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風詠と蟲姫  作者: 彩ぺん
八章 破滅と再生の激動大嵐

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パズーとフォンに厄災の予感

【偽りの庭前 第三砦】


 早朝、五時。眠い、眠くてならない。重々しく荘厳な扉が開かれ、現れたのはパズーが仕えるアシタカ。隣に、セリムも立っていた。セリムの脇にピタリと張り付く月狼(スコール)。自然と頬が引きつる。嫌な予感とはこの事だ。


 朝日を浴びて、キラキラと輝く、至宝の異名に相応しい穏やかな笑顔のアシタカ。溌剌として、崖の国の若娘達の心を掴んで離さなかった、今もまだ離してないだろう、容姿端麗な爽やか男のセリム。はっきり言って、この二人に並びたくない。アシタカの服は暗い灰色に細い縦線が入ったもの。今日も髪をあげている。


 セリムは崖の国の礼装。青と白の王族衣装は、セリムに本当に良く似合う。絵本から抜け出した王子様のようとは、まさにセリムのこと。ペジテ大工房のニュースにより、あちこちで老若問わず女性の心を鷲掴みにしている、らしい。セリムはアシタカの真似なのか——アシタカもティダの真似か?——髪をあげて額を露わにしている。いつもの額だけに巻く崖の国のターバンがない。大人っぽいというより、単なる背伸びに見えた。アシタカには良く似合う髪型だ。


 よく見たら、後ろにシッダルタがいた。クワトロの礼服を身につけている。パズーが帰国祝いの宴で借りた衣装。はっきりいって、シッダルタに良く似合っている。しかし、前方の二人に霞む、霞んでいる。


「おはようパズー」


 いつもの元気一杯ではなく、セリムは少し憂いを帯びた笑い方だった。何かあって落ち込んでいると、すぐ分かる。


「昨日はあれこれ、雑務をありがとうパズー。今日の君は常に僕の近くだ。宜しく頼む」


 対するアシタカ。昨日はかなり疲れた顔をしていたが、今日は物凄く元気そう。目の下の隈も薄くなっている。笑顔が陽の光より眩しくて、目に毒。腹立たしい程だ。


「エルバ連合からの国賓の観光案内は十時から。その前、八時から議会会館で会議。大総統府にも顔を出す。なのに、何でこんな朝早くに俺を呼び出すんだ。不法な時間外労働で訴えるぞ」


 パズーはわざとらしく、胸元のポケットから手帳を取り出した。アシタカの予定は朝から晩までびっしり。アシタカの秘書はシュナとパズーの他に三人——正式な秘書はこの三人——いるが常に付き合わされるのはパズーばかり。自然と口がへの字になる。


 訴えるぞ。そう口にした時、セリムが尊敬の眼差しを投げてきた。これから逃げたはずなのに、今すぐセリムの隣に戻りたい。


「パズー、君はもうこの国から多くを学んでいるんだな。是非、僕にも……」


 アシタカがセリムとパズーの間に入った。セリムの質問大会が始まると、長い。アシタカが分かっているというように、苦笑いを浮かべた。


「ティダには昨晩、拒否された。早朝ならマスコミもいないだろう。友として、ザッとこの国を案内しようかなと。観光案内に組み込まれなかったところだ。まあこの姿なら、騒がれても何の問題もない。最後に、セリムが地下遺跡を披露してくれる。シッダルタはもう行ったらしいので、途中で離脱予定。シュナやラステルが妹達と朝食を作ると張り切っている。シッダルタも手伝うそうだ」


 機嫌が良さそうなアシタカが、さあ行こうと歩き出した。手に自動荷車(オートカー)の鍵らしきものを持って、指でくるくる回している。アシタカは手や指で良くものを回す。特に意味はない昔からの癖、らしい。


「それなら、俺、ホテルに帰る。そんな気分になれない」


 明らかにウキウキした様子のセリム。眠そうだが、やはりワクワクしていそうなシッダルタ。一方、パズーの気持ちは沈んでいる。


「あー、パズー。テトともう話をしたのか?」


 流石長年つるんでいるだけあって、セリムは鋭い。パズーは頷きたくないので、俯いた。


「まあ……」


 余所見をしても、振り向かせられる男になると宣言したのに、情けない。テトはイブンと結婚するらしい。急転直下とはこの事だ。なんでまた、こんな、短い期間でそんな事になった。イブンとはラファエの婚約者だと聞いていた。会ったこともない男に、パズーはテトを掻っ攫われた。


 アシタカは不思議そうな表情なので、何も知らないだろう。シッダルタは知っている。そういう顔付きだ。


 ふいに、影が落ちてきたのでパズーは上を見上げた。


 人?


