聖と血の結婚式典【破】3
【ノアグレス平野】
巨大要塞の関所門から続く、雪の道。並ぶのは大蛇蟲と小蛇蟲。アシタカは、小さく息を吐いた。息が白む。ペジテ大工房の真正面に、一夜で製作された雪と氷の祭壇。降り注ぐ蟲森虹苔。冬なのにどこから仕入れてきたのか気になる、真紅の花弁が宙に舞っている。
祭壇の後ろには昨夜から、蟲一族がずっと形を作っている正円十字。ペジテ大工房のドーム上にも、飛行蟲が同じように正円十字を形成している。祭壇の左右には大蛇蟲の王、小蛇蟲の王。静かな青い瞳でこちらを凝視している。
「国内パレードの次は、大自然を歩く。歴史的な結婚式典ですね」
アシタカの隣でシュナがのんびりとした声を出した。偽りの庭から、公務車で第一都市の大通りを横断し、今ここまで来た。アシタカの腕に添えられたシュナの手は微かに震えている。
国内パレードは大喝采。国旗や手を振られ、名を呼ばれ続けた。緊張で強張る顔筋。愛想笑いが大変だった。
大通りには護衛人が整列。第一都市は近年稀に見る超厳戒態勢。 お陰で今のところ何も起きていない。アシタカの婚礼衣装の下には防弾装備。ターバンの中も同様。暑いし重いが仕方がない。
殺したら国ごと滅びると何度も示されれば、もう殺そうと思う国民はいないと思うのだが、と過剰警護と防具に内心呆れている。デモは鎮火どころか、反国家的な者を吊るし上げにする市民を止めるのに苦労しているという。
だから下等生物と非難されるのだと怒りで叫びたいが、アシタカも混沌に加担している。むしろ中心。いつか誰かが踏み出した。それか、真実を掘り起こして混乱の爆弾を投げた。そうやって、罪から目を逸らしてしまう。
「シュナ、一世一代の晴れ舞台。生涯一度きり。そう言ってくれるかい?」
軽口で緊張が吹き飛ばないかと口にしたが、シュナは神妙な面持ちで首を横に振った。
「嬌声に嘲り。銃声がするし、矢が飛んでくる。眼下には鮮血の花火。死ぬまで忘れられません。嘘で隠しても、事実を消す事は出来ません。晴れ舞台が二度とは、シュナは恵まれているのです。一度目は父、二度目は夫を手に入れます。父の故郷で三が神聖な数だというので、三度目もあるでしょう」
シュナがアシタカの顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。
「至宝と紅の宝石。その意思を継ぐ誰かの祝典です。共に老いて、一緒に参列しましょう。こんなに嘘だらけですから、何でもしますよ。私とアシタカ様は、聖人聖女ではなくどうしようもない程愚かな人間です。光に焦がれる、火に飛び込むことを止められない一人間ですもの」
「それは僕から君へ送った台詞です。ドメキア王国に、自己満足の正義を振りかざすと国を飛び出した時に、腹を括りました。目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めているんじゃねえ。二度と言わせません」
シュナが少し目を丸めた。何度も何度も、執念深いと思われただろう。その通りだ。二度と言わせない程に弱者の前に立ち、有しているあらゆる力で「弱き者を殴る奴」を叩き潰してくれる。
何をしても批判されてきた。それなら、もう耳を貸さない。人道外れたら、愛する妻に捨てられ、セリムに止められ、ティダに頭蓋骨粉砕手前にされる。抑止力には、その三本柱があれば十分。
アシタカの真反対、シュナの左側には王狼が寄り添う。黄金稲穂色の髪の上には、ティアラ代わりに小蛇蟲。背後には大蛇蟲が誇らしげに体を天へ向かって伸ばしている。
アシタカとシュナの前に、ふよふよと大蜂蟲の子が飛んできた。全部で七匹。産毛の色が全員異なる。赤、橙、黄、緑、青、紫、白。黄色い産毛は、ホルフル蟲森の大蜂蟲の子だという。セリムやラステルがアピと呼んで、子供のように大事にしている子蟲かもしれない。他は何処の蟲森だ?
