大狼兵士と氷姫
【偽りの庭 大技師一族本邸】
突然訪れた、意外な人物にセリムは瞬きを繰り返した。完全武装というアンリ、それからアシタカの姉ミーナ。一番予想外なのは、まだテレビ越しでしか見たことがないアフロディテ。ティダの兄テュールの妃。やはり、とても美人。シュナと並んで見劣りしない。甘い顔立ちのシュナとは正反対。艶やかな黒髪と、凛とした佇まいは同じく佳人のラファエを思い出す。しかし彼女よりもっと大人の女性で、落ち着き、色気がある。品の良さを感じるが、威圧感は強い。セリムの人生では会ったことのない種類の人物だ。
セリムが扉を開いてポカンとしていると、ミーナとアンリ、アフロディテが会釈をした。ミーナは何も言わずに去っていった。
「今晩はセリム。ラステルとシュナに相談されて、助けて欲しいの」
アンリがセリムを押し、アフロディテを引っ張って部屋に入った。
「ア、アフロディテ様⁈」
床に胡座をかいていたシッダルタが奇声を上げ、立ち上がり、慌ててまた座った。平伏すように頭を下げる。更には床にピッタリくっつけるように腕を伸ばした。無表情のアフロディテがシッダルタの前に優雅に腰を下ろした。そっとシッダルタの肩に手を置く。
「アフロディテ様? 私を知っているとはベルセルグの民ですか? ティダ様がいくばくかの兵をドメキア王国へ率いたと聞いております。面をあげなさい。頭を下げるべきなのはこのアフロディテの方です。戦場に置き去りなど、申し訳ありませんでした」
凛とした落ち着いた、抑揚のない声。セリムは慌ててシッダルタとアフロディテの間に座った。謝罪にしては、太々しい態度。何を考えているのか分からない、黒曜石のような瞳。しかし、嫌な感じは無い。不思議な女性だ。
シッダルタがそろそろと顔を上げると、アフロディテは反対に頭を下げた。シッダルタが引きつった顔で固まった。大汗かいている。
これは、一体どういうことなのだろう? セリムはアンリを見上げた。アンリは手に青い缶を持っていた。
「彼女の顔をあげさせてセリム。で、その態度は止めなさいシッダルタ君。無理だと思うけど、私の友人と思って接して。ラステルみたいに。シュナとラステルに美味しいクッキーを貰ったの。三時間並ばないといけない代物よ。紅茶を用意してくるので、少し歓談していてね」
はい、とセリムに缶を手渡すとアンリが部屋から出て行った。目の前で頭を下げ続けるアフロディテ。それを困ったように、あと恐れているように見つめるシッダルタ。シッダルタに対して自国のお妃様——雲の上のような存在——にラステルと同じように接しろ? アンリは疲れで頭が沸騰したのだろうか。アシタカから、アンリは働き詰めだと聞いている。
シッダルタがセリムに縋るように視線を移動した。セリムは一先ずアフロディテの頭をあげさせようと深呼吸した。
「あ、あの……」
セリムがアフロディテに手を伸ばした時、アフロディテが頭を上げた。ふわり、と花のような良い香り。とても甘い芳香。誘われるような色香に思わず手を止めた。この場にラステルがいたら、キッと睨みつけられたに違いない。
ラステル程ではないが白い。頰紅も口紅もしておらず、服も暗めの色なので、無表情だと人形のよう。シュナにも見劣りしない麗人なので、余計に作り物のような印象を受ける。
「夜分、恐れ入りますセリム様。ベルセルグ皇国第二皇子テュールの正妃アフロディテと申します。つい先程、貴方様の奥様ラステル様とシュナ様がこう申しました」
淡々とした語り口で、アフロディテがシュナが会いに来て、慈善活動を共にしようと提案したと話した。それをベルセルグ皇国からの賠償の一つとする。なのでアフロディテが提案し、嘆願したということにしなさいとシュナに言われた。アフロディテはそう告げた後、ラステルやアンリが後押ししてくれたと口にした。
