愛別離苦の夫婦達
【ペジテ大工房 飛行船—飛行機格納庫】
グルド帝国帝弟タルウィの目的は、おそらく国家扇動にて戦争勃発と各地でテロ。それが帝王ザリチュの見解。ティダの勘もそう告げている。恐らく、もう何かしら始まっている。ずっと、嫌な予感がしていて、気分が優れない。
各国での防衛線はアシタカが、他国の首脳陣達と上手く配備するだろうから、ティダの役目はタルウィ本人を捕縛または殺すこと。祖国ベルセルグ皇国や、崖の国が心配でならないが、物事には優劣がある。
それなのに——……。
整列した騎士団に向けてティダは苦笑いを浮かべた。肩を竦め、呆れていると全身全霊で伝える。一番は部下に指示を出しているアンリ。重火器を飛行船に運び入れている。アンリの背後に、カールが従っていた。
「聖人聖女にして俺の盟友の護衛を断固拒否とは、最悪最低な奴らめ」
皮肉は無視された。正面に立つゼロースが高々と剣を掲げた。
「我等は誰にも縛られません。自由に、己の矜持に従うのみです。 世は因縁因果。生き様こそ全て。裏切りには反目し、信頼には全身預ける。アシタカ様と蛇一族がシュナ様を完全庇護下に置いた今、ドメキア王国もまた守られる。このゼロースは帝狼の盾にして剣。威風王ティダ様の忠実なる家臣!」
真っ先に吠えたゼロースに続き、次々と似たような、それでいて己が決めたと言わんばかりの発言が他の騎士達からも続いた。
「解散だと言ったのにこれか」
ダメ元で、ティダはアンリに目を向けた。なるべく縋るような顔を作る。可愛らしい笑顔が返って来ただけだった。特殊急襲部隊服で、小脇に機関銃。化粧をしているせいで、少年兵には見えないが、全く美しくない。アンリという女の良さが台無し。
「ティダ、私は貴方の地獄を歩かないから。銃弾の嵐にいるから迎えに来てね」
爽やかな笑みのアンリに、ティダは首を横に振ったが、無視された。
——国防担う近衛兵長就任早々、崖の国を見捨てるのは嫌でしょう? 副近衛兵長が代わりをしておくから。
それがアンリの主張。で、騎士達がアンリを囲った。黒大狼もだという。知らないところで、あっという間に話が済んでいた。勝手に「蛇狼騎士団」と名乗るゼロース直下の騎士達は、三手に別れるらしい。オルゴーことハクがティダに帯同。これが第一部隊。誠狼とグルド帝国に乗り込むつもりだったのに、珍妙なのが増えた。まあ、タルウィの研究施設とやらへの道案内人にして、十分な戦力なので断る理由はない。
問題は残り。第二部隊は騎士達ほぼ全員。カールを部隊長にして、崖の国副近衛兵長アンリの部下になるという。この第二部隊に黒大狼がくっついた。まだ半人前なのに、勝手に一人立ち宣言。おまけにアンリの部下まで増えているらしい。アンリが誰と、どう交渉したのか皆目見当がつかない。大蛇蟲の王が絡んでいるのだけは分かる。アンリの周りに、ティダと働いていたはずの大蛇蟲と小蛇蟲が数匹いるのはそういうことだ。アンリが大狼や蛇一族と話せるのは、ティダにとって不利益ばかり。
おまけにアンリときたら、孤高ロトワ龍の皇子の妻。その理由だけで蟲一族、蛇一族から特例のペジテ人として扱われている。外界に兵器を持ち出すのも、飛行船を使うのも、部下を連れて行くのも許可されたという。特に蟲一族。蟲の王の腹が、探りきれない。アシタカを祭り上げたことといい、絶対に何か企んでいる。孤高ロトワとやらが、関わっているに違いない。
ゼロース、ベルマーレ、それにまさかのバースが第三部隊。王狼と共にソレイユというか、パズーを探すという。王狼や騎士達は、パズーが大事な通訳だと分かっている。それに孤高ロトワの姫だというソレイユ。身の内にしておけば、絶対に交渉材料になる。王狼は、シュナとアシタカをどうするつもりなのか。
