アシタカの理想
棚に並べられた医学書。それから手製のような本の背表紙に植物学の文字と通し番号。他にも色々な題名の本が部屋の壁二面を占拠している。風学という本が1番興味をそそられた。セリムの部屋は割と雑多で床に色々と物が転がっていた。空の瓶やペン。スケッチブック。しかし本だけは綺麗に本棚に納まっている。
繊細な風凧を操るので神経質かと思えばそうでもないらしい。アシタカは見たことのない本や手製の本を読みたい衝動を抑えてセリムに勧められた席へ座った。本を読みたいなどと、そんな雰囲気ではない。
「そんなに落ち込む事か?蟲が死んだだけだ。」
「いや。ラステルが蟲は逃げてきたって言っていただろう。それが気になって。」
「彼女は何者なんだ?」
「僕にも分からない。」
丸い机を挟んで向かいに座るセリムはアシタカに横顔を向けていた。まるで捨てられた犬みたいに俯くセリム。
犬か。
先月会った皇子を思い出してアシタカは一先ず早めに話そうと思っていた外交話をすることにした。混乱しているセリム。ラステルについて聞くのはおいおいの方が良さそうだと判断した。変につつくと友好を築く前に関係が拗れてしまいそうだ。いやこれからの話ですぐにねじ切れるかもしれない。
緊張で喉が鳴った。
「セリム。大陸の西半分が爆発寸前なのは知っているか?」
ん?とセリムが顔を上げた。
「アスベル先生から少し。」
「どの程度?」
「ドメキア王国がベルセルグ皇国と手を結んでペジテ大工房へ進軍するようだと。その隙にグルド帝国がドメキア王国へ進軍。もしくは飢饉に疲弊するボブル国へ先に侵略を仕掛ける。だからこの国にもエルバ連合から召集準備の連絡があった。」
セリムは「多分」と口にして唇を結んだ。「多分僕が出征する」だろう。セリムは困ったように笑った。
「その通りだ。グルド帝国も最終的にペジテへ来るだろう。どこも昔からペジテの技術を欲している。ペジテはいつも四方八方敵だらけ。そんな中先月ベルセルグ皇子がやってきた。密告しに。」
アシタカが告げるとセリムが訝しげに首を捻った。
「密告?なんでまた。そもそもベルセルグ皇国は古き時代にペジテから追放された民が岩に創り上げた国だろう?そんな所に密告してくれる程交流がある者がいたのか?」
「よく知っているなセリム。いないさ。僕達が生まれる随分昔にベルセルグ皇国は一度ペジテを手中にしようと画策した。強固な要塞の前に牙を折られて撤退。以後大人しくしている。しかし少しずつ力を蓄えてきた。彼らはずっとペジテを欲している。互いに睨み合い。」
「ベルセルグ皇国が東のボブル国、北西のドメキア王国を少しずつ簒奪してきたのはペジテ侵攻の野望があるからだというのはどこの国も知っている。そこの皇子が何でまた密告なんて。何を告げにきたんだ?」
セリムが背筋を伸ばした。それから体の向きを変えてアシタカとしっかり向かい合う。
「一月前、突然ペジテの要塞前に大狼に跨る男が現れた。右手に白旗。左手にはベルセルグの三頭ハイエナの銀刺繍が施された黒旗。」
あの日、アシタカは護衛人の視察の為に要塞砦に来ていた。騒めく護衛人から望遠鏡を借りた。白と灰色の巨体狼。非常に獰猛だが忠義に厚い種族という。人にはまるで懐かない。その大狼に鞍を装着し、颯爽と跨る黒髪を結い上げた目つきの鋭い若い男。
昔からベルセルグ皇国だけではなくペジテやドメキア王国でも馬や赤鹿の代わりに従わせようと試みられてきた大狼。しかし従わせられずどの国も諦めた。激昂させれば村一つ食い荒らす獰猛な大狼。群を大事にし必要最低限しか狩りはしない。その性質は蟲と良く似ている。蟲同様、人間はなるだけ大狼に接触しないようになった。
