それぞれの安息3【現代と過去の交差夢】
【崖の国 城塔 セリムの私室】
寝巻きに着替えて、ソファに座り込むとセリムはグッと伸びをした。
「お疲れさま、セリム」
「それは君だ、ラステル。早速ラステルをあんなに働かすとは思わなかった。クイ姉上、余程君にこの国から出て行って欲しくないらしい」
水の入ったコップを二つ手に持ったラステルが、ソファに腰を落ろした。
「崖の国から出て行って欲しくない?」
「仕事を与えて、ラステルがいないと困る。そういう風にするつもりだ。いつ帰って来ても良いように、ラステルが働く場所も根回し済み。それも、自分の領域とテトの母が仕切る織り布工場。ラステルという娘は居場所を与えた方が逃げない。それが姉上の策略」
コップを受け取ると、セリムは一気に飲んだ。帰国祝いの宴の際は、揉みくちゃにされて、かなり酔っていたが今日は正反対。割と酒を飲んだが、あまり酔っていない。捻挫している足が痛いのもあるが、今日は一日あちこちで不甲斐なさを感じて辛かった。その一方で、新しい信頼に高揚もしている。妙で、不思議な気分。
「私に居場所を与える? 私にはセリムがいるもの。お義姉様って変ね。ねえ、セリム。今日もね、クイお義姉様やケチャお義姉様の旦那様に会わなかったの。それから、クワトロお兄姉様の側室のお二人も」
お義姉様って変ね。不思議そうなラステルに、セリムは苦笑いしそうになった。確かにこれは「セリムがいなければ崖の国に用はない」とも解釈出来る。クイが愚痴っていた理由も頷ける。しかしラステルが四六時中、クイ達義理の姉の話をしていることは、少しづつ伝わるだろう。これからは、同じ住居だ。
「あれ、話していなかったっけ? クイ姉上の夫ダフィさんは、医学を学びにボブル国に滞在中。アスベル先生が宰相になったから帰国予定。ケチャ姉上の夫コポリはダフィさんの護衛兼同じく医学に励んでる。リンさんと、ルティーさんは公務において王家に関与禁止。しきたりが色々あるんだ。そのうち向こうから挨拶にくるよ」
「ダーフさんに、コポさん……聞いたわ。聞いた気がする。リーイさんとルティンさんは初めて名前を知ったわ。私、王族のしきたりを覚えられるかしら? 物覚えが悪いのよね」
ラステルが腕を組んで、やる気はあるが不安。そういう顔付きになった。
「ラステルは名称を覚えるのが苦手なだけにみえるけど、まあ千里の道も一歩から。僕が十八年もかけて覚えてきたことを直ぐに覚えられても困る。立つ瀬がない。いつでも頼って欲しい」
セリムはラステルの肩に手を回そうとした。勢い良く立ち上がったラステルが、セリムに「でも頑張るわ!」と笑顔を向けた。行き場を失ったセリムの腕が、ソファに落ちる。
「本をうんと読むのよ。シュナが本は知識の宝庫と言っていたもの。まずはこの部屋。次は城塔内の図書室。その後に国立図書室。土の中のラーナは大海を知らないの。そういうことよ」
何がそういうことなのか、サッパリ理解出来ない。ラステルと話していると、面白い。
「ラーナ? 蛙のことかい? 井の中の蛙大海を知らず? 広い世界を知らなかったけど、頑張るって言いたいのか? 使い方が違うような気がするのだが……」
「蛙? そういえばラーナは蟲森の浅瀬にはいないものね。ラーナの子供は殻が赤くて可愛いのよ。そうよ、セリム。シュナに教わったの。シュナがね、ティダ師匠と話をしていたのよ。二人でパチパチ将棋を指して、仲良しになったの」
ラーナについて知りたがったが、矢継ぎ早にラステルが船の上でシュナとティダが親しくなったキッカケを話した。いつから二人が「自分達は親子」と言い出したのかと思ってはいたが、やっと判明した。ラステルがシュナとティダ、そしてビアーと四人で遊んでいたなんて知らなかった。楽しかったと語るラステル。想像しても、ちっとも胸が踊らない状況。
「二人ともお互い好きだけど、ちょっと違うって分かったのよ。一緒にいるよりも、大事なものを諦めたり二人で頑張ろうって思えないからよ。偽物だったの。シュナがね、言っていたの。死にそうな時に私とアシタカさんが頭の後ろに過ぎたって。私はセリムよ」
頭の後ろではなくて、脳裏と口にしかけて止めた。話の腰を折りそう。死の間際に、それまでの人生が蘇るとは聞いたことがある。何度か危険な目に合ってはいるが、セリムは未だに体験したことはない。ラステルが死にかけたとは、グルド兵から逃げようとした時のことだろう。ラステルがセリムを思い出して、立ち止まってくれたなら誇らしい。
