或る別れ
〈夜思ふ蟲は確かに秋の蟲 涙次〉
【ⅰ】
牧野の戀人、尊子が* 特定小型原付・WO「WONKEY」を買つた。それで、每夕牧野の仕事が終はると、「迎へ」に來る。牧野のバイク、ホンダ LY125fiと尊子のWONKEYとで、仲良く並んで尊子のアパートまで帰るのだ。(これは遷ちやんを傷付けてしまふかも知れないな)と牧野は思つた。** 遷姫は牧野に惚れてゐた。しかもカンテラはそんな遷姫を應援してゐた。
* 16歳以上であれば免許なしで乘れる、電動の「バイク」。法定制限速度時速20㎞。くだくだしい説明は省略する。
** 当該シリーズ第88話參照。
【ⅱ】
牧野の體内で遷姫は、自分が愛してゐる男と他の女との交情を目撃しなければならない。それは辛い事であつた。だが、その話とは別に、遷姫にはカンテラ一味とのお別れが待つてゐた。* 清代、中國は浙江省の或る村の士大夫である父が亡くなつた、と云ふ。遷姫は所謂時空の捻ぢれで、清代中國と、現代日本とを「同時に」生きてゐる。父に替はり村を治める者がゐない。で、遷姫にお呼びが掛かつたのである。女だてらに、謂はゞ村長の役目を果たさなければならない。かの地では、人びとが、「未來」の日本で修業を積んだ、と云ふ遷姫の噂を盛んにしてゐるらしい。
* 前シリーズ第26話參照。
【ⅲ】
遷姫は、「龍」は牧野の體内に殘して行く、と云ふ。彼女の村は度重なる土匪の略奪に晒されてゐたが、村挙げての自警團を組み、防備は完璧だとも云ふ。後はその「長」となる者が必要なだけだ。
サラバダ、妾ガ愛シタかんてら一味ノ男タチヨ‐ 特に、尊子との先に挙げた經緯もあり、また思ひ出深い牧野との離別は、彼女の心に殘つた。
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〈人の世に確信めいたものなけど人びとの言歌を齎す 平手みき〉
【ⅳ】
思へば、* 雪川組のヒットマン時代からの牧野との付き合ひである。何の取り柄もない男が、ヒットマンとして命をどぶに捨てやうとしてゐる、その姿を見て、「コレハコノ男ヲ助ケナケレバナイケナイ!」と思ひ、牧野に憑依した遷姫と「龍」。その牧野もカンテラ一味に拾はれ、紆余曲折を經て、一丁前の男として、自分に課せられた職務を全うしてゐる。「アバヨ、ふる。きすノ一ツモシナカツタガ‐」
* 前シリーズ第21話參照。
【ⅵ】
お別れに際して、心殘りなのが、カンテラとの決着である。と云ふ譯で、遷姫の操る「龍」とカンテラとの最後の對決をしてみないか、と遷姫はカンテラに申し込んだ。「いゝね」と乘り氣なカンテラ。弓矢は拔き(「龍」はカンテラの弓矢で右眼を抉られてゐる)での眞剣勝負をしてから、あの浙江の懐かしい村に帰る事になつた遷姫。カンテラ*「Turbo!! Charged by 白虎 influence!!」とやる氣充分だ。野獣對魔龍の一騎打ちである。
* 当該シリーズ第73話參照。
【ⅴ】
兩者さんざん汗を掻いて、結局ノーゲームとなつた。かつてスランプに陥る程の劣勢であつたカンテラだつたが、こちらも貪慾に強さを追求した挙句、「男を見せ」てくれた。「流石、妾ノ一度ハ愛シタ男ダ」。カンテラの「本氣モード」に遷姫は心から感謝した。さて、これで思ひ殘す事なく村に帰れる...
【ⅵ】
「また暇が出來たら東京に帰つておいでよ」と牧野は云ふ。お別れのベーゼは、遷姫、ぐつと堪へた。遷姫、思ひ人のゐる男に執着する程の分からず屋ではない。たゞ、村に帰れば、遷姫が情熱をぶつけられる男はゐない。然し、彼女は別れに際して、涙は見せなかつた。「『龍』ノコトハ宜シク頼ンダゾ、ふる」とだけ云ひ遺し、姿を消した。
【ⅶ】
金尾「颱風のやうな女性でした。最後フルさんに靡いたのは、私の至らなさのせゐです」‐牧野「そんなに紳士である必要はないんぢやない? たゞ泣きたければ泣けばいゝのさ」‐人間としての格の違ひか。牧野はそこ迄成長してゐたのである。さあ、これから「龍」のオペレートは、自分自身でするのだ。自ず、心が引き締まる牧野であつた...。お仕舞ひ。
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〈オレンヂの月天空の眞中占む 涙次〉