距離
ミーシャは構えない。
あくまで普段通り、通常運転のままそれを待った。
アクトは嬉しそうに口角を上げたまま剣を構え、ミーシャに向かって突っ込んでくる。
アクトはミーシャにとってはまだ戦いにすらならない相手ではあるけれど、それでもミーシャは可能性を感じたのだ。
今はまだ、孵化すらしていないかもしれない。
これからどれだけの試練を超えたとしても、羽化に至る確証はない。
無鉄砲で、無策で、無様なアクトのその姿は、ミーシャにとっては止まっているのと同意だった。
アクトの剣が自分の懐に届くまでに、八回は殺せる。
アクトの狙いも、次の動きも全てが視える。
それでも、ミーシャは楽しいと感じた。
「遠慮なんかするなよ、アクト!」
アクトはその言葉に、全力の【顎門】で応える。
技のモーションには既に入っている、後はミーシャに向かって最高速度、最高火力で突っ込むだけ。
アクトは足に魔力を溜め、一気に解放する。
直後、アクトの姿は、常人ならば目で追えない程の速度に達した。
無論、アクトの構えた剣は、真っ直ぐミーシャを捉えている。
しかし、アクトの剣はミーシャに当たることはなかった。
ミーシャの左手に握られた傘により、無駄なく完璧にいなされていたのだ。
速度も火力もどちらも完璧に受け流されたアクトは、一瞬体勢を崩してしまう。
それでも、すかさず体勢を整えようとしたのは賞賛すべきである。
修行の成果と言ってもいい。
その全ての動きが完全に予測されていなければ、である。
「はい、一本」
振り返ったアクトの眉間に、ミーシャの傘の先が軽く触れた。
これがもし、刃物だったら……。
これがもし、本気の殺し合いだったら……。
「参った……」
「おいおい、まだ参ってんじゃねえよ。立ちな、次だ次」
ミーシャは傘を引き、またしても構えを解いた。
打ち込んでこい、そう言っている。
「くそ、何されたのか全く見えなかった……。だったら見えるまでやってやるよ」
アクトの心は決して折れない。
もう一度、剣を真っ直ぐミーシャに向けて構える。
アクトの頭の中では、先程の教訓をまだ飲み込めていない。
何をされたのかが理解できない以上、反省点を言語化し、改善する術がないのだ。
それでも、構えた剣は真っ直ぐに。
「いいね、お前。強くなるよ」
ミーシャの言葉は嘘でも皮肉でもなく、心から出たものだったようにアクトには聞こえた。
嬉しさと同量の悔しさが込み上げてくるけれど、今はそれらの感情は全て無視しておく。
「……すぅ、……ふぅ」
呼吸を落ち着かせ、強い眼差しでミーシャを睨む。
アクトの瞳は、ミーシャにさらなる期待を抱かせたようだった。
「次はもう少しゆっくり動いてやるから、見逃すなよ?」
ミーシャの言葉の終わりと同時に、アクトは全速力で突っ込んだ。
一見すると、その動き自体は先程の繰り返しに過ぎないけれど、アクトには一つ確認してみたいことがあった。
どうせ、自分の剣は完璧に受け流されるのだ、ならば動きはそのままで意識だけは別の場所に向けてみようと考えたのだ。
アクトの剣は、凄まじい速度でミーシャに向かうけれど、ミーシャはまたしても左手に握った傘を前に突き出すことで受け流すつもりのようだ。
剣先と傘の先が触れる瞬間、アクトの持っている剣が緩やかに軌道を変えた。
もちろんアクトに意思によるものではなく、ただ片手で前に突き出した傘によってである。
その事実に驚愕する暇もなく、立て続けに剣は更に軌道を変えさせられた。
ほんの僅か、ミーシャが手首を返しただけ、それだけのことでアクトは体勢ごと崩されてしまう。
そして、この後のことは知っている。
アクトは、可能な限り早く、ミーシャの方に振り返る。
そして、アクトの眉間には傘に先が軽く触れるのだ。
「何か見えたかい?」
「ああ、しっかり見えたよ。ミーシャ……あんた何者だよ」
「しっかり……本当か? くくく、じゃあ、頭の傷と腹の跡については何か知ってるか?」
「え?」
ミーシャの言葉を受け、アクトは自分の顳顬に触れ、腹に目をやる。
その指には少量の血が付着し、腹には軽く斬られたような跡があった。
「アクト、目に頼りすぎだな。あたしに意識を向けたのはよかった。でもよ、せっかく意識を向けんなら、漠然と視るんじゃなく、どこに向けるかくらいは決めときな。今いるステージから上がってきたいなら、全ての動きに意味を持ちな。まあ、あたしもまだまだ敵わねえ相手がいるからでけえことは言えねえけどさっ、強くなりてえって本気で思ってんなら、少しだけ教えてやるよ?」
