深淵から蘇りし者
【???】
急に視界が開けた。丘だ。青々と生い茂る草が、そよ風に揺れている。夏の風の匂いに、澄み切った空。なぜだか胸が詰まって泣きそうになる。
「お父さん、どこにいるの?」
呼ばれた気がして振り返る。黄金稲穂色の髪を風にたなびかせているのは——……。
「アモレ……」
セリムが呟くと、トプンッと体が沈んだ。足元が急に湖になったというように、水中に吸い込まれていく。なのに、冷たくない。何も感じない。
「お父さん、見て!」
「あのね、お父さん」
煌く笑顔を浮かべるアモレが、水に写っている。手を伸ばすとガラスだった。
触れた瞬間、パリンッとガラスが割れて、粉々になって散っていく。その向こう側は闇。真っ暗闇で、何も見えない。
「何故だ、何故彼が死ななければならない」
背後から小さな震え声がして振り返る。足元に地面の間隔があり、冷たい風を肌に感じる。しかし、闇の中。
「絶対に……絶対に許さない」
その台詞を聞いた瞬間、胸が貫かれたように痛くなった。
——守れ。セリムの為に守れ。
アピスだ。アピス達の声がする。切断されていたのに、繋がったようだ。
——怖いよセリム。そこは怖いよ。
子供達の声も聞こえてきた。随分と久しぶりな気がする。
「 俺の子供達に近寄るな」
不意に前から衝撃を受け、体がよろめいた。サアッと闇が消えて、草原と夜空になった。黒い人影がセリムの前で揺らめいている。
「グロブス・サングリアルさんですね?」
直感だ。黒い人影の向こうには満天の星が輝いている。ここは、かつて彼がアモレと共に流星を見た丘だろう。
「俺の子供達に近寄るな」
「かつてテルムがそうしたように、僕はあなたが作った尊い命と共に生きたいです」
返事はない。黒い影は揺らめいている。まるで焚き火のように。いや、火事場の火炎のようだ。メラメラと燃え盛り、勢いを増していく。
「グロブ——……」
パチンッと影が破裂。火の粉のように影の破片が目に飛び込んできて、思わず目を瞑る。
——滅ぼせるものなら滅ぼしてみよ
——返り討ちにしてやる
——絶対に許さない
——……! ……!
声が聞こえるが何か分からない。
行かなければならない場所があるので気にしないことにした。
——……‼︎
誰かの声がした。
***
【ホルフル蟲森】
懐かしいホルフル蟲森に、胸が躍る。ラステルは大きく息を吸った。
「セリムよりも早くシッダルタを村に呼ぶ気がしていたのよ」
ラステルの声掛けにシッダルタからの返事はない。
ホルフル蟲森製の防護マスクの向こうでどんな表情をしているのだろう。
頭から顔を包む布と清浄草入りのマスク、それに大きな防護眼鏡に兜だったのがセリム。優しい光を放つタリア川の底のように青い瞳はいつも見えていた。
けれども、今のシッダルタは顔前面を覆う防護マスクをしているので目元さえ見えない。あのマスクの視野が極端に狭いことはラステルも知っている。
「君には話すなと言われていたんだけど、俺はそう思わないと思うから話しておくよラステル」
シッダルタは恐る恐るという様子でキヒラタに手を伸ばした。
「シッダルタ?」
シッダルタの隣に立ち、同じようにキヒラタに触れる。肉厚なキヒラタは皮を十分に剥いでよく煮れば美味しくなる。と言ったらシッダルタは驚くだろう。
「君を狙うあのタルウィという男が、ワーフを占拠したらしい。エルバ連合は兵を集めて、ワーフ奪還とタルウィ討伐を行う」
「えっ?」
タルウィという単語に鳥肌が立つ。あの男はまるでこの世の悪を集めた、というような恐ろしい空気を纏っていた。
「アンリさんも向かう」
「アンリも⁈ そんなのダメよ!」
叫んでから、他の誰かなら良いのか? という考えが脳裏によぎる。兵士なら良いのか? 違う。それは断じて違う。しかし、誰かが行かなければ、あの男に誰かが危害を加えられるのは明白だ。
「ティダが現れるかもしれない、ってさ。俺には彼女の考えは理解出来ない。大事な体なのに……」
「口止めって、アンリね!」
「いや。それもあるけど、ラステル。君を探す男が君を求めて他国を荒らしている。セリムや君が黙っていると思えないって。俺は違うと思ったから話した」
シッダルタに見据えられた気がして、ラステルは首を横に振った。
「私、何も出来ないって知っているわ。それどころか殺戮兵器ですって。地の果てまで逃げないと、もっと酷いことが起きるって分かっている。あんな……」
