崖の国とセリムの攻防 1
【崖の国】
窓の向こうは幻想的な世界。しかし、色づいた雪のような飛来物は全て毒の胞子だという。
アンリは窓際の椅子に座り、故郷のドームの向こう側に降っていた雨や雪に思いを馳せた。
この光景は、ある意味ペジテ大工房と同じだ。アシタカは「僕達はガラスケースに閉じ込められている」と口癖のように言っていたが、崖の国も見えないガラスケースに閉じ込められている。
『美しい豊かな大自然の中で暮らす』
ペジテ人のその憧れは世間知らず故の理想で、現実は甘くないと、目の前の光景が突きつけている。
大国ドメキア王国のガラスケースは権力闘争、他国との戦争、貧富格差などだろう。
それに崖の国ほどの被害ではないが、ドメキア王国にも崖の国と同じように、蟲森の何かの植物が原因だと考えられる根治不能な風土病が根付いている。
——アンリ、フェンリスから伝言だ
誰もいない部屋で、頭の中に響く声。ウールヴからの「フェンリスからの伝言」には最近少々慣れてきた。直接話せないのがもどかしい。
——何かしら?
——この国が大蜘蛛狂人に狙われていて、近いうちに現れる可能性があるそうだ
アンリは目を瞑った。ウールヴの心に近寄ろうと自分の脳内を空にする。
ウールヴはどこかの崖の上にいて、全身に逆突風を感じているようだ。胞子が鬱陶しいという感情が流れている。大狼は蟲森の毒に対する耐性があるとは聞いている。
狼のこの伝心術は、とても不思議な能力だ。蟲も似たような能力があるらしい。
——逃げろってこと?
——アンリはどうせ逃げないから、敵を討つ準備と住民避難の指示を出せと。民間人が1人でも捕まると拷問に使われる。今のお前には無理そうなのでゼロースへ伝えろ。
——指示を出せって、ティダは私の性格を理解して尊重してくれるのね
——さあな。妻を死なせたら親友も部下も、一族郎党まとめてブッ殺すとさ。くはははははは!
——相変わらず物騒な発言。本心じゃないくせに。
——まさか。アンリ、少なくとも俺はフェンリスに殺されるぞ。親友の身重の妻を目の前で殺されたら、あいつに砕かれなくても自死を選ぶ。
——そう? 誇りを大切にするのなら生きて。私は命を粗末に……
——黙れ。我等大狼の矜恃を未だ理解出来ない人の娘よ、口を出すな。フェンリスの子ごと妻を死なせるなど末代までの大恥だ。
アンリはため息を吐き、肩を竦めた。ウールヴは近くにいないが、アンリの感情を全て受け止めているだろう。その上で否、と提示された。
——ヴァナルカンドの家族に話してラステルとクラテール、それからマールムの3人をイブンという男へ引き渡してホルフル蟲森内に隠す。既に手配済みだ。護衛はホルフルアピス達とスコールに任せえある。フェンリスは「行けるように動くが保証は出来ん」だとよ。
バタン、と扉が閉まるようにウールヴの気配が消滅。アンリは窓に背を向けた。
「行けるように動くって、どこで何をしているのかしら……。まだロトワ蟲森? それともグルド帝国?」
下腹部に右掌を当てて、目を瞑る。ティダの名前を何度も呼んでみるが、返事はない。
伝心術とは便利なようで不便だ。アンリが未熟なのか、相手がその気でないと会話出来ない。
「ソレイユさん探しは蚊帳の外。囲われる指揮官。最終的には保身のために逃げるのか……。おかえりって言わないといけないもの……」
アンリはゆっくりとしゃがみ、体を丸めた。また吐き気が襲ってきた。指摘された通り、妊娠したようで、つわりが酷い。
両手で口を押さえながら、ケチャに用意してもらった蓋つきの壺へ向かって、這いつくばって移動する。
壺の蓋を急いで開ける。匂い消しだという薬草が入った壺は、吐瀉物がある程度溜まってもちっとも匂わない。
アンリは壺を抱えて吐くだけ吐くと、しばらく休み、その後洗面台へ移動した。
水差しから陶器製のコップへ水を注ぎ、口を濯ぐ。
その動作だけで疲れてしまって、その場に蹲ってしまった。
「盾になりたいって励んできたのに、沢山の盾に囲われるなんて……。こんなに辛いとは思わなかった……」
心細い。不安。涙が出そうになった時、部屋の扉をノックされた。どうぞ、と声をかけるとラステルだった。
「まあアンリ。寝てないと」
「景色を見ていたの。綺麗だなって」
駆け寄ってきたラステルがアンリの背中に手を回す。そっと背を撫でられて、アンリはティダを思い出した。
大きく骨張った手は、いつも過剰な程優しかった。
ラステルの手助けを受けながら、ゆっくりと立ち上がり、小さく息を飲み、奥歯を噛む。
「アンリ?」
「横になるわ」
「ええ、その方が良いわ。険しい顔をして、どこか痛い? それならすぐに城婆やクイお姉様を呼ぶわ」
「ううん。代わりにクロトワ様とゼロースさんにカール、シッダルタ君を呼んでもらえる? ティダからの伝言があるの」
「ティダ師匠から?」
ラステルの表情が明るくなり、その後に曇った。
「良い話ではないのね。それにセリムのことも分からない」
「私、隠すのは上手い方だと思っていたけど貴女には負けるわ」
アンリはよろよろとベッドへ移動しながら、心の中で自身を叱咤激励した。
お腹の子供やティダ、そしてこの国に巡り巡って大切な人々や祖国を守る為にも、心身共に弱っている場合ではない。
