破滅回避の伝承を信じる男
強風は穏やかになっていた。セリムの目の前に息を飲むほど美しい白銀の世界が広がる。真っ白な雪原の地平線に並ぶ紅の旗、テント、そして飛行船と飛行機。あれらが無ければより壮大で美麗な景色だろう。
「俺たちのおおよその作戦は理解したか?」
「ああ」
丸腰のティダに対してセリムは重装備。滑稽だなと自虐の笑みが零れた。
「何笑ってる。本当に妙な男だな」
隠さずに呆れを全身で表現するとティダは歩き出した。
「ティダはペジテ大工房の前に全裸で現れたと聞いている。今も丸腰。僕とは大違いだなと思って」
ティダがフンった鼻を鳴らした。好戦的で気位が高い皇子はセリムと仲良くするつもりは無いようだ。セリムの作戦が彼等の邪魔にならないか利用価値があるから行動を共にしてくれるだけだろう。しかしセリムを無下にしないのはティダの信念が気高い証。心の奥底にあるティダという男の柱は眩く輝いているとセリムは感じている。なのに態度や言葉は裏腹だ。どんな人生を歩めばこのように育つのだろう。
「あれは見定める為だ。あそこまでしても射撃してきたペジテ人。お前も撃たれたな。沈没しても手助けなどするつもりはない」
オルゴーを乗せたそりを引きながらセリムはティダの後を小走りに追った。サクサクと耳慣れない面白い足音が響く。
「でも君はペジテを争いに巻き込まないようにと心を砕いている。どうしてだ?」
「同じ穴の貉にはならん。その恥は死に値する」
振り向いたティダの轟々と燃え盛る黒い瞳。誰も信じないというようなその目はどこか寂しげだった。
「耳を塞げ。ちんたらしていたら反乱偽装が始まる」
返事をする前にティダが足元から何かを出して地面に叩きつけた。セリムが反射的に耳を塞ぐとキーーーンという耳鳴りが響き、少し目が回った。続けて段々と近寄ってくる獣の足音が聞こえてくる。周囲を見渡してもちらつく雪以外に何もない。いや、とセリムはペジテ大工房が用意してくれた防弾のゴーグル越しに目を凝らした。風の流れが異なる場所に青味を帯びた灰色が揺らぐ。四足歩行だが馬よりも力強く赤鹿より早い音。
「あれが大狼……」
セリムはじっと近づいてくる大狼を観察した。人が三人は背に乗っても余裕がありそうな大きい犬に似た獣。艶やかで豊かな毛並みは純白。登頂から背中にかけてだけが青味のある灰色だ。そこには鞍がつけられていて棒と短剣、それに長剣が下げられている。頭部に白く短い角が左右2本ずつ生えていた。口角からのぞく歯は鋭い。沈みゆく太陽が最後の光で大地を染める黄金色と同じ瞳。
「こんなに美しいとは想像出来てなかった!」
セリムはついティダの前に立った。途端に大狼が口を大きく開け、充分早いと思っていたのに速度を上げた。
「君と心底会いたかった!」
崖の国の近隣の山脈にも、シュナの森でも見つからなかった。噂でしか知ることが出来なかった大狼が今目の前にいる。猛々しく走っている!
