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風詠と蟲姫  作者: 彩ぺん
七章 大嵐の前の静けさ

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それぞれの安息1【至宝の憂鬱と幸福】

【崖の国 城塔内 客室】


 機嫌良さそうに眠りについたシュナの顔を、アシタカは椅子に座ってぼんやりと眺めた。表向き夫婦なので、同室なのは仕方ない。やんわりとラステルに頼んだが、部屋が準備しきれないと断られた。


「そもそもまだ寝るような時間ではないのに……。そこに、これ。眠れなさそうだな」


 白いワンピース型の寝間着姿で、無防備に寝ているシュナ。寝相はあまり良くないようで、掛け布団が度々めくれる。落ち着かなくて、目を離すべきなのに離せなくて、アシタカはシュナの髪を指で(すく)ってみた。初対面の際に、黄金稲穂、そう感じた生き生きとした髪。サラリと髪が指の間をすり抜けると、甘い匂いが鼻をくすぐる錯覚がした。


 あと数日で結婚式典。明日、崖の国を発ったら、ペジテ大工房へ帰国。即座に結婚式典に関する事項の確認、大総統就任の準備、大陸連合発足の再確認。するべきこと、やりたいことが山程ある。


 招待した各国の王や代表達は現れるとして、問題はその先。ある程度の話の進め方は考えてあるが、どうせ予定通りになどいかない。ドメキア王国での件が良い例だ。王国軍を強制的にまとめて、ティダが誘発しそうな内乱を鎮圧。シュナはかなり懸念してアシタカの知らぬところで根回しもしていたらしいが、おいそれと内乱を起こせる訳が無いという考えもあった。


 記者会見の騒動も蘇る。銃弾が当たったのが肩で助かった。あの日よりも国内での支持率は高まっているが、腹に一物抱えている者も大勢いる。一部、過激派もいると報告を受けているのでテロが起こる可能性もある。


 不安に潰れそうになる。アシタカはシュナの手に自分の手を重ねた。小さい手なのに、確かな存在感。手に手を取って、偽りの庭に閉じこもれば、死ぬまで平穏に過ごせる。笑い合って生きていける。アシタカはその道を歩けない。そんな人生は許せない。シュナも同様。アシタカの気持ちが自己保身へと変わったら、シュナとは縁が切れる。隣にはいられない。それこそ耐えられない。


「絶対に幸せにする、か……。ティダがそう口に出来ない気持ちはこういうことか……」


 眠れない夜、眠らない夜は多くあったが、ただぼんやりと過ごす夜は数える程しかない。いや、記憶にある限りは初。アシタカは椅子に座ったまま、ぼうっとシュナの寝顔を見つめた。


 足元で光る、ごくわずかな光苔(ひかりごけ)の灯り。静かで、凪いだ時間。自分の心臓の音だけが(うるさ)い。重ねた手が熱くて、シュナを起こしてしまわないか気になる。しかし、離し難い。他の場所に触れたら理性が決壊しそう。手を握ることさえ躊躇(ためら)われる。けれども手に手を乗せているのは止めたくない。


 ずっと眺めていても、飽きない。


「おか……さま……」


 シュナの声にアシタカはドキリと心臓を凍らせそうになった。静寂に溶けて消えていった、小さな呟き。


——お母様


 薄明かりでも分かる。シュナの睫毛(まつげ)(にじ)む涙。アシタカは重ねていた手を離し、シュナの目元を指で拭った。ヒンヤリとした感触に、やはり涙かと胸が痛んだ。眠りながら泣いたことなどない。


「メルビン! ……。ア、アシタカ様……。すみません……」


 悲痛な叫びと共に、突然飛び起きたシュナと目が合った。今にも泣き出しそうだったのに、シュナの表情が一瞬で微笑に変わった。


「すみません? ああ、可愛い寝顔を見せられなくて? それなら起きている時も好きなので問題ない」


 何て告げれば正解なのか、測りかねる。シュナが目を丸めて、何度か瞬きをして、クスクスと笑いだす。暗いので分かりにくいが、恐らくシュナの顔は赤いだろう。不正解では無かったようで安堵した。