死屍累々は御免、と言いかけた時にチリッと胸の奥で何かが焼け焦げるような気配がした。
——憎い
——憎い
シッダルタの厚い手袋に覆われた両手を取り、ギュッと握りしめる。遠くから声がする。
薄れていた一体感に襲われる。私は全で個ではない、と誰かが叫んでいる。私だ。ラステルの中でラステルが「憎い」と大絶叫している。
「私はラステル・レストニア。私は……」
手を握り返される。首を大きく、ゆっくりと、横に振る。
「君とアピス、しいては蟲達との繋がりはセリムの存在によって断ち切られたらしいけど、別れ際、そのセリムの様子がおかしかった。アピスの子達が俺に話しかけてきて、こちらからの話は通じないけど、声は聞こえる。まあ、今は沈黙なのか何も聞こえないけど。代わりにセリムは無視されている。ラステル、目が真っ赤だ」
身を引こうとしたら手を引っ張られて引き留められた。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。シッダルタが怖い。それ以上に恐ろしいのは——……。
「死にたくないシッダルタ! 皆そう思っている! それでもセリムの為に北へ向かった! 次々落下して、動けない。痛い、痛くてならないわ!」
押し寄せてくるのは「憎むな、けれども戦え」という感情と激痛。立っていることが辛くてラステルは膝をついた。
——許して刺されろ
「セリムは変よ! 許して刺されて絶望の中で死んでいけと言うの⁈」
——戦え
「違うわ! セリムが言いたいことは暴力では何も解決……」
シッダルタから手を離す。下から上へと突き上げる衝動を、自分の左手で右手首を抑えて堪える。
左手の行き先はツタなんかを切るナタだ。草を刈るナタは武器にもなる。持ってくるんじゃなかった。
「ラステル、ラステル・レストニア。俺達は二千年前のその先を行くんだ。セリムが導いてくれる。過去は絶望ではなかっただろう! 今も続いている! 俺達が証明するんだ!」
シッダルタに手を取られ、ラステルは悲鳴を上げた。頭の中でガンガンと警鐘が鳴る。激しい頭痛がして、思わず目を瞑る。
敵だ。敵に捕まった。殺される。
プツン、と糸が切れるような音がした。その次はバァァァンと扉が開く轟音。
——殺される
——守ろうとしたのに殺される
暗転した視界が草原に変わる。いや、丘だ。
「ここ……」
知らない場所なのに、知っている感覚。
青々と生い茂る草が、そよ風に揺れている。シュナの瞳のような澄み切った空。雲一つない。なぜだか胸が苦しくて、泣きそうになる。
「お父さん!」
ラステルの横を、黄金稲穂色の巻き髪を風にたなびかせた少女が横切る。
「シュナ?」
思わず振り返る。どことなく似ているが、似ていない気もする。美しいのは同じだ。
少女は黒い影に向かって走っている。
「お父さん! アピスが毒消し草を見つけたの ! もしかしたら沢山の人が助かるわ!」
心地良い声だ。どこかで聞いたことのある声色。懐かしい、そう感じた。
瞬きをしたその時、黒い影の前に突然セリムが現れた。見慣れた金髪に、風に揺れる癖っ毛。タリア川の底に産まれる結晶色の深い青色の瞳。目鼻立ちに背丈。どう見てもセリムだ。
ふと我に返る。ホルフル蟲森にいたはずなのに、なぜいきなり知らない場所にいて、遠く離れているはずのセリムがいる。
黒い影が突然破裂し、火の粉のようになってセリムを包み込んだ。
「セリム!」
「滅ぼせるものなら滅ぼしてみよ!」
こちらを勢いよく見たセリムは、黒い影になっていた。目だけが爛々と、毒々しく輝いていて、そして真っ赤だ。血走った白目に、鮮血のような虹彩。
ラステルは走り出した。しかし、前に進まない。それどころか、後退していく。まるで地面が後方に動いているかのように。
「返り討ちにしてやる。絶対に許さない」
唸るような低い声。
「セリム!」
嫌な予感がする。このままだと、とても恐ろしいことが起きる。
「セリム!」
トプンッ、と沼に石が沈むように影が消えた。
「セリム‼︎」
走っても、走っても追いつけない。手を伸ばしているのに、届かない——……。
「……テル。ラステル! ラステル・レストニア! 息をしろ!」
背中を叩かれたと同時に、目の前に見慣れた防護マスクが現れた。
「私……」
今のは何? 幻覚?