「おい近寄るな!」
ティダがセリムの襟首を掴んで引っ張ったのとセリムが「我が名はセリム!」と叫んだのは同時だった。セリムが居た位置の空気を大狼が食い千切った。その勇ましさに身震いが起きる。
「荘厳な雄姿。名は何という?僕はセリム・レストニアだ」
ティダの前に凛と腰を下ろした大狼の前に膝をつくとセリムは問いかけた。眩い瞳がセリムを探るように見つめてくる。まるで宝石みたいな綺麗な瞳。敵意が無いと判断してくれたのか大狼がそっとセリムの顔に頬を寄せた。それからティダの右脇に潜り込む。こんな賢く雄々しく美しい獣がいるとは世界は広い。
「名はヴィトニル。我が親友だ」
見上げるとティダが目を丸くしていた。
「熟視。聡明さをよく表している良い名だな。触ってもいいかい?」
セリムが差し出した手にヴィトニルが顎を乗せた。毛は太いが柔らかい。全身を埋めてみたいがそれは失礼だろう。
「大狼兵士。君が誇り高い男だというのが良く分かるな。ん、どうした?」
驚いたように口を開いているティダが息を飲んで小さく首を横に振った。
「いや。何でもない。ヴィトニル、こいつの荷物を引いて欲しい。セリム、そのそりに乗れ」
セリムは素直にソリに乗せているオルゴーの操縦部へと登った。
「よろしくヴィトニル。ティダ、大狼は何処に住んでいるんだ?彼の家族は?主食はやっぱり肉なのか?どのくらい長生きするんだ?」
ティダは答えずに大狼の鞍から武器を外して腰に短剣をくくり、脇に長剣をさした。それから二本の棒を背中に隠すようにしまった。ヴィトニルの口にそりの綱紐が咥えられた。ティダがヴィトニルの首筋を豪快に撫でる。
「さっきの棒がトンファーか?どうやって使うんだ?」
苛立ったようにティダが舌打ちした。
「煩い男だな。舌を噛むぞ」
颯爽とティダがヴィトニルの背に跨ると命令されるまでもなくヴィトニルが走り出した。風を切って進むが飛行機とは違って全然嫌じゃない。むしろ風と同化するようで楽しい。
「なあ大狼と話せるのか?」
「黙れと言っているだろう!お前は変人過ぎるな!」
一瞬振り返ったティダの顔には怒鳴り声に反して呆れが浮かんでいた。また変だと評価されてしまった。
「なあどう変なんだ?教えてくれ!みんなヘンテコだって言うんだ!」
「はあ?」
今度はしっかりと振り向いてティダは一文字の眉を釣り上げて顔を歪めた。
「全部だ全部!おいヴィトニル、よくあんな奴を信用したな」
最後の台詞を口にした時にはティダはもう前を向いていた。後半は独り言のようだ。大狼がセリムを受け入れてくれたのなら、それはとても嬉しくて誇らしい事だ。だが変だというのだけは承服しかねる。
***
ヴィトニルによりあっという間に野営地へと近づいていった。セリムは翻る紅旗に施された刺繍が崖の国の紋章に似ているのが気になった。反目する双頭竜。その身体に槍が突き刺さっている。竜の姿形が崖の国の竜と酷似していた。
ヴィトニルが野営地点より100m程前で停止した。一際大きな飛行船前にいた兵士が白馬に乗ってゆっくりとこちらに向かってくる。秋の稲穂色の髪を編み込んでいる端麗な女性。似つかわしくない厳つい真紅の鎧に身を包んでいて、背中には漆黒の外套が翻る。右の肘より先と左膝より下だけは外套と同じ黒い鎧。彼女の手に握られている槍がセリムへと向けられた。
「私の名は紅旗騎士団長カール。誰だ貴様!名を名乗れ!」
敵意に満ちた鋭い眼光がセリムにぶつけられる。このような女性にセリムは出会った事がない。激しい怒り。そして憎悪。
「セリム・レストニアです。崖の国より参りました」
オルゴーからは降りたが念のためいつでも飛べる位置に立った。
「崖の国?知らん名だな」
カールは軽視の視線を隠そうともしない。
「エルバ連合に所属する小さな国です」
「東の者が我が王と何をしにきた!」
ティダを一瞥するとカールは軽蔑するような笑顔を浮かべた。
「聡明であるというシュナ姫に会いに来ました」
カールは用は無いと言わんばかりにセリムを無視した。中々話が通じなさそうな女性。骨が折れそうだ。
「お前が王と呼ぶと寒気がする。こいつは客だ。シュナの元へ連れて行く」
「客?そんな者はいない。王は志半ばで心臓を刺された。そうだろう?」