「初対面の際、何と慈悲深い方と思いましたが、まさかここまで。本来、このアフロディテから謝罪するべきでしたのに自ら赴き、親しげにしていただき、このような庇護案まで。乗るつもりはございません。シュナ様とラステル様、そしてアンリ様の手柄として進めるべきと思います。公の場で同じ発言をしていただき、平伏しとうごさいます。このアフロディテは国を代表して罵詈雑言、中傷されるべきです」
何だって? セリムはシッダルタと目を合わせて、瞬きを繰り返した。アフロディテは背筋を伸ばして涼しい顔。目だけは燃え盛る炎のような熱視線。多くの人に会ってきたが、彼女がどういう性格なのか良く分からない。演技なのか、本心なのかも、イマイチ判断不能。
助け舟のようにアンリが戻ってきた。手にお盆を持っていて、上にティーセットが並んでいる。
「中傷されるべき? ちょっと、何でそんな話になっているのよ。しかも床に座って」
アンリが叱るような目をセリムに向けた。確かに目上の女性を床に座らせている。こんなの大恥なのに、気がつくのが遅過ぎだ。セリムがアフロディテを立たせようとすると、キッと睨まれた。アフロディテはアンリのことも睨みつけた。
「そんな話? 私は安寧を求めてこの地に参った訳ではございません。このお命、皆様方がお守りして下さるそうで、身に余る事態に最早心が押し潰れそうです」
少し顔をしかめたがアフロディテは、あまり辛そうには見えない。とりあえず、セリムはアフロディテを立たせようと、もう一度手を差し出した。ツンと澄まし顔で無視された。アンリが何故かシッダルタを見た。
「シッダルタ君、立って」
アンリに言われて、シッダルタが恐る恐るという様子で立ち上がった。明らかにアフロディテに怯えている。アフロディテがシッダルタを見上げた。何に驚いたのか、少し目を丸めている。
「シッダルタ君、この人のこと、セリムに教えてあげて」
知りたいので、セリムもシッダルタを見上げた。その前に、とセリムはアフロディテに問いかけた。
「あの、彼の何に驚いたのですか?」
アフロディテが顔を動かし、ジッとセリムを見つめた。吸い込まれそうな引力が強い瞳をしている。やはり、目の光に嫌な感じはしない。一方で態度や表情はあまり関心出来ない。動きはとても雅。指や腕、その他もろもろ、動くたびに可憐な蝶々のよう。そういえば髪型も蝶に似ている。ベルセルグ皇国の髪型は変わっているなと、構造が気になった。
「シッダルタとは、テュール様の第一側近リシュリが推進する平等雇用法にて採用予定だった牛飼いの名。ティダ様気に入りの勤勉家だとテュール様が申していたので、この方のことかと驚いたのでございます。私、屋敷に部屋を用意しておりました。官吏どころか、亡命とはティダ様の気に入りとは本当だったのかと」
へ? とシッダルタが間抜けな声を出した。
「平等雇用法? 官吏? 屋敷に部屋?」
アンリが感心したような声を出して、シッダルタを見つめた。
「あの、貴女はそれをどう思っていたのですか?」
セリムはアフロディテがどう反応するか見定めたかった。言葉より、態度。目の奥の光。しかし、やはりアフロディテは探り辛い。
「卑しい身分の者が屋敷になど反発もありました。目の前の食事がどのように用意されたのか分からぬのかと、屋敷から追い出しておきました。本当に卑しく、好機を捨てるような者なら、誰も彼もに蹴落とされ、私が管理する屋敷からも追い出します。主が認め、逆境を跳ね返した者がどうなるか、推測は容易いかと」
当然、というような表情。嘘の匂いはしない。思わずセリムは更に質問を口にしていた。
「奴隷をどう思っています?」
アフロディテは嫌そうに顔を歪めた。物凄い嫌悪感にセリムは驚いた。表情はまだ乏しいが、ヒシヒシと伝わってくる。思わず立ち上がって、シッダルタの前に移動してしまった。
「私は豊かな身分に生まれ、更には妃がねとして蝶よ花よと育てられました。堕ちたくない身分です。近年、地位が低下してましたが、奴隷達は無くてはならない労働力。かつてのように、もう少々、待遇や権利を手厚くしなければ我がベルセルグ皇国は崩壊。聡明な官吏はそれを心得ていますので、改革推進が行われております。傲慢と非難するか、拍手を送るか、とても難しい問題かと。世は不平等、そして誰もが自己保身に走る。目を背けてはならないのに、私は現実を直視出来ませぬ」
