表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風詠と蟲姫  作者: 彩ぺん
七章 大嵐の前の静けさ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

259/316

それぞれの安息2【大狼兵士の憂鬱と幸福】

【崖の国 城塔内 客間】


 そろそろ深夜。ティダは向かい側に座るカイの熱心な目付きをぼんやりと眺めた。もう、あと数手でチェックメイトなのに気がつかずに盤上の戦況の最善手を追う可哀想な子供。しかし、どうも無下に出来ない。アンリと最後の夜かもしれないのに、邪魔なのに、追い出す気分になれない。


「全く、どんな国なんだここは。不審者の部屋に王太子を置き去り。夜も深くなってきたのに迎えにもこない」


 カイがチェス盤から目を離し、ティダを見上げた。顔はクワトロに良く似ている。温和そうな、大人しそうな顔つき。しかし、目に宿る光が本当にヴァナルガンドに良く似ている。流石、血縁者といったところ。


「不審者? この客間はとても親しい方に提供する部屋です。半年前、セリム叔父さんのお爺様が来国した時に使ったきりです」


 だから貴方は特別だ。そう言わんばかり。意識的には見えない。満面の笑顔に気圧される。ティダは呻きそうになった。


「ヴァナルガンドの祖父? 母方のか」


 ()()()()()()()()、という事はクワトロとヴァナルガンドの母は異なるのだろう。そして、どちらの母親も不在。ユパの妃も亡くなっているというし、崖の国の女は短命なのだろうか。よくよく考えれば、知り合ってそんなに時間が過ぎてにない。互いの家族すら知らぬのに、まるで旧知の仲のような錯覚。妙な気分だ。


「そうです。エルバ連合内を旅していて、いつも楽しいお土産話を持ってきてくれます」


 機関銃のように何かを喋りそうなカイを止めるように、部屋にノック音が響いた。気配も匂いも探れていなかった。今日は色々あり過ぎて、かなり動揺しているらしい。こんな腑抜けだと、朝すら迎えられないかもしれない。


 状況的に迎えがきたのだろうと、ティダは胸を撫で下ろした。カイの背後、ソファに座って本を読んでいたアンリが立ち上がって扉に近寄っていく。アンリが扉を開くと、やはりクワトロとドーラが立っている。


「待て、その手の物は何だ?」


 ティダはクワトロの腕の上に乗る毛布に目を細めた。ドーラの手には服らしき布。


「アンリさんの為に急遽用意した客間に運ぶ。宴の片付けもあって、準備が遅くなって申し訳ない」


 ドーラがティダ、アンリと順に笑いかけた。アンリも笑顔を返す。アンリがカイがいかに良い子でいたのかを話す。ドーラが自慢げに謝辞を述べる。


 ティダはぼんやりと、異次元のやり取りを眺めた。好まない、創作話のような会話。自分とは無縁のもの。


 我に返って、嫌な予感に背筋がゾワリとした。()()()()()()()()()()()()()()()()? 今、確かにそう聞いた。


「お気遣い、ありがとうございます」


「いえいえ。寛いで下さい。ほらカイ。寝巻きに着替えなさい」


 ドーラがカイを手招きする。カイが「はい、母上」と返事をして立ち上がり、ドーラへと近寄っていった。ドーラが手に持っていたのはカイの寝巻きだった。何故か揃いの服がもう一着。寝間着?


「何だ、その顔。酔って記憶喪失か? 父上に今夜よりセリムだけではなくカイの目付け監視役と言われたのだろう? この部屋は客間改め君の書斎となる。明日にはカイの私物や書物も運び込む。そういう話になっているだろう?」


 クワトロがカイの頭を撫でながら、ティダに笑いかけた。兄のユパとは似ても似つかない、穏やかさ。ヴァナルガンドが時折見せる、さざ波のような姿は確実にこの兄の模倣。誰かに、何か図られた。気がつかないなど、自分は何をしていた。

 

「俺は酔って記憶を無くしたことなどない。そのような話は知らん。出鱈目(でたらめ)抜かすな」


 クワトロが苦笑いをして、肩を揺らした。


「クイ姉上がそう申していた。飲み過ぎて初めて記憶を無くしたのだな」


「僕もクイ叔母さんから聞きました。昼間も夜もうんと学びなさいって!」


 カイが着替えながら飛び跳ねようとして転びかけた。ドーラがさり気なく支える。アンリがそんな二人を微笑ましそうに、羨ましそうに見つめている。あれが、アンリが欲しいと望むもの。