 人⁈


 くるくると回転しながら落下してきたのは、多分女。彼女はストンと着地して、よろよろとパズーにぶつかってきた。黒くて長い髪が広がる。柑橘果物のような香りがふわりと鼻をくすぐった。


 一緒に倒れそうになり、パズーは思わず手を伸ばした。肩を掴んで支えるはずが、片手だけ胸のところに当たってしまった。しかし、大した感触もない。微かにむにっとした程度。背はそこそこあるが、スラリとした手足だし、子供か?


「き……」


 体がグルリと回転して、パズーは放り投げられた。


「きゃああああ!」


 女の子の悲鳴が轟いた。耳がキーンとする甲高い声。あまりに高く投げられ、喉の奥がキュッとなった。このまま落下したら死ぬんじゃないか?


 落っこちていくパズーをセリムが抱きとめてくれた。男にお姫様抱っことは、何てざま。


「おい! いきなり何……」


 切れ長気味の大きな目と視線がぶつかった。ティダ? ティダに良く似ている。ティダの娘? にしては大きい。しかし、三十歳近いティダがかなり若い時の子供とかなら、あり得るのか? 美人だが、激怒の表情で台無し。


「変態! 極悪! 何て破廉恥! ソレイユの大事なところに無断で触るだなんて、シッダルタ様にしか許されないのよ!」


 何だって?


 パズーがシッダルタを見ると、シッダルタがブンブンと首を横に振った。つかつかと近寄ってきたソレイユが、パズーの胸倉を掴んだ。途端に目を大きく丸め、怒り狂っていたのは鳴りを潜め、急に興味深げな顔付きに変わった。


「あら、末蟲? 大蜂蟲(アピス)に、大狼に……何かしら? 妙な変な匂いね。どちらかというと、臭いわ。嫌い。そもそも極悪変態だし、ソレイユに二度と近寄らないで!」


 舌を出したソレイユが、パズーの頬をビンタした。


「これは乙女の大切なところを触った罰よ! 星姫やラステルにも教えないと。弱々だからソレイユが守るの。アンリ姉様はこんな弱い極悪変態身なら自分で身を守れそうだから、大丈夫ね」


 また胸倉を掴まれ、パズーは地面に投げつけられた。アシタカがパズーに手を差し出してくれたが、それより先に起き上がる。


「いきなり何なんだよ! 今のは事故だろう? 触りたくて触った訳じゃない! シュナさんなら兎も角そんな貧相……」


 パズーは慌てて口を閉じた。横に立つアシタカから冷気を感じる。


「パズー……」


「ひっ!」


 低く、唸るようなアシタカの声に、パズーは小さな悲鳴を上げた。


「ソレイユさん、パズーは君を支えようとしてくれた。君が怪我をしないようにだ。結果的にソレイユさんは嫌な思いをしてしまったみたいだけど……」


 パズーを庇ってくれたシッダルタに、ソレイユが嬉しそうな、愛くるしい笑顔を向けた。シッダルタが口を開けたまま固まる。ソレイユは手を胸の前で握りしめ、祈るようなポーズをしていた。楽しそうに体を左右に揺らすのが、ラステルの仕草にそっくりだ。


「ソレイユに支えなんていらないのは、一目瞭然よ。でも、そういう風に思い込めば良いのね、シッダルタ様。素晴らしい考え方よ。そうよね。繁殖期の匂いがしたけど、仕方がないわ。だってソレイユは可愛いんですもの」


 軽やかに跳ねるように、ソレイユがパズーに体の向きを変えた。


「一応助けようとしてくれたのに、殴ったりしてごめんなさいパズー」


 満面の笑みは、とてつもなく可憐だった。しかし、人生で一番変な女だ。嫌な予感がする。関わらない方がいい。絶対に。ソレイユがセリムと腕を組んだ。


「ゴミ溜めで笑う練習をしようと思ったら、三人を見つけたの。星の王子とセリムがいれば、ソレイユは耐えられるわ。シッダルタ様の前だと頑張ろうと気合も入る。それで、何処に行くの?」


