新婚夫婦の穏やかな時間
急に盛大なくしゃみをしたので腕の中にいたラステルが驚くのは当然だろう。セリムに伝わるくらいラステルがびくりと体を弾ませた。セリムのくしゃみは連続三回。おさまったと思ったらまた連続三回。そして少し間を空けてまた連続三回。
「疲れて風邪でも引いた?」
布団から伸びたラステルの掌がセリムの額に添えられる。すべすべしていてずっと触っていて欲しい。しかしすぐにラステルの手は「熱はないわね」の言葉と共にセリムから離れていった。それどころかラステルは立ち上がって身支度をはじめてしまう。窓の外はすっかり暗くなって星が瞬いていた。夕日を見たのが随分前のような気がする。
「誰かが噂しているのかな」
長い髪を丁寧にお団子にまとめていく後ろ姿をセリムは横たわったまま眺めた。ラステルの村で取採掘されるという青い宝石で三箇所に仕切られる茶色い髪。それが揺れるたびに明かりでキラキラ輝く。
「噂?」
ラステルが振り返った。
「崖の国ではくしゃみを三回すると噂されているって迷信があるんだ」
セリムは立ち上がった。何となくラステルの髪を持ち上げたり下ろしたりしてみる。もうっとラステルが頬を膨らませた。この顔を見るのが面白くて楽しい。
「確かにセリムの事を色んな人が話をしていそう」
少し物憂げなラステルをセリムは後ろから抱き締めた。
「君のおかげで心配より面白がってる民の方が多いはずさ」
「そうよね。ありがとう。ほら早くセリムも支度して!ハクさん疲れてしまうわ!」
セリムが唇を寄せようとした瞬間に、ラステルが気づかず立ち上がった。勢いよく肩と顎がぶつかる。痛い。
「ごめんなさいセリム。大丈夫?」
「うん。少し痛い」
あらあらとラステルがセリムの顎を撫でた。滑らかで触り心地が良いので両手でラステルの手首をそっと握った。
「もう駄目よ。セリムが言い出したんじゃない」
もう一度押し倒してしまいたい。しかしハクの事を思い出して諦めた。流石にここで本能に負けては男として格が下がる。
「そうなんだよ。ハクが大人しく一緒に来ないから時間が足りない」
「た、たりなくなんてないわ……」
ラステルは頬を赤らめて消えそうな声で呟いた。セリムはラステルの額にそっとキスした。
「僕は足りないよ。さあ行くか」
お互い防護服を着込んで、忘れ物がないかとぐるりと部屋を見渡す。マスクは街はこの辺りでは街のはずれまでは必要ないので首に下げておく。またしばらくラステルの顔を見れなくなるなとセリムはラステルの唇を素早く奪った。真っ赤になったラステルの手を引いてセリムはドアノブに手をかけた。
「もうっ」
また拗ねたような照れ臭そうなふくれっ面。ラステルが赤い顔で俯く。手を繋いで部屋を後にするとそのままラステルの手を握ったまま二階から一階へ降りた。
「おや。こんな夜中に出立ですか?」
宿屋の店主はぼんやりしていたが、セリムとラステルの姿を見つけて背筋を伸ばして立ち上がった。
「ええ」
そんな!と店主が目を丸くした。
「朝餉を豪華にと準備していたんですよ。あの小さかった王子様がこんな美人を連れて我が宿へくるなど夢みたいで。いやはやこの宿を選んでいただき光栄です」
丸々とした店主が「言ってしまった」とガハハっと笑い声をあげた。
「崖の国のセリム王子様。あまりおもてなしできませんで」
店主がちらりとセリムとラステルが繋いでる手を見た。照れたのかラステルがセリムから手を離した。仕方がないがちょっと悲しい。
「僕が誰だか良く分かりましたね」
アスベル先生にくっついて、もとい飛行船に忍び込んでヴァレス国を訪れたのはもう十年も前だ。
「私の兄の身重の奥さんを救ってくれた恩人と弟子。やんちゃなのに聡明そうな顔にここらじゃ珍しい金髪碧眼。何処へ行っても質問の嵐。そりゃあ忘れませんよ。後から崖の国の王子様だなんて聞いて驚きました」
セリムは苦笑いするしかなかった。確かにこの海辺の小国の何もかもが珍しくて、街中を駆け回った。砂の壁と海風で蟲森から身を守る坂の多い街並みを走り回りあちこちで色々な質問をした。最早その質問内容は覚えていない。もう十年と少し経過しているのに覚えられているというのは恥ずかしかった。
