初恋迷路
酷くくたびれていたのだろう。昼も夜も区別のつかない、地下世界。傍の寝具ですやすやと眠るラステルの姿から、まだ、明け前だろうと判断した。
いずれ敵になるかもしれぬ男との2人っきりの空の旅。平静を装うのに必死で、緊張していた。手足はすっかり冷えていたし、いざという時にどう相手を殺すか、何度も頭の中で考えていた。
しかし、目の防護具の向こうにある優しげな眼差し。何度も口にされた労いの言葉。革手袋ごしの無骨な手は、まるで宝物に触れるようで、優しすぎるくらいだった。休憩をすれば、程よい距離感で、こちらを気遣うような会話。秀でた容姿に見惚れられることもなく、下心なくただただ丁重に扱われた。
蟲森には居ないこんな男。
あのラステルの心を奪った、男。
「厄介ね。」
誰ともなしに、小さく呟く。
胸元に潜ませた筒を、出さずに弄ぶ。
父達はラステルを利用してホルフルの民を掌握しようとしている。そこに登場したセリムという森外の男。
かつて争いに破れ、滅びる覚悟で蟲森で暮らし始めた祖先。忍耐と知恵で根付いたものの、森外の太陽の下で生活したいというのは、諦めていても消える事はなかった悲願。
これは天が授けてくれた千載一遇の好機とばかりに、ラファエはグリークと共に計画を練った。
共通の敵があれば、ホルフルの民も結束させやすい。ラステルも見知らぬ男に嫁がされ、利用されるよりは、好いた男と血塗れになるほうがマシだろう。だからラファエは崖の国への進軍を提案した。
偵察に来たものの、レストニアは天然の要塞だった。断崖絶壁に建造された国は険しい山と深い森に囲まれている。それだけではなく、連なる山脈の合間に作られた一本道と堅牢そうな砦。
それも2つ。
招かれた城も、いかにも難攻不落。
簒奪するには飛行手段や何倍もの兵力が必要だろう。滞在中に盲点を探り出せれば良いが。
自嘲して、深く息を吐いた。
村では忌み嫌われる森外人。出会ってしまえば、自分達となんら変わりない。抗争よりも協定に尽力すべきだ。この国となら、あの男とならそれも叶うだろう。そんな考えが寄せては返す。
裏切り者だと罵られようとも、己の村さえ平穏を掴めれば構わないのか。何百もの年月、時にぶつかりながらも
手を取り合って生き抜いてきた、ホルフルの民を、保身の為に捨てるというのか。
否。
矜持はそれを許さぬ。
それに加え、崖の国レストニアが掲げる国旗もまた不安要素。自らの体を食らい合う竜は、ホルフルの民に伝わる、悪名高き強欲竜、の末裔かもしれない可能性を示す。そうとなれば、手を結ぶ事など論外で、ホルフルの民は滅びの道を選ぶだろう。
あらゆる可能性に窒息してしまいそうで、ラファエは寝具から抜け出した。ラステルを起こさぬようにそっと部屋から廊下へと移動した。
初日は王と王族に囲まれ、もてなされたが見知らぬ者たちに囲まれ質問責め、辟易した。嘘をついているから余計に疲れた。
翌日はラステルとの観光を断り、ケチャ姫に城の案内を頼んだ。入り組んだ地下を把握したかったが、勿論軽くしか見て回れなかった。怪しまれる訳にはいかない、まだ滞在期間は長い。
その間、気になるのは別行動のラステルの事ばかりだった。肌身離さず身につけている髪飾り。村の誰に対するよりも、乳姉妹の自分に向けるよりも、親しげな笑顔。信頼しきったその様子。何もかもが雑音として邪魔をする。
観光客として映るように、ケチャ姫に彼女が働く薬草園に連れて行って貰った。貴重なガラスをふんだんに使用した温室。暖かな太陽の光というものに懐かしさと居心地の良さが沸き起こった。全身の血が、失われた故郷を求めて滾る。窓を開け放てば蟲森にはない匂いがする風が髪を撫でた。