 ゴミ溜めで笑う練習? セリムがソレイユに対して首を横に振った。珍しく雰囲気が刺々しい。


「ソレイユ、彼はパズー。誤解が生じたようだが、崖の国の民で今はアシタカの秘書をしている。貧乏小国の機械技師からアシタカの秘書だ。君の兄の親友、ヴィトニルの直下でもある」


 目を丸めたソレイユがパズーにぺこりと頭を下げた。


「まあ、ヴィトニルとは兄様の大親友。つまり、修行中なのね。なら何もかも至らないのは仕方ないわ。大狼に認められる中身があるということが、とても立派なこと。大変、失礼しました。パズー様」


 セリムの瞳に優しさが滲んだ。よく出来ました、そういう視線。セリムはいつの間に、こんな大人っぽい目が出来るようになったのだろう?


 パズー様? 急に親しみ込めた、愛くるしい笑顔で駆け寄ってきたソレイユがパズーの右手を両手で握った。その次は、頬にキス。突然の事態に全身が熱くなった。


 パズーから離れたソレイユが、くるりと回転した後に、優雅に会釈をしてきた。


「ソレイユです。よろしくどうぞ、パズー様。非礼を許してくださるなんて、懐深い方。ソレイユは可愛いけれど、繁殖期の匂いはあまり愉快ではないわ。別々の内容ですけれど、共に鍛錬しましょうね」


 ウインクが飛んできて、パズーは思わずよろめいた。自分で言うとは妙で、へんちくりんな女の子だが、これは破壊的に可愛らしい。ソレイユが急に眉間に皺を寄せ、その場に座り込んだ。


「やっぱり無理だわ。なんて酷い匂い。頭が割れそうで吐きそう。ソレイユはなんて軟弱者なのかしら……。知らないうちに驕っていたのね……。これでは協王が遠いわ……」


 体を丸め、みるみる青白くなっていくソレイユ。セリム、シッダルタ、アシタカがソレイユに近寄ってしゃがんだ。ソレイユが苦悶の表情でシッダルタを見て、スッと立ち上がった。無理矢理というように、笑顔を作ったソレイユ。


「みっともないところを見せました、シッダルタ様。ソレイユは励むので大丈夫です。ゴミ溜めでも凛々としてられるようになったら、ご挨拶くらい許して下さいね」


 シッダルタが困ったように眉尻を下げた。


「いや、あの、ソレイユさん。色々と誤解をしているようだが……。俺は別に……」


 ソレイユはシッダルタを無視するように、いや困ったように離れながら首を横に振った。


「ゴガモ、じゃなかった。ソレイユは口の悪さも直さないと。フォンの匂いは向こうの方ね。まずはフォンに耐えられるようになる練習だわ。遠い道も、一歩一歩踏みしめれば大丈夫。貴方、星の王子の秘書ならこの国でも偉いのよね? ソレイユの付き人になってくださる?」


 ソレイユがいきなりパズーを横抱きにした。細い腕なのに、軽々という様子。


「行ってきますセリム。シッダルタ様。星の王子。朝餉には帰るわ。星の家族とラステルに料理を教わるの! シッダルタ様に英気を養う食事が必要ですもの! ソレイユは料理なんてしたことがなかったの。恥ずかしい事だって知らなかった」


 叫ぶと、ソレイユが走りだした。何だこれ。この女の子はなんなんだ? シッダルタ、シッダルタ、シッダルタとかなりシッダルタを気に入っている様子。偽りの庭から離れ、市街地まで来ると、トンッとソレイユが跳ねた。一気に急上昇。パズーを抱えたまま、建造物の屋根に飛び乗る。


 あり得ない身体能力。


「あー、ソレイユちゃん? 君って何者?」


「何者? ソレイユはソレイユよ。ティダ兄様のとっても可愛い妹。アンリ姉様の妹にもなったわ。今は嫌われているけれど、星姫のようになってシッダルタ様のお嫁さんになるの」


 自慢げなソレイユが、思いっきり悲しそうな顔をした。ティダの妹? 顔がよく似ているので納得だが、あの男に妹なんていたのか。


 シッダルタの嫁?