〈くははははははは! 随分と人間なんざの群れを増やしたなフェンリス! お前の妻は身重で戦地に行くとは奇特過ぎるわ! 仕方がないのでヘジンに頭を下げてやった。ヴィトニルの倅に、ヘジン自慢の倅とは、聖人聖女に豪華な守護神だな〉
隣に立つ誠狼の九つ尾が、ティダの後頭部を直撃した。まず身重。意味不明。次に王狼の倅とはフローズとヴィティか? これはまだ理解出来る。ヘジンの息子ガルザ。ヘジンが大事な長男を、人里なんかに出す訳がない。
〈身重? んな訳ねえだろ。全くそんな匂いはしない。細心の注意を払っていた。おまけにガルザ? お前が頭を下げたくらいで、ヘジンがそんな采配するか。ウールヴ、お前は何つう嘘を……〉
誠狼がまたティダの頭を尾で叩いた。
〈耄碌しているなフェンリス。俺がアンリエッタに会った時から、既に妙だった。で、昨日。匂いで気づかんとは、疲弊し過ぎ。粒過ぎる種だ。暴れると容易に流れると伝えてやれ〉
心配そうな瞳の誠狼。嘘ではなさそうなので、自然に頬が引きつった。確かに疲れのせいなのか、アンリの匂いの変化は分からない。もう一撃、誠狼の尾による攻撃を食らった。
〈因みに、ヴィトニルがお前の横は自分だとよ。あの軟弱子狼は俺の群れだから、俺が探してきてやる。お前が気に入りのあの崖、俺の国にする。よってヘズナルと何頭か呼んである。グレイプニルとヴィティ、ドローミもあの崖に行くと言うのでアンリエッタの世話は問題無い。あと、若手をベルセルグ皇国に送っておいた。レージングばかり狡いと喧しかったからな〉
〈はあああああ! どれだけ山から出るつもりなんだ! おまけに俺の群れを食い殺す気か⁈ 人なんざ、蹴散らすだろう。 蜘蛛はどうする? 蜘蛛一族はベルセルグ皇国を潰せとずっと脅迫してきている。逆をしてどうする。俺に断りもせずに……っ危ね! 本気で掛かってくるんじゃねえ!〉
突然、大口開けて本気で飛び掛かってきた誠狼の脚を掴んで投げ飛ばした。
〈くはははははは! 帝狼が勝手だから我等も勝手にする! 他ならぬお前の妻が許可をした! 俺達は群れの序列に従わねばならん!〉
なんていう屁理屈。若手大狼の頂点はティダで、妻といえどアンリは関係ない。大狼の妻は采配に関与しない。
〈お前が群れを増やしたから、俺達直下も方々に散る。直下とは、時に命令を聞かん。群れを維持するのに必要ならな。それすら忘れるとは、この阿呆め。いずれ蜘蛛とは戦争だった。いっそ全面戦争してくれるわ! それが若手大狼の総意也! フェンリスの子を身籠もるとはアンリエッタは値千金。囲わないとならん!〉
「おいアンリ! 重い物を持つな! むしろ動くな。それから、来い。あと、よくも俺の群れに勝手に指示を出したな」
足を止めたアンリが、振り返る。顔をしかめていて、思いっきり不機嫌だという意思表示をされた。こんな顔、見たくない。
「何よ突然。それに勝手に指示? 何もしてないわよ。あれこれ相談には乗ったわ。それが悪かったの? 何度も言うけど、アシタカみたいに指揮官を選ばないなら、私はついていかない。貴方が見捨てるって心を痛めるものを代わりに背負う」
近寄ってきたアンリが、ティダの顔を覗き込んだ。挑発的な笑顔。また、脅迫を聞かされる。
「私より、何だかよく分からない矜持を選択するのだから、次に会った時には別の旦那がいるかもね。帰ってきて、良い男だったらもう一回考えてあげる。さようなら」