大陸にある蟲森は四箇所。ペジテ大工房の地下にある蟲の地下王国を入れたら、蟲の巣は五箇所。巣ごとに産毛が違うなら、巣があと二つあるのか?
アピがシュナの胸元へと近寄っていく。シュナが大蜂蟲の子を腕に抱き締めた。
「まあ、聞いていた通りに優しくて偉い子ですね。寒くて凍えそうな私の暖になってくださるのですね」
可愛いというように、シュナがアピの産毛を撫でた。中継されているこの姿を見て、人々は益々シュナを畏敬の目で見るようになるに違いない。小さな村で、蟲と心通わしていた少女は化物娘。聖なる血を引く古くから続く王族の姫は「聖女」扱い。人とは物事を見たいように見る。
「そんなに寒いです?」
「ええ。とっても。ですから、シュナを温めるようにしてくださいませ。理由は胸がすくのと、嬉しい。それだけです。ああ、見せつけたいのもありました」
何て愛くるしい笑顔を見せるのか。シュナは可憐に笑ったが、アシタカがシュナの腰に手を回すと、まだ震えていた。アシタカはシュナを横抱きにした。
「シュナ、君を地獄に叩き落とさない。人類の至宝と呼ばれ、長生きをして大往生します。危険な目に合わせ、辛い事も多いでしょう。でも、必ず幸せにします」
シュナから返事は無かった。アシタカの首に回されたシュナの腕に力がこもったのは感じた。
アシタカが歩き出すと、シュナが甘えるように胸にもたれかかった。祭壇まで敷かれた、七色に輝く光苔の道を進む。
当初の計画では、サングリアル大聖堂の前で降り、参拝道に設けた国賓の招待席の間を歩いて大聖堂内へ入る予定だった。招待客の国賓は雪と氷の祭壇前に作られた席に座らされているという。
アシタカが入院中、気を失っている間に「蛇神からの神託だ」とティダが何もかも取り仕切ったらしい。護衛庁、大技師庁、大総統は大混乱だったらしい。
ティダの肩書きは大技師かつ至宝の右腕。そして何より蛇神の遣いエリニースの半身。体を乗っ取られていたが、気に入られて半分神の領域に招かれた。そういうことになっている。というか、ドメキア王国から護衛人長官経由で、ペジテ大工房にも噂が届き、勝手にそうなっていた。マスメディアの継ぎ接ぎだらけの報道が、さらに煽った。
ティダはそれに乗り、まんまとアシタカより高い地位を手に入れた。聖人を選び、導き、支える者。理解し難い態度は人外故。神とは人には理解出来ない次元で物事を見て行動している。そんな風に都合の良いように情報を提供し、印象操作。
ティダと似た手口で大陸和平に躍り出るアシタカ。嘘で真実を捻じ曲げて、我が道を進む自分やティダは、後世にどう伝わっていくのだろうか? 真実を知られたら「独裁者の手本」と呼ばれるかもしれない。名誉か不名誉かは、これから先の生き様と残すもので決まる。
一番手前の参列席には、国賓が座っている。パッと見、アリババ、ルイ、テュールが居ない。レオン、ザリチュ、ジャルーシャも見当たらなかった。その前の席はアシタカの親族。シュナの親族としてなのか、シャルルが母メリルの隣にいた。シャルルの横にアンリとカール。カールは騎士の格好ではなく、鮮やかな真紅のドレス姿。アンリはまるでカールの従者という格好。カール参列をねじ込んだのはアンリだろう。
カールの隣にラステルとセリムがいる。ラステルの隣はは三つ子の妹達。一番端のルルに月狼が寄り添っている。三つ子はセリムが贈った珊瑚で作った髪飾りをつけていた。ここからでは見えないが、首飾りもエルバ連合からの贈与品の筈。ラステルは若き日のシュナの母ナーナの礼服を着ている。頭上にはシュナのティアラ。
参列席の左右に護衛人とドメキア王国騎士団が並ぶ。丸腰で敬礼をしているドメキア王国騎士団の後ろに、手に持つ銃口を斜め下に下げる護衛人。重装備の特殊急襲部隊。
祭壇中央、そこに漆黒礼装のティダが仁王立していた。大技師に継がれる、宝剣の切っ先を下にし、両手を剣の柄に乗せている。背中に翻るのはベルセルグ皇国の黒国旗を模した銀刺繍の外套。頭の上には、シュナと揃いのように小蛇蟲が王冠のように鎮座している。体に巻きついているのは、大蛇蟲の王の子だろう。