「君、シッダルタが好きなのか?」


「オーガからソレイユを助けてくれようとした、運命の王子様だもの。運命には従うもの。シッダルタ様を幸せにするのよ。お嫁さんになれなくても、そうするべきなの。それが星姫よ」


 質問をしても、疑問が増えるだけだった。このソレイユの発言はいちいち、変だ。星姫とはなんなんだ。


 とりあえず、ティダの妹だから、このような身体能力なのだろう。パズーを抱えたままぴょんぴょんと屋根から屋根へと跳んでいく。ティダのこのような姿は見たことがないので、ソレイユはもしかしたらティダより優れているんじゃないか?


 一部が水色の壁の、五階建てのマンション——とペジテ大工房では呼ぶらしい建築物——の前でソレイユは止まった。ソレイユが急にパズーを片手で肩に担いだ。


「三つ目、一番端のようね」


 え?


 ソレイユが飛び跳ねた。跳躍と、器用に壁の出っ張り等を掴むのと、反動と、あれこれ使ってみるみる上の階へ移動する。ソレイユが三階の一番端のベランダに降り立った。パズーはまだ担がれたまま。


「ゴガモ! じゃなかった、フォン! 鍛錬の時間よ! ソレイユも頑張るのだから、貴方もよ! やはりサボっているのね! 匂い玉を仕込んでおいて良かったわ! 起きなさい!」


 ソレイユが窓をコンコン叩いて、叫ぶ。


 コンコン。


 コンコン。


 勿論、返事はない。朝、早すぎる。それもベランダから窓を叩く不審者、フォンなら携帯を許されている銃を持っているかもしれない。


 ソレイユがパズーを下ろし、窓のサッシを掴んだ。ソレイユが根野菜を引っこ抜くように、窓を引っ張る。まさかの窓が取れた。閉じられたカーテンを開けると、ソレイユが室内に入った。


「フォン! 迎えにきたわ! 鍛錬するのよ!」


 不法侵入なのに、ソレイユは当然という顔。


「ちょっと、おい、ソレイユちゃん。勝手に……」


 左手にある扉が開き、フォンが飛び出してきた。上半身裸で、下は灰色のズボン。


「はあ? な……」


「きゃああああ! 変態! 極悪! 破廉恥! ソレイユを押し倒そうなんて、百年掛かっても無理よ!」


 ソレイユがフォンに近づき、フォンをビンタした。フォンの頭が扉にゴン! とぶつかる。


「痛っ!」


「フォン!」


 フォンの後ろから、女性が現れた。扉に頭をぶつけたフォンに寄り添う。女性はソレイユを怯えたように見て、パズーにも同じ視線。パズーはブンブンと首を横に振った。フォンは呻いて頭を抑えている。


「うんと、手加減したから大丈夫よ。やはりゴガモね。これを鍛えるなんて、それこそ百年で足りないかも。ソレイユはいつまでもシッダルタ様と挨拶出来ないわ」


 大きなため息と共に、ソレイユがしゃがんだ。フォンの頭を、子供をあやすように撫でる。フォンはなすがまま。ソレイユが花が咲いたように笑った。黙って笑っていれば可愛い子供なのに、とパズーは変人ソレイユをボンヤリと見つめた。


「一緒に頑張りましょうねフォン。ソレイユが一番励んで、手本になるから大丈夫。必ずゴミから、素敵な匂いがするようにしてあげるわ。そうしたら、貴方は素晴らしい人生を得られる。協王になるソレイユは、貴方のような者でも見捨てない。導かれる者に選ばれた幸運に感謝しなさい」


 我が子を慈しむように、ソレイユがフォンの額に口付けをした。


「ちょっと、貴女! 何⁈」


 フォンの背後にいる女性がソレイユを睨みつけた。多分、フォンの恋人だろう。結婚してないと言っていたので、恐らくそうだ。薄着で胸元あらわなのが、艶めかしいというか、フォンの格好といい、生々しい。ペジテ大工房の男は、結婚するまで女性に手を出さないのではなかったか? アシタカからそう聞いている。というか、見習えと大技師教義を読まされた。


「まあ……。貴女はフォンより酷い。卵が腐ったみたい。これではフォンは成長出来ない。納得ね。二人に増えるなんてソレイユは頑張れるかしら?」


「生ゴミが腐ったみたい? フォン! 何なのこの女! この浮気男! 最低!」


 ビンタを食らったフォンが目を白黒させた。ソレイユがいきなりワンピースを脱いで、女性に着せた。ソレイユの下は半ズボンで上はペタンコ胸にサラシだった。幼児体型かと思えばそうでもなかった。くびれは抜群。スラリとした健康そうな体。多少、大人寄りなのか? 二、三歳年下とかくらいか?