「どうしたラステル。何もないのにまるで溺れたみたいに……」
表情は見えないが、シッダルタの声は心配げ。
「私……。セリムは? シッダルタ、セリムはどこ?」
ザワザワと身の内側から嫌な気配がする。
ブブブブブ、という羽音が近づいてくる。周囲を見渡すと、アピスの子達が四方八方から集まってきている。三つ目が一様に黄色い。
アピスの子が一匹、シッダルタの背中にしがみつく。そうすると、次々とシッダルタの体にアピスの子達が張り付いた。頭、腕、背中が埋もれると、その次はアピスの子同士でくっついていく。
「何だ? えっ? 何だ⁈」
シッダルタがよろめき、地面に突っ伏した。
「お、重い……」
ラステルは地面に膝をついて前屈みになり、シッダルタと顔を突き合わせた。
「シッダルタ、皆はなんて言っているの?」
「いや、何も。いや……待ってくれ……」
「シッダルタ?」
アピスの子達の目がサアッと風が吹いたように紅色に染まっていった。
「怖いだ。怖いと聞こえる。とても小さな声だけど、怖いだ」
アピスの子達は更に集まり、ラステルの頭や背中、腕にもくっついていった。どの子達も震えている。
ラステルはアピスの子を一匹抱き寄せ、産毛を撫で、地面へ置いた。一匹ずつ体から引き離し、同じように撫でて近くへと置く。
「セリムに何かあったのね。大丈夫よ。私とシッダルタがいるわ。大丈夫。絶対に大丈夫だから」
シッダルタの体からもアピスの子を剥がす。その途中、シッダルタが嗚咽し始めた。
「うえっ。げほっ……ごほっ……」
シッダルタの体が見えてきたので彼ににじりより、背中をさすった。
「シッダルタ、しっかりして」
「何だこれ……。目が見えない……。暗闇で……気持ち悪い……」
「深呼吸よシッダルタ。その先には……」
その先? なぜ、そのようなことを口にした?