滅多に蟲森に出ることさえなかったラファエにとっての世界は、毒の下の地下で生きる狭い村。近隣の村と交流は待てど似たり寄ったりの文化。滝の村のように、いつ何時蟲の暴力に滅ぼされるかも分からぬ身。
欲しい。
この大地が。
なにより。
「おはようございます、ラファエさん。」
今、1番会いたくない相手だった。まだ眠そうで気怠そうなセリムは、寝起きなのだろう、簡素な服を身につけている。腰には厚手の布を巻いていて、その下に鞭が覗いていた。
無邪気かと思えば、聡く大人びた表情を浮かべたり、ぼんくらそうでいて、隙がない。不用心そうで用意周到。どちらが本当の姿なのだろう。
服を着ていると気がつかなかった、良く鍛えられた引き締まった体から目を逸らした。
「あまり眠れませんでした?」
「いえ。」
「僕はあんまり眠れなくて。色々考えていたら。」
まるで何かを探るような目にたじろぐ。悟られまいと背筋を伸ばし、セリムの両目をしかと捉えた。
この色は、タリア川の深い水底によく似ている。
「まだ、日の出が見れるかもしれない。一緒に行きませんか。」
「それなら、ラステルを起こしてきましょう。」
「いえ、僕は貴方と話がしたい。」
射抜かれるような視線に首を横に振れなかった。単純で簡単な事なのに、今までこのように従順であることなど父親に対してくらいだったというのに、硬直する体。
制御出来ない感情を抑えようと、ラファエは強く奥歯を噛んだ。これではまるで火取り虫。けれども抗えない。
「分かりました。」
「外はまだ寒い、これをどうぞ。」
腰から布を解いて渡された。素直に受け取り、肩掛けがわりにする。幾何学模様の織物の本来の用途はこれだろう。何故?と声に出さずに問いかける。セリムが微笑んでから背中を向けた。すらりと高いその背の上で短い金色の細い髪が揺れる。広く逞しい背中をぼんやりと眺めながら着いていった。
「上まで、大丈夫ですか?」
「ええ。問題ないわ。」
「折角なら高いところからの方が綺麗ですから。」
正直、朝から何段もの階段を登ることに抵抗があったが弱さなど見せてたまるかと涼しい表情を繕った。セリムは一度も振り返らなかった。ただ見抜いているかのようにゆっくりとした足取りだった。
屋上まで登ると、言われていたようにまだ肌寒かった。吹き荒れる風で髪が暴れ、邪魔だ。纏めて手で押さえるように握りしめる。薄暗い暗闇の海の向こうで、今にもはちきれそうな光をのぞかせる太陽。霧が崖に布団のようにかかっている。
絶景に目を奪われた。
2人だけの息しかない、他はまだ混じらない、清澄な空気。
セリムが愛機から上着を引っ張って身につけるのを視界の端で捉えた。頭の後ろに目がついているかもしれない。一歩、一歩、近寄ってくる気配を知らぬ顔で目の前の壮大な景観に溺れる振りをするしかない。
「どうですか?」
「自慢ですか?」
「そう聞こえます?」
「何もかもがそう感じます。」
盗み見した横顔は静謐な気配を持っている。何を考え、画策し、どう出る。
さあ、こい。
「その懐に持っているものを渡して欲しい。」
予想に反した台詞に、思わずえっ?と声が漏れていた。体の芯から冷えて、凍えそうだ。
「何かは分からないけれど、良くない物だ。それから、出来れば話し合いをしたい。」
「仮にそのような物を持っていたとして、素直に渡すとでも?」
セリムが小さく頭を左右に振った。
「考えたんです。あの森で暮らす民だったら、と。陽に焦がれ、大地を乞うだろう。蟲の君臨する恐怖と隣り合わせの世界。」
「否定はしません。遥か昔に森へ追い立てられたのが我ら民です。猛毒の下に生きる、太陽などという単語も、言い伝えのお伽話の中のものでしかない憐れな民。」