ティダの胸に指を突きつけてから、アンリがティダに背中を向けた。手を伸ばす。腕を振り払われはしなかった。アンリがティダと向き合う。アンリは、ティダがアンリを離さないのは当然。そういう顔をしていた。まったくもってその通りで、繋いだ手を離したくない。完全にアンリの掌で転がされている。
「よく分からない矜持ではない。最も力があるのだから先頭。仕方ないから連れて行こうとしたら、崖の国? アンリ、頼むから大人しく囲われていて欲しい。指示を出した後の指揮は直下の仕事だ。指示を出す前に、好き勝手しているらしいがな」
この場の全員を睨んだが、誰も彼もに無視された。アンリの部下だけは、ティダを恐れたようだが他は涼しい顔。
「近くにいたら私は必ず貴方を庇うから行かない。顔に、絶対連れて行きたくないって描いてあるから行かない。ねえ、自信があるのは分かるけど行き当たりばったりな行動は止めて。優劣つけるなら、アシタカの横で十分でしょう?」
ティダはアンリの懇願の視線から、目を逸らした。
「同じ道だと、掌から溢れる命の数を減らせない。アンリ、懐妊らしい。大人しくしていて欲しい。シュナの護衛をしろ。心身共に支える。良い仕事だ。そして安全」
一瞬、アンリがぽかんと子供っぽい表情になった。ティダはとりあえずアンリから機関銃を取り上げた。
「私、妊娠してるの? だって、そんな日にち……」
誠狼がアンリの体を囲った。アンリが茫然とした顔で、さわさわと誠狼の頭部を撫でる。
「俺には分からん。ウールヴがそう言っている」
〈昨日だアンリエッタ。暴れると流れる。フェンリスの子とは良くやった〉
アンリが自分のお腹に手を当て、パチパチと瞬きを繰り返した。それからティダを見上げた。
「本当はね、迷っていたの。ティダの真横か、ティダが心底離れるのが嫌そうな崖の国やセリムの横。子供が生まれるなら、ティダの隣ね」
「はああああ! アンリ、何を言っている。その選択肢は無い。却下。断固拒否。リ、リングヴィだ。いや、ロ、ロトワ蟲森は人の出産に不向き。や、やはりシュナの所だ。若手大狼と蛇一族に囲われておけ」
珍しくどもってしまった。みっともない。顔をしかめたアンリは、首を横に振った。
「嫌よ。父親不在で育てたりしない。そう言ったでしょう? 私達の為に何処かに留まらないなら、私達が行く。地獄の果てまでついていく。親子三人、家族でいたら、地獄じゃなくなるわよ。置いて行ったら、追いかけるから」
ね? と可愛く笑ったアンリにティダはかぶりを振った。誠狼がアンリの頭を尾てま撫でる。人の妻に気安く触るなと、怒る気力はない。
「俺の矜持を折ろうとするな。アンリ……」
既に折れそう。ティダは最悪、と心の中で呟いた。口にしたいが、なるべくこの口癖を減らすつもりなので言葉を飲み込んだ。
「それはお互い様。なので、妥協し合いましょう? ティダは私達の為に何を譲ってくれる? 善処してくれるんでしょう?」
なんていう脅迫をしてくるんだ、アンリという女は。アンリがにっこりと満面の笑顔を作った。繋いでいない方の手が伸びてきて、ティダの頬に触れた。
「欲しい物をくれない男なんて要らない。って言ったけど、くれたから待ってる。間を取って、やっぱり崖の国ね。但しセリムが何をしようと、ついていかない。ティダの地獄も一緒に歩かない。崖の国で、なるべく大人しく待ってる。心細いから、子供が生まれる前に帰ってきてね」
アンリが背伸びをして、ティダにそっとキスをした。人前で、こういうことをするなと散々怒ってきたのに、突然。勿論、避けようと思えば避けられるが受け入れた。結局、ティダは何も譲っていない。アンリの言う通り、懐妊してなくても連れて行きたくない。ゴネるだろうから、仕方ない。細心の注意を払うしかない。そう思っていた。なのに、アンリは引いてくれた。何もかも許すと言ったのはティダなのに、許してくれているのはアンリの方。アンリの優劣は下。そう示しているようなものなのに、どうしてなのか。
