月見酒の男達2
【風車塔最上階 別名 屋根裏】
豪雨はやや弱まっているが、それでも激しさは残っている。セリムは窓の外を眺めるティダへと、葡萄酒の酒瓶を傾けた。
「月見えぬ夜。最悪の国。何をしているんだか俺は……」
ずっと黙って酒を飲んでいたティダが、ポツリと呟いた。
「最悪の国?」
てっきり褒めてもらえると思っていたので、かなり悲しかった。
「いや、良い国だ。俺にとっては、の話だ。整備し終わったら、住処を変える」
何のことだか分からず、セリムは首を傾げた。一人がけのソファに腰掛けるアシタカが、小さく笑った。
「なら、僕の側近でいればいい。僕は横でも下でも構わない。至宝、その名が欲しい。もちろん本当の意味でだ」
アシタカはティダの目を見ないで、床を見つめるように伏せ目で微笑んでいる。薄明かりに照らされて、穏やかさに拍車がかかっているアシタカ。崖の国では、兄クワトロが時折このような姿を見せる。悠然としていて、凪いでいる時のクワトロに、セリムは密かに憧れを抱いている。立ち振る舞いなのか、体の動かしなのか、とセリムはアシタカを観察した。
「分かってて言うなアシタカ。俺は今より荷を増やせん。お前より器が大きくても、駒が圧倒的に足りない」
喧嘩をするかと思ったが、今夜は違うらしい。ティダの声はとても静か。窓際の床に胡座をかいて、アシタカに背中を向けているティダ。堂々と背筋を伸ばしているのに、どこか憂いを感じる。今のティダは、アシタカにも通じるところがある。正反対のようで、共通点も多い二人を見習えば、セリムはより偉大な男になれる。葡萄酒を口に含みながら、セリムはティダとアシタカを交互に見比べた。
「僕は意外に冷徹。君は思っているより温情派。あまり、己を見失っていると転ぶぞ」
「本当にお前は変わったというか、いちいち嫌なところばかり突いてくるな。俺はもう、足元すくわれている……」
微かに眉根を寄せたティダと、心配そうなアシタカ。今夜は火花は散らないらしい。ティダはアシタカを一切見ないで、窓の外をボンヤリと眺めている。
「アシタカ、それはどういう……」
「君が見る世界は概ね正しい。そういう話だセリム。僕にも、もう一杯お願いできるか?」
差し出されたゴブレットに、セリムは葡萄酒を注いだ。アシタカはスーツという服装だからか、いつもと違う髪型のせいなのか、大人の男の色気を感じさせる。アシタカの微笑みを真似してティダに酌をしようとした瞬間、ティダに頭を押さえつけられた。
「いい加減、止めろヴァナルガンド。お前はいちいち面倒だ」
「何の話だ?」
アシタカが肘置きに肘をついて、ゴブレットに口を付けた。やはり雅な雰囲気。ティダが「やれやれ」という顔付きになった。真似ようとしていたことを、気づかれたのだろう。
「僕は……」
セリムが「僕は二人を見習いたい」という前に、ティダに両頬を片手で挟まれた。
「あひははほいああう」
「この強欲めが。まあ、そんなにやりたいなら後でにしろ。宴会場で好き放題しろ」
ティダが鼻を鳴らして、セリムから手を離した。
「宴会場で?」
「そうだ。どうせシュナの奴がふらふら出歩く。今のところは大人しくしてるみたいだがな。俺やアシタカを真似て、場をおさめてみよ」
ティダが座り方を変えた。近くの箱に片肘をついて、軽く握った拳に頭を乗せて、しなだれかかった。この所作も優雅。
「シュナさんが?」
「ラステルが宴の話をあまりに楽しそうにするので、浮き足立ってる様子だったからな。あれも難儀な娘だ。この国のような王族や、我が国の華族に生まれていれば、もう少し楽な人生だっただろう」
ようやくティダが体の向きを変えた。肘を置いていた箱に今度は背中を預ける。ティダが鋭い眼光でアシタカを見上げた。
「アンリのように捨ててみろ。その瞬間、俺が食い千切ってやる」