「目か……俺はまず何をしたらいい?」
「ん? そうだな……現在地を知ることからだな。アクトは伸び代こそあるが、まだまだ弱いな。でもそんなこと関係ねえんだよ、魔物はそれを考慮してくれねえ。……それに、敵になるのは魔物だけとも限らねえしな 。アクト、しばらくあたしらと行動するか? その間、簡単な稽古くらいは付けてやれるし、どうよ?」
「そうすれば、俺は強くなれっかな?」
「知らねえよ、それはお前次第だろ。ルルはさ、やる気がねえんだよなぁ……強くなりたいって思ってねえ。でも、あいつは強い。それは自分に何ができて、何ができないかを正確に理解してっからだ。わかるかアクト、成長には理解ってやつが不可欠なんだよ。知って覚えて試して考える。それを繰り返して、理解に至る……らしいぞ」
「らしいぞって、今感動しかけたところなのに」
「親父の受け売りだよ」
「あ、そうだ。ミーシャの親父ってさ……ジェーンって名前だったりする?」
アクトの口から出た名前に、ミーシャは一瞬驚いた表情を見せたけれど、それは直ぐに満面の笑みに変わった。
「くくく、なんだよ。もう会ってたのか、つかこっち来てんなら連絡くらいしろってのに。……そうだよ、あたしらはあいつの娘だな」
「あたしら……ってことはあっちのルルーシュも?」
「そうだ、直接血は繋がってはねえけどな。あたしもルルも親父に命を救われ、拾われてんだよ。ちなみに親父はかなり強えぞ? あたしとルル、アイシャにヤエが一緒に戦っても勝てる気がしねえな」
聞き覚えのない名前が出てきたけれど、アクトは他の仲間たちなのだろうと想像することにした。
そんなことよりも、アクトの脳は、ミーシャが仲間と組んで戦ってもジェーンには敵わないという言葉の意味を掴めずにいた。
どれだけ遠いのか、そしてその遥か先にいる者たちでさえ竜の力には届かないの、かと。
普通の者であれば、ここは絶望してしまってもおかしくはない。
しかし、アクトの心に絶望という言葉はない。
それが、アクトの良いところであり、アクトらしい部分なのだ。
そして、現時点でアクトがどれだけ上を見上げても、自身の力量は変わらないのだ。
人を羨んでばかりでは、何も進まない。
そういう意味では、ミーシャの言葉は核心をついていた。
知って覚えて試して考える。
ミーシャはかなり端折って説明していたようだけれど、これはどの分野においても言えることなのかもしれない。
まず、目の前のことを知る。
客観的に、主観的に。
次に、その事象を言語化し、自分の中に落とし込む。
自分以外の誰かに説明できるレベルになるまで。
更に、それに対し、自分にできることを試していく。
自分だったらどうするかではなく、自分にできることは何か。
最後に、それらを踏まえて、何を学ぶのか、何を学んだのかを思考する。
そして、また新たなことを知るのだ。
それを繰り返すことで、人は一歩ずつ前に進むことができる。
アクトに限らず、誰にだってその行程を歩むことはできる筈なのだけれど、それが実行できる者は、実のところ多くはない。
一度や二度であれば、その成長の歩みは味わえるかもしれないけれど、それを何度もとなると、どこかで辞めてしまうのだ。
それは、満足という言葉かもしれないし、妥協や挫折という言葉の方が近いのかもしれない。
成長することは簡単かもしれないけれど、成長し続けることは非常に難しいのである。
「アクト、お前は何の為に戦う? 誰の為にその剣を振るう?」
「何の為……竜と戦ってみたい。俺の生まれた村はさ、かなり田舎でさ……ゴブリンとかフォレストウルフ程度の魔物しかでなかったんだけど、子どもの頃、竜にまつわる話を聞いて心が躍ったんだ。世界を支配する悪き竜を倒す勇者、そんな存在になってみたい。子どもみたいな馬鹿な夢だけど、どうしても忘れられないんだ。今は全くその土俵にいないことはわかってんだけど、いつかはその場所まで行くって決めてんだ」
「……へぇ、なるほどね。じゃあもっと強くならねえとだなっ」
「ああ、ミーシャにもすぐ追いついてやるよ」
「くくく、良いね良いね。まずはあたしに一太刀入れてみな」
「ああっ!」
アクトとミーシャはもう一度距離を取り、アクトは剣を構え、ミーシャは構えない。
そんな二人を離れた所から呆れた顔で観察する二人。
