意思疎通の輪に残る光と影 4
【ロトワ蟲森】
枯木里のマリア。それがディダの母親の名前だった。蟲森の服なので、全身が隠れていて姿は不明。
「あの……もし……我が子を……ヘリオスをどうか化物狼に……食べさせないで……下さい……」
セリムが名前を訪ねた後、マリアはセリムの足にしがみつき、啜り泣きのような声を出した。何とも弱々しい声を出す女性だ。化物狼とマリアが口にした瞬間、周りの空気が張り詰める。
「マリアさん、大狼は化物ではありません。侮辱すると怒らせます」
セリムがマリアに説明した時、ギルがヘリオスを噛むのをやめて吐き出した。次は前足で背中を踏む。
「へ……ヘリオス……」
セリムのズボンを掴むマリアの手に力がこもる。ティダの指摘通り、彼女がヘリオスを大切に思っているのは間違いなさそう。
「ギル、ヘリオスを離して欲しい。ティダは脅すと言ったが、僕はそういう事は好まない」
ギルはプイッと顔を背けただけだった。
「マリアさん。ティダは岩窟龍国について知りたいようです。それから異父兄弟のこと。話してくれます? あの通り、大狼はティダと親しいので酷いことはしません」
「痛い、痛い、痛い!」
ギルが足に力を入れたのか、ヘリオスがジタバタ暴れて叫ぶ。
「訂正します。あれ以上はしません。殺したりとか、そこまでは」
セリムはギルを軽く睨みつけた。話の腰を折らないで欲しい。ギルがビクリと少しだけ身を竦める。ヘリオスが静かになった。ギルに気持ちが伝わったらしい。
「あの……ヴァナルカンドさん……。岩窟龍国は……私の故郷です……。何でも話しますから……ヘリオスにご慈悲を……」
これは困った。完全に怯えられている。ティダのせいだ。文句を言いたい。ティダは地獄耳だから聴こえているに違いないのに、無視している。王狼の尻尾に包まれて、羨ましいし腹が立つ。
「ですから、マリアさん。僕はヘリオスに酷いことはしません。そういう行いは好きではない」
不意に、カサカサ、カサカサ、カサカサという音がした。周囲を見渡す。岩陰から岩陰へ生き物が移動したと感じた。
「この音、アラーネアだ……」
ヘリオスが呟く。巨大蜘蛛がいるようには見えない。
「ヘリオス、アラーネアは大きいだろう? 周りの岩はそんなに大きくなくて……」
カサカサカサカサカサカサと掌程度の大きさの蜘蛛の群れが、四方八方から近寄ってくる。大狼達が集まってきて、威嚇の唸り声を発する。ティダももう体を起こしていて、アスベルとオルゴーのすぐ隣に移動していた。
「アラーネアの子供達か?」
大狼を避けて、小さなアラーネア達はセリムに近寄ってくる。しゃがんで手招きしてみる。アピスの子、アングイスとセルペンスの子、次はアラーネアの子。噛んでもらったら、蜘蛛の子にもなれるかもしれない。
「君達の王は僕と話してくれた。誤解があるようなので解きたい。僕は破壊ではなく再生をしたい。人と異種生物の絆を結ぶんだ」
アラーネアの子は一匹も近くに来ない。
「ヴァナルガンド、肉食蜘蛛にまで気に入られたいとはお前は本当に変人だな」
「肉食? アラーネアは肉食なのか?」
ティダを見たとき、左手小指に激痛が走った。あまりの痛さで呻く。小指を見たら、アラーネアの子に噛み付かれていた。鮮血がボタボタと岩へと流れ落ちる。
——さあさあ、賭けて下さい! 生き残るのはこの猛獣、獰猛な九尾の化物狼か、それともデビューして四ヶ月、未だ無敗の怪物蜘蛛か!
頭の中に響き渡った、知らない男の声。アングイスとセルペンスの子に噛まれた時と同じ現象。
——引き裂け!
——行け!
——殺せ!
——噛み砕け!
嘔吐しそうになり、口を押さえる。汚い言葉の罵声が次々と聞こえてきて、頭が割れそう。濁流のような渦が見える。そこへ行かないといけない。そう、本能が告げている。
——そっちに行っては駄目よ
ラステル?