アシタカはティダに爽やかな笑顔を返した。
「半殺しだろ? 君はそういう男だ。気に入った僕を見捨てられない。僕とシュナが互いに必要ないと判断すれば、傍観」
ティダが呻いて、葡萄酒を一気飲みした。
「それだそれ。俺はそういう手に弱い。大抵脅せば惑う。疑う。怯えて手を伸ばすのを止める。ったく、お前のせいだヴァナルガンド。それに王狼め」
酒を寄越せというように、ティダがセリムにゴブレットを突き出してきた。アシタカは愉快そうに笑っている。
「いや、僕はどちらかというとシュナとアンリだ。あの晩のやり取り。そして父上の教え。僕は今後はなるだけ先に信じ、先に与える。今のもそれだ」
あの晩とは、船上でティダとアンリに何かがあった日だろう。セリムだけが未だ除け者で、面白くない。
「まあ、俺はもう戻れん。すっかり壊されたからな……」
今度はティダが伏せ目になった。
「少し語るかティダ。僕はかつて、アンリにもう耐えられないと突き放された。朝から晩まで仕事。僕の生き甲斐。理解するのと許容出来るかは別。蔑ろにされ続けアンリは潰れた。そこまで追い詰めたのに、割と穏やかな別れ話だった。いや、僕は話し合いを拒否した。アンリは僕に五分の時間を要求。僕は仕事が気になって、時計で時間をしきりに気にしていた」
セリムは驚きを隠せなかった。別れ話という大事な話で、時間を気にする? こんな話、ティダが苛つくかと思ったが、大人しく聞いている。
「過信していた。帰ってきても、まだいるだろう。謝り、労い、感謝を与えていれば離れない。最大限、譲歩している。それが分からない相手ではない。しかし翌日帰宅したら、彼女の荷物は空。アンリは僕を見捨てた。アンリに僕は必要ないと判断された」
この話の着地点はどこなのだろうか? いつものティダへの嫌がらせのようには感じられない。
「今なら彼女の気持ちが分かる。アンリを必要としていないのは僕の方だった。身の回りの世話、それに孤独感を埋める道具。線を引いて、壁を作り、拒否。大技師教義に忠実な僕は、一定以上手も出さない。僕はアンリの女としての自尊心を踏み躙り続けた。さらに僕は翌週には次の女へと移って追い討ちをかけた。忙しく共に過ごせない男とより、アンリなら他に良い相手がいる。アンリなら選り取り見取り。つまり、僕の心はアンリには全く向いていなかった」
アシタカがまた酒を口に含んだ。ゆっくりと、味を楽しむように。それから大きくため息を吐いた。
「僕はつい最近まで、自分の事なのに分かっていなかった。アンリはよく許してくれたと思う。同じような扱いをした女性には、憎まれている。捨てられたのは僕なのに、そう憤っていたが、今なら分かる。残酷だったのは僕の方。まだこの考察に至る前、僕はアンリにこう言った。正確にはシュナに話して、その場にアンリがいた、だが。恋愛や伴侶など、時間と労力の無駄。僕は最悪だな。一方……」
ゴブレットを傾けながら、アシタカがソファに沈んだ。
「何も与えられない。しかし、隣にいて欲しい。そうしないと辛過ぎる。君が何よりも必要だ。どうか離れないで欲しい。最大限尊重して善処する。ティダ・ベルセルグ、君はアンリにそう誓った。だから僕の時と違ってアンリは逃げない。危険がつきまといそうで心配だとは思ったが、アンリは自ら前線に立つ女。むしろ君のような男の隣の方がいっそ安全。僕は良かったと思っている」
いつものような嫌味を言わず、ティダは黙って酒を飲んでいる。視線はアシタカにしかと向けられていた。アシタカは視線を横にずらして、ティダから目を背けている。少し張り詰めた空気。
「僕の愛情の偽り、それに非情さと冷徹さを見抜いて投げ捨てたアンリ。僕は極悪非道だったが、彼女もまた捨てられる程度の気持ちだったという訳だ。僕等は二度と、男女関係という点では交わらない。傷つけ合うから無理。僕の理性はアンリでは壊れなかったので、その点でも無理。今のアンリを見ると、逆も同様」