歴史上に現れた最初の大狼兵士はベルセルグ皇国先代皇帝。ドメキア王国の存在するアシタバ半島へ大橋を建設し戦争を仕掛けた狼陛下。以後ドメキア王国とベルセルグ皇国は国境線争いの小競り合いを繰り広げている。
狼陛下夭折後、数十年経過して再び大狼兵士が現れた。狼陛下の息子、現ベルセルグ皇帝の養子第三皇子ティダ・ベルセルグ。近隣諸国では有名な男だ。アシタカも噂を何度も耳にした。だからあの日ペジテに現れた男が誰だか直ぐに分かった。
「大狼兵士のティダか。ベルセルグ次期皇帝第ニ皇子の忠犬。」
セリムも知っていたようだ。辺境の地で戦などと無縁な崖の国にまで、大狼兵士の名が轟いているのは意外だった。
「よく知っていたな。」
「ボブルの兵から聞いた事がある。大狼を操り見事な剣技とトンファーという棒術で先陣を切る敗北知らずの皇子。なのに軍を持たない一匹狼。第二皇子に忠実な犬皇子。狼なんだか犬なんだか」
「へえ。思っていた以上に他国情勢に詳しいな。」
「たまに来る客人に色々聞くんだ。トンファーという武器を聞いた話を元に作ってみたし、大狼自体知らなかったから近隣の山脈で探してみた。トンファーは使い方がイマイチ分からないし狼は見つからなかった。」
まだ深くは知らないがセリムらしい話だと思った。
「そうそのティダだ。大狼を降りたティダは服を脱いだ。ペジテに向かって両手に旗だけ持って歩いてきたんだ。腹に薄くサラシを巻いているだけの全裸で」
ポカンとセリムが口を開けた。アシタカもその日望遠鏡で全裸の男を見て同じ表情をしていただろう。アシタカの周りの護衛人も呆気にとられていた。
「見渡しても誰もいない。単独だ。意味がわからない。しかし白旗だ。手を出してはならない。なのに誰かが威嚇発砲した。ティダは足元の大地に銃弾がめり込んでも動揺せずに歩いてきた。更に弓矢も飛んだ。もうその日の防衛人は大混乱だよ。卑怯だの早く殺せだの罵詈雑言」
アシタカは皆を鎮めようと叫び回った。興奮し過ぎた護衛人の熱は消えなかった。赤鹿は乗りこなせてもアシタカはそんなに腕が立つ方ではない。鍛え上げらている護衛人に右往左往するしかなかった。
アシタカではなくセリムがペジテに居たらどうだったか容易に予想できる。護衛人を無視して真っ先にティダの元へ向かっただろう。蟲の前に立ったように。
「セリムならあの日ティダと話をしただろう。僕は黙って見てるしか出来なかった。」
「いや。もしそんな男が突然崖の国に現れても-……。」
「いや君はオルゴーに乗って男の前に立つ。武器を構えはしても手は出さない。きっと話を聞く。必要があれば武器を捨てるだろう。僕には出来ない。いや出来なかった。」
「随分買い被られてるな。」
「だいぶ雰囲気が違うがティダはセリムと似ていると思う。初めて会った瞬間そんな気がした。彼は争いを好まない。そして無鉄砲。あと孤独だ。」
セリムが困惑した様子で頭を掻いた。ティダの人物像はアシタカの願望だ。セリムは当たっているだろう。
「ティダは何をしに来たんだ?」
「真意は知らない。ティダは要塞まであと数歩と言うところで叫んだ。『名をもう一度名乗る。ベルセルグ皇子ティダ。来月ドメキア王国へ婿入りする。侵略に備えよ!対策をせよ!可能な限りドメキア王国内部から支援する!必ずまた来る!』」