また嘘だとは思えなかった。奴隷は嫌だ。そうではなくて安心した。そんな自分が許せない。恐らく、そんなところだ。表情乏しいが、裏側は感情豊かで少々過激なよう。敵国で威風堂々と歯にもの着せぬ女性。セリムはまたしゃがんでアフロディテに手を伸ばした。立ちましょうというセリムの言葉を遮るように、アフロディテがシッダルタに目線を移動させた。
「私はテュール様の正妃。共に生き、共に滅びます。それが皇妃。テュール様は先代皇帝とティダ様同様、身分格差是正派。しかし、大々的に声を上げればレオン様に打ち首。根回しをしても、強制徴兵を止められなかった。己の身、背負う家臣やその家族可愛さ故に見捨てたと嘆いておられました。優劣つけて選択し、捨てたのは事実。恨んで頂いて構いません。結果は結果です」
アフロディテがまた頭を下げた。シッダルタが困ったようにセリムとアンリを見た。
「だから、共に滅びてはいけないって話よ。自分で語って、私の話を聞いて、まだ分からないの?」
アンリが大きくため息を吐いた。何か話をしていたらしい。何だろう? この様子、お妃連合とやらの話とは思えない。
「いいえ、アンリ様。死なば諸共、一連托生。唯一の妃の座を手に入れたアンリ様と、多くの妃の中で地位だけ正妃という私では違うのです。これは私の意地です。女としての矜持。曲げません」
何だか話が見えない。
「あー、アンリさん。僕に何の用です?」
「エルバ連合筆頭ボブル国アリババ王太子の妃マリハム様にお取次をお願いしとうございます。シュナ様よりも早く謁見しなければなりません。シュナ様の慈悲深さに、己を省みたという話に持っていきます。実際、そうでございます。持ち上げられるのは私ではなく、シュナ様です。それが筋です」
アンリに問いかけたのに、口を開いたのはアフロディテ。おまけにまた頭を下げ出し。アンリが立たせようとすると、その手を振り払う。アンリの力ならそれでもアフロディテを立たせられるだろうが、それはしなかった。
「お止め下さいアンリ様。この場で一番低い身分。立つなど許されません」
またしても、ツンと澄ましたアフロディテ。
「セリム、立って」
アンリに言われる前にセリムは立ち上がった。
「セリムとシッダルタ君はソファ。フォン、貴方は分かるわね? ずっとボンヤリしているけど、何をするべきかしら?」
ソファの上で固まっていたフォンが勢い良く立ち上がった。
「エンリヒ長官を叩き起こしてきます」
その通りというように、アンリが大きく頷いた。フォンが一目散に部屋から出て行った。エンリヒ長官は、医療支援を行う機関の中心人物の一人だ。アンリが懐から何か出している。連絡機だろう。セリムも欲しい、伝心術でなくても遠くの人と話せる、電話という便利な機械。かなり高価らしい。
「彼女の人柄、どう思う?」
アンリがセリムの顔を覗き込んだ。中々迫力があり、思った事を言えと訴えられている。
「嘘はついてないと思うけど、嘘臭いというか……。顔と中身とが……」
言いかけたが、アフロディテが再び顔を上げ、無表情でセリムを見上げたので言葉が詰まった。何もかも暴かれそう。そういう瞳をしている。未熟なセリムが人柄を語るなど烏滸がましい。
「そうね、可愛げが無い。こんな人、絶対に誤解されるわよ」
可愛げが無い。そんなことは一言も口にしてない。誤解されそうというのは同意だが、少し話せば直ぐに分かる。
「それは良く身に染みてございます。自分の案などとそのような人道外れた行いはしとうございません。皆様からの命令ならば遂行致しますが、このように不器用者です。素直にシュナ様の手柄だと、披露される方が良いと思います」
思いっきり嫌そうな顔をしたあと、アフロディテがまた無表情に戻った。今の嫌悪感は何に対してだろう?