「止めろ。見るな」
バシンッと背中を叩かれ、ハッとする。見上げるとティダがセリムを見下ろしていた。険しい表情。というより、ティダの顔色はかなり悪い。ティダに腕を掴まれ、アスベルとオルゴーの元へ引きずられた。
「弟子を見張っておけ。ったく、また珍妙な事になるぞ」
「珍妙? 破壊神? ティダ、さっきラステルの声がした」
見渡したら、もうアラーネアの子供達はいなかった。ラステルも見当たらない。ホルフルアピス蟲森へ向かったので、このロトワ蟲森にラステルが居るはずがない。
「ラステルではなくアモレだ。お前が覗こうとした先に、恐らくサングリアルがいる……」
口にした途端、ティダは岩場の下に向かって吐き始めた。
「サングリアル? アシタカのことか? ティダ、大丈夫か?」
「……最悪なものばかり見せやがって……。アラーネアめ……。俺の直下を強奪しようとは許さん……」
えづくティダの背中をさする。触るな、見るなというように、腕で追い払われた。
「もしかして、ティダは僕を庇ってくれたのか?」
「さあな。とりあえず少し待ってろ。血塗れの手で触るな」
さあな、ということは肯定だろう。見るなというのは、セリムが覗こうとした蟲の憎悪の意識。いや、蟲ではなくアラーネアか。アラーネアの子はセリムにそれを見せて、どうするつもりだったんだ?
「セリム、一先ず指の止血をする。診せなさい」
近寄ってきたアスベルがポシェットから包帯を出して、小指に巻いてくれた。
「こんな有毒植物ばかりの森で、生傷晒して平気とはどういう体になっているんだ?」
「さあ、分かりません先生。ペジテ大工房の技術で調べてみようって話を、アシタカとしてました」
急に耳鳴りがして、セリムは思わず目を瞑った。立っているのが辛い。
——この体、どうなっているんだ?
——次も試してみよう
——追加の採血もする。真空管を取ってくれ
痛い。腕が痛い。熱い、足の皮膚が焼かれるように痛い。
「セリム、セリム! しっかりしろ!」
体を揺らされて我に返る。アスベルがセリムの目を真っ直ぐに見つめている。酷く心配そうな表情。
「先生、僕はどうなっていました?」
「目が……」
「目が真っ赤だヴァナルガンド。うえっ……。もう吐くものはねえのに……。それにしても、完全に閉ざしたのにその目か。閉じ切れてねえのか?」
ベッと唾を吐くと、ティダは腹をさすりながら首を傾げた。
「ティダ、僕はドメキア王国の時と同じか?」
「いや、逆だ。あの時はお前の激昂にアシタバ半島のアピス達が引き摺り込まれた。あいつらも激怒していたけど、お前の怒りに掻き消された」
ティダにペタペタと頬を叩かれる。
「アピスに断ち切ってもらったのに、蜘蛛を取り込むとは困った奴だな。まあその前から、侵入されていたけれどな。大陸中、仲良しこよしなんて夢物語。むしろ、もう真逆だ。なのに、お前は本当に困った男だな」
頭を握られ、乱暴に髪を撫でられた。口にした言葉とは裏腹に、ティダは笑顔だ。
「ティダ……」
「謝ったら頭蓋骨粉砕するぞ。俺はお前がやることの何もかもを許さねばならん。好きにしろ。村から誰も来ないようなので、リングヴィへ向かう」
行くぞ、と腕を掴まれて引っ張られる。
「ティダ、君は北東へ行くのをあれだけ急いでいたのに、油を売っていて良いのか? 岩窟龍国の王や大蜘蛛の王と交渉すべきだ」
「何事も焦ると損をする。蜘蛛が何なのかと大蜘蛛の王の炙り出しが先だ。岩窟龍国も俺を利用したければ、姿を現わす。アスベル、お前は何か知らないか?」
アスベルの名を呼んだのに、ティダはギルに睨まれるヘリオスへ近寄っていった。ティダの腕が伸びて、ヘリオスの顔を掴んだ。
「ひっ! んぐぐ」
「母上にご慈悲を。何でも話します。だろう? っとに使えねえな」
片手でヘリオスを持ち上げると、ティダは彼をギルに向かって投げた。ヘリオスは再度ギルの口に噛まれる。セリムはまたギルの尻尾に捕まった。
「ぎゃああああ……痛くない……。兄上は俺を殺す気なんてないじゃないですか……。母上の事だって……優しい目で見て……」
「ん? そうか? 俺には優劣がある。一応、子捨て人でも親は親だ。存在も知らなかった弟よりも母が上。見えないところで、ゆっくりと殺す」
ヘリオスの悲鳴が蟲森に響き渡る。マリアが耳を塞いで体を竦めた。
「ティダ……止めて……その子は……本当に貴方の……」
「ティダ、止めろ。君はまたヘリオスの指を折ったな!」
「でも、岩窟龍国の誰も出て来ねえんだよな。お前は見捨てられたようだなヘリオス」