顎に右手を当ててセリムが俯いた。アシタカの話をどう判断するだろうか。ペジテは念の為侵略に備える事にした。アスベルの助言もあり万が一の逃亡先として崖の国の名が上がった。ベルセルグ皇国の陽動という意見が最も多い。ペジテの議会は混沌で意見がまとまっていない。ティダの謀略を恐れて、必要以上に疑心暗鬼に支配されている。
「それで?」
「帰って行ったよ。叫んだら大狼の元へ戻って服を着て颯爽と去っていった。ペジテに混乱の爆弾を投げ入れてね。彼の言った通りベルセルグ第三皇子とドメキアの姫が婚約した。そろそろ婚儀の筈だ。」
「不思議な男だな。何を計画しているんだろう。」
「僕は会って話をしてみたい。アスベル先生と何度も議論した。それで君の事も聞いた。」
「先生は何て?」
「戦争になったらあちこち奔走しそうな危なかっしい弟子がいる。」
ふぅっと大きく息を吐いてセリムは背もたれにもたれかかった。
「僕はそんな殊勝な人間じゃないよ。叶うならずっと国に居て気になる調べ物をしていたい。あと可愛い子供に囲まれたら最高だ。」
遠くを見るように空中に視線を泳がせてセリムがまたため息をついた。
「でもセリム。君は今日みたいに飛び出す。今後ペジテ襲撃を黙って見ているわけが無い。出征しても同じだ。君は争いを黙って見てられない。自身に多少力がある事と自負もしているだろう?」
額に手を当ててセリムはまた大きく溜息をついた。
「そうなんだ。その通りだよ。謀ったなアシタカ。1人は心細いから僕を道連れにというわけか。」
「力を貸して欲しい。」
「で?段取りはつけているんだろう?」
諦めたようにセリムがまた背筋を伸ばした。
「かつてペジテからドメキア王国に嫁いだ娘がいる。平和を望んだペジテの誇り。」
「ドメキアと言えば毒蛇の巣と呼ばれる王族の権力闘争の絶えない国だろう?よくもそんなところに嫁がせたな。それでその人と内通しているのか?」
「いや。彼女は病死した。一応そうらしいが真実は分からない。」
追悼するようにセリムが両手を握りしめる。アシタカは続けた。
「ペジテの誇りナーナ。その娘シュナ。愚鈍な醜姫。彼女の護衛兵が約10年前にペジテで義手義足の手術をした。来週内密に定期検査に訪れる。」
「ティダの婚約者の護衛兵って事か。まずその人と話すつもりか?」
「そうだ。シュナを傀儡とするドメキア国軍第四軍の最高責任者。極秘中の極秘。調べるのが大変だった。その護衛兵と上手く話をすればティダと会えるかもしれない。セリム。ペジテに来て欲しい。見せたいものがあるとも言っただろう。」
「来週か。出征も予想より近そうだ。収穫祭だけは楽しめそうだな。」
皮肉っぽく笑うとセリムはまた大きく溜息をついた。
「色々ともう少し遅ければ良かった。泣かせたくなかったな……。」
最後の方は小さい声でまるで独り言のようだった。酷く寂しそうなセリムは今にも泣きそうに顔をしかめている。セリムを巻き込んだアシタカは何も言えなかった。待っててもらえなどと軽々しく口に出来ない。
「ペジテが陥落すればエルバ連合に必ず飛び火する。争いの火種が燃え上がる前に消せるように努力するのが最善。僕は反対されてもペジテに行く。出征日時までしか付き合えないけど。」
「すまない。代わりに僕もセリムと-……。」
戦争へと言う前にセリムが首を横に振った。
「いやアシタカはペジテを導くんだろう。レストニアの味方になってくれないと困る。色々とペジテで反対されているだろうが頼むよアシタカ。ギリギリまで力になるよ。」
セリムは安心しろと言うかのようにくしゃりと笑顔を作った。目尻が僅かに濡れている。ラステルの事を想ったのだろう。