「昔の夢を見ました。目が醒めて、アシタカ様がいてくれて良かったです」


「なら、耐え忍んでここに居て良かった」


 少し迷ったが、アシタカはシュナの手を取って手の甲にキスをした。顔周りだと自制出来なさそう。シュナが微かに嫌そうな顔になったので、アシタカは慌てて手を離した。


「すまない……」


「すまない? 挨拶と同じ仕草だったことに対してです?」


 シュナがそっと目を(つむ)った。この意味は、はっきりと理解出来る。


「僕を極悪非道に誘うとは悩ましい人だ。しかし、君の為なら善処しよう」


 大きく深呼吸をして、そっとシュナの肩を両手で掴んだ。どうして、こんなにも寄る辺ないのだろう。体格が小さいからだけとは思えない。同じような背丈の女性でも、こんなにも胸が締め付けられない。


 唇に軽く触れるだけのキスをした。接着剤を使ったみたいに、掌がシュナの肩から離れない。それを無理矢理引き剥がした。


「善処? アシタカ様はいつも優しいですよ」


 申し訳なさそうな顔になったシュナを、アシタカは思わず抱き締めた。いきなり飛び起きて心配を掛けてしまった。そう考えていると、ハッキリと伝わってくる。声だけ聞いていた夜は、この表情が見えなかった。穏やかに、柔らかく、笑うような声だと感じたことを思い出す。近寄ってより鮮明になったシュナの虚無感。胸の奥が痛くてならない。


「アシタカ様?」


「これから先も、ずっと優しいと言ってもらえるように努める。例えば、わざと妬かせようなどしない。いや、またするかもしれない。シュナ、君のふくれっ面は楽しい」


 体を離して、アシタカはシュナの頭を撫でた。シュナが冷ややかな視線をアシタカに投げた。


「まあ。女性にむやみやたらに触るべきではない。そう言っていたのに、おかしいと思ったらそういう事だったんです?」


「ええ。しかし君に寄ってくる男達に我慢ならなくて止めた。不埒(ふらち)な目から隠したかった。酔って上機嫌で、ニコニコと可愛いので独り占めしようかと。しかし寝顔も良い。眠そうだ。ゆっくりと寝て下さい」


 これ以上近くにいると、手が出そうだとアシタカは立ち上がってソファへと移動しようとした。シュナの手が持ち上がり、途中で止まり、ゆっくりと降りていく。小さな動きだったが気付けて良かった。


 アシタカは背中を向けるのを中止して、シュナを見下ろした。何もしていません、シュナはそういう顔をしている。


「ありがとうございます。(まぶた)があまり開かないのがバレバレなんですね。慣れないお酒で眠いです。お休みなさい」


 笑顔の壁。大丈夫だという拒絶。アシタカは寝台に腰を下ろして、床に視線を落とした。これか、自分がしてきた事は。中々心苦しい。一歩踏み込んだら、壊れるのではないかという恐怖。


「なあシュナ、そういう時はしっかりと僕を掴んでくれ。僕は君の気持ちに寄り添えるような人生を歩んでいない。ありきたりな、上辺だけの台詞しか思いつかないのが不甲斐ないし悔しい。だから今、君が僕が必要だというように腕を動かしたのはとても嬉しかった」


 心臓の音が(うるさ)い。ふわりと甘い香りがして、背中に温もりを感じた。チラリと背中を確認すると、シュナがアシタカの背中に頭をくっつけている。


「言葉も、慰めも、何も要りません。今みたいな真心が何よりも嬉しいです」


 直ぐにシュナが離れた。自分の心が(きし)む音が聞こえた気がする。しっかりと支えるから頼って欲しい。一人で抱えないでもらいたい。なのに、溝と壁が横たわっている。


「僕の当面の目標はシュナに何か欲しいと言われることだな。僕は今、後ろから抱きしめて欲しいと考えている。そうしたら振り返って、君を腕の中にしまって横になれる。君の髪の匂いは落ち着く。人の温もりにも安心する。今日は色々と疲れたが、グッスリと眠れるだろう」


 全くもって眠れなくなるだろう。一晩中、(もだ)え苦しむ自信がある。そろそろと気配がしたので、振り返って強く抱き竦めたい衝動に駆られた。しかしアシタカはジッと待った。シュナの戸惑いが伝わってくる。


