ペジテ大工房の伝承とラステルの過去
ぼんやりと手元の銃を見つめてラファエはポロポロと泣いた。セリムにグリークと会わせると告げたのは嘘ではない。人懐こくて悪意のないセリムがどうグリークと接するのか見てみたい。本心だ。陽の光の下で生きる。蟲森の民に生まれた者なら誰もが夢見ること。争いの危険は高いが、タリア川ほとりの村が新しい時代を切り開くために努力する価値はある。ラステルの言う通り簡単に諦めてはならない。
なのにセリムがラステルと共に生きると言った事に激しい嫉妬を抑えられない。2人の仲をズタズタに引き裂いてやりたい。ほとんどセリムと接していないのに惹かれてやまないのはどうしてなのだろう。ラステルがラファエの気持ちに気がつかなくて良かった。恥辱で死んでしまう。
トントン。
扉を叩く音にラファエは俯いていた顔を上げた。それから椅子へと腰掛けた。ラステルとこれ以上話していると、自己嫌悪に押しつぶされそうだ。言ってはならない言葉ばかり口から出てくる。お願いだから入って来ないで。
「勝手に入りますよ。」
聞こえた声は予想していなかった人物だった。先程丘で会った不躾な青年がするりと部屋に入ってきた。名は確かアシタカ。すらりとして背の高いセリムとは違いそんなに背は高くなく骨格がしっかりしている。だからか威圧感があり、ラファエは思わず銃の引き金に指を当てた。
「そのままでもいいですけど出来れば銃口は下げてもらえると有難い。」
両腕を頭の上に挙げるとアシタカは苦笑を浮かべた。ラファエは無意識にアシタカに向けていた銃口を床へ下ろした。指は動かさずいつでも弾を打てる体制にはしておく。
「話があります。」
「私にはありません。」
アシタカは床に腰を下ろすと両足を組んだ。両腕は上にあげたままだ。すぐには立てない姿勢。敵意はないから聞いてくれという事だろう。セリムといいアシタカといい外界の男は、蟲森にはいない妙な男ばかりだ。
「ペジテ大工房を知っていますか?」
今日まで聞いた事がない名だ。夜の色をした目がラファエを探るように見ている。ラファエは固く唇を結んだ。今はどんな事も冷静には口に出来ない。自分を宥めようとゆっくり呼吸してただアシタカを眺めた。
「僕の国です。歴史は古く千を超えます。大陸で一番大きい都市です。知らないはずがない。」
「砂漠の民は外の世界のことをよく存じません。お国のご自慢にいらっしゃったのかしら?」
知っている振りの方が良いかとも考えたがそのうちボロが出そうだ。素直に知らないと口にするしかない。
「いや。そうではない。」
アシタカは短く告げた後しばらく口を閉じた。じっと床を見つめている。考えをまとめているのだろう。しばらくして視線をラファエに戻した。
「単刀直入に言おう。ペジテに蟲の民という伝承がある。君やラステルさんのように雪のように肌が白い一族。赤い瞳を有する者は蟲を操ったという。蟲の民よ話を聞いてほしい。」
この男、先程の蟲の襲撃にてラステルの赤い目を見たのか。砂漠の民などとは信じていないはずだ。
「蟲を操る。あの化物を?」
「この国にはそのような伝承はないようだがペジテ北部のベルセルグ皇国にも知られている。ベルセルグ皇国と手を結んだドメキア王国にも伝わるかもしれない。蟲の民は東で生きていたと言われている。エルバ連合の各国にも伝承はあるかもしれない。」
次々と出てきた国名をラファエは覚えきれなかった。崖の国と同じような規模だとして、外界にはそんなにも沢山人の里があるのか。大陸一大きな都市ペジテとはどのくらい広いのだろう。
何となく話の輪郭が見えてきた。アシタカはラステルの異様さを見てしまった。私達がその蟲の民だと確信している。そして各地にも伝承があるから狙われると言いたいわけだ。
