせ、彼女に宣言する。
「でも、まだ離婚しないわ。絶対に」
おや、とゆかりが驚いた。
ずっと笑っている印象しかなかったが、こんな反応もするんだと、少し意外に感じた。
「それは、一体、何故ですか?」
ゆかりが不思議そうに尋ねてくる。
今度は、すぐに答えることができた。
「私が幸せじゃないのに、あいつだけ幸せになるのは許せないからよ」
お金や将来の不安なんかよりも、もっと大事なことで、単純なこと。
きっと、今、離婚したところで、拓司はすぐ不倫相手と再婚するだろう。
そんなの、私が許さない。
少なくとも、私が幸せになるまで、あいつが幸せになるのは許せない。
だから、まだ離婚しない。してたまるか。
今の私は大きな決断をしようとしている。
きっと、それを成すための最大の障害は、拓司でも、不倫相手でもない。
手のひらの上の三本の糸は、もう絡まっていなかった。
「あらあら、まあ」
ゆかりは困ったように言った。
「私はてっきり、ご主人とのご縁を切るとばかりに。ふふっ。では、どういたしましょうか、百合さん?」
ゆかりはきっとわかっていて聞いている。
だって、縁は三本あるのだから。
拓司と、不倫相手と、そして――私自身の縁。
縁切りは人間関係以外もできるというなら、この縁はきっと、私の弱い心に繋がっている。
ならば、言うべきことは決まっている。
「私は、この気弱な性格と、縁を切りたい」
そう言って、手を差し出せば、ゆかりも手を伸ばしてきた
「――人の出会いは一期一会、と言いますが」
ゆかりは私の手のひらから、一本の糸を取った。
「結ばれるのが良縁とは限らないわけで。中には、悪縁を断ちたい方もいらっしゃるでしょう」
ハサミを取り出し、糸に当てる。
「とはいえ、捨てる神あれば拾う神あり。あなた様が不要だというのならば――」
ゆかりは笑った。
「そのご縁、切らせていただきます」
*****
最近、妻の様子がおかしい。
弱気な性格の妻は、従順で、俺が不倫していても文句一つ言えないような女だった。
だが、ここ三か月、まるで人が変わったように活発になった。
人に気を使いすぎて働くのが好きじゃなさそうたっだのに、急に働きたいと言い始め、勝手に就職したり。
あんなに嫌がっていた実家に帰省して、ご両親と仲直りしてきたり。
そして極めつけは、俺の不倫を職場と親にばらした挙句、弁護士を引き連れてリサと別れさせてきた。
不倫がばれていることは知っていた。だが、妻の百合は文句を言うどころか黙認している状態だった。じゃあいいか、と開き直ったのがまずかった。まさか、弁護士を用意していたとは。俺の記憶では、百合はそんなことできるほどの度胸を持ち合わせていないというのに。
じゃあ離婚するのかといえば、百合は離婚はしないと言い張った。経済的な理由や世間体を考えて、と言っていたが、おそらく嘘だ。
俺が百合と別れたがっているのを知っていて、あいつは嫌がらせに離婚しないだけだ。
おかげで俺は両親から責められ、デキ婚を隠していた挙句不倫していたことに職場での肩身は狭くなり、散々だった。
その上、従順だった百合は俺に対して強気に出るようになってから、家に居づらくなった。
だから俺は、仕事が終わってもすぐには家に帰らず、パチンコなどで時間を潰してから帰宅するようになった。
今日は新台で三万ほど負けた後、公園のベンチで発泡酒を飲みながら、日付が変わるのを待っていた。百合は大体、日付が変わる頃に寝るからだ。あいつと顔を合わせたくない俺は、必然と外で過ごすことが多くなっていた。
発泡酒をチビチビと飲みながら、どうしてこうなったんだろうと思いをはせる。
百合と付き合って結婚したのは、俺が確実に主導権を握れるのが一番大きな理由だった。
嫁に尻を敷かれる結婚生活が嫌だったから、あいつを選んだのに、これじゃあ意味がない。
俺もそんなに強気な性格じゃない。強気に出れない。人に嫌われたくないからだ。でも楽はしたい。誰だってそう思うだろう?
誰しも、流されて何とか済むなら流されるし、長い物にはグルグルと巻かれる。面倒ごとがあったら避けるし、嫌なことは他人に押し付ける。皆が悪口を言っているなら悪口を言って、皆が褒めているなら褒める。
楽に生きるコツは、人間関係を拗らせないことだ。
そのためには、適度に嘘を吐いて相手に合わせたり、逆に相手に嘘を吐かせて自分に合わせたりする。前者は自分が強気に出れない人に、後者は自分より下の人間に使えばいい。
そうして俺は楽に生きてきたっていうのに。
どうしてこうなったのかなあ。
「あーあ! 離婚してえーな! 神様、どうにかしてくれよー!」
日本人のお手本よろしく困ったときの神頼みをすれば、横から人の気配が感じた。
夜の公園で叫んだのがまずかったか、職質かな、と横を振り向けば、そこには女が立っていた。
黒。
黒だ。
黒い、女だった。
黒髪に黒い瞳、黒い着物を着た、十代後半か二十代前半ぐらいの、若い女。
肌は白く、唇は赤い、そしてとんでもない美人だったが――どうしてか、俺はその女から「黒」という印象しか残らなかった。
「こんばんは」
女が喋った。
「今宵、あなた様に呼ばれ、要らないご縁をいただきに参りました」
「は……?」
突如目の前に現れた女が頓珍漢なことを言った。呆ける俺に、女は惚れ惚れするような笑みを浮かべた。
「ふふ、縁切りと縁結びは表裏一体といえど、このようなご縁があるとは……愉快ですこと」
ぶつぶつと独り言ちる女に、俺は恐る恐る尋ねた。
「あの、縁切りってなに……ああ、その前に。あなたは一体、どちら様で?」
女は月を背後に、名乗り上げた。
「申し遅れました。私は、ゆかりと申します。縁切りを生業としており、要らないご縁を頂いて、この世に留まっている者です。拓司様が不要だというのなら――」
ゆかりは笑って言った。
「そのご縁、切らせていただきます」
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