「は、恥ずかしいので……無理そうです……」


 遠慮というより、本当に恥ずかしそうな声色だったのでアシタカは振り返った。布団で半分顔を隠したシュナが視線を彷徨(さまよ)わせる。


「なので……。アシタカ様から……お願いしたいです」


 隔絶感は一気に吹き飛んだ。代わりに衝動が込み上げてくる。思わずアシタカはシュナを抱き竦めて、無理矢理になってしまうのにキスした。一度ではとても止まれない。軽く触れるのでは、我慢しきれない。


 必死で体を止めて、腕の中に包むだけにする。「困ったな。未熟ですまない」そう口にして離れる前に、シュナがアシタカの背中に手を回した。引っ掻くように服を掴まれる。シュナの腕が微かに震えている。


「シュナ……嫌なら突き飛ばしたって構わない」


 益々強く抱きつかれて、嫌ではないと伝わってくる。シュナが首を小さく横に振ったので、正解だと分かって安堵した。アシタカはシュナを抱き締める腕から力を抜いた。シュナの体をゆっくりと引き剥がし、両手でシュナの手を握りしめる。


「シュナ、君を一番尊重したい。このまま寝よう。今夜の僕は明日は我が身、そういう気持ちがある。そうではなくて……」


 上手く言葉が選べない。シュナは何て悩ましい表情をしているのか。灯りがあれば、澄み切った大空色の瞳に絡め取られて吸い込まれているだろう。しかし、今のシュナの目は夜の(わび)しさを吸収して、孤独や虚無に揺れているように見える。


「こんなに胸が騒いでは眠れません。朝まで話しませんか? もし途中で眠ることが出来たら……誓いを立てて、祝福される日を思い描いて、甘い夢を見れそうです。アシタカ様、一つ欲しいものを思いつきました」


 祈るようにアシタカの手に顔を寄せて、シュナが目を閉じた。


「アシタカ様の生誕日は夏と聞きました。その時期にこの国の海を一緒に見たいです。アシタカ様は泳げます? 泳げるなら教えてください。セリム様に美しい珊瑚礁が見える洞窟を教わって、連れて行って欲しいです。なので、それまでどうかご自愛下さい。(わたくし)も気をつけます」


 アシタカはシュナの額に唇を寄せた。

 

 互いに気持ちは同じだろう。そう思った。触れ合いたいが、あともう少しだけ待つ。幸福に酔いしれるその時に。


 明るい未来が待っていると信じよう。明日は来るし、明後日も来る。そして、結婚式典の日へと続いていく。


 アシタカは布団に入り、シュナと並んで座った。手を繋ぎたいなとシュナの手を探すと、シュナの方が先にアシタカの手を握った。恥ずかしそうに俯いているが、微笑んでくれている。


「ああ、勿論泳げる。珊瑚礁が見える洞窟? ラステルさんにどんな自慢をされたんだい?」


 泳ぐなら、水着。しかし、外界には存在しない。崖の国の女性は服で泳ぐのだろうか? 水着は持ち出して良いものなのか? ゴミとして置いていくことはしないので、持ち帰れば許されるのか? それにも議会の許可がいるのか? そんな許可を得るなら、崖の国の慣習に従うべきだ。そもそも、外界の海で泳ぐ認可が必要か。今回の崖の国訪問は強引にだったが、次回からは監視や護衛がつくだろう。


 アシタカが考えている間に、シュナの発言を聞き逃した。慌てて耳を傾ける。


「そんな風に、初めてセリム様と心通わせた場所だと。同じ思い出の場所になったら、素敵ではありません? アシタカ様は珊瑚礁を見たことがあります? シュナは書物の絵でしかありません」


 そんな風に? 聞きそびれたが今更聞けない。一人で考えるのは後回しにするか、シュナにも話せば良かった。


「アシタカ様?」


「ああ、色々と考えていたら君の話を聞き逃して勿体無かったなと。大総統就任に、和平交渉開始、大陸連合の開始などが進むと、行動にかなりの制限がつく。外界の海で泳ぐ許可を得ないとならないかもしれないな、と」


 まさか、とシュナが目を丸める。シュナが考えるように視線を彷徨わせた。それからニコリと微笑む。


「かなりの我儘(わがまま)になるようですね。でも、撤回しません。上の空だったからですよ。でも、アシタカ様の生誕日へのお祝いに、アシタカ様が手回しするのは筋違い。(わたくし)が段取りをつけます。そう出来るようになります」