気配がしたので、扉の方に視線を移動させた。ほぼ同時にアンリも体の向きを変えていた。腕を組んだアシタカが扉向こうの壁にもたれ掛かっている。
「シュナが熱などという嘘で僕を呼び戻して、何の用だアンリ? それともセリムか? で、この状況は何だ? ベルセルグ皇国の正妃を取り囲んで何をしている」
アシタカは髪を上げていて額が露わなので、怒りで浮き出た青筋が良く見える。
「皆様が私を庇護して下さるそうでございますアシタカ様。慈悲の重さに潰れそうですが、決して折れません。必ずや御心に相応しい対応を行います」
アフロディテがまた嫌そうな顔をした。アシタカの目が白黒と変化する。
「喧嘩をしたくせに奥様を放置するから呼んであげたの。クッキーと緑茶と大親友では不足で泣いてたわよ? 貴方達がシュナを追い出すからよ。放置しているお妃様も気になる。敵国で過保護にされて、グサグサに刺されてるから他人事に思えない。相談したいのに相手が不在。他にも悩んでそうだけど、一番は何かしらね? 身に覚えがあるんじゃない? 仕事をして、気を回して、根回しして、あの子はいつ休むのかしら? 晴れ舞台で目の下に隈なんて可哀想」
激怒という様子のアンリが、手にする盆を机に置いてから、ツカツカとアシタカに近寄っていった。
「喧嘩? 喧嘩などしていない。アンリ、君も居たから分かっているだろう? やはりシュナはそんなに疲れているのか。先に休んで欲しいと……」
シュナがラステルをお茶に誘った時の姿は、いつも通りだった。泣いていた? アンリがここまで怒るほどシュナは辛い思いをしていた? セリムにはアンリとアシタカ、どちらが正しいのか判断がつかない。
「また捨てられたいの? シュナでダメなら、孤独死しなさい。まあ、来ただけ成長したわね。でも場所が違うわよ! それからテュール皇子は何処? こんなじゃじゃ馬、何で国から出したの! 死なば諸共、一連托生なんてティダが……。あらいたの。喧嘩の仲裁で愛娘を慰めるんじゃなくて、探りにくるなんて采配下手ね。でも、怪我の功名かしら」
全く気配がしなかったが、よく見るとアシタカの隣にティダが立っていた。他には誰もいない。ティダが無言で入室してきた。低い声で叫んだアンリも怖かったが、ティダの方が何倍も恐ろしい。アンリさえ押し退けて、強い殺気をたたえるティダがアフロディテを見下ろした。シッダルタが腰を抜かしそうになり、セリムは支えた。セリムも喉が鳴った。声が出ない。
「これは、これは姉上。命乞いされるなら、相手が違う。何の話をしていたのか、語っていただこうか。そもそも、招待していない。自己保身とは何とも卑しい。流石、手練手管で正妃になった黒百合。相変わらず、香がキツくて鼻が曲がりそうだ。帰国手配は済んでいます。貴女のような者の席はありませんので、明日にでも岩窟に投げ捨てます。テュール兄上は了承している」
立ち上がったアフロディテが、ティダを見上げる。睨みつけるようで、全く怯みを感じない。
「命乞い? 死刑台覚悟で参りました。貴方様を始め、そのような方は存在しませんでしたけどね。シュナ様が私にこう申し出ました。お妃同士、力を合わせ、伴侶を支えましょう。慈善事業、奉仕活動を行う。私の提案にしなさい、と。誠に不本意ですのでしかとシュナ様の手柄にしていただきたく、ご相談していたところです。帰る? テュール様が不在の岩窟に帰る場所は有りませぬ! 投げ捨てるのならばユルルングル山脈に突き落とせ」
ティダが怯んだ。アフロディテの闘争心強い熱視線は、アンリに似ている。違うのは表情の乏しさ。睨む合うティダとアフロディテ。
相談? 相談と言えば相談か。それにしても、ティダがあまりにもアフロディテを拒否している様子なのに驚いた。黒百合に、鼻が曲がりそうとは酷い言い草。セリムが文句を言う前に、アンリがティダを蹴ろうとして、避けられた。
「ふーん。そういうこと。ティダ、貴方、この人から逃げ出したのね。それに、アルセさん。可愛らしい子ね。何が遊んでいただけよ。あんなに懐かれて、何をしていたんだか」
はあ? とティダが素っぽい声を出した。
「胡蝶蘭に懐かれる? 一夜しか話してない女に、それも手酷く突き放した女に好かれる訳があるか。俺が逃げたのは氷姫ではなく、軟弱臆病卒と胡蝶蘭からだ。無事に逃げたのに、君に捕まっ……」
口が滑った、というようにティダが無表情になって唇を硬く結んだ。アフロディテを横にずらし、アンリがパァン自分の手を鳴らした。ティダが軽く仰け反る。アンリはアフロディテの横に移動して、腕を組んだ。
「ティダ、よく分かったわ。夜明け姫に胡蝶蘭だなんて、相当お気に入りなのね」
コキュートスは氷姫という物語の主人公だが、ペジテ大工房では夜明け姫なのか。相当お気に入り、とアンリが言う通り、ティダは好きな者にすぐあだ名をつける。この名付けは好んでいるからとしか思えない。
「采配の駒だ、駒。アフロディテは皇居と後宮の柱。柱が足りんとテュールの不在で荒れるだろう。テュールに続いてアフロディテまでアルセ、アルセ。アルセはアシタカに飾る予定だったんだよ。あとは年が近いし、愛嬌たっぷりだからラステルを懐柔するのに使おうかと。状況が変わって、シュナが出てきたのでアルセは用済み。不要になったし、観光でもさせておこうか……」
ティダが言いかけて口を噤んだ。しまった! という表情。
女を道具にするな、などと怒るかと思ったアシタカは、特に反応しなかった。複雑そうな表情だが、黙っている。もう、ティダから聞いていたのかもしれない。それかセリムと同じ気持ちだろう。倒れそうなほど青ざめて、ティダは大丈夫なのか?