 酒気などとうに消えているのに、吐き気がした。一体何をどうすれば、眼前の光景を手に入れて提供出来るのか。全く検討がつかなくて途方に暮れそうになる。


「私もクイ様から聞いたわ。そういえばティダが居なくなった後ね。そろそろ眠かったので助かりました。案内、お願いします」


「そうだったか? 部屋は廊下を出て右手、二つ先の所だ。では、行こう」


 ドーラが着替え終わったカイの額にキスした。ドーラはカイの衣装を手に持ち、アンリの背中に手を回した。


「おやすみなさい母上、アンリさん。僕は今の勝負が終わって、解説と改善点を教えてもらって、岩窟龍王の話を聞いたら寝ます」


 まだ寝ないのか、そう口にする気力も湧かなかった。全身、怠い。このような徒労感は珍しいなと感じた。明日、朝一でクイに抗議しよう。問題は、あの遣り手そうでヴァナルガンドそっくりな瞳のクイに冷徹になれるか。無理だろうな、即座にティダの胸の中に白旗があがった。


「おやすみカイ」


「おやすみなさい、カイ王太子。おやすみ、ティダ」


 アンリに手を振られて、ティダは益々茫然とした。


「ティダ皇子、カイ、おやすみなさい。励むのはそこそこにして、良い夢を」


 クワトロも去って、ティダは立ち尽くした。油断していたら何やら図られた。アンリの去り際の妖しい笑み。


〈他の女の匂いがプンプンするからうんざりだったの。単なる挨拶らしいのと、繁殖期の匂いがしないって、ソレイユさんの発言に免じて目を(つむ)る。でも、一晩反省しなさい。あと、カイ王太子の件は私じゃないからね〉


 アンリの伝心術の声は低くて、怒りが伝わってくる。機嫌を損ねているところに、強引に手を出すと益々機嫌が悪くなるだろう。


〈あんな小さなことで妬くなど……。まあ、愛らしくて良いか。しかし最後の夜だというのに、何を考えているんだ。最悪……〉


〈最悪だアンリエッタ? 最後の夜とは何よ。もう離縁するの? それは私にとって最悪ね。でも貴方にとっても最悪なら、最後の夜だなんて変よ。相当飲んでいたし、飲み過ぎたんじゃない?〉


〈何故そうなる。あのなあ……〉


 明日の昼には、アンリはアシタカ達とペジテ大工房へ帰国。妹だというソレイユの登場で、不穏な気配で胸が騒いでいる。今訪れている夜の次、それがやって来るかなど誰にも分からない。それを口にしたら、アンリはどんな反応を示すのか。何処にも行くな、一言そう言われたら足を止めてしまう気もする。


 そんなことになったら、大狼として恥晒しなので死ぬしかない。女にイカれて、矜持が折れ、死ぬのか。何とも情けない、ちんけな末路。帝狼(ていろう)と自ら(かん)したというのに酷過ぎる生き様。あの世でソアレに刺されても文句は言えない。


〈ねえ、ティダ。ここはどんな国? そして貴方は任された男の子を守る駒も持っている。拗ねている妻を素直に放置するだなんて、酷いと思わないの?〉


 引いたり、押したり、本当に好き勝手だなと文句を言おうとしたら上着の裾を引っ張られた。隣にカイが立っていた。アンリの指摘通り、飲み過ぎている。気配を察したのに、気が抜けていて避けなかった。


「大丈夫です? 記憶を失う程飲んだりするからですよ。はい、これ、どうぞ」


 カイが差し出してきたのは、ドーラが持ってきたカイと揃いの寝巻きだった。まさか、自分用だとは思ってもいなかった。


「よし、寝ろスヴィティ。六手先でチェックメイト。お前の腕前では逃げられん。解説も何も、実力差があり過ぎて話にならん。駒落ちであれだ。自己分析せず、調べず、即座に改善点を教わろうなどというのは怠惰。岩窟龍王の話は叔父もいる時。俺が二度手間だ」


 寝巻きをソファへ放り投げ、ティダはカイ改めスヴィティを担ぎ上げた。


「最後まで諦めてはいけない。それが母上の教えです。スヴィティとは何です? ヴァドではなかったのですか? ヴァドとは何だったんですか?」


 問いかけは無視した。古代大狼神話に登場する巨石杭(スヴィティ)。まさかクイが王太子をティダに打ち付けるとまでは考えが及ばなかった。ユパやジークも噛んでいるだろうが、監視でも探りでもなく真っ向勝負。「信頼」を盾にとってくるとは、何ともやり辛い。初めにヴァナルガンドを大層気に入っていると提示してしまったので、この方法に逆らえないと見抜かれている。


