聖と血の結婚式典【序】2
【ペジテ大工房】
連絡を受けて、アシタカは関所門前へと訪れた。間も無く、他国からの来訪第一号が到着する。
「半刻程で着く速度です。ベルセルグ皇国黒国旗と、無地の白旗を掲げた小さな飛行船です。我が国が移動用にと贈与したものではありません」
隣に立つ、背広姿のブラフマー長官が無線をアシタカに差し出した。首を横に振り、無線をブラフマー長官へと押し返す。
「予定通り関所門前で僕が自ら迎える。全兵に必ず後手に回れ、何があろうと生け捕りと伝えろ。敵意なければ客として招待。いいか、何度でも伝えろ。結婚式典後の各国首脳会談にて高らかに賠償を宣誓するのが第一目的。これは君だから伝えるブラフマー長官。僕が死ねば父上が蘇る。大狼も降臨。まあ、新婚早々死にたくないので背後は任せた」
小声でブラフマー長官と、隣に立つパズーにだけ聞こえるように告げた。新婚早々と口にしたが、シュナとはまだ夫婦ではない。そのような状況で、一番幸福にしたいシュナを残して絶対に死んでたまるか。だからこそ護衛関係をしっかりと固めた。だが、この状態で相手に安心感と信頼を見せないとならない。悩みに悩んだ。アシタカの背後に整列する護衛人の特殊急襲部隊兵士達。ブラフマー長官が編成したこの部隊から、命令違反者が出ないと信じるしかない。
ティダ経由で、様子見とネズミ捕りの確認に差し出されたのが第二皇子テュールというのは確認済み。白旗とは話が通じそうな相手なのは間違いない。護衛人の誰かが暴走して、一番話が分かるという第二皇子テュールを蜂の巣にさせてはならない。万が一、死んだらと想像すると身震いしそうになるが、自分にとっても相手にとっても最善の手配をした。
さあ、来い。
一番平和、鮮やかな未来への進む先頭は自分だ。
「赤い鷹が精鋭と共に待機中。セリム様来訪時のようになると困るので、第三十班精鋭以外は関所門領域の砦内から退去させられてます。赤い鷹は、作戦が正式に決まる前、一昨日から部下を寝泊まりさせて下準備済みでした。特殊急襲部隊は私が選別した精鋭中の精鋭。背後はお任せください」
ブラフマー長官が無線で再度命令を下す。先制攻撃するべからず。大掟は絶対尊守。
ついアシタカの口角が上がった。
——他国の戦に関与するべからず。侵略するべからず。先制攻撃するべからず。
他国の戦に堂々と関与し、平和の使者となる。大掟破りだが、祖先がそういう掟破りを想定しなかったせい。時代は変わった。もしあの世があり、先祖と相対出来るのなら「大掟に込められた祈りと願いを正しく受け継いだ。だからこそ大掟破りをした」と胸を張って口にしてやる。
追放、大いに結構。背に乗った権力と築いた人間関係があればどこでだって野望を続けられる。しかし、一番役に立つのは「大陸覇王ペジテ大工房の至宝」の地位。絶対にしがみついてやる。
重厚装備に短機関銃、もしくは小銃の銃口はコンクリートの大地に向けられている。後方の光景を眺めるパズーが「うへー」と呻いた。秘書だから隣に並ぶと言って聞かない頑固者なのに、強い決意でアシタカの横にいるのに、なんとも情けない姿。その落差にアシタカは自然と笑みをこぼした。パズーはいつもこうだ。だからか不安なのは自分だけではないと安心する。一方で代わりに励まねばと力も湧く。迷えば、道を間違えそうになれば、横っ面引っ叩いてくれる。
「なんて人数の兵がいるんだよ。おまけにこれでごく一部って……赤い鷹ってアンリさんだよな、アシタカ……。何でこんな状況で笑えるんだよ」
即射殺許可が出た重犯罪で、幾たびも正確な狙撃で事件解決をしてきたアンリの通り名。射撃や弓道の大会では中央の赤い印から外さない的確さで毎年優勝。三十班長官の腕章の色は示し合わせたように赤い。「戦闘体制のアンリ長官は狙った獲物を逃さない、まるで紅蓮の焔を纏う鷹」とは雑誌のコラムか何かの言葉。アンリの渾名のきっかけ。パズーはいつ、誰から聞いたのか。アシタカは感心した。
「君のおかげさ。アンリの通り名をよく知っているなパズー。ベルセルグ皇国の飛行船内に乗ってきた誰かが僕へ向かって銃の引き金でも引こうものなら、雪原に血の花が咲く。狙撃練習で見た通りの実力だ」