「愛嬌たっぷり、ね。ふーん」
アンリが冷ややかな冷笑をティダに投げた。引っかかったのは、そこらしい。
「あのアルセさんを見れば誰でも分かるだろう? 可愛らしい方だ。女性を駒などと、己を省みて止めて二度としないだろうから……」
珍しくアシタカがティダの擁護に回ったが、アンリに睨まれて口を閉じた。怖い。アンリの目が怖すぎる。
「あら? アシタカ、貴方まだいたの? シュナにポポの種になって欲しいのね」
アシタカの顔色がサアッと悪くなった。ポポとは蟲森の綿毛がついた胞子植物だ。アンリにはラステルが教えたのだろうが、アシタカも知っているらしい。
「忘れたの? 各国首脳会談だから良い男が沢山現れるわよ。そこにもいるわね。シュナが大好きな大親友の大親友。これからセリムとお悩み相談に行く予定だったの。選ぶのはシュナよ。選ばれているうちにガッツリ掴まないとポポの種みたいにふわふわ飛んでいくわよ。誓い? 男女の誓いは永遠ではないわ。私達の気分次第よ」
アンリがシッダルタを指差した。アシタカに鬼のような形相で睨まれたシッダルタが小さく悲鳴をあげ、ブンブンと首を横に振った。
「君がそこまで言うなら、僕は余程シュナを刺したようだな。喧嘩とは覚えがないが……それも誤認識らしい。さて、ティダ。アフロディテさんは君の姉上。君と姉上は仲が良さそうだし、彼女は思い悩んでいるようなので、任せた」
頭を掻いた後、アシタカが走り出した。シュナを優先したのもあるが、アシタカは逃げた。セリムはそう思った。
「アシタカ、待て! 目の前で殴られようとしている奴がいるのに眺めるどころか逃亡するんじゃねえ!」
追いかけようとしたティダに、アンリが拳銃を向けた。引き金の音で、ティダが足を止めて、アンリに体を向ける。
「世の中には優劣がある!」
沈黙にアシタカの叫び声が届いた。
シッダルタとフォンと三人で、大陸にある蟲森の確認と境界線の話をしていたのに、何だこの状況。誰か説明して欲しい。
「怒るなアンリ。そういう目で見るな」
目を細めているアンリが、銃口を下げた。アンリは撃つ真似だし、ティダもそれが分かっている筈なのに、かなり空気が重たい。アンリが今度はアフロディテを睨みつけた。腰に手を当てて、仁王立ち。やはり恐ろしい。
「死なば諸共、一連托生は禁止。あと、シュナは貴女を提案者にしたいようだから、それも踏まえて色々と考えましょう。今のシュナは冷静じゃないから、落ち着いた時に、あれこれ話せるようにしておきましょうね」
睨みから一転、アンリがとても柔らかく笑いかけた。なのに、アフロディテは少しだけ眉根を寄せて、小さく首を横に振った。
「ティダ様が用意した娘だから正妃である私は、アンリ様とは違うのです。見習いますし、いつか使えればと思いますが、今の私の存在感では無理でございます」
澄ましたような表情だが、アフロディテの体は少し震えている。よくよく見れば拳を固く握りしめていた。アンリがセリムに目配せした。心底困った、助けてという視線。しかし、アフロディテとアンリが何の話をしたのか、アフロディテの心境が読めない。
「亡霊なんぞ、必ずや成仏させます。無理なら同じ末路に至るまで。こちらを見ないままよりも、胸が好くというものです。アシタカ様とシュナ様の話し合いに、アルセが邪魔となるので、あの家から連れ出します。寝床など野原で結構! 食事などの贅も必要ございません」
淡々と言い放つとアフロディテは優雅な物腰でティダの隣を通り過ぎようとした。ティダがアフロディテの腕を掴み、捻りあげた。突然の事態に、アンリもセリムも止められなかった。アフロディテが苦悶の形相で、もがく。
「姉上、動くな。折れるぞ。訳が分からんことを申さず、帰国されよ。いや、帰す」