「諦めも肝心。世は不条理だということを覚えておけ。この時間に寝ないと成長が悪くなる。それでも起きていたいのなら好きにしろ」


 ティダはスヴィティを寝台に寝かせて、体全体に布団を被せた。


小さき王(バシレウス)、ソレイユの部屋前はもう良い。スヴィティを見張れ。小蛇蟲(セルペンス)もだ〉


〈ソレイユ姫の力が強くて離れられない。我はこのままソレイユ姫と寝る。近いのでスヴィティの見張りも出来る〉


 小さき王(バシレウス)を奪われるとは思ってもいなかった。二部屋続きの客間を用意してもらったので、手近において様子を探ると思ったが、ソレイユはまるで赤子。アンリやスヴィティと意味もない会話を繰り広げ、眠いと寝てしまった。異国へ単身一人なのに図太い神経。匂いが何処となく似ていてラステルが増えたような、奇妙な感覚。


「ティダ皇子、きちんと寝るのでランプにカバーを掛けて下さい。それから、おやすみなさい」


 布団から出てきたスヴィティが、ティダを手招きした。


「ったく……。ああ、おやすみ」


 こんな子供を無下になど出来ない。恐怖で固まるような殺気を放っても、一歩も引かないどころか何故か懐に飛び込んできた時点で、スヴィティはティダの群れ入り。とんでもない国に、とんでもない王太子。ティダはスヴィティの体を押し返し、髪の毛をぐしゃぐしゃと撫で回した。子供といえど、寝る前の挨拶だろうと、男にキスなど御免だ。


 光苔のランプにカバーを掛けると、ティダは部屋を後にした。


「子供のあしらいも上手いのね。早くて驚いた」


 部屋を出ると、向かい側の壁にアンリがもたれ掛かっていた。


「酒で鼻が効かんようだ。押したり引いたり、俺の反応を見て楽しんでいるようだが楽しいか?」


「ええ勿論よ。一挙一動に反応してもらえるのって嬉しいもの。故郷にはこんな男いなかった。そう言わなかったっけ?」


 愉快そうな瞳に宿る熱視線。そして挑発。他の男と比べるなと、また言うだろうという期待の眼差し。ティダは頭を掻いた。


 油断させて、隙を見せて、牙を研いで食らいつく。基本中の基本。ティダは壁にアンリを押し付けた。そのまま首にキスをする。


「俺は転がす方が好きだ。あまり俺で遊ぶと、どうなると思う?」


 面食らったアンリが体に力を入れたが、普段とは違って抵抗は許さないと、こちらは力を抜かない。


「あの、待って……。ちょっと……。んっ……待って……」


「鼻は効かんが、気配なら分かる。誘ってきたのはアンリエッタ、君だ」


 近寄ると、いつもの金木犀(キンモクセイ)の香りが鼻腔をくすぐる。木蓮(マグノリア)の次はこれ。春を煙たく感じるようになり、次の候補は秋か。風情のある季節ばかり遠ざかるのか。


「お願い……嫌よ……。思いっきり甘えたいの……。だから、こんな場所じゃなくて……ね?」


 目一杯力を込めて、抵抗するアンリ。薄明かりに照らされる羞恥に歪む顔。縋るような上目遣いと、瞳の奥に滲む甘えさせてという訴え。この場で組み敷いて、反応を楽しんで遊ぼうという考えがみるみる萎んだ。


「はあ……。口が上手いというか、何処で誰に学んできた。俺はとことんアンリエッタの目に弱いな」


 ティダはアンリと手を繋いで歩き出した。確か、二つ隣の部屋だと言っていた。


「学ぶ? 思ったことを素直に話しただけよ。私とティダってすぐに誤解し合いそうじゃない? 挨拶の件とか」


「そんなに妬いたなら、俺が呼んだ時に来れば良かっただろう。見せつけてやろうというのに、恥ずかしいから嫌だ。勝手に寄ってくる幼い娘達を全員睨みつければ満足だったのか? それをしたら怒るくせに」


「女心は難しいのよ。矛盾だらけ。自分でも呆れる事があるから、そういう理屈が通じないの」


 何が楽しいのか、アンリはニコニコと笑っている。アンリが用意された部屋の鍵をズボンのポケットから出した。鍵をアンリの手から取り、ティダはそっと扉を開く。先程までいた客間より、狭い。調度品から推測するに女性の部屋。