朝から晩までアンリはパズーを引きずり回して鍛えようとしている。パズーの残り時間はアシタカの手伝い。文句ばかりなのにパズーは逃げはしないし、良く働く。そういうところが、あちこちで尊敬される理由だろう。良い秘書を手に入れた。
開けろとアシタカは右手を挙げた。ペジテ大工房関所門がゆっくりと開かれる。
「さてパズー。申し訳ないがここからは僕一人だ。ブラフマー長官、特殊急襲部隊の諸君、秘書のパズー、聞こえないだろうが赤い鷹と精鋭部下達。僕の命は軽い。たかだか人間一人だ。僕の野心の火を燃やし続けてくれると信じているので背中を預ける」
ティダなら足で轟音を鳴らし、もっと扇動的な言葉を選ぶだろう。アシタカには能力も、魅力も足りていない。
「全てを許せ。そして全てを愛せ。誰もが欲しいと願うのはより良い国、より良い世界、明るい希望の世界、鮮やかな世界の筈だ。作るには僕一人では役不足。よって僕が不在でも成せる。人の道を外れないでくれ」
無音。静寂に包まれている。
アシタカは一歩、一歩と前に進んだ。
「いや、お前がいないとダメだろアシタカ……。シュナさんだっているし……。無茶だけはするなよ」
真っ先にアシタカに声を掛けたのはパズーだった。次々とアシタカの名が呼ばれる。アシタカは振り返った。
「ご自愛をと頼まれているので、自らを気遣うのは至極当然。全員、手を貸してくれてありがとう。背中を任せられる者が大勢いるからこそ僕は迷わずに歩ける。それを忘れないで欲しい」
再び沈黙。失敗したか。しかし自分の雰囲気や性格でティダの真似をしても無駄。無意味。よって自分らしくいるしかない。アシタカは体の向きを戻して歩き出した。
覚悟はしてきた。あらゆる予想を立てたが、どうせ予想外のことばかり起こるに違いない。悩んでも立ち止まらない。ゆっくり深呼吸をして周りを見渡して、速度を落としても、歩くのは止めないと決めた。代わりに猪突猛進に走るのも止めた。視野を広く持て。相手に寄り添え。人の道を外れるな。許しを選べ。慈しむ心を忘れるな。それこそがアシタカを俗世に放った父の教え。サングリアル一族に脈々と続いてきた祈りと願い。故に聖人一族。
関所門を抜けると、指示していた通りに関所門が口を閉ざした。
約一月前、ドメキア王国兵、ベルセルグ皇国兵、蟲の死骸で蹂躙されたノアグレス平野には美麗な白い絨毯がひかれている。雲は少なく、太陽が雪原を煌めかせている。
純白に一滴の紅も落とさせない。
アシタカは関所門前のノアグレス平野に一人で佇んだ。
***
飛行船をノアグレス平野に停泊させよと、テュールは操舵士ダエルに告げた。
「蜂の巣にはならないようですね、テュール様」
巨大要塞の名を聞いたことはあるが、見るのは初。広がる平野に建設された、円形都市は異文化どころか異世界。灰色の分厚い外壁は二重。透明の屋根。外壁の内側に同じような構造の建造物が七つ。二重要塞に守られる、二千年もの間侵略を跳ね除けてきた大陸最古にして最先端の国。
外壁にずらりと並ぶ大砲。それに銃。侵略しようと試みれば砲撃だけではなく火炎や槍、酸までも降り注ぐと書で読んだことがある。
「あんな化物国家を侵略しようと考えたのはどこの阿呆だ。ああ、俺の父親か」
テュールの皮肉に青い顔のダエルが押し黙った。
「それにレオン様を唆したという、得体の知れない部族ですテュール様。お陰で我らは尻拭い。帰還兵によれば蟲があの透明な屋根を破壊したと言いますが、傷口は見当たりませんね。あっという間に修復したというのなら、覇王を怒らせただけで無意味。結局蟲を操ることは出来ないのか、本当は出来るのに操れないと嘘をついているのか……どちらにしても正体不明の部族が狙っているのはベルセルグ皇国陥落の方なんでしょう」
リシュリがため息混じりにテュールの背中を叩いた。皮肉を言っていないで責務を果たせとは、手厳しい側近。飛行船がゆっくりと下降していく。ペジテ大工房巨大要塞は沈黙。
「あそこが関所門というところでしょう。誰かいます」
鉄製か類似金属製の細やかな細工がされた大きな門。その前、白い雪原に黒い人影が見える。関所門からは数歩どころか、数メートル離れている。もっとかもしれない。銀世界に唯一の黒点なので、よく映える。雪に陽の光が反射して影としか認識出来ない。
