第十七話 冷たい庭園(2)
いったい今日は何だというの?!
両陛下には私の恋心を知られ、予想外にホーク助手に会い、そして絶対にいるはずがないと思っていたアルバートがここにいる。
さっきから衝撃の連続で心臓が止まりそう。でも、それよりなにより――。
(かっ、こいい……!)
私の目はアルバートの姿に釘付けだった。
普段の彼とまるで違う。いつもは下ろしているはずの前髪を全て後ろに流し、細い眉と切れ長の目がはっきりと見える。ダークブラウンのタキシードは色味が絶妙で、色白な彼の輪郭をぴりっと引き締めていた。さらには寸法もぴったりで、その長身が際立って見える。
華美ではないけれど、とても上質でセンスの良い着こなしに思わず息を飲んだ。
(ああもう、心臓がうるさい……!)
ドキドキするのは、私が彼を特別視しているから? ううん、違うわ。恋は盲目とはいうけれど、彼がこんなにも魅力的に見えるのはそのせいだけじゃない。今のアルバートは、誰が見ても胸をときめかせるはずだもの。
その服は今夜のために誂えたの? だとしたら、誰のために?
色々なことが頭をぐるぐると駆け巡って言葉が出てこない。黙ったままその姿を凝視していると、彼が急にこちらに視線を向けた。
「っ!」
掴まれた心臓がもう一度ぎゅっと押しつぶされる。寒いはずの屋外で、体温が上がるのを感じる。
思わず瞳が潤む私とは逆に、アルバートはグレーの目を苦々しげに細めた。その眼差しに、今度は別の意味で胸が苦しくなる。
(どうしてそんな顔をするの?)
お願いだから、そんな目で見ないで。あなたに嫌われたら、私は――。
震える唇をぎゅっと噛み締める。
そんな私から目を離し、アルバートは眉間にしわを寄せたまま今度はホーク助手に顔を向ける。しかしその鋭い眼光を受けてなお、ホーク助手は余裕の表情を崩さなかった。
「先生、いくら学園の外とはいえ、女生徒と二人きりになるのは良くないんじゃないですか」
紡ぎだされる言葉がひどく重々しい。アルバートが心底怒っているのが伝わってくる。進言を受けた方のホーク助手はまるで悪びれる様子もなく、ふふっと笑い声を立てた。
「まるで僕がサリバン君を中庭に引き込んだみたいな言い方をするね。先客はこっちなのにひどいじゃないか」
そう言って胸元から金属製の小さなケースを取り出す。そこにもうすっかり火の消えた煙草を入れ、蓋を閉じると慣れた手つきでそれをまた懐に入れた。その後、ひどく険のある目つきをアルバートへ返した。
「僕はね、今夜は学園の人間ではなくホーク家の代表としてここに来ているんだ。チェイサー君に文句を言われる筋合いはないよ」
「……っ」
言い返されたアルバートは悔しそうに歯噛みする。
確かに、今夜は陛下の即位二十五周年の祝賀会だ。私たちは各家の代表として参加しているのであって、私とホーク助手がここにいることを彼に咎められる謂れはない。
でも。
ほんのわずか、私の中にある期待が頭をもたげた。これって、ひょっとして。
「たとえそうだとしても、彼女に触れようとしていたことを見逃すことはできません」
これってまるで、アルバートが私とホーク助手に、し、嫉妬してるみたいじゃない? い、いえ、嫉妬は言い過ぎかもしれないわ。でも、少なくとも私のことを案じてくれているように思えるのは気のせいじゃないわよね?
指先がそわそわとむず痒い。彼に厚意を向けられたと思うだけで、じわりと甘い何かが胸の奥からにじみ出る。
(どうしよう、嬉しい)
ひとりふわふわした気持ちでいる私とは反対に、アルバートとホーク助手は互いに睨みを利かせている。
「まだ触れてもいないのに、どうして触れようとしていたなんてわかるんだい? そんなつもりなかったかもしれないじゃないか」
「……まさか、そんな言い訳が通用するなんて思ってないよな?」
アルバートの口調が乱雑さを増したことで、先ほどまでの浮かれた気持ちが現実に引き戻される。
まずいわ。本気で怒っている。
ホーク助手はあれでも学園では目上の人間だし、まして西国ノルストの重要人物かもしれない。アルバートが彼と揉めていいことは一つもないはず。
諍いを止めようと一歩踏み出したのと、可憐な声が響き渡ったのは同時だった。
「アルバート様? 急にいらっしゃらなくなるからどちらに行かれたかと……」
王宮の中から現れた女性を見て、一目で誰だか理解した。
ローゼ・バルドー公爵令嬢。バルドー夫人の愛娘で、クラークの従妹にあたる令嬢だ。
「ああ、ローゼ嬢、すまない」
彼女を振り返って、アルバートが言う。その後ろ頭を愕然と見つめることしかできなかった。
(まさか、彼女と一緒に来たの?)