ティダの左にはウールヴ。九本尾の背中だけ青みがかっているが、他は純白の大狼。ウールヴの隣には黒い毛並みのレージング。
手に持つもの、身に纏う絢爛衣装、体にを取り囲む異種族。ティダにはその全てを霞ませる程の圧倒的存在感がある。これは真似をしようにも、誰にも真似出来ない。隣に配置しておきたいのに、セリムより下だとそっぽを向かれている。
ティダの左手側に、アリババ、ルイ、テュールが中々豪華な椅子に腰掛けていた。右手側には同じような椅子にレオン、ザリチュ、ジャルーシャ。ティダに目で静止されたので、足を止め、祭壇下で待機する。
「右手と左手の話、ティダにしたのか?」
アシタカは小声でシュナに問いかけた。左は誓うべき、信頼するべき者の場所。ティダの左右に分けられた者達は、そういう風に振り分けられているのだろう。
「いいえ。盟友にして親子なので思考が似ているのでしょうね」
シュナが小さな声で返答した。何故か、少し憎々しげな声に聞こえた。
ティダが剣の柄を右手で掴み、高々と空に突きあげた。
「何度でも告げよう! 三界皆苦吾当安之。三つの迷界にある民は苦悩する。私はこの苦の民を安んずるために人の世に遣わされた蛇神の使者の半身! 人が下等生物から脱却し、愚かな争いを止めるというので神が祝辞を述べに参った!」
瞬間、二匹の蛇一の王がけたたましく吠えた。
「この地は蛇神と親しき土の神の領域。 聖なる血を受け継ぎ、平和の礎になる聖人アシタカの転生身に加護を与えている!」
大地が少し揺れた。この地の下には、蟲の巣がある。ドメキア王国もそうだった。蟲の王の統治する民はアシタバ蟲森、ゴヤ蟲森の一部、そして離脱したホルフル蟲森の蟲。この地の下にあるのは、大技師と誰かを王とする、ノアグレス平野の蟲国家。
今のところアシタカは地下の蟲達に支援されるようだが、道を誤ると殺されるのだろう。監視されている、というのは父ヌーフ談。アシタカは必至に震えを抑えようとした。自信の無さと不安を感じさせたくないシュナを腕に抱いているからか、落ち着いていられる。
「天を彩るのは、東の地を守護する風の神による祝福である!」
ひらひらと舞い落ちてくる紅色の花弁。降り注ぐ七色の光。蟲一族の飛行蟲の羽ばきで飛ばしているのだろう。神の祝福と言われれば、そうとしか見えない美麗な光景。それにしても短期間で、奇跡的な美しい景色ばかり見ている。
「北東の神は何をもたらす! 北東で暮らす人間の王よ!」
ティダがザリチュに向かって叫んだ。打ち合わせ外の事なのだろう。突然の問いかけにザリチュが目を見開いて、口をパクパクと動かした。
「そうである! 水の神はこの祭壇を用意してくださった!」
ザリチュがカクカクと首を縦に振った。水の神? 確かにグルド帝国が崇めているのはアムルタートという水を生んだ女神。昔、一度訪国した際に接待をしてくれた大臣に教わった。
「岩窟龍神は我エリニースの器に耐えられる皇子の体を捧げた!」
ティダが冷ややかな視線をレオンに投げた。レオンはほぼ無表情で、俯いている。ティダとどこまで話をしたのか気になるところ。
「この良き日に蛇神が愛する蛇の女王、聖女シュナの婚姻の儀を執り行う! 聖なる丘にて宣誓が交わされたが、夫に選ばれし果報者、アシタカ・サングリアルの国でも執り行う! 」
叫ぶと同時に、ティダが剣を天に投げた。回転しながら落下してきた剣が、アシタカの足元に突き刺さった。
「蛇の女王、聖女の伴侶として相応しい地位を与えん。二千年不在であった協王、人族位をアシタカ・サングリアルに授与する。本人に拒否権はない。大陸を生きる人間にも拒絶権はない。これは神の選定なり。先代協王テルムの血脈、大技師一族から生まれるだろうと期待されていた、協王がついに生まれた。ようやく異種族を司る神々が行う会談に、人族も招かれるということである。心して人類を導くように。協王の剣を抜け」
アシタカは目の前に突き刺さった剣を、雪の祭壇から引き抜かなかった。シュナを横抱きにしているので、腕が空いていない。
「剣とは血で血を争う戦の象徴。私も愚かで下等と呼ばれる人間の一人です。神ならば宝飾なのでしょうが、人には武器です。このようなものは、いただけません」