——そのうち俺か俺が見つけた者が皇族を呼ぶ。呼ばれれば来い。阿保な叔父に囮にされたら白旗降って誠意を見せろ。
黒い服を好んで身に纏うティダだろう。背中に銃口、武器を突きつけられても平然とした顔で立つのがティダ・ベルセルグ。無様な対応をすれば半殺しにされる。
「十中八九、ティダだ。捕虜となる覚悟で来た。付き合わせてすまないが、先頭に立つので許してくれ。リシュリ、アフロディテを頼む。ティダがお前とアルセを指名したのだから、俺はともかくお前とアルセに危害を加えられることはないだろう。ダエル、お前も同じ。無駄に抵抗すると命を落とす。逃げも隠れもせずに、誠意を示せ。いいか、私を庇うよりも相手を怒らせない事を第一に考えろ。では、行って参る」
テュールは操舵室を後にした。飛行船の出入り口へと移動する。側近五名に操舵士二名。正妃アフロディテ。側近リシュリの妻アルセ。ティダに命じられた者と、背中を任せられる者と、頑固者のアフロディテだけを伴ってきた。一番大事な者達と共に戦場に呼ばれたという恐怖が、またテュールの体を震わす。テュールに命を預ける覚悟を決めてくれた者達に不安を気取られる訳にはいかない。拳を握り、歯を食いしばり、足を進める。
ティダに何かしら期待されて呼ばれた。答えは一つしか思いつかない。ペジテ大工房の激怒を軟化させ、ベルセルグ皇国滅亡、いや民の死を回避しろ。国など破滅しても構わないが、人命は別。ティダはそういう男。だから答えはそれだ。テュールの背にベルセルグ皇国全国民が乗っている。道を間違うとテュールの背の命が吹き飛ぶ。
しかし正しい選択肢を選んでも、国という重圧が乗るだけ。
「いや、もう乗っているのか。最悪な男め。自分でやれ。ペジテ大工房で誰と何を企んでいる。皇族など、最悪な地位だな。まあ恨んでも仕方ないので諦めるしかないか……」
飛行船の扉を開くと、柔らかな陽射しと冷たい微風がテュールを包んだ。雪原に下ろされた階段をゆっくりと下りる。関所門前の人物までは遠い。
「テュール様!」
歩き出して暫くすると名を呼ばれた。声の主の悲痛さについ振り返る。アフロディテがリシュリとアルセに腕を掴まれていた。
「出勤と同じだアフロディテ。心配ない」
引き剥がすようにアフロディテ達から顔を背けた。自分に言い聞かせるように、胸の中でもう一度「心配ない」と呟く。押し上げられる為に呼ばれた。殺す為ではない。そのはずだ。敵国の皇子だが、いきなり殺す程浅はかな政治家は普通いない。しかし、異次元大国ペジテ大工房の普通は自分達と同じなのだろうか?
静かな銀世界。
絵画でしか見たことがない光景。
サクサク……。
足音が広い大地に響く。
サクサク……。
帰還兵によれば、この美しい大地で内乱を起こしたドメキア王国兵が死に、激昂した蟲も死に、巻き添えになった奴隷兵も亡くなったという。それなのに、まるで何も無かったというように大自然は優美な世界を作っている。
人とは何て小さい存在なのか。
感傷的になりながら、足を進めていくと徐々に黒い影の輪郭が見えてきた。本当に一人で佇んでいる。巨大要塞の圧迫感も強くなっていく。大砲という大砲、銃口という銃口に狙われているような錯覚。テュールは自然と両手を挙げた。
白旗を持ってくるべきだったな。そう思った時に、黒い影が動いた。こちらに向かって歩いてくる。テュールは足を止めた。
サクサク……。
サクサク……。
相手の軽快な足音が少しずつ大きくなる。
黒い影が人の輪郭となり、どのような人物なのか次第に見えてきた。
体格は同じくらいだが、ティダより少し細身。しかし、一般的には体格は良い方。なのに厳つい無骨な男には見えず、気品を感じる。華族と似たような優雅な雰囲気。風に揺れるサラサラとした黒髪はティダと同じ色味だが、長さはティダよりも短い。服も見たことがない衣装。光沢がある、少し体の線が出るような黒い服は、ベルセルグ皇国の着物ともティダが身に付ける戦闘用の特注衣装とも違う。
まだ顔は見えないが、ティダではないのは明らか。要人だというのも一目瞭然。なのに、護衛兵もなく一人とはどういう事だ? 背後の巨大要塞が身を守るからこそと言えど、その守護要塞と男にはかなりの距離がある。ペジテ大工房の技術ならこのぐらい離れても問題ないということなのか?