傾けていたゴブレットに口を付けて、アシタカがティダへと目線をずらした。
「アンリは男としての僕を見限ったが、人としては尊敬してくれている。僕の無自覚な非情さや孤独感を心配して、あれこれ世話を焼いてくれていた。有難い話だ。僕とアンリは十年もの付き合いがあって、仕事でも互いに支え合ってきた。だから気心知れていて仲が良い。僕は今後君に踏み込みたいし、アンリをダシに使い続けると、彼女の機嫌も損ねるのでもうしない。嫌がらせじみた手を詫びる。すまなかった」
スッと立ち上がったアシタカが、ティダに握手を求めた。
「本当にお前は腹が立つほど清々しいな。色々と飲み込むのが、早過ぎだ」
ティダは嫌そうにアシタカの掌を見つめている。
「いや。僕の腹の中は燃え盛っている。死ぬまで続く。しかし、それを差し引いても今後とも君と酒を飲みたい。手伝って欲しいと頼みたいし、助けてくれと頼りたい。誠実に、素直にだ。君はそんな僕を無下に出来ない。代わりに僕が色々と背負おう。君が守りたいものにも手を回す。それがアンリの為にもなる」
何故かティダがセリムを睨んだ。アシタカの顔を見ないで、アシタカと握手し、ティダがゆっくりとアシタカを見上げた。哀愁漂う微笑。ティダがアシタカから手を離して、今度はセリムにも同じ表情を向けた。
「俺は王狼を無下に出来ん。観念したのでここにいる。かつて、惚れた女が俺を背負って、命を投げ出した。俺はあんな張り裂けそうな気持ちは二度と御免だ。俺にズカズカ踏み込んでくるなら、俺より先に死ぬなよお前ら……。なるだけ手を回す。庇ったら嬲り殺すからな」
ティダが背中を向けた。窓の外を、少し潤んだ黒曜石のような瞳。今日、セリムはティダを庇うような形になったが、嬲られても、殺されてもいない。大狼の掟違反で殺されても仕方ないらしいが、足を捻られただけ。アシタカがティダの背後に座り、もたれかかった。ティダは撥ね付けなかった。
「それは逆も然り。僕の大事な、それも数少ない友人アンリを残して死ぬな。シュナを愛娘と呼ぶなら、娘の伴侶が彼女を幸福にするのか見張り、娘の幸せを見届けろ。僕を人類の至宝に押し上げろ。何故そんなに手を回して人助けをするのか知らんが、僕が安全な道を整備してやる」
フンッと、アシタカが鼻を鳴らした。ティダが大きく溜息を吐いた。
「人助け? 目が腐っていやがる。俺はそこらで、殴ったり、脅したり、殺したりしているだけだ。その何倍もこの世を整備せねばならん。そういうことだ。アシタカ、腹が立つと口が悪くなる癖は改めろ。それから僕も止めろ」
「それこそ自己認識が腐っている。まあ、それはいい。好きに、自由に生きろと言っていたな。そっくりそのまま返す。僕も君もセリムも、我が強くて自覚が変。それぞれ自分勝手に進もう。口の悪さは目下矯正中。我が大技師一族は私か僕しか使わん。真面目さ、親近感、品格の問題。役にも立つから変えん。俺なんて使ったら、熱心な信者や老人達が煩い」
「熱心な信者、ね。聖人一族とは七面倒臭そうだな。口調まで縛られてるのかよ。それに従っているってのもな」
「生まれてからずっとなので、慣れている。知ってどうするのか知らんが、昼飯に何を食べていたとか、ネクタイを変えたなど、そんなくだらないことまで記事になる。国中に見張られる代わりに、チヤホヤされてきた。まあ、悪くない地位だ」
二人から同時に、酒を注げと要求された。わずかに早かったので、アシタカのゴブレットの方へ酒瓶を持っていくと、ティダが不機嫌そうになったので、仕方なくティダの方へと酒瓶を移動した。今度はアシタカが舌打ちした。アシタカが舌打ち?