打ち合わせと違うことを口にしたらどうなるのかという出来心。ティダが愉快そうに笑い、首を縦に振る。大蛇蟲がやってきて、口で宝剣を引き抜いた。ティダの元へ宝剣を運んでいく。
「如何にも! 驕り、道を踏み外せば神が鉄槌を下す。己の至らなさ、不甲斐なさ、謙虚さを忘れぬように。アシタカ・サングリアルの協王戴冠は、聖女シュナへの褒美の一つ。下々の中では神に近いというだけで、地位が最も低いということを忘れるな。勘違いするな。徳を積み、地位を高めよ。して、他にも授与品がある」
ティダが左側にいる、アリババ達三人に腕を伸ばした。よくもまあ、口が回る。
「神々が三種の人器として、こちらの者達を協王アシタカの側近に決定した。三者、協王がその座から転落しようとすれば刺し殺せ。逆なら死ぬまで誠心誠意尽くせ。三賢者は蛇の女王の推薦。その誉を忘れれば、蛇神バジリスコス様とココトリス様が滅するだろう」
再度、大蛇蟲と小蛇蟲が大咆哮した。
背後から王狼に三度、巨大な吠えを食らった。王狼が、音もなく飛び跳ねて、ルイの背後に着地した。続けて黒狼が同じようにテュールの背中の後ろへ移動。ティダの体から離れた大蛇蟲の王の息子がアリババに巻きつく。
ティダが打ち合わせ外のことを返してきた。アシタカではなく、三人に。これでルイ、テュール、アリババはアシタカを裏切り困難。ティダと蛇一族に首根っこを掴まれた。しかし、三人揃って涼しい顔付き。ルイは既に同じように祭り上げられたので、覚悟を決めているのだろう。テュールとアリババは芝居上手。脳内で立ち回りを思案しているだろう。
「かつてこの地で別れた血が、再び交差した。忘却に消え、途絶えた交流が二千年振りに蘇る。共和国再興の第一歩である」
ティダが大蛇蟲から宝剣を受け取り、アリババ達からアシタカに視線を戻した。ティダがゆっくりと宝剣の切っ先を三人に向け、宙を十字に切った。目の光は殺意の塊。実に冷ややかな視線だ。
ティダと目が合った瞬間、全身がゾクゾクした。嘘でしかないのに、神の遣いエリニースだとそう信じてしまう空気感。隣に配置していたいのに、セリムより下だとそっぽを向かれているのが悔やまれる。この王者のような風格。飲まれたくないのに、存在感を掻き消される。
「——だ。クロディア。失われてしまった共和国の名はクロディア! この大陸の名である!」
静寂と沈黙を、セリムの絶叫が貫いた。大人しくしていろと、口を酸っぱくして告げたのに、忘れているらしい。こんな礼節知らず、妙だ。
ゆっくりと振り返ると、セリムは大蜂蟲の子に囲まれていた。目が真っ赤。金髪の癖毛が逆立つように広がっている。セリムにしがみつき、心底不安そうなラステルの瞳は青い。入れ替わった瞳の色に、どのような意味があるのだろうか。
「左様、人族の二代目協王アシタカの義弟よ、共和国の名はクロディア。かつて東に去った蛇の女王と同じ血脈を汲む者よ、幼いようで礼節がなっておらんな。しかし、聖なる血を受け継ぐ妻を持つお前は少々許される」
少しの変化だが、アシタカには分かる。明らかにティダは怯んでいる。辺り一面が薄暗くなった。見上げると大蜂蟲の大群だった。共和国の名がクロディア? 蟲一族、蛇一族、そしてアシタカの三者で共同の王となろう。故に共和国。そういう話になっていたが騙されたようだ。
セリムがゆっくりと祭壇へ歩いてくる。ドメキア王国で、ルイの前に現れた時同様に、ティダに劣らない存在感を発しながら。
「人族の王テルム。蛇一族の王バジリスコスとココトリス。蟲一族の王レークス。龍一族ウォーデン。リュカントロプルの王フェンリス。大狼の王オーディン。鮮やかさの象徴、虹を背に負った七協王。悪魔に燃やされ消し炭にされた、気高き王達」
セリムの口から知らぬ名が幾つか出てきた。いや、聞き覚えがある。夢だ。セリムが見たという、夢に出てきた者達の名前。
——リュカントロプルの王フェンリス
孤高ロトワ龍の皇子フェンリス。協王候補のソレイユ。これか、この事だ。蟲の王達はアシタカを蚊帳の外にして、孤高ロトワと接触したに違いない!