それならやはり怪物国家。皇帝レオンは絶対手を出すべきではなかった。死ぬ覚悟で止めるべきだったと、テュールは自分の臆病さを悔やんだ。しかし、結局守りたい者ごと命を危険に晒すという同じ結論になるなら、長生き出来た今の方が良いのか? 自虐ばかりが思い浮かぶ。
「ベルセルグ皇国第二皇子テュール殿とお見受けする! 遠路遥々ようこそいらっしゃいました!」
名を呼ばれ、ドキリと心臓が跳ねた。敵意が含まれない声にも驚く。
より近くなって相手の顔がはっきりとした。意志の強そうな凛々しい眉。切れ長ながらも優しげな目。穏やかで爽やかな笑顔を浮かべている。全身から発する親しげな空気感にテュールの体から力が抜けた。
こんな男、出会った事がない。太陽の光を反射する雪のせいだが、まるで本人が光っているように感じる。
かなり若く見える。テュールよりも幾つ年下だ? あまりに無防備。なのに決して傷つけてはならない、害したくない、近づいてはならない、平伏したいと本能が叫んでいて動けない。全身を包む鳥肌がまるで警鐘のようだ。
よろめきそうになる体を、何とか奮い立たせる。吸い込まれそうな、引力が強い鳥羽色の瞳。嫌な光が一切感じられない温かな視線。
野心渦巻くベルセルグ皇居にはこのような男はいない。これがペジテ大工房の要人。どう見ても囮として無理矢理寄越されたというようには見えない。この若さで、かなり高い地位と強い信頼を与えられているのだろう。
「ベルセルグ皇国皇帝レオンの息子。第二皇子テュールと申します。此度は先の侵略戦争に対して皇帝レオンに代わり、謝罪に参りました。どのような条件を突きつけられようとも要求を全て飲みます。どうか慈悲をと、こうして先に訪国致しました」
即、謝罪。そうすると決めてきた。テュールは雪の上に胡座をかいて、額が雪につくまで頭を下げた。拳も握って雪原の上に突き立てる。
要求は可能な限り飲む。ベルセルグ皇国がなるべく平穏無事にいるにはそれしかない。皇族が滅ぼうとも、捕虜を即座に解放する国ならば残虐非道な真似はしない。裏でティダも糸を引いている。判断材料を与えられてきた。保身に走れば、身の破滅だけではなく愛する者も滅する。
「顔を上げてください」
静かな声に対し、テュールはすぐに顔を上げた。
面を上げると男が笑いながらテュールに左手を伸ばしていた。
「初めまして、アシタカ・サングリアルです。肩書きが多いので割愛します。ティダ・ベルセルグの友です。それで十分でしょう。何もかも持っているから大陸を照らす至宝になれと脅されていて激務の日々。なので助けてもらえますか? 謝礼は貴方の大事な者達の鮮やかな未来です」
告げられた名前と放たれた台詞、それに屈託の無い満面の笑顔にテュールは唖然とした。この男がアシタカ・サングリアル。先日崩御した大技師ヌーフの息子。現ペジテ大工房の頂点。差し出された左手を見つめることしか出来ない。触れて良いとも思えない。
「そんなに驚かなくても。従兄弟と聞いていましたが、鼻や口元は似てますね。目はまるで似ていない。私はあの目が苦手なので助かった」
呑気そうな声を出して、アシタカがテュールの腕を掴んだ。体を引っ張られたので、素直に立ち上がる。
眼前のアシタカという男、ティダの傀儡になるような器にはとても見えない。かといって、ティダと手を組むような男にも見えない。しかしティダとの信頼関係があり、それも強いとヒシヒシと伝わってくる。ティダが彼を気にいるのは想像に容易い。しかし、逆はどうだ?
アシタカとティダとはまるで真逆。いや、かつて月を眺め、酒を飲み、将棋盤を挟んで向かい合っていたティダとなら似ているかもしれない。懐かしさに酔いそうになった。
「招待していただいた皇帝、皇太子、皇女は後から参ります。父は用心深いですが、割と浅はかですので第三皇子ティダによる撒き餌に食いついています。煮るなり焼くなり好きにしてください。無論、私も含めてです。初めから慈悲を与えてくださる予定のようですが、どうか民を、特に此度の計略に無関係な者達に寛大な措置をお願い致します」
深く頭を下げると、アシタカが微笑みながらテュールの脇を通り過ぎた。去り際に肩を叩かれ、また驚く。これでは肩透かしも良いところ。アシタカ、それにペジテ大工房は何を考えている?