「そうやって荷を減らして、やる気も出してくれるなら心強いだろう。シュナ、僕も同じく珊瑚礁を本の挿絵で見たことがある。あとは絵画。ペジテ大工房の近海に珊瑚礁はない。仕事で海に潜ったことがあるのだが、冷たくて、暗くて、不思議な世界だった」


(わたくし)達、知識は多く持っていますが何もかも経験不足のようですね。だから、毎日が新鮮で楽しいと思います。辛い時、苦しい時に必要なのは幸せな思い出と希望。(わたくし)、アシタカ様が隣に居てくれるのはとても心強いです」


 甘えるようにシュナが肩にもたれかかる。動悸が激しく、息がし難いが嫌な気分ではない。むしろ逆。これを病気だと判断していた、少し前の自分にアシタカは呆れた。自分は本当におかしかった。


 シュナがうつら、うつらとしている。アシタカはシュナの手を軽く引いて、横になった。ちっとも眠れなさそうだが、目を(つぶ)ってみる。しばらくしてから瞼を開くと、シュナの愛くるしい寝顔が目の前にあった。


 手を離して、シュナの顔にかかる髪を指でそっとどかす。こめかみに二つ並ぶ少し大きめの黒子(ほくろ)があるなんて知らなかった。双子北極星のようだな、姫と流れ星のおとぎ話は双子北極星にまつわる神話。確か、そうだった。ソレイユがシュナを星姫と呼び、星姫物語という単語を口にしていた。星姫物語とドメキア王国における双子北極星の神話は関連があるのだろうか? 連想ゲームのように、思考が回る。


 今までなら、即座に起きて机に向かっているが、そんな気になれなかった。


——それまでどうかご自愛下さい。(わたくし)も気をつけます


 寝ようと思うのだが、眠れない。シュナに手を出したい。邪な気持ちを消すのに、ぼんやり考え事をするのは良いかもしれない。同じ考えるという行動でも、今夜は仕事などしたくない。シュナが悪夢で起きた時に、目の前に居てやりたい。自分よりも相手、仕事よりも相手、そんな夜が来るなんて思いもしなかった。


 眠れない夜は長いが、退屈なんてしないだろう。今まで、焦燥感を埋めるように働いていたのかもしれない。足を止めて、周りを見渡して、自分を見つめてみて気がつく。仕事が好きというより、色々なことと向き合う事から逃げていたのかもしれない。


——(わたくし)達の手助けをして欲しいのでご自愛を


 耳の奥に、いつかの夜の、鈴の音のようなシュナの声が響いた。


——アシタカ様、貴方が()けつけて、(わたくし)の手を握ったあの瞬間だけでもう良いのです。他には何も望んでおりません


 ティーカップが欲しいと口にした。


 思い出が欲しい。


 泳いでみたい。


 本物の珊瑚礁を見たい。


 本当はシュナは色々と求めている。彼女が一番欲しいものは何だろうか?


 アシタカはシュナの頭をそっと撫でた。いつの間にか、悲しそうに、苦しそうな寝顔。どんな夢を見ているのだろう。


「ごめんな……い……」


 小さな寝言を聞いて、アシタカはシュナの背中に手を回して、目が醒めないように優しく抱き締めた。寝たフリをしておこう。もしもシュナが起きても、この状況にきっと安心してくれる。


 平静を保とうと、シュナの寝息の回数を数えた。羊を数え続ければ眠くなる、母が昔そう教えてくれたが眠れた試しなどない。


 シュナが目を醒ました気配がして、眠っているフリをしていると、シュナが胸元にすり寄ってきた。


「夢じゃなかった……良かった……」


 アシタカは目を閉じたまま、黙ってシュナを抱き締める腕に力を入れた。しばらくして、小さなすすり泣きがして、体の震えが伝わってきた。アシタカは自分の理解力の無さに呆れた。シュナが一番欲しいもの。何度も聞いている。


 貴方に助けて欲しい。貴方が良い。

 

 しばらくして、シュナの震えは止まり、スヤスヤというような安らいでいる寝息が聞こえてきた。


 睡眠は三時間以上確保、それは撤回。睡眠は基本的にシュナに合わせる。きちんと寝台で眠る。心配をかけない為ではなくて、シュナに快眠を与える為。それが作るのは、今この瞬間のような胸一杯の幸せな時間。明日への活力。お互いにとって、良い修正案だ。


 幸福に酔いしれて、アシタカは自然と眠りに落ちた。


 

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