〈ふん。騙してなどいない。また疑うかアシタカ・サングリアル。こんなの予定外。我等の父は人と生きるなど許さない。姫がいなければ、セリムは流刑地にして穢れているこの国を滅亡させたな。あの奇天烈生物はどこまで深淵を覗くつもりだ〉
蟲の王から届いた声は、少し震えていた。深淵を覗く? セリムは蟲の王でさえ掘り起こせない、古代の記憶をサルベージ出来るという。その事だろう。
祭壇を飾る、蟲が形成した正円十字が、燃え上がるように真っ赤に染まっている。蟲の瞳が赤くなっている。
威風堂々と胸を張り、圧倒的な輝きを放ってアシタカ達の方へと近寄ってくるセリム。ティダがセリムを見据えた。
「ああ、混沌と破壊、再生と復活を担うヴァナルガンド神か。 風の神の使者。このエリニース同様に人の体を借りたか。バジリスコス様とココトリス様の領域、アシタバ半島でも好き放題していたな。 ヴァナルガンドよ、祝いではなく、得意の破壊に来たのか? 共和国が崩壊した際に世を大洪水で分断したように」
ティダのこの大法螺吹きはどうやって培ったのだろう。
まるで似合わない狡猾な笑みを浮かべたセリムが口を開こうした瞬間、大蜂蟲の子が次々とセリムにしがみついた。見当たらなかったシッダルタが、参列者の中から現れてラステルの真横に並ぶ。泣きそうだったラステルの背中をそっと押すシッダルタ。
怯えた青白い顔に涙目のラステルが、グッと胸を張った。シッダルタがラステルにさり気なく何か耳打ちしている。
「私の器があまりにも弱いので、夫の体をお貸ししました。ヴァナルガンド様も祝いを述べにきて下さったそうです」
凛とした声で告げると、ラステルがゆっくりと回転して会釈をした。
「聖人テルムの正統なる子孫ヌーフ。その娘ラステル。テルムの子供達同様に蟲に愛される蟲姫。アシタカお兄様への祝福を彩る大役を、ヴァナルガンド様に賜りました」
ラステルが大きく手を振った。徐々に瞳が赤く変わっていく。セリムの真紅に染まった目とは、また違う色。鮮やかな鮮血色ではなく、くすんだ静脈血のような色だ。深い紅。
比例するように、セリムの目の色が若草色に変化した。
ラステルの手が揺れるたびに、上空の大蜂蟲が動いた。セリムと同じように、真っ赤だった蟲の目が緑に変わっていく。ラステルが祭壇の上に登った。無表情でまるで人形のようなセリムを、シッダルタが恭しいというようにラステルに付き添わせる。ティダが祭壇中央からどいた。
ラステルがしゃがんで小さくなると、ペジテ大工房ドームの真上に大蜂蟲が集まった。
ラステルが勢いよく立ち上がり、高く飛べというように、左腕を伸ばす。
ドメキア王国では蛇一族に光の柱を作らせたラステルが、鮮やかな緑色の蟲柱を作った。青い空に伸びた柱が、上空で飛び散る。
緑色の花火。
空に散った大蜂蟲は次々と去っていく。
「アシタカお兄様、どうか私達を鮮やかな未来へ導き、失われた絆を再び結んで下さい。私達一族はずっと待っていましたもの。素敵な方とご結婚、おめでとうございます。シュナ様、どうかアシタカお兄様をよろしくお願いします」
可憐に笑ったラステルが、祭壇下に向かって、優雅な会釈をした。こんなに度胸かある娘だったのか。シッダルタの入れ知恵ありきでも、機転の良さに驚く。ラステルがさり気ない動作でセリムにしがみつく。ラステルがシッダルタと共に、セリムを脇に移動させた。
さあ、来い。ティダとシッダルタの目がそう訴えている。アシタカはシュナの手を取り、祭壇中央へ続く階段を登り始めた。
セリムがそっとラステルとシッダルタの手を離させる。今のセリムはどういう状態だ?