ベランダの方から高らかな遠吠えが聞こえてきた。声色が月狼。ティダの体にスルスルと小蛇蟲が登ってきて、肩に乗り、頭部を頬に寄せた。偽りの庭では伝心術がかなり使い難いと言っていたので、青ざめて倒れそうなのは精神的に打ちのめされたからだけでは無いのかもしれない。ティダは方々に気を張り、疲弊しているに違いない。
「折れません。貴方様は女にそんなこと出来ません。私に出来る手配は致しました。テュール様を支えるななど、そのような正妃失格行為をしろというのならば自決します。役目がございませんので、生きる価値も失います」
ツンと澄まして、無理矢理進もうとするアフロディテ。ティダは手を離さない。
パァンと、アンリの手がまた音を鳴らした。今度はアフロディテの頬をぶつ音だった。次はティダ。
「姉弟喧嘩は犬も食わない。ティダに一番堪える手で脅迫、嫌がらせをするのは止めてアフロディテさん。ティダ、進むんじゃなかったの? 酷い態度な上に蚊帳の外にするから、こうなるのよ」
またアンリがセリムに目配せした。ティダがアフロディテの手首から手を離した。アフロディテの手首が赤黒く変色している。
「アンリ……。そういう目で見るな」
アンリの優しい眼差しから逃げるように、ティダが顔を背けた。セリムはティダの横に移動した。以前なら逃げていただろうが、ティダは踏み止まっている。
「ティダ、僕に何をして欲しい?」
分からないので、聞くしかない。ティダは首を横に振り、アフロディテを見て、背を向けた。誰も近寄るな、そういう拒絶の空気。しかし、アフロディテを見たということは彼女をどうにかして欲しいということだろう。
「今夜は月が見える。酒を飲もう。久々に本気で対局。気がついたら朝になっているだろう」
震えた声で、シッダルタが進み出た。シッダルタがセリムに向かって、顎でアフロディテを示した。目配せで良いのにと思ったが、今はそれどころではない。ティダもシッダルタも、セリムにアフロディテの相手をして欲しいらしい。セリムはアフロディテの手に触れようとした。捻挫しているかもしれない。
「手当をして下さるなら、宜しくお願いします。そこの君、共に酒を飲む役は私だ。ティダよ、久々に向かい合ってみようではないか」
扉の向こうに、優しく微笑むテュールが立っていた。隣にフォンが立っている。エンリヒ長官もいた。
テュールと実際に会うのは初。アシタカに似たような雰囲気を纏っている。目元が何処と無く似ているからかもしれない。テレビを見ても思ったが、口周りはティダにそっくり。アシタカと違うのは目の奥の光が暗い。アシタカよりも冷徹そうで、腹の底が読めなそう。
「さて、ティダ。お前が本気だとアフロディテの手首は床に転がっていただろう。血の池地獄だ。アフロディテ、何をしたか知らんがそこまでされるなど余程自分を追い詰めたのだろう。帯同させたのは、心配だったからだ。私の安らぎでいて欲しいので、大狼に噛みつくな。聡いのにその話を忘れたのか?」
ティダに良く似た歩き方で、テュールが入室してきた。雰囲気もだが、目元もアシタカに似ている。ティダがアシタカを気に入った理由の一つかもしれない。
微笑むテュールに対し、アフロディテは顔を背けた。無表情に近い、膨れっ面。何に対してなのか、判断しにくいが断固拒否という様子。
「ティダよ、言っておくがやらんぞ。お前は見抜き下手だからな。隣に置けなかったことを後悔せよ。まあ、私も最近まで騙された。そちらの娘さん、妻を頼みます。色々と分かっていらっしゃるようだ。私には状況が分からん」
テュールが全員を見渡した。テュールはアンリに頭を下げた後、シッダルタを見据えた。身を縮こませて、しゃがもうとしたシッダルタをテュールが睨みつける。