「浮気男? 一途な匂いがしないし、酷い不信感。それに、貴女は他の香りもする。何処でだったかしら? フォンと同じ服を着た男の匂い。こんなの星姫にならなそう。ソレイユは未熟者だから、ここまで見込みが無い者まで導くのは無理。バイバイ」


 ソレイユが女性を肩に担ぎ、ベランダに出た。いきなりぴょんと跳ねたので、パズーは慌てて姿を追った。三階もある高さなのに、無事そう。ソレイユがまた戻ってきた。


「ちょっとお前……。朝から何なん……。他の香り? 男?」


 フォンは茫然としている。当たり前だ。パズーがフォンの立場でも同じになる。ソレイユがズカズカとフォンの背後の部屋に入った。


 すぐに戻ってきたと思ったら、服やら鞄を持っている。多分、ソレイユが外に連れ出した女性のものだろう。ソレイユはそれを持って、またベランダから飛び降りて、荷物を置いて戻ってきた。


「あんな悪女を見初めるなんて、見る目がないのね。あの人、貴方のこと、ちっとも好きじゃない。はあ……。本当に先が思いやられるわ。でも大丈夫。ソレイユがついている」


 ソレイユがまたフォンにキスした。今度はほっぺた。大丈夫、大丈夫とソレイユがまたフォンの頭を撫でた。慈愛に満ちた、大人びた微笑。フォンが目を見開き、少し赤くなっている。


 そのすぐ後、ソレイユは真っ青になり、嘔吐した。正確には吐くものが無いようで、えずいて倒れた。

 

「おい、ソレイユ。大丈夫か? 朝から何なんだこれは?」


 フォンが倒れたソレイユに近寄り、パズーを戸惑いの瞳で見つめた。


「さっき会って連れてこられた。俺こそ意味が分からない。ソレイユちゃんって、フォンとも知り合いなのか?」


 ソレイユが、涙目で微笑んだ。顔面は蒼白で全く力が無い様子。


「悪魔の国に生まれた貴方に罪はないわ……。酷い境遇な分、幸せになるべき……」


 瞼を閉じたソレイユの頬に、一筋の涙が流れた。


 呼吸は粗く、苦しそう。フォンがそっとソレイユの額に掌を当てた。


「熱っ……」


 フォンがソレイユを抱き上げて、近くのソファに寝かせようとした。


 瞬間。


 パズーの全身にゾワゾワと鳥肌が立った。


〈————るな!〉


 何かの気配がして、パズーは振り返った。突進してきたのは、子蟲のアピだった。ドメキア王国からペジテ大工房に来てからルルと大人しくしていた筈。何故ここに⁈ 真っ赤な瞳で、フォンの頭上を旋回するアピに、フォンが怯んだ。怯えたように震えるフォン。


「子蟲君⁈」


 フォンがソレイユをソファに寝かし、離れた。アピがソレイユの腹部に乗り、フォンを威嚇するようにギギギギギギと鳴き出す。羽音も煩いくらい鳴っている。フォンが両手を挙げ、首を横に振った。


「何もしない。口が悪いし、何を言っているのか分からない変人だけど、本人なりに一生懸命みたいだ。彼女は熱がある。氷嚢、は分かるのか? えー、あー、手当をしたい」


 嫌悪感強い目で、震える声で、フォンが告げた。アピを真っ直ぐに見つめている。アピが次第に鳴き声を小さくし、羽も止めた。フォンを赤い瞳で見ていたのが、赤と黄色の点滅に変化した。