セリムは急に恐ろしさを感じて、ラステルの手を取った。セリムについてきたから、ラステルは死にかけた。一番大切にしたいのに、真逆を与えた。
「セリム?」
「これから、なるべく危険ではない道を考えながら進もう。そう思って……」
「それは良かったわ。アンリと話したの。私とアンリはセリムやティダ師匠に、そっちは危ない! って言う係。コブも筆を誤るでしょう? ティダ師匠の周りを私達がチョロチョロしても危険だから、そもそも危ないところに行かないように頼むことにしたわ。私とアンリは旦那様の近くにいたいんだもの」
今日はそんな話をしていたのか。セリムはしげしげとラステルを見上げた。ラステルがセリムの隣に再び座る。セリムはラステルの手を握りしめた。コルバウも筆の誤り。コルバウというのは、古い時代の書の達人らしい。コウボウという呼称も知られている。シュナから聞いたのか、借りた本で読んだのか、それを使いたいらしいのが何とも微笑ましい。
「ティダはともかく、僕は判断力が甘かったり周りが見えなくなるからラステルに止めてもらえるなら助かる」
「シッダルタもいるわ。パズーの代わりね。パズーも戻ってくるから、更に増えるわよ。ジーク様ってとても頼りになるのね。優しいけど、怖かった。私とセリムは国を飛び出したり姉様と勝手にやり取りしないで、ジーク様やクイお義姉様に話をするべきだったわ。あと、私のお父さん。今なら分かる。二人共、勝手に諦めていたのよ。諦めるのは禁止。私とセリム、シッダルタの合言葉よ」
ラステルがシッダルタと共にジークと話をしたことを語った。知らないところで、ラステルはかなりシッダルタを気にかけてくれていたらしい。嫉妬よりも、嬉しかった。その理由が、セリムの為であることを知っている。
「諦めるのは禁止、か。その通りだな。うん、憎悪と諦めを許さない。僕はその言葉が気に入っている。色々と応用が利きそうだな。アラーネア一族の王、アトラナートか……。異種族支援機構の始動にホルフル蟲森の民との外交。孤高ロトワの件もある……一気に……」
セリムを取り巻く世界が大きく変わった。大陸中が激変しようとしている。自信満々な姿で国を飛び出したアシタカの不安の声を聞いた。我が道を貫くティダの恐怖と困惑を知った。一面的では見えないもの。見ようとしても、見せてもらえないもの。世の中や人が、こんなに複雑だなんて考えた事もなかった。
聞けば聞くほど、調べるほど、踏み出すほどに知ることが出来る。そう、思い込んでいて、違うということにさえ気がつけなかった。
「一気に相談出来る人が増えたわセリム」
ラステルが歯を見せて、満面の笑顔を浮かべたのでセリムは虚を突かれた。明るい未来を信じて疑わない新緑の瞳。
「そうか、そうだよなラステル。明日は朝から父上とユパ兄上に異種族支援機構の話をする。全員でだ。それで、孤高ロトワやアラーネアの王から言われたことも相談する」
セリムはラステルの髪に手を伸ばした。風呂上がりで、もう髪はお団子ではなく下ろしている。髪型で雰囲気がガラリと変わるというのは、女性の不思議の一つだ。
「髪、まだ濡れているわ。手が冷えるわよ」
「髪を下ろしていると雰囲気が違うなあと。女の人は不思議だなと思ったんだけど、そういえば今日のアシタカも同じだった。普段のティダと似た髪型。別人みたいだった。明日、真似したらティダに怒られるかな?」
ラステルが少し頬を赤らめて、はにかみ笑いをした。急にどうした? セリムは何もしていない。ラステルが両手で口元を隠してクスクスと笑う。
「アシタカさんもティダ師匠も、大人の男の人だもの。セリムには、まだあの髪型は早いと思うわ。あのね、セリム。中通路でのティダ師匠は格好良かったのよ」
ラステルが立ち上がり、セリムの両手を掴んだ。ティダの真似なのか少し眉間に皺を寄せて、低い声を出す。
「燃え上がり続けて星になる程熱く、長い、永遠にも似た唯一無二の愛だ。愛しているアンリ」
ラステルがセリムなら手を離して、クスクス、ふふっと笑いながら照れた顔をした。これか、ラステルが頬を赤らめた理由。歯が浮くような台詞だが、ティダの堂々たる姿で言われたら嬉しい——のか? 宴のあちこちで、ティダのアンリへの言動が羨ましいという女達の会話を聞いた。崖の国の娘達は白黒はっきりした言動を好む。物覚えが悪いと自嘲する割には、この台詞は正確に覚えているように感じる。つまり、相当羨ましかったのか?