「ペジテの地下には古代遺跡が眠っている。古の超科学や医療が残されている貴重な遺跡だ。その最深部の壁画に蟲の民について残されている。我らはいや僕はテルムの子孫。父は蟲の民の真実を抱えている。いずれ僕が継承する。ラステルさんと僕が会ったのは運命だ。」
ラファエは小さく乾いた笑い声を出した。婆様達がよく言っていた。人には役目があり運命がそれを導くと。グリークは生身で毒胞子の世界を歩き蟲と親しくするラステルはホルフル蟲森を束ねる象徴となると口癖のように言っている。ラステルを祭り上げて蟲森を掌握したいのはグリークの野望で、それはラステルの役目ではない。ラステルがセリムに会ったのも、崖の国へ来たのもこの為だ。このアシタカという男と巡り合うための歯車。ラファエもその一部でしかない。
「あの子は蟲の民なんかじゃないわ。蟲に操られる子よ。いや人の姿をした蟲よ。」
アシタカが目を丸めた。ラファエは銃をアシタカに向かって放り投げた。滑っていく銃はアシタカの膝にぶつかって止まった。ラファエは天井を見上げるように背もたれにもたれかかった。
ラステルを利用して地上へ出ようと目論んだグリークやラファエ。不可能なら崖の国を滅ぼそうとも考えた。しかしどうだそんなちっぽけな策略を嘲笑うようにラステルを奪う者が現れた。もっと壮大な何かを抱えた巨大な力を有する者。ちっぽけすぎる村の小さな女。陰謀や策略はもう面倒だった。
「どういう意味だ?」
「貴方蟲森に入ったことはある?」
チラリとアシタカに目線を向けた。困惑を隠しきれていない。
「調査で何度か。」
「なら知っているわね。生身で歩けば皮膚は爛れ肺が腐る死の森。蟲森に住んでても身を守る衣服がなければ生きていけない。それなのに素っ裸で元気に泣いていた赤子がラステルよ。」
「まさかそんな。」
驚きの声を無視してラファエは続けた。
「私達蟲森の民は音を使って蟲を撹乱する。唄子って言う仕事。食料や資材を集める生命線。赤子を見つけた唄子の男は子を亡くしたばかりで見捨てられなかった。」
アシタカは黙って聞いている。ラファエは天井に視線を戻して話を進めた。
「得体の知れない赤ん坊は村長に拒否された。反対を押し切って男は妻と交代で蟲森で赤子を育てると言い出した。すると不思議なことに赤子の元へ蟲が集まってきたそうよ。蟲が卵や蜜のある植物を置いくの。深い深い緑の目でね。男も妻も一度も蟲に襲われない。赤ん坊の手は蟲を撫で、蟲の幼生を抱く。蟲もまた子供を尾であやし、鋭い脚で傷つけないようにそっと触れた。」
全部ラステルの義父ヴァルとグリークから聞いた話。村人の恐怖を増長するから詳細は一部の者だけの秘密。ラファエも時期村長として昨年教えられたばかりだ。ラステル自身さえ知らない。
「それがラステルさん。」
背を伸ばしてラファエはアシタカへ目線を向けた。驚愕で表情が凍りついている。ああ、セリムにこの話をすれば良かった。いやあの男はこれさえもあっさりと受け入れそうだ。生身で蟲森を歩くラステルを知り、共に蟲森で過ごしていたのだから。
「ある日唄子が蟲を間違って殺してしまった。蟲は怒り狂って唄子を追いかけ回した。何人も噛み殺された。投げ飛ばされた。近年では稀に見る……。」
滝の村を思い出してラファエは口を噤んだ。逃げおおせた婚約者から聞いた蟲の蹂躙。おそらく100年以上振りの大破壊。それに比べれば可愛いものか。
「ラファエさん?」
「いえ。荒れ狂う蟲に混じって泣き叫ぶラステルがいたのよ。ラステルの緑色の目は蟲と同じで真っ赤だった。人へ憎悪を向けて暴れ回る蟲がラステルには近寄らない。それでラステルは村に受け入れられた。」
「それで人の姿をした蟲か。」
挙げていた腕が徐々に下がっている。疲れたのだろう。ラファエはもう銃を手にしていないのに律儀な男だ。