「この逃亡兵が! しかし、今や崖の国の王子の側近だとか。逃した魚はでかい。ティダといい、また手駒不足。商家の息子などと偽らされ、私の指南役にと連れてこられた事があったな。一夜で逃亡。恩を仇で返す、他の者が喉から手が出る程欲しい好機を無下に捨てる、そう憤慨したが、そうか、そうか。もう逃げんのか。あの夜よりも良い目になっているな」
呑気そうに笑うテュールに、シッダルタが青白い顔で胸を張った。シッダルタが口を開く前に、テュールがセリムに視線を移して軽く会釈をした。
「エルバ連合、崖の国第三王子セリムです」
セリムが会釈を返すと、テュールに嫌そうな顔をされた。
「お前が泥棒猫か。我等の龍王が、貧乏小国の目付監視役など最悪。私が勝った暁には返してもらおう」
テュールが嫌そうな顔から、屈託無く笑った。セリムは面食らった。どちらが本音なのか、分からない。ティダが大きく目を見開き、テュールを見つめる。ティダが観念したというように、肩を揺らした。
「アシタカに何処まで何を聞いたんだか……」
「アシタカ殿? 彼は手一杯だ。彼はどれだけ働く。あれを基準にされると困る。傍迷惑な方だな。私に少し進言をしたのはお前の第一部下だという男だ。いや、脅迫か」
テュールがクスクスと笑い、大きなため息を吐いた。ティダの第一部下とは、ゼロースのことだろうか。ティダも思い至ったのか、苦笑いを浮かべた。テュールが親しみこもった目をして、セリムとシッダルタを手招きした。
「我が弟には君達が必要だ。宜しく頼む。で、セリム殿は私と勝負しよう」
ティダが小さく息を吐いた。
「こんな、ひよこは直ぐに王手。シッダルタ、お前がボコボコにしろ。俺は岩窟には帰らん。まだ、な。気が向いたら顔くらい出す。アンリ、すまない。頼む」
ティダが悲しそうに笑い、それからアフロディテの前に膝をついた。
「長年の非礼を詫びよう姉上。先程の口振り、あれこれ聞いたのだろう。兄上の妃を二度も殺すわけにはいかぬ。今の状況、何がどう転ぶか分からない。中身と違う、表面の愛嬌の無さに太々しさ。上手く庇ってやれん。大人しく帰国して欲しい。兄上は心配と自身の怯えを優先して連れてきたようだが、後宮に皇居、貴女の力が必要な筈だ」
アフロディテが小さく首を横に振った。
「我等の龍王を返せと、お国は爆発寸前です。そのご様子ですと、テュール様はティダ様の為にあれこれ隠し事をしているようですね。皇居も市街地も、いつ暴動が起きてもおかしくない状況です。右も左も地獄。そこまで帰れというなら帰りますが、テュール様不在ながらも気丈に地獄を歩みます。そうしろとここまで嘆願されれば仕方ありません」
愕然としたティダの前に腰を下ろそうとしたアフロディテ。彼女をテュールが止めた。
「その件は話してある。アシタカ殿と話し合って、ティダと共々父上達を上手く転がす予定なので、ティダを追い詰めてくれるな。説明する暇も無くすまなかったなアフロディテ。それから、ありがとう。後、このように気丈に振る舞わなくとも良い。申し訳ないと思うのなら、流されなさい。今夜は大人しくしていてくれ。ティダとしかと話をする」
テュールがアフロディテの頭を優しく撫でた。アフロディテは無表情だが、瞳を潤ませて、ほんの僅かに眉根を寄せた。よく見ないと分からない変化。
アンリがアフロディテの横に並び、背中に手を回した。頭一つ背が低いアンリが、俯くアフロディテの顔を覗き込む。アンリは優しい微笑みを浮かべていた。
「一緒に野宿してあげるから、来なさい。まあ許されないだろうから、第三砦の仮眠室を用意させるわ。嫌だと言っても、手当はしますからね。シュナが落ち着いたら、もう一度お茶会。察し間違えてごめんなさい。行きましょう」
アンリがアフロディテの背中を押した。無言で小さく頷いたアフロディテが歩き出す。