「この者、明け透けかと思えば固い。興醒めだ。レークスにバジリスコス、ココトリスの後継よ、共和国再興とはまた同じ轍を踏むのか。まあ、執行猶予とする。我が何もしなくても、どうせ同じ道を辿る。我等の父が眠る、ラトナの泉で会おう人の王。招かれれば、の話だがな」
セリムがアシタカ、シュナ、ティダと順番に見つめた。嘲笑うようなセリムに、身の毛がよだつ。今、セリムの中身は何者だ?
「毎度、毎度、皮肉をヴァナルガンド。お前はどうも道化を演じる。風の神に叱責されるぞ」
ティダはこのような場面でも、動揺を見せない。セリムが肩を揺らした。
「ヴァナルガンドの名を穢すな、龍人の御曹司。まあ良い。三龍王にヘルメースが煩いので去る。では、来月」
気絶するように倒れたセリムを、シッダルタが抱きかかえた。ティダが再び祭壇中央に躍り出る。
「これにて、全ての祝いの品がもたらされた! 集いし神々とその従者、そして背負いし祖国を証人に誓いを立てよ協王アシタカ・サングリアル。汝、生涯シュナ・エリニースに真心を捧ると誓うか?」
まるで、予定外の事など何もなかったというようなティダ。アシタカは取り繕うのに必死だというのに。悔しい。この男には、本当に敵わない。
「はい、誓います。死後、神々の元へ召されるシュナ・エリニースと死後も寄り添う為に、鮮やかな未来をあらゆる命へ捧げるように努めます。血に宿る祈りと願いを決して穢しません」
内側から、恐怖が込み上げてきた。覚悟はしたはずなのに、足が自然と震える。人道外れなくとも、殺されるのは十二分に理解している。この世は不平等で不条理。アシタカの血に、脈々と受け継がれてきた「聖人の子孫」という重しもそう。特別恵まれて生まれた代わりに、とんでもない業を背負っている。
聖人テルムは歴史に奔走され、戦争に身を投じた漁師だった。自分の生き様が、このような結果を生むなんて、知らずに灰になった一般人。未来は誰にも分からないという、とんでもない例だ。
シュナがアシタカの手を取った。先に自分がシュナを気遣うべきだった。アシタカは両手に力を込めた。この手だ、この小さく寄る辺のない手を決して離したくない。シュナは柔らかく微笑んでいる。
「汝、シュナ・エリニース。アシタカ・サングリアルの誓いに何を与える?」
「何もかも捧げます。流星落ちてきた夜、あの日限りの命となりたいとまで思いました。今、アシタカ様の盾になろうとも構いません。聖女などとは、畏れ多い娘です。ですからアシタカ様、どうか手を引いて導いて下さい。死後も私と寄り添いたいという、そのお気持ちだけで十分です」
シュナは誓いの言葉を変えるつもりはないらしい。伏せた瞳に長い睫毛。俯き気味で、表情がよく見えない。
「ふん、その気持ちだけ? 最も困難なものを望むとはこの強欲め。これでアシタカの隣は名実共にお前のものだ。こんな短期間でよくもまあ、そこまで傾いたな。お前が本気で俺を食おうとしなくて助かった。お前など手に負えん。絶対に近寄ってくるな。死なねばならなくなる」
ティダがアシタカとシュナにしか聞こえないくらいの声を出した。唇もほぼ動いていない。
「真贋持つ鷲姫が本能で選んだ本物ですから永劫続きます。万が一偽物なら捨てます。一度捨てたことがあるので、方法を良く知っていますよ。練習台、ありがとうございました。学ぶというのは大変良いことですね」
シュナも俯きながら、小さく呟いた。この皮肉屋なのもやはりいいな、と思ってしまった。