ティダは大袈裟に周囲を見渡し、小さなため息を吐いた。その次は親しみやすい苦笑い。
「使えない道具をいたぶる趣味はねえ。特にお前は弟だ。ヘリオス、俺は別に岩窟龍国を裏切れとか、国を襲う手伝いをしろと言っている訳ではない。質問に答えろ。それだけだぜ? 俺の友の問いにも無視しないで欲しい」
脅したと思ったら、急に優しい態度。おまけにティダは心底すまない、そういう顔付きになっている。何もかも演技だろうが、よくもまあこんなにコロコロと態度を変えられる。
「ア、ア、アラーネアはアラーネアです……。領地はゴヤ……。岩窟龍国にもアラーネアはいるけど別種というか……昔にゴヤから離脱した者達です……。俺は岩窟龍国以外の事は本や噂でしか知りません……」
メソメソ泣きながら、ヘリオスが呻く。ティダがヘリオスの顔を覗き込み、彼の頭を優しく撫でた。
「知らない事は罪ではない。俺は情報が欲しいだけで、無い情報を捻り出せとは言わない。ヘリオス、俺は身内には甘い。その調子で喋るなら囲ってやってもよい。アスベル、手当して欲しい。頼む」
ギルの頭を軽く撫でると、ティダはヘリオスに背を向けて歩き出した。アスベルはティダを睨み、ヘリオスの指を手当てし始めた。
「また折ったのか。可哀想に。セリムの言う通り、乱暴をするな。あと、私も蜘蛛みたいな生物は今日まで見たことがなかった」
「可哀想と思うなら、身を乗り出して庇うんだな」
文句を言いたいし、自分で歩けると告げたいけれど、体が鉛みたいに重い。怠い、そう思った時にギルの尾から投げられ、ティダがセリムを受け取り、肩に担がれた。ヘリオスとマリアは大狼に囲まれて、歩かされている。
「ヘリオス、よくぞ俺の殺気の無さを見抜き、信じ抜いた。そういう、真贋を持ち根性がある者は好ましい。仲間を見捨てる国より、俺の弟分の方が余程豊かに暮らせるぞ。良く考えろ」
優しい声色なのに、ヘリオスに見せていない顔には、心底嫌そうな表情。
「ティダ、君の本心は何だ?」
「とっととこの森を抜けてグルド帝国に乗り込みたい。しかし、邪魔者ばかりで困った。本山にいる蜘蛛はゴヤと岩窟龍国、どっちのアラーネアだ? どう交渉したらゴヤに入っても許される? 必要な材料は何だ? そんなところだ」
「ヘリオス君を脅して、マリアさんを村から連れ出して、岩窟龍国の接触を待っているって事か」
アスベルがティダの隣に並び、その後ろをオルゴーがドスドスと追いかけて来る。アスベルの問い掛けにティダは小さく頷いた。
「相手もそれが分かっていて、現れないってところだな。東へ行けと言ったり、邪魔されたのに手伝わずに沈黙したり、訳が分からん」
セリムも大きく頷いた。
「グレイプニル、申し訳ないが母とそこの軟弱弟を先にリングヴィへ連れて行ってくれ。ヴィトニル、俺達を頼む。ギルは俺の兄貴分とヘンテコ泥人形を宜しく頼む」
トンッと跳ねると、ティダは王狼の背中に乗った。セリム達の両脇を白い影と疾風が吹き抜ける。グレイプニル、ギルの姿が消えた。アスベル、オルゴー、マリア、ヘリオスの姿も同様。セリムはティダの前に座らされた。
「熱発してるな。しがみついていろ」
熱? 言われてみれば体が熱い。ティダに背中を押され、体を倒す。ティダはセリムが落ちないように、そっと助けてくれた。王狼のふかふかの背中にへばりつく。怠くて仕方がない。
——殺せ!
——殺せ!
——噛め!
群衆から飛んでくる罵声。この記憶はアラーネアのものか? 酷く苦しい。悲しいし、辛い。逃げたいのに、逃げられない。
——例え造られた命といえど同じ命。自由を得る権利がある!
——さあ、自由だ。好きに生きろ!
この声……以前、ノアグレス平野で見た夢の中にいた男性だ。アモレの養父……蟲の父……。テルム……。
——たった1匹でも残れば、決して絶滅しない。
——滅ぼせるものなら滅ぼしてみよ。
——返り討ちにしてやる。
——俺の子供達に近寄らせない。
——必ず復讐する。
——永遠に続ける。
——愚な人など死ぬがよい。
——決して許さない。
ここは何処だ? 沼だ。深い沼。暗闇しかない。息が出来ない。
息子は紅蓮の炎に燃やされ炭となった。娘は青紫の炎に毒され燃やされ炭になった。子供達はあらゆる命を守る為の犠牲になった。
——永遠に許さない。
***
希望と絶望は表裏一体。
救いと破壊は一心同体。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
***