「そうか。君も難儀な立場なようだなテュール皇子。囮先陣役とは、私が忌み嫌うもの。よって後から現れる皇族は私から撥ね付けられる。私は中々好き嫌いが激しいので、取り入るのが大変なんだが君は幸運。何せ私の友がとても信頼している。私が救済したいのは君のような者だ。苦労ばかり背負ってしまう、命の尊厳や慈愛を知る人間」
放たれた言葉にまた放心しかけた。テュールはこのアシタカに完全に信頼されている。告げられた言葉だけではなく、隙だらけの背中がそう物語っている。飛行船に向かって歩いていくアシタカ。さあ殺してみろと言わんばかりの無防備さ。
私が救済したいのは君みたいな者だ。
どういうことか尋ねる前に、アシタカが続けた。
「我が国は大掟に従い、侵略も先制攻撃もしません。報復するなら高らかに宣言し、ベルセルグ皇国領土は焼け野原。ペジテ大工房の民は殺気立っていて、宥めるのが大変。憎しみや恐怖、侵略への怯えから目を逸らさせる材料が多く必要です」
一瞬、全身の毛がゾワリと逆立った。ただでさえ気温が低くて寒いが、悪寒がする。このアシタカという男が存在しなかったら、ベルセルグ皇国は消滅していた。今の言葉はそう意味にも取れる。
「あの……どう……」
「許したら損。そう思わせてはならない。ベルセルグ皇国なんてちっぽけな国を目の敵にして血の海にする暇があるなら、大陸全土に平和という火を灯す。それこそが覇王に相応しい矜持。血を流させない。戦争根絶。弱者の救済。非常に難題だ。圧倒的武力を盾に、国境を越えた規制法を作ろうかと考えています。既に賛同国は三ヶ国。間も無く増えます」
あまりにも予想外の展開と、途方もない話にテュールは言葉を失った。なんていう事を考え、実行に移そうとしているんだこの男は。目的が建前なのか、本心なのか測りかねるが、沈黙する大陸覇王から本物の覇王になろうという事だ。結婚式典への招待は、各国の代表を集めてこの話をする為。
「輝いていく他国。幸福な隣国。ベルセルグ皇国の民は黙っているかな? 国民に邪魔そうな者は、丁度私にとっても都合が悪そうなので蹴散らす。つまり、自ら叩き潰すより内部から食い潰してもらおうということです。ペジテ大工房の手が汚れないで済む。報復戦争なんてしなくても、追い詰める方法はいくらでもある。まあ、私は欲深いのでそれさえ止めたいのです。それにはベルセルグ皇国内部に人材が必要」
お前がベルセルグ皇国をどうにかしろ。邪魔な連中は自分が追い払ってやる。代わりに隷属化しろ。そんなところか。まるでティダだ。
「ティダからどう聞いているのか知りませんが、私にそのような大役……」
自分に務まるとは思えないが何もかも従います。そういう前に振り返ったアシタカが、いきなりテュールを殴った。油断していたせいで、拳で頬を思いっきり殴られたので、体が吹き飛んだ。雪の上に転がる。殺気なんてまるで無かった。アシタカは無表情だが、凪いだ様子でテュールを見下ろしている。
「テュール様!」
アフロディテの声がノアグレス平野に広がる。来るなと叫ぶ前にアフロディテがリシュリとアルセの腕を払って走り出した。アシタカが懐に手を入れる。丸腰のテュールには抵抗手段は自らの体だけ。立ち上がってアシタカと、向かって来るアフロディテの間に体を移動させた。両手は挙げた。
アシタカの手には銃。かなり小型の銃で、見たことがない形をしている。試すために撃つなら撃て。アフロディテがテュールにしがみついた。アシタカが持つ銃がアフロディテの体に向けられる。試されるべきは自分。なのに庇おうと背中に追いやろうにも、アフロディテの力は強くて動かなかった。