〈なんていう顔をしているフェンリス。良い女だアンリエッタは。お前はどうせ戦場の先頭。ド派手に戦う。それでこそ頂点、帝狼だから従おう。しかし、この帰ってくるという信頼を裏切るのは、頂点ではないからな〉
また、誠狼がベシリとティダの後頭部を尾で殴った。結構痛い。
「早く行かないとって思っているんでしょう? 行ってらっしゃい。帰って来るときは、こう言うのよ。ただいま。身の危険があったら、移動しているかもしれないけど、必ずおかえりなさいって言うから、探してね」
アンリはまた可憐に笑った。目に行かないでと言うように、涙が浮かんでいる。アンリの隣にカールが並んだ。
「毒蛇の巣で好き放題したように、勝手をするのだろう。好きに、自由に生きよ! いいかこの大嘘つき野郎。死ぬまでシュナから離れないという私がシュナから離れる。恩を返さぬのはシュナの忠臣ではない。彼女の信頼を裏切ったら、地獄の底まで首を刎ねに行くからな!」
カールが鞘から剣を引き抜き、高く、高く掲げた。
「全身全霊、血を浴び、体を使い、媚びへつらい猛毒の巣を生き抜いてきた。シュナより力がある女の守護くらい、赤子の世話同然だ!」
騎士達がカールに続く。アンリが身を小さくした。
「これって気分が良くないわね。囲われたくない、庇われたくないっていう気持ちはこれね。シュナともっと仲良くなれるわ」
カールに横抱きにされたアンリが、肩を竦めた。カールの背後に騎士達が整列する。
「地獄から連れ戻してやって、巣もすっかり大陸一の安全地帯。それなのにお前らときたら、生存本能……」
言いかけて、口を閉ざした。ゆっくり息を吸う。生き方を変えると決めたのだから、言葉が違う。
「すまない。自己保身を選んで、数手遅れたからこうなった。ドメキア王国にて、少々情報を仕入れた際に発つべきだった。我が矜持、それに宝を預けよう。それに友の故郷。何があるか分からんが、消し炭にしないでくれ。頼んだ。全員、今後何があるか読めない時代だが生き残れ。出産祝いの酒盛りに欠席するのは許さんからな」
ティダはもう一度、深呼吸した。
「アンリ。行ってくる。すまない」
背を向けたとき、アンリがもう一度「行ってらっしゃい」と口にした。震えた涙声。二度と会えないだろう。そういう予感がする。勘の良い、己の才覚が恨めしい。死ぬのはどっちだ? まあ、自分だろう。
「ティダ!」
格納庫に飛び込んできたのは、ヴァナルガンドだった。後ろにシッダルタとラステル。疲れていて完全ではないが、少し探っていたので、ヴァナルガンドが何を言うのか予想がつく。
「目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえ。よく決意したヴァナルガンド。よって、俺が身を切る思いで妻と部下、群れをお前の国に配置してやる。我が友よ、自由に、信念に従い生きよ! 孤高ロトワ、身の内にしてきたら出世させてやる。俺の上だ」
ヴァナルガンドが大きく目を見開いた。
「何でそれを……」
「まあ、俺が先に頭を抑えるがな。戦の基本は迅速に頂点を潰すこと。あばよ、戦友。俺に人里をありがとう。酒や食い物の味もするようになった。子の名付けはお前に任せる。ヴィトニルと二頭で考えろよ」
ティダはヴァナルガンドに近寄り、前から奇抜だなと思っていて、使ってみたかった銃を奪い取った。コの字型の柄に仕込み刃。かなり頑丈そうに作られた銃身。殴るのにも使うと聞いている。