「それでセリム王子様はどうしてこの国へ?収穫祭で我が王が崖の国へ招かれているというのに」
興味津々といった顔付きの店主がちらちらとラステルを見るのでどう想像されているかというのは分かりやすい。どうしようかと思案しているとラステルが先に口を開いた。
「私が攫ってきてしまったのです。誰かが尋ねたら秘密にしてくださる?親切なヴァレスの御主人様」
困ったように微笑んだラステルに店主が一瞬惚けた。ラステルにはそういうつもりは無いのだろうが色仕掛けみたいなものだ。その顔をするならこっちに向けてくれれば良いのにとセリムは余計な邪念に思考を邪魔された。
「駆け落ちかい。大人しそうな顔をして大胆ですな」
話がややこしくなる。いやそういう設定だから良いのか?セリムはラステルに対して頬を蒸気させている店主から隠すようにラステルの前に進んだ。
「この後僕の連れがこの宿に泊まる。ハクと名乗る大男だ。用意していた食事をそのハクに頼めます?」
セリムは金貨を一枚カウンターに置いた。
「お代は結構ですよ。明日の朝兄夫婦とあの時産まれた甥が来る予定でしたのに。残念です」
金貨を掴むとセリムは店主の胸ポケットに入れた。
「ではこれは祝いだ。出産後も息災で良かった」
何故か関心したように店主がセリムの手を握りしめた。湿っていてふくよかな手だが豆がいくつもある。旅人など滅多にいないから普段は別の仕事をしているのだろう。働き者の手だ。
「ありがとうございます。アスベル様にもよくよくお伝えください。応援しますよ!」
「ああ勿論。アスベル先生も喜びます。ありがとう」
店主がなかなか手を離さないのでセリムは引き剥がすように店主の手から逃れた。男と長く手を繋いでいて楽しくはない。店主は宿の扉を開けてくれた。セリムとラステルが角を曲がるまでずっと店主は手を振っていた。
「突然あんな事言い出すから驚いたよ」
「あらそういう事になっているでしょう?」
セリムとラステルは顔を見合わせて笑い合った。
「ハクさんに宿を間違えないように言わないとね」
「いや別の宿の方が良い。口は堅いが質問責めは可哀想だろう」
同盟国のヴァレスへなら崖の国のエンブレムがある飛行船を停泊させても構わないだろうとハクを説得したが、ハクは譲らなかった。妥協案の交代でセリムとハクは手を打った。ハクのことだ張り切って番鷲を見張っているだろうから、そろそろ疲れているだろう。
「親切な街だと思ったらセリムとアスベルさんのおかげだったのね」
「そうみたいだ。誰も言わないから分からなかったよ」
夕陽に照らされる白い街並みのあちこちで、セリムとラステルは笑顔の挨拶を受け、丁寧な道案内を受けた。もう店も閉まり始めていたのに快く物を売ってもらえた。その理由を推しはかりかねていたがやっと合点がいった。
「あちこちで顔を知られているのね」
「分からないけど知られててもせいぜいエルバ連合領内だけだ。あとホルフル蟲森もか。これより先、山脈向こうの西の大地では苦労をかけると思う」
ラステルが上目遣いでセリムを見上げてにっと歯を見せて笑った。ラステルが微笑ではなく大胆に笑うのは珍しかった。
「病める時も困難に襲われても、でしょ。覚悟の上よ」
それからラステルはつんっと唇を尖らせてセリムを軽く睨んだ。
「ホルフル蟲森でよく分からない物をいきなり食べる人よ。いつでも気が休まらないわ」
まだ怒っているようだ。かなり刺々しい。
「ほら。何とも無かったし」
「耳にタコができるくらい聞いたわ!嫌よ私。新婚早々未亡人だなんて」
ラステルがぷんっと頬を膨らませる。それを見るとどうしても可愛くて笑ってしまう。ラステルが軽くセリムを睨んだ。ちっとも怖くない目にまた笑いそうになるが抑えた。あんまり笑うと拗ねられて無視されそうだ。
「以後気をつける」
「気をつける?」
ラステルはまだ不機嫌そうだ。
「しません」
「よろしい」