「取り乱して申し訳ございません。ベルセルグ皇国第二皇子テュールの正妃アフロディテと申します。皇族に嫁いだ身ですので共に謝罪に参りました。私の命一つで罪を贖えるとは思っておりません。しかし覚悟を持って国を出ました。夫共々、要求は全て飲みます。我が国の罪なき民だけは見逃して下さい」
アフロディテがテュールから離れ、両膝をついて首を垂れた。アフロディテだけに頭を下げさせるなんて出来ない。テュールは再び最大限の謝罪をと、雪の上に胡座をかいて頭を下げた。
その瞬間、アシタカがテュールの目の前に銃を投げた。
「無抵抗の者を殴るなど大恥。こういうのは好きではない。むしろ嫌悪を感じる。しかし僕は縛られていて、ある程度議会に従わないと独裁禁止法で処刑。私にこのようなことを命じた議会を説得出来なかったのは私が未熟だからだ。民よ、私を案じた議員達を責めないで欲しい。殴ってすまないテュール皇子。さて、諸君。丸腰で謝罪にきた者を信じられなければ誰も信じれない。家臣は少数のようで、やはり敵意を見せない。お妃様と同じように誠意ある謝罪をする為についてきたのだろう。そして、これ」
民よ、責めないで欲しい? 諸君? アシタカはテュールの足元の銃を指差している。何だか知らないが、どういう方法なのか分からないがやはり試された。アシタカの表情はすまなそうな苦笑い。
「殺される? 人質にされる? 疑心暗鬼で大切なものを見失ってはならない。信じることは難しいが先に信じなさい。父上の口癖を皆も良く知っている筈だ。手当たり次第、何の理由もなく信頼を寄せるのは阿呆で愚か。しかし、理由があれば話は別。拷問覚悟でペジテ大工房に侵略戦争を密告し、自国の民、ペジテ大工房、ドメキア王国の民、おまけに道具にされそうな蟲まで全て守ろうとした我らの新しい大技師が長年連れ添ってきた兄。で、ご覧の通りまた理由が増えた」
ゆっくりと近寄ってきて、アシタカがアフロディテの前に片膝をついた。
「ご心労を与えてすみません。我が国の罪なき民だけは見逃して下さい? ぬくぬくと守られるよりも、死を覚悟して大勢の民を守ろうとしている貴女や旦那様には罪などなさそうに思えますがどうでしょう? 侵略戦争を止められなかったことを悔いているなら、しかと償ってもらいます。ペジテ流でね」
さあ、立たせてやりなさい。そういうようにアシタカがテュールを手で誘導した。柔らかな微笑をたたえている。躊躇っているとアシタカがアフロディテを立たせ、テュールも立ち上がらせた。
「テュール皇子と帯同者は拘束。但し、僕の客人としてだ。非人道的扱いをしたら、ペジテ大工房など捨てる。いや、滅びるだろう。そのような国、大技師一族は決して背負わん」
凛とした声が響いた瞬間、大地が揺れた。あまり大きくはないが地震。
テュールは眼前の光景に目を見張った。アフロディテの腰に手を回し、力を込める。
雪の下から巨大な蛇が現れペジテ大工房へ道を作っている。ペジテ大工房の背後にはあまりにも巨大な二匹の蛇。片方はもう一方の倍はある。柱のように天に伸びる蛇は、一番巨大な蛇と似た姿。滑らかな鉛色の鱗で角がある。ペジテ大工房背後の大蛇の一方だけが毛羽立つような鱗に、鷲のような頭部と容姿が違う。
これは夢か?
大地の揺れがおさまると、関所門から次々と人が現れた。兵だ。見たこともない装備。重装備だろうということは分かる。手には知らない形の銃。蛇が作る道の内側に兵士が整列していく。銃を足元に置き、右手は背中の後ろ、左手は額に当たるように挙げる。敬礼という仕草は古のベルセルグ皇国でよく使われていた所作。ベルセルグ皇国は元々ペジテ大工房と縁があるというのは本当なのだろう。建国神話や逸話などあまり信じていなかった。ベルセルグ皇国に伝わる龍とは、この蛇のように実在したかもしれない。この蛇達はアシタカの従者なのか?