どちらが先に酒を注いでもらうかで競うなど、馬鹿らしい。セリムは酌を止めた。二人がふて腐れたようにゴブレットを突き出してきた。セリムは両手に酒瓶を掴み、同時に酒を注いでやった。静かな、意義のある酒盛りだと思っているのに、これは面倒臭い。
「お前は顔にすぐ出る。ヴァナルガンドよ、全くなってない。だから余計な面倒を生み、妻の尻にも敷かれるんだ」
「セリムの良さを潰すな。しかし、知り合った頃よりも幼い気がする。己に夢中で、周りに目が向かなくなっているぞセリム。……やはりティダの忠告を聞け」
「大体お前は、王族の自覚をもっと持て。ドメキア王国でやりたい放題。速攻で鼻高王子の背中も刺した。ヴァナルガンド、お前は何処の国の何者だ」
「だから利用されるんだセリム。君の行動は分かりやすい。いや、時に奇天烈頑固。僕は君が未だに分からない。ティダよりも不明瞭な時がある。思慮深そうで、浅いというか、何というか……」
急に自分へのダメ出しがはじまって、セリムは項垂れそうになった。しかし、有り難く貴重な意見。改めるという態度を見せねばならない。セリムは背筋を伸ばして、グッと胸を張った。
「放っておけアシタカ。こいつは破壊神。好き勝手させておけ。周りが勝手に変わる。お前に俺。ラステルにシュナ。シッダルタの奴もだな。おいヴァナルガンド、結婚式典前にテュールに会わせる予定だ。好きに対応しろ」
ティダとアシタカが同時に背筋を伸ばした。それから胡座をかいてセリムの方へと、体を向ける。正反対の性格のようなのに、ここ最近、同じような言動が多い。
「テュールとは、第二皇子。君の兄だよな?」
「ああ、義理の兄だ。血縁的には従兄弟。俺はロトワ蟲森に住む母と先代皇帝の隠し子。母は未婚で、息子の父親が誰かも語らぬので苦労した。村で除け者。俺もまあ、それなりの扱いを受けた。村では蟲の声が聞こえる者を作るのだが、高確率で死ぬ。当然、俺は矢面に立たされた。確か五つの時だ」
思わぬ暴露話で、セリムはアシタカと顔を見合わせた。
「当分、アンリにも話さん。この意味分かるな?」
先程アシタカに背中を預けたのと同じ理由。お前達を何よりも信用する。ティダの瞳の輝き方が、これまでとは違ってみえる。胸が熱くなったと感じた。セリムは無言で小さく頷いた。
アシタカが複雑そうな表情で、ゴブレットを床に置いた。
「僕は直ぐに勘違いし、間違える。無自覚に友を刺しそうになれば殴れティダ。蹴り上げろ。セリムもだ。二人とも僕を見張ってくれ。虚勢を張り続けるが、常に自信が持てない。生まれてこれまで、ずっとそうだった。しかし、僕は君達を自信の担保にして突き進むことにしたんだ。何もかも背に乗せる。なにせ僕は何でも持っている」
自信なさげに微笑むアシタカに、セリムは虚をつかれた。ティダがアシタカの頭に手を伸ばし、その手を引っ込めた。ティダの手はアシタカの肩に乗り、軽く三回音を立てた。
「俺には曲げたくない矜持がある。アシタカ、お前は至宝を望む。しばし共闘。どちらが兄なのか弟なのかも保留。かつて別々の地で同じ未来を目指したアシタカとエリニースをなぞるか。ヴァナルガンド、お前は俺達の直下。しかと背についてこい」
セリムはティダに髪をぐしゃぐしゃと撫でられた。アシタカは横並びだが、お前は違うという意味。悔しくて仕方がない。
「その件なんだが、僕は十年遅れて生まれた。その分を差し引いて評価して……」
ティダがいきなり上着と、その下の服を脱いだのでセリムは口を閉じた。ティダがニヤリと口角を上げたので、ワザと話を遮られたと分かる。ティダは腹に巻いているサラシも外し、アシタカに見せた。
「大蜂蟲の屍肉と殻を埋め込まれた。で、俺はロトワ蟲森の大蜂蟲の声が聞こえるようになった。今とは違って、単語だけという状態だったがな。死にかけた。俺と母は村である程度の地位を持ったが、勿論俺は断固拒否」