「本当、好きだよね。ミーシャはさ、ああやって世話焼くのに命かけてるっていうか、お節介が過ぎるっていうか……。はあ、まあこっちもボチボチ始めよっか」
「なんかすみません。でも、よろしくお願いします」
その二人とは、もちろんマリアとルルーシュなのだけれど、こっちはこっちで奇妙な空気感だった。
「魔法、聖属性って言ってたよね。……んー、まあいいや。うちに撃ってみて、何でも良いから」
「え? でもルルーシュさんって吸血鬼なんですよね?」
「ん、大丈夫。今のマリア程度なら何ともないから」
「……っ、そうですか」
ルルーシュは宣言通り、そして奇しくもミーシャと同じように構えることなく、マリアの魔法をただ待った。
その姿勢は、マリアを侮辱するものでしかないけれど、マリアに文句を言うつもりはない。
なぜなら、マリアは大まかにルルーシュの力量を分析できていたからである。
「ほら、反撃も防御もしないから。……早く」
「い、いきます! 【ホーリーアロー】」
圧倒的強者に教えを乞う時、手加減をする余地など存在しない。
どれだけ無防備だろうが、見た目が自分よりも幼く見えようが。
マリアにだって、そんなことはわかっている。
手加減をしたつもりなどない。
今の自分にできる最大の火力で、魔法を放ったのだ。
しかし……。
「うん、おっけ。だいたいわかった」
「……当たり前のように無傷なんですね」
マリアが放った六本の聖なる矢は、確実にルルーシュに着弾していたけれど、微塵もダメージを与えられていないという結果だけがその場に残った。
「マリア、魔法好き?」
「え、魔法ですか?」
「うん、魔法」
「好きだ……と、思います。お母さんも回復魔法師でしたし、小さい頃から魔法に触れてたから……」
「魔法ってさ、結局は想像力なんだよね。魔力の量とか質とか、差を生み出す要素ってのはあるけどさ、それを覆すには想像力しかないんだよ。【ホーリーアロー】ってさ、聖属性の魔力を、矢に変換して撃ち出す魔法だよね。なんで矢にしたの?」
「想像力……、どうして矢にしたのか……」
ルルーシュが言っていることは、マリアにも何となくわかってはいる。
村にいた頃も、魔法について勉強している時、同じような疑問を抱いた記憶があるからだ。
どうしてわざわざ矢を形成して飛ばすのか、どうしてもっと簡単で強い魔法がないのか、と。
しかし、マリアはそこで思考を辞めてしまったのだ。
まだ幼かったという理由が、かなり大きいのだけれど、想像力という分野において、子どものそれは本来凄まじいものだった筈なのだ。
アクトが自身の単純な技に大層な技名を付けて使用しているのも、半分呆れながらも、マリアにとっては羨ましかった。
「まあ、いいや。じゃ、矢は何本出せる?」
「えっと、多分二十くらいです」
「多分、二十、くらい、ね。まずはそこからだね。自分の最大値、まあ限界を知るところから始めますか」
「は、はい」
「じゃあ、出せるだけ出して」
「はいっ!」
先程のミーシャの指導と似てはいるけれど、ルルーシュのそれは本人の性格が多分に滲み出てしまっている。
現在地を知るということ、それは正しい。
しかし、その目的を明確に伝えていないのだ。
それは、概ね面倒臭かっただけなのだろうけれど、ルルーシュはその辺を改善するつもりは毛頭ない。
ミーシャが言っていた。
強くなりたいと思っていない、……それでも強い。
ルルーシュは紛れもない天才だったというわけだ。
「一、二……十三……、二十七。それが限界?」
「っはい、これ以上は……」
「ん……いいよ、魔法解除して。おつかれさま、でさ、二十七本あったけど?」
「え、はい。でも実践ではこんなに出すことはないので……」
「……だから、二十くらい出せれば良いってこと? それさ、あの子が死にかけててもおんなじこと言える?」
「……」
ルルーシュは大抵のことを面倒臭いで済ませ、殆どの行動をしないという選択肢をとってしまう。
そのことで日常的に、ミーシャに叱られ追いかけ回されているのだけれど、こと戦闘に関してだけは、ミーシャはあまり口出ししていない。
その理由は簡単である。
ルルーシュの選択は合理的かつ最適解なことが多いからだ。
面倒だからこそ、最小限の労力で最大限の成果を出す。
それは、何もおかしな思考ではない。