「餞別に貰っていく。代わりにこれをやろう。教えたし、何度か俺が使うところを見たお前なら使いこなすだろう。即殺が嫌なお前に似合う」
背中側に仕込んである短旋棍をヴァナルガンドに押し付ける。なるべく殺さない。その矜持は折るしかない。全力を出して、返り血浴びて、帰ってくる。
「ゼロース!」
名を呼ぶ前に、ティダに向かって剣が飛んできた。回転する剣の柄を掴む。戦闘機の準備も完了。操縦役を買って出てくれたヤン長官、死神剣士の通り名のヴァナルガンドの師アスベルとオルゴーが、もう乗り込んでいる。基本的に口を開かない巨大要塞が、大口開けて空を見せている。飛行機の扉を閉めようとしたら、ヴァナルガンドが、機体に飛び乗ってきた。
「待て、ティダ! 僕も行くのが孤高ロトワの要求だろう?」
戸惑いで揺れる、ヴァナルガンドの深い青色の瞳。チラリとラステルの様子を確認してから、ヴァナルガンドは何故か胸を張った。
「おい、待て。何の話だ」
「オーガを討つ君と並べ。さもなければ崖の国を……。それに、ホルフルの民が、ボブル国とグルド帝国国境、ネキ湿原に向かうと……。君のその切迫した様子通り、かなり嫌な事が起こる。それか、もう起こっている」
〈我等の息子よ。兵力だ。北東のオーガはやり過ぎ。ゴヤの民への借りを返さねばならん。それに、あいつらは我等の領土へ攻め入りそうな雰囲気。まあ、こちらは盤石。崖の国とやらも領地にして囲ってやるから、その男と並べ。大蜘蛛共を会談の場に引きずり出してやろうではないか! 今までのように上手く立ち回れよ!〉
以前聞いた、孤高ロトワ龍王だろう声。ティダは伝心術の扉を探そうとしたが、無理だった。本当に疲弊している。こういう緊急事態の為に、加減するべきだった。誰が息子だ。今までのように上手く立ち回れ? これまでの人生、 踊らされてきたのか? 絶対に孤高ロトワ龍王を見つけ出して、足元にひれ伏させてやる。
「くそっ! 訳が分からねえ」
「ティダ! ソレイユを探せというのも要求なんだ! 俺とラステルはホルフル蟲森へ向かう」
シッダルタが告げると、ラステルが飛行機に駆け寄ってきた。
「ホルフル蟲森は庭よ! ウールヴさんにスコール君、シッダルタやゼロースさんもいるから大丈夫よ! セリム……」
今にも大泣きしそうなラステルが、ヴァナルガンドを見上げた。その後、ティダを見据える。大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。なのに、ラステルは可憐に笑った。
「ティダ師匠は大狼力だから、セリムは大丈夫ね。ティダ師匠がいれば憎悪にも、諦めにも負けないわ! 私達、半人前から少し成長した筈なの。だから離れても……」
言いかけて、ラステルが顔を歪めた。腕で涙を拭い、唇をへの字にしそうになりながら、必死に笑う。ラステルがヴァナルガンドを見る目は、アンリがティダを見るのと同じ眼差し。行って欲しくない。悲痛が伝わってくる。しかし、ティダやヴァナルガンドを取り巻く状況は、留まることを許さない。
アンリと目が合った。ラステルは任せろ。ホルフル蟲森に足を踏み入れるに違いない。止めてくれと頼んでも無駄だと思ったので、ティダは小さく頷いた。それから、ラステルを見た。
「ラステル! アンリに子が出来た。頼んだ。代わりにヴァナルガンドは俺に任せろ。アンリ、行くには行くが善処するので君もなるべく大人しくしてくれ」
これ以上アンリの目を見たら、出立を出来ない。ティダはヴァナルガンドの肩に手を回して、飛行機内に移動した。
「死神剣士、降りろ」
ティダが命令する前に、アスベルは操縦席から立っていた。しかし、降りる気配はない。
「朝令暮改とはこのことだな。まあ、降りない。知りたい事が山程ある」