「腕を下ろしたら?」
「ありがとう。」
屈託のない笑顔を浮かべるとアシタカは両腕を下ろした。それから左手の甲で銃を軽く払った。くるくると回転して床を滑った銃が寝台の下に潜った。容姿は似ていないが何処と無くセリムに似ている。するりと懐に入ってくる感じ。
「私も昨年村長である父に聞くまで知らなかった。でもラステルが普通ではないってことは村の誰もが知っている。蟲を愛でる変人。村の唄子が目撃して噂が広がるのよ。蟲を抱いて歩いていたとか話しかけていたとか。でも本当は違う。蟲がラステルを愛でているのよ。本人は分かってないみたいだけど。」
「蟲愛づる姫の瞳は深紅に染まり蟲遣わす。王は裁きを与え大地を真紅で埋める。テルムは若草の祈り歌を捧げよ。壁画に残された詩だ。」
「似たような伝承があるわ。憤怒は蟲の瞳を染め真紅が大地を覆う。蟲の王により。」
アシタカが興味深そうで前傾姿勢になった。
「蟲の王……。」
「ガンよ。蟲森の監視者。蟲の司令塔。」
ラファエが持ち出してしまったガンの卵。今頃孵化している。何かの拍子で出てきたら崖の国はどうなるだろうか。ラステルの傍ならば群を呼びはしないと期待しているが確信はない。我ながらとんでもない物を用意してしまった。
「ガンって?」
「模様のない針のない蜂みたいな蟲よ。三つ目で羽が沢山ある。外界人は見たことないかしら。」
「いや。さっき殺した蟲だ。」
アシタカの顔がさあっと青ざめた。ラファエの全身もぞわりとして鳥肌が立った。今何とも無ければ大丈夫な筈だが無知とは恐ろしい。
解体されていた蟲の亡骸はガンだったのか。ヴァンによればラステルはガンに一番感化されるらしい。それでラステルは呼ばれていると告げて飛び出したのか。
「群を呼ぶ前に殺したから大丈夫なはずだ。セリムはそれで躊躇ったのか?」
「躊躇った……。」
ラステルは他の村人同様、伝承を途中までしか知らない。蟲の王がなんたるかを知ればグリークやラファエのように悪用する。最も群を大切にすると知られているから意味はないが、蟲の王という名は少なくともタリア川ほとりの村や周辺の村では村長だけに隠匿されている。ラステルが知らなければセリムも知らないだろう。
躊躇ったのは迷ってきた蟲への同情か。
セリムはとことん変な男だ。外界で育って、それも一国の王子だというのに蟲森に出入りする。それだけではなく蟲に同情する。まだ短いとはいえラステルの人生で唯一出会った蟲を嫌わない男がセリム。ラステルが惚れるのも無理ない。逆も同じなのだろう。はみ出し者同士惹かれ合った。ラファエなど入る隙がない。
「他には何もないわ。ラステルは捨て子で親は不明。蟲の卵から産まれたのかもしれない。」
ラステルはペジテへと連れて行かれる。セリムがいるから死ぬことはないだろうか。死ぬならラファエの耳に入らない土地の方がいい。ホルフル蟲森内での諍いや崖の国との争いに巻き込まれるのを見たくない。かといって仲睦まじい姿も見たくない。気味が悪い憎らしい恋敵。でもラステルはラファエの乳姉妹。世話のやける可愛い妹。幸福になれるならなって欲しい。
「この話。こんな簡単にしてよかったのか?」
「あら。貴方が脅してきたんでしょう?蟲森の民を搾取する?何の利益もないわよ。地下で身を潜めて生きている小さな村だもの。」
「脅すつもりは。いやそうだ。すまなかった。」
両拳を床につけるとアシタカが頭を下げた。ラファエは鼻を鳴らした。
「もっと教えて欲しい。君達の村や暮らし。」
「ラステルに聞くといいわ。父には攫われたって報告します。この国なら兎も角遠すぎて追いかけきれない海の向こうと伝えるわ。捨て子が捨て子に戻るだけ。」