言うが早いがカールが馬を蹴り槍をティダへ突き出した。ヴィトニルが横飛びし槍を避け体を沈めて積雪を蹴ろうとした。カールの馬が前足を高く上げ雪を目くらましのように蹴り上げたのでヴィトニルは頭を下げて止まった。身体を捻って抜剣したティダと槍で斜め突きするカール。
「止めろ!何をしている!」
剣の刃と槍がぶつかり合った時に良く通る澄んだ女性の声が響き渡った。
「チッ。シュナ。良い所で止めるな」
「シュナ様。何故こんな前線へ出てきたのですか?フンッ、命拾いしたなティダ」
火花を散らして睨み合うティダとカール。仲間では無いのか?セリムが呆然としているカールの後ろからカールの馬と同じ白馬が現れた。カールよりもかなり年上の皺の多い男の兵士が手綱を掴んでいる。兵士の前に背が低い女性が乗っていた。カールと揃いの真紅のだが防護箇所は少ない。蟲森の毒を多く受けて産まれたと一目で分かる奇形。お世辞にも美しいとは言えない顔だが、艶やかな髪と夏の空色の右目が毒を跳ね返して誕生したという力強さを象徴している。
「ほう……」
深く呼吸をしてセリムの全身を確認した後、シュナが感心したというような声を出した。何になのかは分からない。悪い印象は与えなかったようだ。
「カール。ティダ。戯れも大概にしろ。仲が悪いのは構わないが作戦終了後にしてくれ。ティダよ何しに戻った?その男は?」
血気盛んなカールと違って穏やかな相手の登場にセリムは胸を撫で下ろした。
「お前に客だ。俺は役に立つと判断した」
目でティダに促されたのでセリムは口を開いた。
「崖の国のセリムと申します。エルバ連合に属する小国レストニアから参りました」
「シュナ様早く戻りましょう。御身の安全が第一。東の田舎者!何を企んでいるか知らんがシュナ様の慈悲に感謝しろ!その首刎ねられなかったと感涙して去れ!」
セリムは耳を貸しそうにないカールを無視する事にした。交渉の相手はカールではなくシュナ。立場的にも話を聞く分別がありそうなのも彼女だ。
「交渉に来ました。ティダと共に第二軍の陽動に参加します。代わりに決して蟲に手を出さぬと約束していただきたい」
カールが貴様!と叫んだがセリムは素知らぬ顔をした。
「作戦に特に支障はない。むしろ派手に囮になってくれる」
セリムの発言にもティダの後押しにもシュナは睫毛一本動かさない。隣でカールが今にも槍を振り回しそうな程こめかみに血管を浮き上がらせていた。
「目的は?」
「蟲を住処へ帰す」
シュナは微かに眉間に皺を寄せただけだったが、隣でカールが大笑いし始めた。
「蟲を帰す?戯言を!何の為に?頭がおかしいのか?」
耳障りなくらい甲高く腹を抱えて笑うカールをセリムは無視できなかった。
「僕は怜悧なシュナ姫と交渉にきた。貴方は黙っていて下さい」
「何だと?交渉決裂だと決まっている。身の程をわきまえろセリム。大人しくしていれば苦悶なく首を刎ねてやろう」
片方の口角を上げた下卑た笑みをして、カールが腰の剣を抜いた。
「カール。下がりなさい」
「はい!」
シュナの一言でカールは素直に剣を鞘に納めた。憎々しいひきつった顔をしてセリムを見下ろすカールが、シュナには敬意を示していた。
「貴方の作戦と大義を止める理由を僕は持たない。可能な限り無血を目指すというのはティダ皇子から聞きました。蟲を帰すのに協力していただく代わりに第二軍の陽動をします」
セリムの嘆願をシュナは熟孝しているのか軽く腕を組んだだけで顔色一つ変えない。ティダがヴィトニルから降りた。
「このセリム。ペジテの御曹司が後ろ盾だ。恩を売るのは役に立つ」
オルゴーから飛び降りてセリムはティダの肩を掴もうとした。くるりと体を回転させたティダの腕が、セリムの顔があった位置を勢い良く横切った。避けなければ思いっきり殴られていた。
「悪い。別に手をそうとは思っていない」
「殺気がまるでなかったから拳にしておいた。背後に勝手に立つな。刺されても文句は言わせん」
悪びれもしないティダに対してセリムは苦笑いした。
「ペジテは関係ありません。僕は崖の国の誇りのために来ました!シュナ姫、信じろとは言いません。僕が第二軍を陽動した方がティダが蟲を使って第二軍を陽動するよりも得策だ。怒り狂った蟲は誰にも止められないという!利用しようとすれば食い殺されるぞ!」
