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風詠と蟲姫  作者: 彩ぺん
序章

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セリムの好奇心

胞子を目で追った。


綿毛のように柔らかそうだ。水分をたぶんに含むからべたつくに違いない。だがセリムがそれを確かめるには肌を腐らせなければならない。痛みで感触に集中できず、苦しむことになるだろう。永遠に叶わない夢。


ましてや蟲森を生身の体で歩くことなどそれこそ叶うことのない夢だ。


染色液が水中に滲まなくなったのを確認して染色籠を引き上げた。籠を振って水気を切る。鏡検ガラスを一枚一枚染色籠から取り出して机の上に並べた。最後の一枚を手に取ったとき研究室の扉が勢い良く開いた。


「セリム!」


 窓の向こうで毒胞子が遊ぶように漂う。ラステルはこの中をも自由に歩けるのだろう。それが羨ましくてたまらない。飛び込んできたのはパズーだった。表情からして怒っているのは明白だ。


「悪かった。無茶な頼みをしてライトさんを怒らせる……」


「そうじゃなくて、テトと結婚するって本当なのかよ!」


 詰め寄られてセリムは肩を竦めた。


「何の話だ?」


 身に覚えのない話に首を傾げる。パズーは何度か瞬きしてから大きく息を吐いた。そしてそのまま座り込んだ。


「なんだ、違うのか。」


「一体どこからそんな話を聞いたんだよ。」


「ケチャ姫様がそういう話をしているって小耳にはさんで。」


 もう一度ため息を吐くとパズーは頭を掻いた。


「避難生活になると噂話ばっかりだからな。姉さんが僕も早く伴侶を迎えて欲しいとか話して、それに尾ひれがついたんだろうな。前もそんな話あっただろう?」


「そうか。」


 外と完全に隔絶した状態になると普段の仕事は中止されあらゆることを分担して行う。崖内部の大広間に人が集まれば、自然と会話が増える。


 前回の時は城でセリムの嫁候補を募集するという話で、色々と面倒な事態になった。セリムは今回も似たようなものかと思わず苦笑いした。


「だいたい友達が惚れてる子といきなり結婚とか、そんな酷いこと出来ないよ。」


「それは、そう思ったけど……。万が一って。仲が良いしさ。」


 拗ねたような表情でパズーが呟く。セリムは可笑しくて笑った。


「それはパズーが。」


 セリムは途中で言葉を切った。自分が言ってはいけない台詞だと思ったからだ。これは二人の問題であり当事者ではないセリムが肝心なことを話してはならない。


「なんだよ」


「たまには顔見せに行けよ。家、隣なんだから。」


 自宅の隣にテトの家の農場があるというのにパズーは全く顔を見せに行かない。セリムが農場に羊毛のフェルトを使った防護服用の靴や服の製作や修繕を依頼するたびにテトは尋ねる。


 パズーは元気?どうしてる?


 つまりそういうこと。


「なあセリム、お前はそういうのどうなんだよ。」


「なんだよ、急に。」


 そういう話を振ってくるのは初めてだった。パズーがテトに好意を寄せているというのも四年ほど前に一言聞いただけだった。


「一人前になったら求婚する。」


 あれは物凄く驚いた台詞だった。後にも先にもそういう会話をしたのはあれきり。


「伴侶か、僕は……」



 若い女の笑顔が浮かんだ。肖像画でしか知らないあどけなさの残る母の顔。


 命を賭してセリムをこの世に生誕させてくれた、会うことの叶わなかった母親。


 アスベルにより薬がもたらされ、それを更に研究しているとはいえ、出産には危険が伴う。


 蟲森に頻繁に出入りする自分の伴侶となれば、普通の女よりもその身に毒を受けるかもしれない。


「まだ覚悟できない。それに蟲森遊び盛んな僕の元に本気で嫁ぎたい女はレストニアには居ないさ。」


 努めて明るい声を出したが少し上ずっていた。パズーは一瞬だけ眉を顰めたが何も言わずに立ち上がった。


「そうか。」


 深層にある自分でもうまく咀嚼できない感情を、うわべだけ取り繕われるのは嫌だった。そもそも悩みというのは自力で乗り越えるものだ。迷いを払拭して決断するのも己であろう。


「難儀な性格だなあ。」


 おどけた口調でセリムの肩を叩くとパズーはくしゃっと笑った。丸くて大きな鼻にきゅっと細くなった目は猫みたいで和んだ。セリムも相槌をうって思いっきり笑った。


「これ何だ?」


 パズーは机に広げてあった手書き地図に視線を落とした。セリムが踏み入れた蟲森を描いたものだ。


「何って前から知っているだろう。」


「そうじゃなくて、これだよ。」


 パズーが指を刺したところには小さな人の形が書き込んであった。丸と十字だけの雑な絵だ。今日会ったラステルの姿を無意識に書いていたのかもしれない。冷や汗が背中を伝う。


「それは。」


「また発見したものを持ち込んでいるなんてないよな!」


 慌てて口を手で塞ぐと、その仕草に気が付かずにパズーは周囲をゆっくり観察した。セリムは思いっきり首を振って否定した。


「もうしないって。それは目印なだけさ。」


 さりげなく嘘を吐く。落ち着いて考えればパズーが蟲森に人がいるという発想に至るわけがない。誰もそんなこと考えない。一人安堵していると、信じられないという顔つきでパズーが吐く真似をした。


「もう絶対に勘弁だからな。」


 半年程前に発見した森芋(仮名)を説明しないまま食べさせたのを未だにパズーは恨んでいる。よく成分を調べて、研究に研究を重ねて安全だと判断した。最初に口にしたのは当然セリム自身だ。


 パズーにシチューにして振る舞い、 美味しいと言ったのに芋の原産地を話したら大目玉だった。国で育てている丸芋とあらゆる検査結果が同一で、かつ蟲森でも育つ毒への耐性があると分かったのにパズーは受け入れてはくれなかった。


 先に話せと注意されたが、説明したとしても拒否するのは明らかだったのでと言い訳しても自分勝手な行いだったことは事実なので反省している。


「僕だよそれ。花の目印なんだ。」


「花?蟲森に?」


 まったく信じていないパズーにセリムはふんっと鼻を鳴らした。蟲森にだって花は咲く。国では見れない不思議な形をしたものだが花は花だ。


「咲くんだよ。」


 もう一度言ってからそもそも印はラステルの事を書いたのだと思い出して、なんだか恥ずかしくなった。花みたいな愛らしい笑顔が浮かんできてどんどん顔が熱くなる。パズーはむきになるなと言って呆れ顔で呟いた。


「ほんと好きだな、蟲森。俺はもう2度と見ないで死にたいね。あの化物の森。」


 そこに再び人が飛び込んできた。


 姉のケチャだった。入ってきたと同時に叫んだその台詞でセリムとパズーは顔を見合わせた。


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