「可愛い部屋。天蓋付きベッドだなんて……タンスが猫の足? 何これ、これも可愛い。迷路みたいな地下の城に、色々な種類の部屋。なんだか娯楽施設公認のホテルみたい」


 アンリが目を輝かせて部屋を見渡す。ティダは部屋の扉を閉めて、鍵を掛けた。振り返ったアンリが、はにかみ笑いを浮かべた。


 娯楽施設公認のホテル。耳慣れない単語だったが、質問する気力がない。スヴィティに問いかけられ過ぎて、質問そのものにウンザリしている。


「ねえ、ティダ。アシタカが用意してくれた書類、私の新しい戸籍。アンリ・ベルセルグってなっていたの。貴方、ベルセルグの苗字のままペジテ大工房に特籍が作られていたのね。お父さんにも、お母さんにも、友達にも話さないで結婚したって不思議な気分。しかも大総統直々に婚姻許可ってこんなの聞いたことないわ。これから一生、おばあさんになるまで宜しくお願いします」


 心の底からという笑みと言い方に、ティダは言葉に詰まった。


「何処かに定住は出来ないだろうが、まあ、暮らす場所くらいは確保する。共に歳を取れるように努めよう。一生がそんなに長くなど保証……」


 ふいに、目から涙が落ちた。こんなこと、許されるのだろうか。自分ではちっとも許し難い。しかし、目の前のアンリに背を向けることも出来ない。相反する気持ちに、胸が割れそう。酒を飲み過ぎた。鼻が悪くなっているのに、木蓮(マグノリア)の香りがする。焼け(ただ)れた顔と、散り際の激情的な瞳の幻覚が見えた。


「良かった。今夜は抱きしめても良いし、キスも許される。あの船での晩、本当はそうしたかった」


 ティダは黙ってアンリの腕を受け入れた。アンリが背伸びをして、頬に唇を当てた。それから今度はもう一度、唇にキス。船の上、酔いでアンリに縋りついたが、あの時は止まれた。アンリの戸惑う姿で理性が働いた。


 今とは真逆。


 本気で腕に包むと、アンリの骨は簡単に折れる。なるだけ力を抜いて抱きしめる。アンリが言うあの晩、最後の糸が切れた。恐らく、もう戻れない。ここのところ、上手く取り繕えていない。


——大狼なんでしょう?それを忘れないで。生きて


「もう一度、一度ソアレに会えるならこう言ってやりたい。俺を……君が俺を庇うから……俺は地獄に堕ちた。欲するもの何もかもを捨てた。生きてと……そう祈るなら……何故一番の悪手を選んだ。だから俺は背を向けたままで……。これじゃあ……ソアレの思う壺。しかし、俺は王狼(ヴィトニル)も君も、ソアレのことも結局無下に出来ん……」


 いい加減、残された命に何を祈られたのか、そのくらい察している。受け入れるのが苦しい。死ぬべきだとさえ思う。しかし、目の前にアンリがいる。ドメキア王国にはティダの為にと王狼(ヴィトニル)がいて、崖の国には放置すると直ぐに死にそうな弟分が二人。そこにくっつく愛くるしい、危なげな娘。


 何もかも背負いたいという強欲なる友、その隣を絶対譲らないという盟友。どうしてこうも厄介な者ばかり集まった。


 死を選んでも矜持折れる。逃亡よりも、受けて立つのが屈強な大狼の生き様。そういう考えも、まるで自分に言い聞かせるようで、屁理屈な気がする。


 全部、何もかも、君のせいだとソアレをなじりたい。知りたくなかったと、王狼(ヴィトニル)やヴァナルガンド、アンリを大声で罵倒したい。最悪。史上最悪の極悪。情けなさ過ぎる。


「そんな顔して……。貴方は自分が許せなくて、死ぬまで傷つく。今のティダを知る私はソアレさんとは別の道を行ける。庇わないし、自分を優先する。常に貴方の背後。未だ戦で不敗の貴方の真後ろって、この世で一番安全な気がしない? カールにゼロースさん。死神剣士にセリムさん。来月には全員足元に転がす。シュナとアシタカの護衛環境も整える。少しだけ待ってて」


 燃え上がるような闘争心。軽く手を合わせたので、弱いから近寄るなとも口に出来ない。握られた手が熱い。その熱を失いたくないと、胸の奥が焼け焦げる。アンリの首元に二つ並ぶ傷跡。アンリは早速、蛇一族に噛まれて死にかけた。