アンリが布団に潜り、横になると、ラステルが踊るように部屋を飛び出して行った。
【ロトワ蟲森 リングヴィ】
セリムはティダの背中を見つめ続けている。彼の傍にはヴィトニルがピタリと寄り添う。ティダの視線はどんよりとした曇り空。
岩山を吹き抜ける強風で割と長めのティダの黒髪は暴れに暴れている。
「ティ……」
声を掛けようとした時、ティダが振り返った。ぼんやりとした瞳をしていて、顔は蒼白。唇の血色も酷く悪い。
「ヴァナルガンド、随分と子狼を集めたな」
ティダの指摘通り、セリムは数十匹の大狼の子供達に囲まれている。
モフモフでちょっとした幸せではあるが、状況が状況だけにはしゃげないし、気分も上がりきらない。
「何があったんだ? 誰とだ?」
「崖の国にグルドから貴重な亡命者が現れた。俺の獲物はラステルを探して南下中かもしれん。邪魔がいてグルドへは行けないし、ベルセルグへ戻って、ボブル国を経由し崖の国へ向かう」
ティダがその場に腰を下ろすと、ヴィトニルが背もたれになるように彼の背後に伏せた。
「タルウィがラステルを⁈ 南下ってエルバ連合に入ったってことか⁉︎」
セリムはティダに駆け寄ってしゃがんだ。子狼達もついてくる。
「エルバ連合に入ったのかは分からん。崖の国にはお前の親父や兄姉達にアンリ達がいる。国民ごとラステルを上手く隠すだろう……客のようだな」
視線をセリムの後方へ向けたティダは目を細めた。
セリムが振り返ると、周りにいる子狼達が二手に分かれて道を作り、その間に毛の長い大狼が立っていた。
黄金色の瞳は半分毛に埋れていて、憂いを帯びたような光を宿している。佇まいや体格からして高齢だと推測される。
——本山の老狼ではないですね。孤高ロトワから参られました?
——左様。朕はオーディンを継ぐ者。流石はウォーデンの孫。察しが良いな。あの枯れ木マリアや傀儡王の息子とは思えん。
ずっと立ち上がったティダが、品のある会釈をした。しかし、笑顔ではなく少々険しさを残した無表情だ。
——オーディンとは我等大狼の神話に登場する大帝陛下。彼を継ぐ者とは……無知故に存じ上げなくて申し訳ありません。しかし、まあ私は孤高ロトワだか岩窟龍国だかには興味ありません。用件はこの大蜂蟲の王についてです?
この、とティダが告げた時にヴィトニルがセリムの真横にサッと移動してきた。ヴィトニルが小さく唸りはじめる。
——左様。迎えにきた。ペジテカルケルの監視者から大会合の提案があった。古き誓いにより我等岩窟龍国は参加する。
——監視者とは大技師ヌーフ殿のことでしょうか?
——否。我等も知らぬ者。しかし本能が従えと告げている。勝手に協王を名乗るアシタカという男だとは思わんのか? あれはあれで北西を統べる王達が担いだ神輿として、大変興味深い。彼も招かれるぞ。
ククク、クハハハハ! とオーディンが吠えるように笑い始めた。空気が震える。セリムの体にビリビリと痺れるような威圧感が襲う。
セリムの脳裏に「気高くて聖なる王」とはペジテ大工房の地下に広がる蟲森にいる王では? という考えがよぎった。
——ウォーデンの孫にして岩窟龍国の皇太子フェンリス。そうでなくても、大狼の若手筆頭を名乗っているからには参加してもらう。老狼の上に立つ朕の命には従うよな?
ティダは返事をせず、チラリとセリムに視線を投げた。
——私がロトワへ入ってから今まで少々時間がありました。随分と接触が遅かった理由は何です? それに蜘蛛との冷戦について教えていただきたいです。
——朕はあくまで山岳一族老狼と岩窟龍国との橋渡し役故に、アラーネア達と山岳一族内の抗争については把握しきれておらん。大方、ペジテカルケル崩しだろう。かのペジテは古い時代から今日までずっとアラーネア達の宿敵であるからな。
オーディンは小さく鼻を鳴らし、首を横に振った。
——山岳一族の分裂についてはそちらの方が詳しいはず。まあそなたは山岳一族ではなく我等の国に属する者だからな。それに野生人なんぞに構っているからだ。余所者は余所者、お客様はお客様ということだろう。
——お客様?
ティダの笑顔は崩れないが、纏う雰囲気が険しくなった。
——無知なる皇太子よ、まずはラトナの泉へ案内しよう。崖の国とやらには、協王ヘルメースがアデスを連れて援助を行う。そこのホルフル大蜂蟲の王に従う民と崖の国との仲介役だ。
くるり、とオーディンはセリム達に背を向けた。
——アデスなんぞヘルメースの役に立たなそうだ。ソレイユ姫はどこへ消えたのか……。
ゆっくりとした足取りで遠ざかっていくオーディンに向かって、ティダは無言で足を進め始めた。セリムは彼の隣に並んだ。
「ティダ、従うのか?」
「異種生物の王が集まるなら全部まとめて俺の駒にする大チャンス。駒があればタルウィ狩りがしやすくなる」
ティダは肩を揺らし、セリムの背中をトントントンと三回軽く叩いた。
「お前が呼ばれている。俺の最優先はお前だ。防波堤がいるのだから、好きに暴れろよ」
柔らかく微笑むと、ティダは俯いた。瞳には憂いと戸惑いが滲んでいる。
セリムは「ティダはアンリやラステル、崖の国を優先しないことに苦しんでいる」と察し、それを隠さない彼からの親愛と友情に身を震わせた。