「姉上、東部領主に贈る予定だった牡丹。近年稀に見る大輪。何処かの誰かが横取りした。軟弱臆病の屋敷に悪評流し、あれこれ根回ししたのにも関わらず、だ。そうまでして手に入れ、ついには一番に決めたらしい。やはり氷姫。テュールの太陽を蹴散らし、凍らせるとは最悪な女め。頼むから大人しくしてくれ。命短し、されど尊い、姉上。俺は貴女のような、男を庇う女には虫酸が走る」
ティダがしかめっ面で、アフロディテを見ないまま、歯切れ悪く告げた。良い女だから目をつけて、東部領主という人に嫁がせるつもりだった。なのにテュールが妃にした。どうか男を庇わず、長生きして欲しい。素直になっても、まだ素直じゃなくて分かり辛い言い回しだ。
——ティダ様が選んだ娘だから正妃
それに対する返事でもあるらしい。テュール本人がアフロディテを正妃に選んだ。
アフロディテが勢い良く振り返った。弾けるように涙が散る。
「まあ、そうでございますか。それは良い事を聞きました。ではティダ様、私はテュール様の三歩後ろに下がってついていきます」
指で涙を拭うと、アフロディテが可憐に笑った。
その、屈託のない可愛らしい笑顔の破壊力に、室内の全員が凍りついた。一瞬の幻のような笑み。豹変ぶりで強調されたのもあり、あまりにも魅惑的で愛くるしかった。無表情に戻ったアフロディテが不思議そうに首を傾げて、全員を順番に見た。僅かに目が合ったセリムは、激しい動悸に襲われた。シッダルタの顔は真っ赤。
頬を赤らめ、楽しそうに笑ったアンリがアフロディテを連れて部屋を後にした。アンリがさり気なく、フォンとエンリヒ長官に目配せをして、二人を連れて行った。
「どうだ、かわゆいだろう? 先日、私への激しさを知って益々気に入った。お前は女を見る目があるから、根回しして強引に手に入れて良かった。地獄の果てまで連れて行く。そうすると私は励むしか無くなるからな」
自慢げなテュールを鬼のような形相で睨みつけるティダ。強い殺気に、テュールは全く怯まない。
セリムはピンときた。軟弱臆病とは真逆。ティダが育てたらしいが、そうは思えない。ティダに負けじと努力したのではないか? つまり、迷い子のように方向を見失っているセリムとは違って、どう励むべきなのか知っている。
アシタカとティダを足して割ったような男。何だかんだ尻に敷かれるアシタカやティダとは違そうな夫の背中。アフロディテのような、素晴らしそうな女性にこれ程慕われている男性。
「テュールさん、僕は貴方の……」
貴方の背を見習う。そう口にする前に、セリムはシッダルタに肩を叩かれた。
「君のその件は後回しだセリム。お妃連合? とやらの話だ。テュール皇子、このセリム王子の側近シッダルタが勝ったらティダ皇子を帰国させるのは諦めて下さい。ティダ、セリムのことで大事な相談がある。テュール皇子と話が終わったら聞いて欲しい」
ティダが怪訝そうにセリムを見つめた。大技師就任のことを、アシタカとティダに今日中に話せとシッダルタに言われている。この状況なので、後回しにするつもりだったが、シッダルタにはそのつもりはないらしい。
テュールが頷き、ティダも小さく首を縦に振った。
「お前の隣にシッダルタがいて助かった。大事にしろ。情けないところを見せたが、お前が優先だ。ドメキア王国での二の舞にはさせん。あの時はすまなかったなヴァナルガンド。アンリがいるので何とか歩いていく。気にするな」
ティダに小さく耳打ちされ、セリムは身震いした。
セリムはティダの真横から遠ざかっている。それだけではなく、今のティダの目はカイを見るのと同じだった。あまりにも離れ過ぎている。
アフロディテの笑顔よりも衝撃的な事実に、セリムはしばし茫然として動けなかった。




