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心の病

作者: 水風鈴

 無機質なアラームに僕は目を覚ました。 布団から出て目覚まし時計の頭をバンと叩き、そのままの足でリビングへ向かう。親は仕事が朝早いため、もう家にはいない。リモコンのボタンを押すと数秒後、真っ暗な部屋にテレビの明かりだけが広がった。カーテンを開ける気力は起こらず、そのままちゃぶ台の前に胡坐をかくと、机の上に転がっていた菓子パンを口に放り込んだ。パサパサのパンはロの水分を一気に奪ったが、冷蔵庫に飲み物を取りに行くことすらも億劫で、そのままテレビに目を遣った。テレビでは神社が特集されており、画面に映ったのはちょうど僕が住んでいる町の神社だった。だからと言って僕が表情を変えるということはなく、じっとテレビを見る。見る、 というより、眺めるという表現の方が正しい。

「こちらの神社は神使が『青鷺』という大変珍しい神社となっており、ご利益は病気平癒で、 特にうつ病など、「心の病」に効くという事です。」

 新人女性の必死のリポートも僕の心に響くことはなく、お前がうつ病じゃないからそんな事言えるんだ、 と心の中で一蹴した。

 僕は菓子パンの最後の一口を食べ終えると、 リビングの時計で時間を確認した。 すばやく制服に着替え、 空のバッグを持って玄関を出た。外に出た瞬間、初夏特有の蒸し暑さが、全身にまとわりついた。遠くで蝉が鳴いている。 チッっと一回舌打ちをした後、僕は駅に向かって歩き出した。


 僕は多分うつ病だ。まだ外出ができるだけましな方ではあるが。

 今年の四月、中学三年生になると、 学校で僕へのいじめが始まった。もともと僕は要領が悪く、人の反感を買うことが多かったので、いじめの対象にしやすかったのだろう。今までいじめが無かった方が奇跡なのかもしれない。

 一度学校を遅刻したことがあった。それ以降リーダー格の男子に目を付けられ、いじめが始まった。遅刻、たったそれだけの理由でいじめが始まるのか、と思うと怖かった。

 いじめは、担任にも見て見ぬ振りをされた。アンケートに書いても反応はなかった。僕の通う中学校は田舎故にークラスである。担任に隠蔽されたら、もうどうすることもできなかった。僕のために一生懸命働いている母に、いじめられているなんて相談できる訳なかった。だから、精神科にかかったことはない。よって、うつ病と診断されたことはない。 でも多分、 いや、 ほぼ確実に、これはうつ病だ。

 今日から七月。季節は夏になりつつある。しかし、いじめは止むどころか、 気温の上昇とともに徐々に過激化していった。昨日、 休み時間にトイレから帰ると、 机の中にある全ての教科書の表紙に落書きがされていた。僕は教科書を持ち帰ったことで母に落書きが見つかるのを恐れ、教科書類は全部ロッカーに置いてきた。だから今日のバッグは空なのだ。中に何も入っていない、その軽さに、 自分の不甲斐無さを感じ、 心の傷をえぐられながら、今日も僕は駅へと向かった。

 僕が使う駅は田舎にある、ローカル線の無人駅である。電車の本数は少なく、始業に間に合うのは七時十五分発の一本だけ。

 ホームの時計を確認する。電車が来るまであと七分。この時間、 僕は、今日これからの学校に絶望し、線路を見つめてボーっとする。。

 線路……何度も自殺を考えたことはあった。しかし、自殺を考えるたび、 母の姿が脳裏をよぎる。母のことを考えると、死ぬことなんてできなかった。母を悲しませるようなことだけは、 したくない……

 顔を上げると、目の前にはこれぞ田舎というような田園風景が広がっていた。今の季節は稲や果樹などの作物と、右手に見える小さい山のそれぞれの緑色で、一面が支配されていた。 しかし、この景色を美しいと感じる心が、僕にはもう残っていなかった。

 無感情でその風景を眺めていると、ちょうど正面の水田の隣にある果樹園の木が、一か所だけ揺れているのを見つけた。それと同時に、どこか苦しそうな、何かの鳴き声らしき音が耳に届いた。

 よく見ると、鳥が果樹に掛けられた防鳥ネットに絡まってしまっているらしい。

 木が揺れる中で、灰色の羽が見えた。どうやらカラスではない………周りには誰もいない、どうする、助けに行くか、と考えたところで、再度ホームの時計に目に遣る。あと四分。鳥を解き放つだけなら間に合うだろうと踏んで、僕はさっき通った改札を出て、駅の少し先にある踏切を渡り、向かいの果樹園へと向かった。

 畦道から果樹にかかっているネットを少し手繰り寄せると、ネットに絡まっている鳥が姿を現した。何の鳥かは分からなかったが、かなり大きかった。苦しそうな声を上げながら、必死にもがいている。 僕は学校のバッグを横に置き、絡まったネットを両手でほどき始めた。かなり暴れたのだろうか、予想以上にネットは複雑に絡まり合っていた。 なかなかほどけず、もどかしい。鳥も元気をなくし、鳴くことも止めてしまっている。