舌打ちしたティダが、冷ややかな目で窓の外を見た。何か思い出しているような、遠い目。黒真珠のような瞳に、雨が映る。セリムはティダの奥底の気持ちに寄り添う事は出来ないだろうと感じた。シュナやシッダルタに対してと同じく。恐らくラステルや蟲達も。セリムは大した苦労もなく、温かな世界で育った。どうしようもないことだが、歯痒くてならない。
「似たような風習が、ホルフル蟲森の民にもある。赤子を蟲の体液で沐浴させると聞いた。滝の村のイブン。ラステルの乳姉妹の婚約者だ。滝の村は蟲に襲われて壊滅して、今は存在しない」
イブンならティダの思うところを共有出来るかもしれない。しかし、ティダはイブンに興味無さそうだった。
「そうか。色々と情報を聞け。先代皇帝は父と名乗らず、俺に接触した。それで五つの頃に大狼の里へ招かれた。カドゥル山脈にある、リングヴィという名の里だ。父が何故大狼と接点があったのか、未だ知らん。本山の老狼どもが口を閉ざしている。俺は誠狼の群で育ち、同じ群内の王狼とヘジンという大狼と親しくなった。今や俺達四頭は若手大狼の筆頭だ」
ティダが自慢げな笑顔を見せた。誇らしくてならない。そう伝わってくる。大小様々な傷跡。それも抉られたような傷の跡。男でも見惚れるような、鍛え上げられた筋肉。ティダがどう生きてきたのかを、物語るような体。
「 大蜂蟲と大狼の血を取り込み、俺は人外となったらしい。それで知っての通りの怪力、嗅覚、視力、聴覚。その他もろもろ。ヴァナルガンド、お前も似たようなもんになってる筈だ。鍛えれば俺のようになるだろう。リングヴィで多くの時間を過ごした俺は蟲森の民の事はさほど知らん。お前らよりは知っている、という程度。掟など探った情報は有しているがな。大狼の成体となる前、十の時に先代皇帝は俺を皇太子として、ベルセルグ皇国に招いた」
ティダが立ち上がってサラシを巻き始めた。
「俺は人里で暮らしてきてないので、かなり浮いた。力があるし、地頭も良くて知恵や所作など皇族らしさもあっという間についた。やるべきと思う事はしたし、好き勝手もした。リングヴィとベルセルグ皇国を行ったり来たりしていた。まあ、リングヴィで過ごす方が多かった。何年かして女と酒に溺れて、ベルセルグ皇国で過ごす時間が増えた。しかし、人など愚かで弱く、気に入りは少数。俺は皇太子の身分を捨て、リングヴィに帰ろうと考えていた。大狼の里で厄介な事が起き始めたのもある」
アシタカがティダに服と上着を手渡した。
「気に入りの一人はシッダルタか」
「まあな。俺が去った後も生き残れるようにと、あれこれ蹴り上げた。気に入った筆頭は従兄弟のテュール。軟弱臆病だが、決して他者を裏切らずに弱きに手を差し出す。皇族内で認められるのはテュールだけだ。地位や能力などに格差があると、対等さは失われる。相手が自分自身を下に見て、勝手に距離を作るからな。肩を並べて友だと呼んでも良いと思ったのは王狼達とテュールのみだった。他はまあ、少々気に入っている、その程度。ドメキア王国の騎士達のようなものだな」
その程度、というが相当気に入っている者が多くいたのだろう。セリムはそう感じた。ドメキア王国の騎士達で、ティダが自分の直属の部下だと告げた者達への扱いや接し方は、特別感が溢れていた。ティダ自身も慕われていたに違いない。
ティダは服と上着を身に付けると、木箱に腰かけた。髪を掻き上げて、小さな溜息。どちらかというと静かで、風雅。ティダの根底の素はやはりこの姿だろう。どう励んだらこのような空気を醸し出せるのだろうか。真似をすると話を折りそうだったので、止めておいた。ティダに悪戯を咎めるような視線を向けられた。
「俺は色々と見誤っていたし、驕ってもいた。それで十八の時、そろそろ去るかと思った矢先に先代皇帝、俺の親父が死んだ。死体は毒の匂いがしたので暗殺だろう。弟である現皇帝の仕業だ。去るつもりなのと、俺は政治争いなどどうでもよかった。親父は一強の王を目指して敵を作りすぎていたから、まあ自業自得。思い出も尊敬も少ない親だったが、身分制度改革は継いでやるかと、そのくらいには悲しんだ。阿保な叔父を貴族に見張らせて、残すテュールに尻拭いをさせ、ゆくゆくはテュールが皇帝。まあ、そう思った。しかし……」