「マリア、うちはさ、大体のことが面倒なんだよね。戦うことも別に好きじゃないし、強くなりたいとか思ったこともないかな。でもさ、どんだけ面倒なことでも、どんだけきついことでも、家族を失うことに比べたらどうでもいい。うちが戦う理由は、自慢できるようなもんじゃないけどさ、絶対に譲れないとこだけは死んでも護る。だからうちは敵に容赦はしないし、情けもかけない。マリアの魔法は、何をしたいって言ってるの?」
「……私の魔法。……ルルーシュさん、改めて稽古お願いします! 私はアクトを守りたい、心配されて守らなきゃいけない存在でいたくないです。背中を預け合うような関係になりたいです」
「……そ、わかった」
「はい、よろしくお願いします」
「ルルでいいよ、ルルーシュさんって長いし」
「じゃあ、ルルさんで」
「ふふっ、まあいいや。じゃあ、とりあえず一個質問。どんな状況も覆せるような馬鹿みたいな規模の魔法を一つ覚えるのと、どんな状況でも対応できるように引き出しを増やすのと、どっちがいい?」
「引き出しを……増やしたいです。アクトは竜と戦うのが夢だから、その時に隣で一緒に戦いたいんです」
「竜を……ね。そっか」
竜という言葉を聞いた瞬間、ルルーシュの反応はミーシャのものと似たものとなっていたのだけれど、ルルーシュは認めないだろう。
その少し期待が滲み出たような、楽しそうな笑みだ。
「竜程じゃないけど、うちと闘ってみる?」
「え、ルルさんとですか? 私攻撃魔法殆ど持ってないですよ?」
「さっきも言ったけど、それ禁止ね。守りたいんでしょ、そんなこと言ってられない状況はいくらでもあるよ。うちも一個の魔法だけでやるから……闇属性だったらマリアに有利だし、それでやるからさ。ほら、始めるよ」
「は、はい! よろしくお願いします」
直後、二人は同時に魔法を展開する。
マリアは【ホーリーアロー】を、ルルーシュは闇属性の魔力を球体に凝縮したものを形成して行く。
魔法は、一般的に詠唱し展開を始め、発動するという流れになる。
マリアが魔法の発動前に【ホーリーアロー】と詠唱するのは、必要な手順だからである。
しかし、熟練した魔法使いはその詠唱を丸ごと短縮する。
無詠唱と言われる高等技術である。
ルルーシュは詠唱を一切しない。
吸血鬼という種族の、魔法に対する練度がそもそも高いというのもあるけれど、ルルーシュ本人はそんな背景がなくとも無詠唱に至っていただろう。
そうすることが、そこに至ることが、目的を果たし続けるのに必要だと理解しているからである。
魔法の発動は、ルルーシュの方が数段早かった。
たった一個の魔力球が一瞬で無数の球体に分裂し、ルルーシュの周りに浮かんでいる。
ルルーシュが発動させた魔法は、ベースは一般魔法の【ダークボール】というものに過ぎないのだけれど、そこに尋常じゃない魔力を注ぎ込み、さらにはルルーシュのアレンジが加わっている。
結果、マリアは見たこともない物量の、見たこともない魔法に圧倒されてしまう。
マリアの【ホーリーアロー】は僅か十五本、素人が見ても、勝負は見えている。
属性の有利不利なんか、関係ない。
魔法を発動した時点で、勝負が確定してしまったのだ。
「ルルさん、参りました」
「ん、そか。じゃあこれはもういらないね」
ルルーシュの周りの球体は、跡形もなく霧散していく。
マリアは、その光景にまたしても驚愕する。
一度発動した魔法を完全にキャンセルするには、発動よりも魔力を必要とする上に、暴発しないように細心の注意が必要なのだ。
それをいとも簡単に実行してみせたのだ。
マリアもゆっくり慎重に魔法を解除していく。
解除が終わる頃には、ルルーシュがすぐ側まで来ていた。
「マリア、一応聞いとくけど、なんで撃たなかったの?」
「えっと、勝てると思えなかったからです。それに、一つ一つの球に込められた魔力が、私の魔力を全て注いだものよりも大きいように感じたからです」
「んー、まあそれはそうなんだけどさ。試しに撃ってみたら良かったのに。別にこれは殺し合いじゃないわけだし、うちも無駄に痛めつけたりしないから。遠慮せずに、どんどん試したら?」
「……はい」
「今回のクエスト、マリア一人で全部やるんだからね? 忘れてないよね?」
「はい、もちろん」
ミーシャとルルーシュの稽古は、アクトとマリアにとって新鮮であり、かなり効果的だった。
実践的でありつつ、理論的に説明がある。
それはかなり恵まれた環境なのだ。
成長の機会は、不平等に訪れる。
その限られた機会を活かすかどうかは、その者次第である。