 そうしてネットと格闘しているうちに、電車が定刻通りに駅に入ってきてしまった。急がないと、踏切が下がって電車に乗れなくなってしまう……

 僕はネットから手を離し、学校のバッグを抱えて鳥に背を向けた。ごめん、と心の中でつぶやく。ついに踏切が鳴り始めた。あの踏切が渡れないと、学校に遅刻してしまう。 遅刻したらまた……そう思うと背中がぞっとして、底知れない恐怖を感じた。僕は必死になって駅へと走り出した。

 しかし、走り始めた瞬間、 背後で鳥の激しい鳴き声が聞こえた。喰り声と言った方が正しいだろうか、とにかく、振り返らずにはいられない、哀しく辛い声だった。最後の力を振り絞ったような、そんな声だった。僕の体は判断に戸惑って、 迷いに迷った結果、 駅に背を向け、鳥のいる方へと走り出した。自分でも意外な判断だった。

 バッグを投げ捨て、 ネットをほどく。なぜ学校ではなく鳥を選んだのか、 それは僕にもわからなかった。理由なんて、 無かったのかもしれない。

 取り掛かってすぐ、ネットは案外簡単にほどけた。鳥を傷つけないよう慎重に抱きしめてネットから取り出すと、まだ鳥は力を残していたらしく、自分の足で地面に立った。

 僕はとっさに振り返り駅の方を確認すると、 電車はすでに発車して、踏切を渡っているところだった。ついに、電車に乗ることは、出来なかった。

 視線を駅から鳥に戻すと、 その大きな鳥が僕をじっと見つめていることに気付いた。 首を少しかしげながら、こちらを凝視している。それに対し僕は少し畏怖を感じながらも、 どこか怪我はしてないだろうか、と鳥の全体を見渡した。すると次の瞬間、鳥は駆け足で僕の横に走ってきた。うわっ、とびっくりしたのも束の間、鳥は僕の学校のバッグをくちばしで掴むと、 少し飛んで、隣の水田に投げ入れてしまった。

「お、おい……それ…………」

 きれいに着地してこちらを振り向いた鳥は、どうせ中身無いんだからいいでしょ、とでも言いたそうな満足げな表情で、また僕を見つめてきた。そして僕と目が合うと、次は嬉しそうに、羽をバサバサさせた。僕は呆れて笑うことしかできなかった。

「あのさあ……学校行けなくなっちゃったじゃん」

 ははは、と笑いながら僕がそう言うと、 鳥は、 僕でも分かるほど嬉しそうな声で、立派に鳴いた。

 そしてそのまま羽を大きく羽ばたかせたと思うと、 とても愉快そうに空を舞った。その美しい姿に、僕は感嘆するしかなかった。 その大きな鳥はもう一度元気よく鳴くと、 美しい翼を上下に動かし、右の山の方に向かって、 まっすぐ飛んでいったのだった。

 鳥が飛んでいくと、周辺は静寂を取り戻した。あっという間の出来事だった。

 山の方から蝉の声が届く。初夏の風に、稲同士の擦れる音が心地よい。 遠くから、 電車の警笛が響いた。いつもは車内から聴いているその警笛は、いつもより幾分だけ特別に思えた。

 学校なんてどうでも良くなっていた。 全てが吹っ切れた感じがした。理由は分からない。 ただ、気持ちよくて仕方がなかった。 いじめで苦悩していた僕が、 馬鹿らしくなってくる。無理して学校に行っていた僕が、 馬鹿らしくなってくる。 今は全てが清々しい。今までに感じたことの無いような最高の気分で、 僕は、 大きく羽ばたく鳥の姿を追っていた。あの鳥に出会っていなければ、 僕は今日も学校に行き、 いじめを受けていただろう。あの鳥に出会っていなければ、 こんな清々しい気持ちにはなれなかっただろう。 あの鳥に出会っていなければ…人生を無駄にしていただろう。

 感謝の気持ちを抱えながら、僕は、 姿が見えなくなるまで、 鳥を見送っていた。鳥は気持ちよさそうに、山の方へと飛んでいった。

 ふと、鳥が帰っていく山の先に、 小さな、 赤い鳥居を見つけた。

「あんなところに神社なんてあったのか 」

 そう僕が咳くとちょうど、飛んでいるあの鳥は、その赤い鳥居をくぐり抜け、 山の中へと姿を消した。

 僕は何となく、 神社の方角にー礼した。 何に対する礼なのかは、 自分でも良く分からない。 お辞儀から顔を上げると、 緊張がほどけたのか、 疲労が一気に押し寄せてきた。 そんなに疲れるようなことをしただろうか……まあいいや、 と僕は一回深呼吸をした。そして、しっかりとした足つきで、家の方へと歩き出した。学校のバッグのことなど、忘れていた。

 僕は歩きながら、考えていた。あの鳥は何だったのだろう……今度あの神社に行ってみよう……と。

 その時ふと、ある考えが頭をよぎった。僕は思わず、口角を緩ます。 なるほど、そういうことだったのか……

 僕は、今までで一番の笑顔をしながら、一言、こう咳く。

「青鷺……神様……ありがとう」

 その言葉を発した時、僕の「心の病」は、完全に治ったのだった。

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