 ふいに、サアッと瞳を緑にしたアピが、体の向きを変えた。ソレイユの頬を触覚で撫で始める。


 ソレイユは眠りながら、泣いていた。


 パズーは連絡機でアシタカに電話した。セリムとシッダルタと三人は、もうこちらに向かっているということだった。


 いつの間に準備したのか、フォンがソレイユの額に氷嚢を乗せた。ソレイユが苦しそうに呻くたびに、アピがソレイユの頬を触覚で撫でる。


 パズーとフォンはその光景を、無言で眺め続けた。


「悪魔の国、怪物か……」


 ふいに、フォンが呟いた。独り言のようで、どう反応して良いのか分からない。


 ソレイユが呻いて、氷嚢が額からずり落ちた。フォンとほぼ同時に手を伸ばしたら、フォンの方が早かった。フォンがソレイユの額に氷嚢を乗せようとした。


「シッダルタ様の匂いだっ……」


「——っ⁈」


 パチリと目を開いたソレイユが飛び起きて、フォンとぶつかった。正確にはフォンの唇にソレイユの唇が当たった。というか、当たっている。つまり、キス。


 フォンとソレイユがお互い瞬きを繰り返し、どちらともなく離れた。


 大騒ぎするかと思ったソレイユは、静かにホロホロと涙を零すだけだった。ソレイユがさめざめと泣くからか、フォンは固まっている。 


「酷いわ……」


 やっと言葉を発したソレイユが、両手で顔を覆った。


「ソレイユは運命の王子様の伴侶になれない。それにフォンも殺すことになるんだわ……」


 フォンが頬を引きつらせて、立ち上がった。


「何だって⁈」


 フォンが叫ぶと、ソレイユが心底悲しそうにフォンを見上げた。


「協王候補のソレイユと契りを交わしたのが悪魔の国のオーガもどき。フォンは殺される。こうなったら、輪外れして逃げるしかないわ」


 吐きそう、と言いながら、青ざめた顔のソレイユが立った。よろよろとしている。ソレイユがバッとパズーの方へ体を向けた。


「ホルフル大蜂蟲(アピス)の末蟲。助けてくれるのね? そう。そうなの? それは嬉しい。ソレイユがこんなに辛いのに、貴方は偉い子ね。行きましょう。オーディン様が一番怖いけど、逃げるしかないわ。オーガじゃないのに誤解されるフォンを守らないと。虐殺は許されないけど、多分こんな匂いじゃ伝わらないわ」


 ソレイユがポーチから何かを出した。灰色の何かと黒い棒。文字を書いたらしい。ソレイユが灰色のものを机に置いた。読む前に、ソレイユにいきなり小脇に抱えられた。反対側にはフォン。飛び立って室内を旋回していたアピがソレイユの頭の上に乗った。


「優しい子。セリムの民なのね。蟲の民の民って変な感じ。まあ、迎えにも来てくれるの? 皆、優しくて偉い子ね。気持ち悪くて、頭が割れそうだけど、頑張るわ。まあ、コーストス大蜂蟲(アピス)まで。コーストスの民って初めて聞いたわ。地下から行けるならきっと何とかなるわね」


 フォンとパズーが何を問いかけても、ソレイユは険しい顔をしているだけで返事をしなかった。スタスタと歩いて、玄関に来ると、ソレイユが玄関扉を蹴り飛ばした。


 「一応、ちょっと寝ててね」と言われて、チクリと腹が痛み、一気に眠気に襲われた。



***



 もぬけの空だったフォンの部屋で、セリムは立ち尽くした。


【全てを捨てても守るべきは群れの命。さようならシッダルタ様】


 机の上に置かれた、灰色の木の枝ようなものにそう書かれていた。


「これ、どういう……」


 アシタカとシッダルタもセリムの手元の灰色の木の枝を見つめて、眉根を寄せた。


〈ソレイユはゴガモを守る。可哀想だからアピスの子は助ける。末蟲のトムトムが案内護衛役。ホルフルアピスの子はソレイユの為にシッダルタの世話役になる〉


 何処にいたのか、ブーンと飛んできたアピがシッダルタの頭の上に止まった。


〈おい、何があった? どういうことだ?〉


〈アピスの子はバリムじゃなくてソレイユに従う〉


 それっきり、大蜂蟲(アピス)の子の意識を探れなくなった。直後、大蜂蟲(アピス)の親蟲達が〈子らが家出した〉と大騒ぎするのが聴こえてきた。混乱しているのか、問いかけても返事がない。


 大蜂蟲(アピス)、孤高ロトワ、ティダ、大蛇蟲の王(バジリスコス)の気配がして、セリムは倒れた。


 一気にあちこちの意思疎通の輪に巻き込まれ、耐えられなかった。

 

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