「可愛らしいお嬢さんは、まず自ら身を守らねば」
今度は優しい声を出したラステルが、セリムの隣に座った。穏やかな声なのと、口調からして、今度はアシタカの話だろう。
「それはアシ……」
「伴侶以外の者に手を出すべからず。それは至極当然のことなのよ。外交用の建前と本音を見抜かないとならないの。アシタカさんはシュナしか見えてないって熱視線。他の人には優しくても、一線引いているの。自ら運命の女性を選んで誓いを立てたからよ」
ラステルが「二人とも素敵なお姫様よ」とクスクス笑い、「きゃあ」と小さく叫び、足をジタバタさせた。この様子、ラステルは酔っている。
ラステルが他にも語った。アシタカが転びそうなティアナをサッと助け、服がはだけかけたジーナにダラシない顔をするどころかとても紳士的な対応。アシタカは皆に優しくしても、シュナへ目や態度できちんと配慮していた。ティダは女に囲まれ、挨拶のキスを沢山の女性にしたが「繁殖期の匂いがしない」らしい。セリムは発言主のソレイユの嗅覚の方が気になった。
「それは、つまり……」
セリムにもそういう言動を望んでいるのかと、尋ねようとしたらラステルが冷めた視線を投げてきた。
「セリムはシュナやハンナ、アンリにデレデレしていたし、他にも色々と無理ね。もう眠いから寝ましょう。明日は早起きだもの」
突然のふくれっ面。デレデレしていた記憶はないので——正確にはシュナには少々見惚れたが——誤解されている。セリムは立ち上がり、ラステルに手を伸ばした。華奢な手首をそっと掴む。
「ラステル、いつもありがとう。今日は特に。ラステル、あい……っ……」
噛んだ。痛い上に、失敗で心も重たくなった。
「……」
ラステルが吹き出して、腹を抱えて笑う。セリムが「愛してる」と言い直しても、クスクスと笑い続ける。おまけに「セリムらしい」とまで言われた。セリムには無理、そう言われた気がしてムッとしたが、無邪気に笑うラステルが可愛いので、怒る気になれない。セリムはラステルの体を抱き締めた。
ティダは尻に敷かれる振り。アシタカは堂々とシュナの手を引く。セリムだけラステルの尻の下にぺちゃんこ。
これこそ、可及的速やかに解決したいのだが前途多難かもしれない
***
——まどろみの夢の中
【???】
空一面に広がる鉛色と唐紅。
大地にも灰色と紅蓮。
まるで世界が燃えているようだ。
かつて、大戦で滅びへ向かったというのと似ているのかもしれない。人は、何度学べば新たな道を切り開くのか?
純白の肌、風に靡く黄金稲穂の髪。空を閉じ込めたような瞳。しかし、今は何もかもが真紅。
返り血を浴び、目が憎悪に燃えたぎっている姿。
〈皆、落ち着いて。化物は撤退したわ〉
憎悪? アモレの声は心底ホッとしたというような声色だった。
羽交い締めにされていたが、テルムを押さえつける者達の力が抜けた。テルムは全速力で走り出す。
〈また殺されるだなんて怯えないで。私達はもう自由よ。絶対にこんな仕打ちを許さない〉
アモレが左手を頭上へと挙げた。くるりと回転したアモレが、恭しいというようにテルムへ頭を下げる。天も地も、蟲が道を作るように整列した。
テルムはその中央を走る。
少しずつ走る速度を落とした。いや、落ちた。
〈我らの姫と誓うのならば盾となり、槍となり、共栄に尽力する!〉
地響きで大地が揺れる。地に巣食う蟲だろう。
〈我らの姫と誓うなら、大地を耕し、海から恵みももたらそう!〉
豪雨のような海水は、海蛇達。
〈誓いを立てる者達へ、幸福の祈りと願いを込めて、祝福を捧げる〉
空から降り注ぐ七色の光は、大蜂蟲。
テルムだけに聞こえている、という訳ではなさそう。後方の人々の様子がそう物語っている。
〈破壊神! 悪魔! 神が鉄鎚を下す! 化物を滅ぼす! 姫や家族に近寄らせるな!〉
〈神が手を差し伸べないから、我らは自ら未来を切り開く! 人こそが化物だ! 騙されるか! テルムしか認めん! 助けたのに怯えるなど人なんぞ信じぬ! 必ず裏切る!〉
この声はバジリスコスとココトリス。家族を大量に殺されて、泣いている。これはテルムにだけに言葉を突き刺してきているようだ。
助けたのに怯える。テルムが振り返ると、確かに群衆は高揚する者達や救いに感謝する者だけではなさそう。胸が痛い。人よりも、他の者達の方が多く死んだ。なのに、何故そのことに思い至らないのだろう。
〈落ち着けバジリスコス、ココトリス。まあ、テルムにだけ伝えるとはよく我慢した。我らは散々話し合ったであろう? 下等生物なんぞ、利用してなんぼ。それに、ある程度は自然の摂理と諦めなければならない。罪にまみれたペジテ人を、まずは牢獄へと閉じ込めようではないか〉
妙に冷静なのはアモレに寄り添うレークス。心の中で呼びかけてもテルムを無視している。バジリスコスやココトリスとは違い、テルムも同じ下等生物、そう思っているのだろう。
テルムは蟲が作った道の中央で立ち尽くした。いつの間にか、鎧姿の龍人と大狼に囲まれている。テルムの脇にいつの間にかオーディンが座っていた。頭上には龍蟲が飛び交う。親友のウォーデンがテルムの頭に乗る。背後で難民達がテルムの名を叫んでいる。
雨が止んだ。
蟲が作る、厚い灰色の空に隙間が出来る。
眩い太陽が一筋、丘を照らした。
テルムは茫然と立ち尽くした。これは、どういうことだ?