正直助かったと思ったので、ティダは飛行機の扉を閉めた。蟲の憎悪に一人で抗っているようなヴァナルガンドには、精神的な支えが必要。アスベルはヴァナルガンドが先生と呼んでかなり慕っている相手。手練れのヴァナルガンドの、剣技などの師。隣に配置するには最高の人物だろう。
「ベルセルグ皇国で馬に乗り換える。ヴィトニルと合流。ヴァナルガンド、お前の機体はどうする?」
ヴァナルガンドは、黒っぽい窓の向こう、ラステルを無言で見つめている。ラステルはぶんぶんと大きく手を振りながら、泣き笑いしていた。
「ティダ。アスベル先生。僕は前にラステルに行くなと言われて、側にいて欲しいと懇願された。なのに、ノアグレス平野へ発って戦争に参加した。間違いだらけで、ラステルに辛い思いをさせた。また、同じ気がする。大鷲凧はアシタカに頼んで、関所門前に移動させてある。拾って欲しい」
ティダはヴァナルガンドの髪に手を触れようとして、肩にした。軽く肩を叩く。
「そうか。しかし、あの時とは少し違う。思いっきり背中を預けられる者が出来ただろう? 決めたなら振り向くな。しかと覚悟しろ。迷うと死ぬぞ。どうせ何を選んでも後悔する。アシタカと同じ道を選ぶのも、お前の性格じゃまた茨だ。おまけにアシタカ以下の能力。屈辱の日々に耐えられると思うか?」
顔をしかめたヴァナルガンドが、ティダを見据えた。
「屈辱?」
「己の能力を最大限に生かす道を選ばない。そして、多くが掌から溢れる。俺にとっては、それが最低最悪。大恥晒しの屈辱。アンリと子を捨てるのも同様なんだがな……。帰ってくるなら許すと言わんばかり……。死にたくねえから、背中は任せる。頼むぜ」
ティダは副操縦席に座った。瞼の裏に浮かぶアンリの泣きそうな笑顔を振り払う。
「ベルセルグ皇国ではなく、その先までお伴します」
機械をいじりながら、ヤン長官が淡々と告げた。
「お前は何もかも足りんから却下。大人しくアシタカに飾られろ」
鼻を鳴らした時、ヴァナルガンドがティダの隣席に座った。ベルトをつける。手が伸びてきたが、無言で受け入れた。案の定、髪をぐしゃぐしゃにされた。いつものお返しなのだろう。
「大嵐の先には必ず晴天がある。ティダ、決して僕から離れずに諦めるな。僕には多くの家族がついている。離れていても、ラステルは僕の隣。繋がっているから離れる訳じゃない。だから大丈夫なんだ。僕等が進む未来は鮮やか」
ティダは小さく頷き、伝言してやるかとアンリに向かって囁いた。伝心術がかなり強化されたので、生きている間は無事を伝えることが出来る。
「ヤン、頼む。出してくれ」
「仰せのままに」
戦闘機が巨大要塞の口から飛び出した。ベルセルグ皇国を去った時よりも、余程胸が痛く軋んだ。しかし、あの時は思わなかった単語が浮かぶ。
必ず帰る。
王狼がティダの背中を押し続け、人里でもう一度生きろと言ったのはこれだろう。多分、死んだように生きてきた。
一度降り立ったノアグレス平野で、蛇一族と蟲がヴァナルガンドの機体を運んできた。少し雪が降り積もってキラキラと輝く機体。本来は天候予測や観測に使うというこの機体を、戦場に連れ出す。その罪の重さに慄いたが、ティダは胸を張った。弟分こそが、潰れそうな思いを引き千切って、この地を去る。
「俺は振り返らない。後戻りもしない。最後だヴァナルガンド」
「僕もだティダ。嫌な予感が酷い。君やアシタカに頼ったが、僕も多くを囲えるように成長したい。だから、帰ってくる」
二人揃って見上げた空は快晴。黙って互いの胸を拳で叩くと、ティダとヴァナルガンドは戦闘機に再び乗り込み、ノアグレス平野を去った。