信じたくはない。けど、アルバートの視線の先には柔らかく笑うローゼ嬢がいる。深窓の令嬢である彼女が、パートナーでもない相手にむやみやたらに声をかけるわけがないわ。
私は絶望にも似た気持ちで二人を眺めた。
実際に会うのは初めてだけれど、ローゼ嬢は噂に違わず美しい少女だった。
流行りのドレスが似合う、スタイルのいい体つき。母親譲りのプラチナブロンドが、その柔らかそうな胸にゆるりと沿って流れていた。
白く陶器のような頬は、ほんのりと紅く染まっている。ミルクに薔薇の花びらを浮かべたよう、とはどの本で読んだ表現だったかしら。まさに彼女のための言葉だわ。
ほほ笑む唇が綺麗な弧を描いていて、優しい桃色の口紅がこれ以上ないくらい似合っていた。
それを目にして、急に自分に引かれたリップの色が恥ずかしくなった。こんな色私には合わないのに、どうして選んでしまったのかしら。
思わず口元を隠して下を向くと、小鳥のさえずりのような声が再び庭園に響いた。
「まあ、お話の途中だったのですね。気づかずに失礼いたしました」
「いや、勝手に席を離れたのは俺……私の方だから、謝る必要はないさ」
アルバートの言葉の端に、紳士たらんとする様子が感じられて顔を上げられない。どんな顔でローゼ嬢に笑いかけているのかなんて、考えたくもなかった。
それなのに、追い打ちをかけるようにホーク助手の揶揄う声が耳に届く。
「へえ、チェイサー君も隅に置けないね。そちらのご令嬢は、かのバルドー家の秘蔵っ子だろう?」
「ホーク先生、そういう言い方はやめてください。彼女に失礼でしょう」
いくらか冷静さを取り戻したのか、アルバートは若干丁寧な言葉遣いに戻っていた。それでもまだその声音には棘々しさが残っている。
「それに、俺が誰をエスコートしようとあなたには関係ないでしょう」
それは、ホーク助手に向けられた言葉だった。なのに、自分に言われたかのように胸に突き刺さる。足が震えそうになるのを必死にこらえていると、遠慮がちにローゼ嬢が口を開いた。
「あの、アルバート様? もしよろしければ、ご紹介いただけないでしょうか」
「ああ……こちらはテルツァ・ホーク氏。農学のアンダーソン教授の下で助手をなさっている」
「はじめまして、ローゼ・バルドーと申します。お会いできて光栄です」
「こちらこそ。君のような麗しい令嬢にご挨拶できて僥倖です」
ホーク助手が如才なく彼女の手を取り、うやうやしく口づける気配がした。
もうこのまま終わりにしてほしいと願ったけれど、そんなわけにいかないことは自分でもよくわかっている。案の定、アルバートは次に私の名前を口にした。
「そして彼女はサリバン侯爵家のアメリア嬢だ」
足元に落とした視線をゆっくりと上げれば、女神のような笑顔のローゼ嬢と目が合った。
「アメリア・サリバンです。お会いするのは初めてですわね」
「はい。サリバン様には一度ご挨拶したかったのでとても嬉しいです」
真っ直ぐ向けられた瞳には少しの曇りもない。心からそう言っているのが伝わってくる。
ああ、彼女がマリー・コレットのような性悪だったらどんなにかよかったのに。もしくは彼女の母親のように、敵意をぶつけてくれればこちらもそれなりに対応できるのに。
純粋に向けられた好意に対抗する術を、私は持っていなかった。
「……そう言っていただけるなんて、身に余る光栄ですわ」
私の返事に、ローゼ嬢は嬉しそうにほほ笑む。その可憐な動作の一つひとつが、私の劣等感を刺激する。次の言葉が出てこなくて、ぎこちない笑顔を張り付けたままその場に立ち尽くすほかなかった。
少しの間の後、ホーク助手が口を開いた。
「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。いくら小国貴族の三男坊とはいえども、陛下にご挨拶しないわけにはいかないからね」
急に人畜無害な顔になった彼は、手をひらひらと振ってその場を後にする。それを見送ると、アルバートはそれまでホーク助手に見せていた不機嫌な顔をこちらに向けた。
「サリバン嬢、独りの時にホーク先生には近づかないように言ったはずだが?」
そんなこと言われただろうか。確かに、独りでアンダーソン教授の部屋を訪れるなとは言われたけれど、ホーク助手に近づくなとは言われなかった。それに、それを言ったのはアルバートではない。クラークだ。
ふつふつと、怒りにも似た感情が湧いてくる。なによ、後ろに可愛い令嬢を連れておいて、私に意見するっていうの?
彼の後ろで心配そうにこちらを見つめるローゼ嬢も、何もかもが気に食わない。
「アルバート様には関係ないでしょう? 私のパートナーはクラーク様ですから」
絞り出すように言うと、ほんの僅か、アルバートの目が見開かれたような気がした。でもそれを真正面から見据えることはできなくて、私は目を伏せるとその場を足早に離れた。
「……失礼しますわ」
その声がアルバートに届いたかはわからない。彼からの返事はなかった。
「アメリア」
室内へ戻ると同時に、名前を呼ばれる。声のする方を見れば、クラークが壁際に寄りかかって私を待っていた。
「もう帰ろうか。送るよ」
ひどく優しい声が、涙腺を刺激する。
だめよ、この人の前で泣いたりなんかしたら。アルバートのために流す涙を彼に見せてはいけない。
目頭が熱くなるのをこらえて視線をくっと上げると、クラークは仕方のないものを見る目つきでほほ笑みを浮かべてそっと手を差し出す。
躊躇いながらもその手を取り、私たちはそろって帰路についた。