「あら、死ななかったじゃない。私、運が良いの。宝くじが当たったこともあるのよ」


 宝くじ? また耳馴れない言葉。やはり聞き返す気分になれない。今夜は相当参っている。


「目線だけで俺の思考を盗むとは、目敏いな……。ならこれも気がついているか?」


 ティダは上着のポケットに手を入れた。


「嘘……」


「嘘? 偽りでも身に付けるのに真の誓いで身に付けない筈が無いだろう?」


 ベルセルグ皇国の国紋を彫った台座が目立つ、白銀の指輪。単にセリムとラステルが用意してくれただけだが、そこには触れなかった。二人と揃いにされたが、悪い気はしない。裏にヴァナルガンドとラステルの名前、それに崖の国の国紋まで彫られている。ティダはアンリの中指に合うように、指輪を少し広げた。それからアンリの左手中指に指輪をそっと嵌めた。微かに手が震える。自分の分は自分で身につけた。


「ベルセルグ皇国って結婚指輪を中指に付けるの? ああ、薬指は……」


「そこにはこれだ。俺の周りにお節介が増えた」


 ティダは反対側のポケットから、別の指輪も出した。ドメキア王国の守護神、向かい合う蛇一族の二匹の王が彫刻されている。背中側には二つ並ぶ小さなブラックダイヤ。隣にペジテ大工房の象徴、円に囲まれた正十字。裏側に彫られたのは二つの薔薇。これも、悪くないと思ってしまった自分がいる。むしろ短期間でよくもこんな細かい細工の指輪を用意したと感心した。


 存在感のある崖の国製の指輪に、華奢で品のあるドメキア王国製の指輪。中指と薬指に並ぶ二つの銀色。双子北極星になりたいと言っていたので、まずはこれ。


「三国一の英雄を目指したら、あちこちで犬になった。人生とは愉快だな。言っただろう? 隣に置いて誰よりも誉れ高く、見事な景色を見せる」


 アンリの左手薬指にアシタカから渡された指輪を嵌める。示し合わせたように、ピッタリ。ティダの指輪も同様。左手は蟲に一度切り落とされてから、以前とは違ってやや不自由で力も入りにくい。指輪を破壊しない為にも、左手で何かを殴るのは今後自重するしかない。


「アンリエッタ、これが君の身を守ることもあるだろう。逆に身を滅ぼすこともあるかもしれない。俺の肩書きもだ。上手く使え」


 アンリは指輪で飾られた左手をジッと見据えている。無表情なので、あまり嬉しく無かったのかもしれない。女には好みがある。


「ナルガ山脈若手大狼筆頭、大狼フェンリス。老狼ロキの義息。分山の里リングヴィで育った。ロトワ蟲森の枯木里の民マリアの息子でもある。ベルセルグ皇国レオン皇帝義息。帝位継承権は放棄してあるが、肩書きは第三皇子。先代皇帝の一人息子。ペジテ大工房では大技師。特籍で名誉市民らしい。ドメキア王国聖女の盟友。籍はシュナの義父。それにバジリスコスの配下エリニース。崖の国では近衛兵長。第三王子と王太子の目付監視役にさせられた。あと、何だか知らんが孤高ロトワ龍の皇子。まあ、全部好きに利用しろ」


 話を聞いていないのか、アンリはまだ自分の左手を見つめている。


「アンリエッタ、覚えたか?」


「え? あ、はい。ごめんなさい。こんな素敵な指輪……予想外なのもあって……嬉しくて……」


 泣き出したアンリがティダを見上げて、花が咲くように笑う。感激していたとは、それこそ予想外。思わず頬が緩む。しかし、咲いた花は散るだけ。どうも悪い方にばかり考えてしまう。ティダはもう一度肩書きを口にした。


「沢山あるわね。私はティダを守るものが何もないわ」


「君が泣くと想像しただけで、俺の行動範囲が狭まってる。最強の盾だな。俺にとっては最悪なものだ。アンリエッタ、何より自分を大事にしてくれ」


 ティダはアンリを抱き上げて、寝台へと向かった。アンリが首に手を回す。


「ええ……。ねえ、今夜はうんと沢山甘えても良い? 本当は貴方の膝の上に座りたかったの。でも、あんなの恥ずかし過ぎるわ」


「至極当然なのに、何故わざわざ聞く。何もかも許す。アンリエッタ……」


 眩い太陽に焼き尽くされて、灰になる覚悟をした。なのに、ちっとも覚悟は出来ていないらしい。今すぐ何もかも投げ出して逃げたい。しかし、アンリはどちらかというと月のようだ。自ら光るからやはり星。穏やかな光は、いつまでも眺めていられる。これなら消し炭になるのに時間が掛かるだろう。耐えられる。


 触れる肌の温もり。優しい眼差し。酩酊に身を預ければ、船上でついアンリを抱きしめて寝てしまった日以来に、深く眠れる気がする。ティダはアンリに深く口付けした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