「残された少ない大地を血で染めることなく、知恵と勇気を持って共存を目指した誇り高き民。僕にはそう見える。ラステルは蟲森は嫌われ疎まれていると言っていたが、君の目を見て違うと思った。」
袖ぐりに隠している毒針をいつでも取れるように、手首を軽く回した。セリムは目ざとくもそれに気がついたが何も咎めなかった。
「あの森を疎んでいても、蟲に怯えはしても、それだけではない。けど、古の故郷を求めてるのも確かだ。僕はこの国の王子で、君は村の次期代表。これも縁だ。」
「随分と上から目線ですこと。自分の領域に飛び込んできて幸運とでも思ったか。なんと甘い。」
首から下げた筒を出して、セリムの胸元へと突き出した。開けば今頃卵から孵化しているはずの、ガンの幼生が姿をあらわすだろう。蟲の中で最も群を大切にする種族。幼生が仲間を求めて鳴き声を響かせれば大群が上空を鉛色に変えるだろう。
蹂躙され、文化を滅ぼされ、蟲森で生き抜く術を求めて首を垂れれば良い。
それでは意味がない。蟲森の毒胞子に塗れた土地が増えるだけ。万が一に備えて、念のため忍ばせてきた交渉の材料。最終手段。
勘付いて、向こうから舞台に上がってきたため、これは遺憾無く威力を発揮出来るだろうか。
強風に離した髪が振り乱れる。少しよろめいた。ごく当たり前のようにセリムが体を支えようとしてくれた。
その手を払いのけて、ラファエは一歩下がった。村の時期族長が聞いて呆れる。上手く立ち回れない。
朝日が昇り始め、鮮血のような赤に染め上がっていく。青い瞳が燃え上がる赤で揺れて、その中に困惑するラファエが写っていた。
「僕はラステルと共に生きたい。その道を模索する。それには貴方の力が必要だ。」
告げられた言葉に呼吸が止まる。その瞬間、蜷局を巻く羨望がドス黒い感情と共に込み上げてきた。足元ががらがらと崩れ落ちたような目眩。
異形の化物から助け出されたあの日。兜と防具を脱いで素顔をみたあの瞬間。命の綱のタリア川の深く澄み切った色の瞳。
わずか数度しか会っていないというのに、全身を焦がすその感情をラファエは無視して閉じ込めるしか無かった。閉じ込めてきた。
蟲に襲われそうなラファエに対して、幼少より乳や寝床を共にしてきた自分よりも蟲を庇ったラステル。村で阻害され、毒の森でいつも1人だったラステル。同胞が無残にも殺されたというのに、避難民の救助よりも蟲に感化される薄情な娘。
何故あの子なのか。
先に出会っていたら。
「ラファエさん?」
問いかけに、恐怖で一歩後ずさった。永遠に知りたくなかった、迷路で戸惑ってそのまま出てこなくて良かったというのに、なぜ脱出してきた。
「父と交渉の場を設けます。先程貴方が私を見逃した事への感謝を込めて。」
自分でも分かる冷え冷えとした声。正直にセリムと手を取り合って協定への道を進むのが最善。明らかに安堵したセリムが微笑んだ瞬間、また竜巻が吹き荒れる。
隠したいのに、決壊して続きは裏腹しか溢れてこなかった。
「貴方はあの子の本当のところを知らない。傷ついて打ちひしがれればいい。ラステルは得体の知れない化物よ。一緒にはいられても、共に生きるなんて絵空事だといつか必ず理解する。」
頬を冷えた水が流れていった。この国へ来たのは村のため、謀略の下準備、侵略の第一歩。
希望の光などない事は分かりきっていた。他意はない。
それなのに、さめざめと泣く自分。
突風のように吹いた感情をそれでも受け入れたくないのに、ラファエは涙をこぼし続けた。
紅に色付けされた雫はまるで出血。
ラファエは一目散に屋上から飛び出した。