「その先には……」
全身の毛が逆立つ感覚がして、ラステルはシッダルタから離れた。ゆらり、と体を揺らしながらシッダルタが立ち上がる。
——怖いよセリム。その先は深淵だ。行かないで
「シッダルタ、深淵に行ってはダメ!」
するり、と言葉が飛び出た。深淵とは何? 分からないのに焦りが襲ってくる。
「フム。クイレスト」
立ち上がったシッダルタが、自分の両掌を見つめ、握ったり離したりを繰り返す。
「レナトゥス……」
「シッダルタ?」
「ネファス。いや、こうか? 違う。分かレか?」
イントネーションがシッダルタと違い、声の出し方も異なる。辿々しい喋り方。
「あなた……誰?」
セリムの体をレークスが乗っ取ったことを思い出す。目の前の男は、シッダルタではない。それは、確信に近かった。
「ふふふ、あははははは! ヴィティテ! ヨミがえるとは!」
高笑いを続けるシッダルタを、ラステルは茫然と眺めた。
セリムに何があって、シッダルタが何かに乗っ取られた。何が起こったのか理解が出来ない。
「っ痛……」
男が片手で帽子を押さえた。
「シッダルタ! あなたはシッダルタよ! しっか……」
ラステルが立ち上がり、シッダルタに手を伸ばした時、アピスの子達が次々とシッダルタに飛びかかり、彼の体を突き飛ばした。
一匹が、シッダルタの頭に突進。それでシッダルタはふらりと揺れて、地面に倒れていった。
「シッダルタ!」
駆け寄り、しゃがみ、シッダルタの体を揺らす。小さな声を出して体を起こしたシッダルタが「俺……」と呟いたので、ラステルは心底ホッとした。
***
【ドメキア王国北西部 とある村の路地裏】
クライトンは全身の痛みに呻いた。
しかし、傍にしゃがみ、自分の手を握り、無表情で顔を見つめているフィーリアに向かって、小さく笑ってみせた。
「大丈夫だ……」
彼女からの返事はない。それで、構わなかった。
目を離した時に路地裏に連れ込まれ、襲われかけていた彼女を無事に救えた。それで十分。
非力でボコボコにされたが、研究所から持ってきた銃で何とか脅せたので助かった。
「これから先は……。守る側になりたいんだ……」
繋いだ手の確かな温もり。これを、守れるだろうか。
目を瞑り、小さく浅く呼吸をする。肋骨が折れたのか、息をするだけで痛む。
瞳を閉じた暗闇の向こうで、赤い点々が点滅する。握っている手が熱い。体温ではなく、まるで火のように。
——許さない
何だ? と思った時にはプツンと意識が途絶えた。
***
【同場所】
「こンドはテイちゃくか?」
それにしても全身が痛い、とグロブスは手を握った。掌がヒリついている。
そうしてから、何かを掴んでいると気がつく。
開けにくい瞼を動かすと、そこには、かつてよく見た無表情の少女。アモレと顔立ちは似ていないが、一度も日に当たったことがないような青白さに、能面のような無表情とはそっくりだ。
「人形人間カ?」
「フィーリア……」
フィーリアと名乗った少女はグロブスの手を強く握りしめた。
ここが何処なのか、フィーリアが何者なのか、記憶がフラッシュバックのように脳内を駆け巡る。
「ヒとトハオロかなママカ……」
そして愚かなのは自分自身だろう。自らが生み出した技術が、このような奇跡を引き起こすとは。信じ難いがこれは現実。
「ワルいし……マズハカラだをツクるカ……デキるか?」
長い年月、薄ぼんやりとした世界で様々な感情を共有してきた。ずっと憎み、ずっと憤り、怒っていた気がする。
つい先程、別の誰かの体に出現した気がするが、既にもう曖昧。
ふと気がつく。自分がこのように他人の体を媒介にして蘇れたのなら、失った者もまた……。
研究と実験が必要だが、それには犠牲が伴う。今のような想定外の事象が起こる。そのような人生には、もう辟易している。この記憶だか、心だか、神経伝達物質の塊なのか何なのかをうつす体作りという発想にも嫌悪感を抱く。
根っからの研究技術者だな、とグロブスは自嘲した。
「憎い……」
憎い。憎い。なんて憎い。心の底から、ドス黒い感情が突き上げてくる。
この青年の記憶が確かなら、滅ぶべき人はまだ生き続けていて、悪魔も存在している。
「ホロべ……」
グロブスは痛みを堪え、立ち上がった。泣き喚いても、神に祈っても、何も起こらないということは良く知っている。
死ね、と声に出し続けても、相手が呪われて死ぬことはない。
志半ばで死んだが、自らが産んだ技術の副産物か何かでこのようにして蘇った。その意味は、目標を達成せよということだろう。
悪魔だけは許さない。必ず、滅ぼしてやる。