「選ばれし王は貴殿か! 汝、名と背負う国名を述べよ。我らと生きるというのならば、安息を与えよう。ドームの悪魔さえ恐れないで暮らせる昼と夜である。雄大で美しい世界である。穏やかで鮮やかな未来への道である。望むのならば誓いを交わせ」
〈皆、これで良いの? アトラナートは絶対に嫌だと去ってしまったの……。寂しいわ……〉
のんびりとした、ぼんやりとしたアモレのあどけない声。海水で洗われ、大蜂蟲の羽ばたきで乾いた黄金に輝く長い巻き髪。アモレはいつの間にか純白の服を着ている。返り血の汚れはアモレの全身から消え、宝石のような青い瞳になっていた。
テルム同様、アモレにも梯子のような日の光が注がれている。美人なのもあって、今のアモレはまるで天使のようだ。
「王たる人よ、救いの手を取るならば楽園へと導かん!」
アモレがテルムの方へ、すっと左手を伸ばした。
〈ねえ、 テルムが困っているわ。優しくて穏やか、賢いテルムなら皆と仲良く生きる方法を考えてくれるって言ったじゃない。普通に頼めば良いのに、こんなこと。テルムに嫌われたらレークスのせいよ〉
テルムは苦笑いを浮かべた。アモレは必死なのか、無表情に近い微笑。この大芝居を考えたのはレークスなのか。
背中に突き刺さるテルムの名の大合唱。龍人は人と同じ容姿なので、人々に紛れて扇動しているのだろう。恐らく中心はフェンリスだ。最近テルムの嘘にまみれた噂がばら撒かれていると思ったら、これを画策していたのか。レークスだけではなく、テルムはまんまとあらゆる種族の長に嵌められたらしい。
〈テルムが人の王になれ! 姫と誓わないから人の王になってもらうんだ!〉
〈姫と誓え! 繁殖期の癖に! 意気地なし! バルム!〉
〈遊べテルム! 姫と一緒に遊んでくれ! テルムが王なら化物とも遊ぶ!〉
大蜂蟲の子がいつも通り喧しい。誓え、遊べの大合唱。繁殖期の癖にとは何だ。人に繁殖期などない。話が全く違う、邪魔だと、レークスが子蟲達を叱り出す。それでも遊べ、誓えとうるさい子蟲達。
誓えも何も、テルムとアモレが良い雰囲気になっても壊すのは子蟲達だ。バカなテルムでバルムと呼ぶのも止まない、ちっとも偉くない子蟲達。
包囲されて祭り上げられる状況なのに、テルムは子蟲に呆れて、脱力した。
それに、ここまで囲まれたら逃げられない。アモレの隣にも立ちたい。テルムは大きく深呼吸をした。
「我が名は……」
——我が名は……。
——背負う国の名は……。
セリムは目が覚めて、周囲を見渡した。ここは何処だ? 丘ではない。部屋だ、部屋。セリムの私室。
「金髪の巻き髪に、宝石のような空色の瞳……。黒髪短髪。優しくて穏やか、賢い……。アシタカとシュナさんの夢でもみたのか? ドメキア王国での事に似ていた気がするが、喧しくて妙な夢だったような……!それにしても、よく寝た」
セリムは大きく伸びをして、寝台から起き上がった。
***
かつて失われ、再生し始めている途絶神話。
間も無く大陸中に知れ渡る。