アシタカが胸元のポケットに手を触れた。それから何かを服から外す。アシタカがテュールとアフロディテに背を向けた。関所門から赤が近寄ってきていた。気づくのが遅くなったが、もうかなり近い。真紅のドレスと金髪が風に戯れるように揺れる。隣のアフロディテと比べても見劣りしないどころか、アフロディテが霞むかもしれない程の美女。息を飲むほど美しい歩き姿。秋の豊穣の象徴、黄金稲穂と同じ色の艶やかな髪が日に輝いている。
「貴様ら! 誰も止めないとはどういうことだ!」
怒りに満ちた罵声がアシタカから発せられた。誰からも返事はない。
「まだ放送中ですアシタカ様。音声を切る冷静さがあったのは感心ですが、お顔が恐ろしいです。どうぞ笑ってくださいませ」
透き通るような耳障りの良い声。放送中? 聞いたこともない単語だ。女性がアシタカの横を過ぎようとすると、アシタカが女性の肩に手を回して引き止めた。
「絶対に横か少し後ろ。かなり大人しくして、僕の前には絶対に出ない。そう、僕と約束した筈だが?」
「あら、私も申しました。無理です。そう思ってくださるならばむしろアシタカ様がご自愛下さい。このような作戦、聞いてませんでした」
ツンと澄ました顔をアシタカから背ける女性。
「パズーか。あとで説教してやる。聡い君なら自らを守った上での作戦だと理解しただろうに何故来た」
「それでしたら、よく来てくれたとシュナを満面の笑みで迎えてくれたでしょうね。先程の苛立ち、少々運任せと相手への過剰な信頼による作戦と思っていた証拠です」
シュナ。テュールは愕然とした。ペジテ大工房と縁がありそうで、シュナの名前とは一人しか思いつかない。しかし、脳裏を過ぎった娘と目の前の女性は似ても似つかない。シュナは頬を膨らませ、アシタカを睨んだ後にアフロディテに愛くるしい笑顔を向けた。
「初めましてベルセルグ皇国第二皇子テュール殿のお妃アフロディテ様。それからお久しぶりですテュール元お義兄様。この度は遠路遥々、私達の婚姻を祝いに来てくださってありがとうございます。アフロディテ様、先程は良い見本を見せていただきました。同じ正妃という立場同士、親しくしてもらえると嬉しいです」
優雅な会釈をしたシュナに、アフロディテも同じように挨拶を返した。目が合ったアシタカが苦笑いを浮かべ、ため息を吐いた。
「過剰な護衛をつけても、ティダを信頼していても、怖くてならなかった。貴方は僕の比では無かったでしょう。後方の貴方の忠臣共々客人として案内します」
自信なさげで、心底困ったという態度にテュールはまた茫然とした。アシタカ・サングリアルとは一体どういう男なんだ。
「美味しい紅茶がありますの。誠実に話をする場にとても良い品です」
アシタカの胸元をシュナが指差すと、アシタカがまた何かを触った。黒い小さな丸い装飾。アシタカの腕にシュナが身を寄せた。所作は甘えるようだが、アシタカに怒ったような鋭い視線を投げている。アシタカはそれを涼しい顔で無視した。
「誠実な謝罪には同じく誠実な対応をするべきであろう。よってテュール皇子とその従者は結婚式典と各国首脳会談まで私の監視下に置く。意義があれば議会を通せ。軍法会議の対象も再審議するように。私は納得いかなければ何度でも議会の提案を棄却する。国民にその権利を与えられている」
アシタカがシュナを伴って歩き出した。ついてこいという威風凛々とした姿。この豹変ぶり、まるでティダのよう。テュールは飛行船へ体を向け、リシュリに大きく頷いた。手信号で「全員来い」と素早く伝える。
「全てを許し、全てを愛せ。汝、まずは与えよ。汝、隣人を愛せ」
隣のシュナや、真後ろのテュールやアフロディテには聞こえるが、他には届かないような大きさの声。
「信じることは難しいが、先に信じよ」
忠告なのか、単なる進言か、それとも自分の根を話しておこうということなのか。
静かで美しい世界によく似合う、穏やかで優しい声色。
「しかしそれで不利益を被るようでは誰も崇高さを欲しない。最も幸福になるべきなのは慈愛溢れる我らがペジテ大工房。父が愛し抜いた、そして私が愛する民だ。だからこそ自分なりに身を粉にして働いてきた。私が大切にしたいのはペジテ大工房の民、国を作る一人一人。中々全員に手が届かない。どうか助力して、支え、共に鮮やかな未来を作って欲しい」
これは演説か。国民全員に向けられた言葉。どうやってか知らないが届けられる技術を有しているのだろう。
関所門までかなり近寄ると、大勢の兵士がこちらに銃を構えているのが見えた。テュールの腕に手を添えるアフロディテの手が震えている。テュールは小声で「信じろ」と呟いた。何もかも嘘だとして、元より拷問覚悟で来たのだから逃げる気はサラサラない。アフロディテとアルセくらいはティダが守るだろう。あの男は殺されても死なないので、恐らく何処かでテュール達を見ている。