満足気に頷くラステルにセリムは反撃したくなったが、憂いを帯びた微笑みに見惚れてしまった。やはり嫁に尻に敷かれるのが崖の国の男の運命なのか。妃に先立たれたジークやユパは違ったのか聞いてみたかった。無事帰国したらそれとなく聞いてみたい。クワトロの気の強すぎる正妻ドーラとラステルが似てしまったらどうしよう。遠い未来を想像すると気合が入る。必ず二人で帰る。
「眠気覚ましに護身術の練習をもう一度しよう。僕も新婚早々独り身になるのは耐えられない。それにしても気持ち良い風だな」
磯の香りに柔らかな風の渦。穏やかで静かな街。崖の国と同じくらいの規模で決してその暮らしは楽ではないだろうが、散策だけしていると豊かで美しい国だ。
「セリムと会わなければ知らなかった世界よ」
星に照らされる暗い海を照らす月が道のように筋を作る。それが暗闇に覆われてもうっすらと白い街を光らせる。月天の護りを受けるヴァレス国。つい新婚旅行だと浸ってしまう。海からラステルに視線を移動させるとラステルは気合十分という顔をしていた。
「私だいぶ筋が良いと思うわ。針術もあるし」
ラステルは中々物騒な顔つきで拳を前に突き出した。うっとりとして街並みを見下ろしているのかと思ってたので驚いた。
「か弱そうなのに豪傑で安心しているよ」
思わず苦笑が漏れる。隠し針で、それも毒針で刺すというラステルの村の針術。その説明は興味深かったが同時に背筋が凍った。ラファエに針を刺されそうになったのを思い出して、高を括っていたら自分の浅はかさに恐怖がこみ上げたからだ。針の種類と刺す場所によっては一瞬で絶命するらしい。思い出すととんでもない義姉である。
「そうでしょう?」
得意げな笑みが愛くるしい。ちょっとからかってみたくなった。
「でも誰かさんがろくに寝かしてくれなかったから、何かしないと見張りの合間に居眠りしてしまいそうだ」
セリムはラステルの手を離して腰を抱き寄せた。暗くてもラステルが赤くなったのが分かる。恥ずかしそうにしてもうっ!と頬を膨らましたから。セリムは楽しくてならなかった。
「それはセリムでしょう?」
「いやラステルが可愛いからさ」
大きく溜息を吐いてラステルが首を横に振った。
「からかってるのね。クワトロお兄様の真似かしら?たどたどしいわよ」
「バレた?ラステルの表情がころころ変わるから面白くて。でも、可愛いは本心だ」
ラステルが頬を膨らませて身をよじった。
「もうセリムったら……」
ついに拗ねきったのかラステルは俯いた。照れ隠しなのか空いている左手で前髪を弄くる。しばらく無言で歩いたがそれも楽しかった。次第に町の外れへと近づいていく。
折角宿で休憩したが険しい砂丘を上下して番鷲に戻る。抱えた食料と水は重くあっという間に休んだ分など疲労するだろう。それでも折角ならラステルとこの国を訪れたかった。
朝を迎えればいよいよペジテ大工房の領域。迫り来る不吉な戦の気配。セリムはこの先こんな風に穏やかな時間をラステルと二人で過ごすのは難しいだろうという予感がしていた。次はいつになるか分からない。そういう道を選んでしまった。ラステルは険しい道についてきてくれたから絶対に守らないとならない。しかし不安ばかりが込み上げてくる。それなのにセリムは戻らない。自分の矛盾した行動と衝動に呆れても、足を止められない。
「怖い顔してる。大丈夫よ。きっとホルフルの家族達とセリムを取り巻く風が助けてくれる。私、そんな予感がするの」
ラステルがセリムに寄り添った。ラステルのこの前向きさがセリムの胸に勇気を灯す。
「だから大丈夫」
言葉とは真逆でラステルの瞳には不安が揺れていた。セリムは腕に力を入れた。
「ラステル。僕はもう無茶はしない。無意識にするかもしれないけど努力する。君を一人置いてはいかない」
「私も。どんな時でもセリムを思い出すわ」
ヴァレス国の防壁、巨大な砂の壁の前でセリムはラステルに深く口付けした。階段を上がればもう新婚旅行は終わり。名残惜しいが二人とも防護マスクを身につけた。セリムはラステルの手を引いて長い階段を登り始める。強く、強く手を握り合った。