「何が聖女。それに隣は史上類をみない大嘘つきの劇薬。二人して大法螺吹きなのは祖先に似たんだな。これこそ偽りと欺瞞。刺されろ。血が出る前に俺が手を伸ばしてやろう。俺より先に死ぬんじゃねえぞ。あと庇うな」
「庇いません。常に前にいるので、意図せずそうなってしまうことがあるかもしれません。私は真横か少し前。優しくて貴方を立てるアンリとは違います。ティダ、それを忘れずに歩くように。アシタカ様もですよ。シュナはアシタカ様が居ないと困るので、常にご自愛下さい」
シュナの発言に、一瞬ティダのエリニースを演じる仮面が剥がれかけた。アシタカも文句を言いたかった。しかし、この場でそんな話は出来ない。そろそろ話も進めないとならない。沈黙が長過ぎては、不審がられる。
「神々から聖人聖女と扱われることに感謝せよ! この世の全ての命を等しく扱い、何もかも捧げる覚悟をして、既に歩んでいるからこそである!」
柔らかく優しい微笑みで、ティダがアシタカとシュナの背中を同時に押した。
「さっさとしろ。ヴァナルガンドが心配だ。三文芝居を終わらせて、傲慢なる会談を開催だ」
表情に似つかわしくないティダの台詞に、苦笑いが浮かびかけた。アシタカは俯いているシュナの顎に左手を添えた。シュナの顔を上げる。
「誓いは三度。この三度目こそ、全てが許される日である! 人の命は短い。されど尊い。夫婦にて死後も続ける聖火を灯せ! 聖なる血を脈々と存続させ、この世の何もかもを栄えさせよ!」
ティダが宝剣を両腕で掲げた。
アシタカを見つめる、青く澄んだ空色の瞳が瞼に隠れた。
アシタカはシュナの唇にそっと唇を寄せた。
これより本物の夫婦。シュナとアシタカにも本物の絆が生まれるだろうか。関係を築いく時間が欲しい。
公衆の面前でと思ったが、これは式典。アシタカは一度離した唇をもう一度、さらにもう一回と、三度キスを交わした。腕の中にすっぽりとおさまったシュナを、しばらく抱きしめ続けた。
***
ペジテ大工房国内は大喝采だろう。来賓席からも、笑顔と拍手。タルウィは顔の筋肉を、微笑みになるように動かした。周りの空気に吐き気がする。掌の上で転がされていたような、ザリチュをぶん殴りたい。
しかし、祭りを開催する方法を見つけた。タルウィが遊ぶ予定のシュナを、目の前で掻っさらい、挙句にこれから手を付けるかもう先に食っているだろう男をぶっ殺す。
この場には、嘘の匂いが充満している。神など存在しない。したとしても、こんな風に現れたりしない。蛇神など、単なる生物。実験で使ったことがあるので、よくよく知っている。自らを祭り上げた、強欲男。アシタカ・サングリアル。三文芝居の中の、神聖さと慈愛ある様子は本物そう。見目の良さといい、タルウィが一番嫌いな人種だ。
あいつを殺せば混沌と絶望が生まれる。
研究所にある道具と、どう接近するか考えながら、タルウィはシュナに欲情した。キス直後の照れ笑いが、恐怖と絶望でグチャグチャに変わる瞬間。脳裏によぎったその表情に、今すぐむしゃぶりつきたい程だった。
よし、そうしよう。
今、スペアの体。殺害されても本体は本国。メンテナンスが終わった本体は、調子がすごぶる良い。ザリチュはこれからペジテ大工房にぺちゃんこにされる。殺して国を好き放題より、離れてあちこちを引っ掻き回す方が、巨大な祭りになりそうだ。
「親不孝娘は使えるか? 殺戮兵器蟲姫ちゃん。予感がしたから一応準備をしてきてよかった。俺はやはり、勘が冴えてる」
タルウィはタキシードの内ポケットに手を突っ込んだ。