「オルゴー。古き言葉を使うのだな。その後ろの機体でペジテの巨大要塞を翻弄したのは貴方でしょう」
耳障りの良いまるで鈴のような声は静かだった。
「いや、僕は死ぬかと思いました」
思い出すと首元に寒気が蘇る。もう無茶はしないと決意したのにセリムは敵意の眼前に立っている。思わず笑みが沸き起こる。
「不思議な男だな。勇ましいかと思えばヘラヘラと。私は言葉など信じぬ。我が王と共に生き様を見せてみろ!使えぬ駒は捨てる!私は私の軍しか助けぬからな!」
意外にもあっさりと乗ってきた。セリムは拍子抜けした。
「シュナ様!」
今にもセリムを、いやティダもろとも切り裂いてやりたいという殺気がカールから放たれる。
「カール、お前の手足を奪った化物。我が兵を食い尽くすぞ。我が王は高い理想を掲げてペジテで絞首刑になると踏んでいたのだがな。妙な男と帰還してしまったな」
カールの手足を奪った化物。アシタカの言っていたドメキア国軍第四軍の最高責任者はペジテで義足義手の手術を受けたというのを思い出す。セリムとアシタカが交渉に臨もうとしていたのはこのカールだ。成り行き任せでここまできたがセリム達には幸運が味方しているかもしれない。風の神の加護。カールのような人物とは話にならなかっただろう。
「俺が生還して残念だったなシュナ。また褥で楽しませてやるよ!ふははははは!」
シュナが初めて表情を変えた。ティダに不信と苛立ちの困った軽いしかめっ面。シュナはすぐに無表情に戻った。
「再び生還したらな。弄んでやろうティダ。カール、バース。離脱開始だ。崖の国の王子よ我が王と好き勝手しろ。我らが邪魔をすれば王が心臓を一突きにするだろう」
思わずセリムは目を丸めた。崖の国の|王子
《・・》
「その兜。話し方に堂々たる態度。分かるさ」
「お褒めの言葉ありがとうございます。僕は
ここに残ります。貴方達の作戦で一番蟲と近い。手薄な警護の助力にもなりますよ。シュナ姫、貴方の死に場所はこの美しき雪原では役不足です」
シュナが否定も肯定もしないうちにカールが叫んだ。
「私が許さん!」
続けざまにティダも吠えた。
「セリム、お前は俺と行く約束だろう!」
シュナの凛然とした声が被さった。
「構わん!カール、お前の騎士団はこんな妙な男からも私を守れないか?」
カールは素直に下がった。柔らかく微笑して「否」と短く告げた。
その笑みに見覚えがあった。セリムの姉達にどこか似ている。レストニア王家はかつて西から逃げてきたという。セリム達はドメキア人の血を引いているのかもしれない。
「我が命令に背くことは何人たりとも許さん!我が王でもだ!セリムよ、その機体の使用は許さぬ。馬を与えてやろう。カール、見繕ってやれ!」
うむを言わさないという気迫の声が雪原に木霊した。
「御意」
従順なカールは兎も角ティダも声を揃えた。
「お膳立てはしてやったから後は好きに生きろ」
意外にもティダはそれしかセリムに言わなかった。間も無く後方に黄色い目をした蟲の進行が確認され、シュナの作戦通りドメキア王国第四軍は三部隊に分裂。セリムは月毛色の老馬を授かりオルゴーを乗せたそりを引いた。ドメキア王国第四軍本陣先頭、ペジテの巨大要塞の洗礼を真っ先に受ける位置をシュナから賜った。
〈怖い怖い怖い〉
〈ゆっくり逃げろゆっくり逃げろ〉
〈西の地へ行かねば〉
〈仲間を助けろ〉
〈帰る方角が分からない〉
近づいてやっと聞こえてきた蟲の声に不吉な予感が込み上げてくる。やはりセリムの決断は間違いではない。この争いで蟲が憎しみに染まれば地獄絵図が訪れる。西の地へ。その声は方角的にホルフル蟲森からだろう。西の土地だけでなく東からも、下手すれば大陸中から蟲が押し寄せる。国など関係なく人間は蹂躙されるだろう。滅びたアスベルの故郷のように。
***
蟲が愛する姫の瞳が深紅に染まる
蟲遣わす王は裁きを与え
大地を真紅で埋める
テルムは若草の祈りを捧げよ
ラステルが憎悪するということは蟲もまた憎しみに支配されるということ
多羽蟲は憎しみをもたらした存在を許さない。人間を襲えと命じるだろう。
テルムの子孫アシタカが憎しみに染まらないラステルと共にこの美しき大地を救う。
そう信じるしかない。