顔を上げたアシタカが短髪をぐしゃぐしゃと掻いて口をへの字に曲げた。それから腕を腰に当てた。
「そんな言い方は止めた方が良い。本心を隠す憎まれ口でも不愉快だ。」
「何も隠してなんていない。」
不躾な男だ。ラファエはそっぽを向いた。
「ペジテ大工房は他の国よりも医術に優れている。ラステルさんの血や皮膚を分析出来る。生身のまま解剖して構造も見れる。船を出せばアシタバという蟲森もあるから色々実験も可能だ。」
ラファエが振り向く前にアシタカがラファエの左手首を掴んで体を引っ張り上げた。ラファエは咄嗟に反対の腕を振って袖ぐりから毒針を出すとアシタカの喉元に突きつけた。その腕をアシタカが抑えて止めた。
「我が妹を食い物にするなら死ね!」
力では敵わず毒針は動かなかった。ラファエはアシタカを睨みつけた。蹴り上げようとした瞬間アシタカがにっこりと微笑んだ。ラファエは呆気に取られて足を止めた。
「それが本心だろう。」
腕から力が抜けた。指をすり抜けた仕込み針がカランと床に落ちた。
「酷いことはしないと誓う。むしろテルム一族の誇りにかけてラステルさんを匿う。それにしても君もラステルさんも危機感が足りないな。」
「テルム一族?一体何なの?」
「もっと早く聞くかと思ってたよ。貴方は自分で思っている以上子供だよ。それに謀も向かない。ぬくぬく育った可愛らしいお嬢さん。肩の力を抜くといい。人の上に立つのは向いていない。」
屈辱で怒りが湧くかと思ったが、ラファエの胸を占めたのは安堵だった。時期村長。蟲姫ラステルを引き継ぐ者。その重荷に押しつぶされそうで必死に背伸びしていた。ラファエは唇を噛んで俯いた。それから涙を抑えてアシタカを見上げた。婆様達が時折ラファエに向ける労わるような優しげな眼差し。
「教えて。テルムの一族って?」
「テルムはペジテの始祖。」
アシタカはニコニコとしているが拒絶の笑顔だ。多分これ以上聞いても教えてはくれないだろう。悪い人間では無さそうだがラステルを預けて良いのだろうか。いやこれは決定事項でラファエには止められないのだろう。
「実はラステルさんからもう蟲森の民だって聞いていたんだ。ついさっきだけど。彼女きっとペジテに来たら自分の事教えてくれたと思う。」
「何ですって?」
ついさっきと言うことはラファエが部屋から追い出した後だろう。そんな短い時間に一体何があった。何故ペラペラと秘密を話した。
「ラステルさんとセリムはペジテに駆け落ちするって。」
「何それ。どうしてそんな。」
短時間でそこまで飛躍した事実がラファエを横殴りにした。クラクラして思考がついていかない。
「だから言ってあげなよ。大切な妹が安全な場所で生きて欲しいからペジテに預けるって。ラステルさんの為に。君の為に。段取りはつける。素直にな。」
アシタカがラファエの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。こんな扱いをされるのは人生で初めてだ。掌の上で踊らされたが、からかわれたのともまた違う。苛立つのに嬉しいという反する気持ちがラファエを混乱させる。
「それでこんな猿芝居を?」
「いや。見てられなくて。君の態度。正確には駆け落ちとは違うんだけど。喧嘩別れは君だけじゃなくセリムやラステルさんの為にも良くない。」
「貴方変わってるわ。それも凄く。危うく毒で死ぬところだったわよ。」
「あれ毒針?刺さらなくて良かった。」
うへぇと舌を出すとアシタカは肩を竦めた。その呑気さにラファエは腹を抱えて笑った。本当に変な男だ。笑っていたラファエはいつの間にか泣いていた。頬が濡れている。急に抱きしめられてアシタカが赤ん坊をあやすように背中をとんとんと叩いてくれた。誰かに抱きしめてもらうなど子供の頃以来だった。