関所門を通り過ぎると、テュール達が門を通る前にアシタカがシュナと共に振り返った。
「目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めているんじゃねえ。先月かな? 激しく非難された。よって私は殴られようとしているあらゆる者へ可能な限り手を伸ばす。ペジテ大工房が報復したくてならないベルセルグ皇国の民もその対象だ。罪に相応しい罰は必要だが過剰は良くない。何より僕は血が嫌いだ。民を背負って決死という男は絶対に役に役に立つので働いてもらう。隣の献身的そうな妻が支えるだろう」
言葉とは裏腹に、あまりにも優しい視線と笑み。差し出された左手は関所門を越えないと掴めない。意を決して、テュールは巨大要塞の中に足を踏み入れた。アシタカからの握手の要求を飲む。するとアシタカが両手でテュールの左手を包んだ。
「全員武装解除!」
アシタカの後方で、年配の男が大声で命じた。色は藍色だが、アシタカと同じ服を着ている。兵が次々と銃口を継ぎ目のない石の床に向けた。テュール達ではなく、アシタカに熱気ある視線を送っている。
「我らの至宝! アシタカ様!」
何処からともなく毅然とした女性の声がした。上からだと、見上げると窓のような所から身を乗り出した兵が敬礼している。装備で顔は見えない。それが合図というように兵が次々とアシタカに敬礼していった。左右に分かれて道が出来る。
「ありがとう。私はペジテ大工房の至宝という呼称に恥じないように生きる。さあ、参りましょう。心身共に疲弊しているでしょう」
アシタカがテュールの手を離し、どうぞというように背中を向け歩き出した。アシタカの腕に手を添えたシュナもついていく。
「忘れては 夢かとぞ思ふ思ひきや……」
アフロディテが小さく呟き、顔を手で覆って啜り泣く。テュールは崩れ落ちそうなアフロディテの体を支えた。後ろにいたアルセもアフロディテを支えようと前へ出てきた。泣きそうな表情のアルセの隣にリシュリが並ぶ。リシュリも涙目。アシタカとシュナが振り返った。
険しく辛い現実を忘れて夢とさえ思える。思ってしまう。確か、この古典和歌の続きは……
「雪ふみわけて君を見むとは? 短くも多くを語る古い文学、私も少々嗜んでおります。 深い雪を苦労して踏み分けてアシタカ様のような方に会えるとは夢のようだなんて、とても素敵で敬愛込めた言葉をありがとうございますお妃様。私、そのお気持ちとても良く分かります」
シュナの優しい笑顔にアルセがもう我慢出来ないというように泣き出した。懸命に笑顔を保ち、泣いてはいけないというように唇を真一文字に結ぶアルセ。アフロディテは瞳を潤ませてはいるが、毅然とした態度を保っている。
「深い慈悲に感謝致します」
テュールが告げると、アフロディテとアルセが深々とシュナに頭を下げ、次はアシタカ、その後は兵士へと会釈した。アシタカがまた胸元ポケットの中を触った。ポケットに何かあるのだろうとようやく思い至った。胸元の丸くて黒い物体とポケットの中身が演説に使用した物なのだろう。
「時は金なりと申しまして、これ以上の謝罪など時間の無駄です。泣く暇があるなら私に取り入ると良いですよ。何せ覇王アシタカ様が溺愛する女です。アシタカ様が無駄に私に心配を掛けて、ちっともご自愛下さらないので、愚痴を言いたい気分です。お付き合い下さい」
シュナがアシタカから離れてアフロディテとアルセを手招きした。即座にアフロディテとアルセがシュナの隣へ移動した。
「シュナは相当怒っているな……。おい、さっさと行くぞテュール。停戦、内乱回避、賠償問題、戦争など阿呆な真似をしないように脅迫とやる事が山程ある。誠意を示し、情報漏洩しろ。僕は可及的速やかに仕事を片付けて、シュナの機嫌を取る時間を作る。あのような可愛げのない姿など見たくない。妻の機嫌を直す方法も教えてくれ」
何だって? アシタカの手が伸びてきて、何をされるのかと思ったら、頭を撫でられた。強めの力で髪をぐしゃぐしゃにされた。それから背中をポンポンポンと三回優しく叩かれた。まるで、十年以上前のティダのよう。
「ブラフマー長官、秘書パズー、残りの要人を頼む。いいか、客だからな。ブラフマー長官、アンリ長官を偽りの庭に呼んでくれ」
言うや否や、有無を言わせないというように、アシタカはテュールの背中を押して早歩き。またしても別人のよう。やる事が山程ある、か。テュールも聞きたいことが山のようにある。
あまりにも想定外の事態にテュールは自然と笑っていた。