「買い被りすぎだ。」
アシタカはセリムと同じ台詞を吐いた。アシタカこそ泣きそうだった。ペジテでティダを信じる者は殆どいない。崖の国との交渉に関しても否定派が大半だった。やっと見つけた理想を追う者もすぐ失うかもしれない。
争わないようにと考えるのが何が悪い。血が流れないようにと願う事が悪い筈がない。どうしてこうも人間は争うのだろう。
ペジテの土の神の教えを、ペジテ人は長年の他国からの襲撃で疑心暗鬼になり忘れかけている。家族も友人もアシタカを否定し、数少ない賛同者は非力な老人ばかり。
敵であればこそ信じて真心を捧げよ。
アスベルはアシタカの孤独と葛藤を見抜いてセリムと会うように進言してくれた。それだけではない。アシタカはティダの前に立たなかった事を後悔していた。それで否定と後悔で意固地になり視野が狭くなっているアシタカを一度止めたかったに違いない。
アスベルはアシタカをユパやジークとも会わせたかったのだろう。思い通りにはいかなくとも真心は伝わると。セリムにアシタカを会わせたかった理由はなんだろうか。セリムの危うさはアシタカも感じている。頼み事をしておいて何だが、セリムは背負ってしまう人間だと思う。アシタカよりもずっと大きな理想の追求者。蟲にあそこまで同情する者をアシタカは見聞きしたことがない。
青臭い弟子達を案じてくれているアスベルには頭が上がらない。 しかしその心配を蹴っ飛ばして勝手に泥沼に飛び込もうとしている二人。アスベルは怒るより呆れるだろう。
「戦陣の先頭に立たずに、そなたが民を導け。君の兄さんに言われた。聞いていただろう?」
「ああ。急にどうした?」
「セリムも同じだ。僕等は裏でこそこそして消化活動を頑張る。エルバ連合が巻き込まれそうな争いの火種も消すぞ。セリムが出征してもな。ドメキア王国とベルセルグ皇国の架け橋ティダを味方につける。」
「今日怒られたばっかりだ。1人で死ぬのは勝手だが、叶わぬ理想に他者を巻き込むなだって。君にも同じ怒号が飛ぶな。」
あははとセリムは愉快そうに声をあげた。落ち込んでいるのかと思ったらアスベルの忠告は不服らしい。仲間を見つけて嬉しいといった様子だ。アシタカはどうだろうか。セリムを巻き込んで良いのか。間違えた道ではないのか。ティダは味方になってくれる人物なのか。セリムを崖の国の民やラステルから奪い、恨まれる。不安の為に友を巻き添えにしようとする事は不正解ではないか。
「5日後は泊まり仕事だ。その後なら時間を作る。一度帰国するだろう。迎えに来い。」
それに比べてセリムは決断が早い。アシタカは迷いながらも頷いた。
「アシタカ。アスベル先生が言っていたんだけど戦いが苦手なんだろう?」
セリムが悪戯っぽく微笑んだ。
「逃げ足は早い方だ。ペジテの技術も色々ある。」
「手合わせしよう。自分の身を守れないと誰も守れない。嫌いだけど仕方ない。」
「アスベル先生に口を酸っぱく言われているよ。」
「確かに。」
セリムはアシタカに向かって歯を見せて笑った。それから口を閉ざして暫く無言で机を指で叩いた。しばらくして急に立ち上がった。
「ラステルとラファエさんと話をする。」
「そうか。」
「そうかじゃない。君もだアシタカ。」
話が見えなくてアシタカはセリムをただ見上げた。
「善は急げ。」
「は?」
「良いから行くぞ。」
セリムがアシタカの腕を掴んで引っ張った。アシタカは引き摺られるようにセリムの部屋から連れて行かれた。