言い淀んだティダが、悲痛に顔を歪めた。酒瓶を手に取り、一気に呷る。
「王にと望まれた。ユパ王が言っていた。何故あのような男が皇太子ではない。ベルセルグ皇国の皇帝は何故ティダ・ベルセルグを国から出した。自分なら絶対に手元に置く。僕も同意見だ」
「そうらしいな。当時の俺は分かっていなかった。俺はベルセルグ皇国なんざ、小さな国にはおさまらない、去ると常々口にしていた。なのに俺を皇帝へという動きが始まり、同時に蹴落とす策略も起こっていたらしい。リングヴィや本山に気を取られて皇居内の動きや、市民の感情に気がついていなかった。親父の死後、叔父のレオンが帝位就任と決まると内乱が起きかけた」
「シッダルタから聞いたが、自分こそが皇帝だと名乗り上げたと。しかし、掌を返して帝位継承権を放棄。軍も臣下も、何もかも捨てたらしいな」
アシタカの発言に、ティダが小さく首を横に振った。
「俺を祭り上げて、国家転覆罪で絞首台に乗せようという算段を考えて行動した阿呆がいた。俺が計略に乗ると思ったのだろう。俺は皇族、一族を裏切らん。革命や内乱なんざ国が疲弊する。そもそも去ろうと思っていたしな。扇動した者が見つからないと俺は追い込まれる。俺を信じる市民達を裏切ることになる。多少整えたというのは驕りで、今の国では絶望だという爆発。惑わされて勝手に俺の背に乗ろうとした者達など、囲いたくない」
セリムは状況を想像して見た。シュナの立場に似ているかもしれない。ティダがドメキア王国の内乱を誘発させたのは、自らの過ちから何かを学んで、シュナには正解を与えようとしたからだろう。
「絞首台などで俺は殺せんのに、愚策を考えたものだ。しかし、気づかなかった俺もどうしようもなく愚か。皇族側、革命軍、俺が選ばなかった方が滅ぶ。どちらを選んでも前後左右、裏切り者になる地獄。血の池だ」
「君はどちらも選ばなかった。ティダ・ベルセルグ、君はシュナと似たような方法を取った。皇帝にはならない。しかし、支える。皇族も民もどちらも背負う。そういうことか?」
アシタカがティダを見上げて、酒瓶を差し出した。ティダはアシタカに葡萄酒をくんでもらい、ゴブレットをゆっくりと回した。注がれた葡萄酒を見つめ、窓の外へと悲しげな目を向けた。
「我が永遠の太陽がその道を用意した。華族の娘で、同じ皇居に住んでいた。あれこれ調べ周り、俺が国家転覆の首謀ではないという証拠を揃え味方も増やしていた。一見大人ししく雅で愛くるしいのに内面は豪気な女でな……。顔を焼き、喉を潰し、囮役を殺してすり替わり、俺に殺させた……。この国の何もかもを助けて欲しい。それこそが大狼ティダ・ベルセルグ。何も見捨てるな。生きろ、それがソアレの最後だ……」
ホロリ、とティダが涙を流した。一筋流れた涙が星のように煌めく。セリムは何も言えなかった。
--俺の為に、俺の命や国の平穏そして民の命と何もかもを背負って死んでいった。俺が刺し、ヴィトニルの血肉にと食わせた
船の上、月夜の晩に聞いた話のその一歩先。
「権力を全部放棄した。レオンの養子、第三皇子の地位で皇族最下層を提示。街に出るのは止めた。大狼の本山やリングヴィは王狼達に完全に任せた。皇族一同、皇居内一同、あれこれ鍛え、駒を探し、整備。皇族分裂や貴族の派閥争いを常に叩き折る。本山が気掛かりだったし、ソアレの死に一国では足りんと思ってな……。あんな男いない方が良いとなるように仕向けた。まあ、十年そんな風に過ごした」
アシタカがゴブレットを窓の方へと掲げた。
「君の道はその女性へという訳か。アンリを永遠の二番手と呼んでいたな」
「俺はこの世の全てを掌に乗せなければならん。頂点の俺を導き、照らした女。その名を未来永劫語り継がせ、子々孫々に存在を刻ませる。ソアレの死に相応しいのは、矜持の大輪。だから|、俺は庇われるのが嫌いだ。女が男の前に出て、命を賭けるのも虫酸が走る」
心底嫌そうに吐き捨てると、ティダはまた酒を呷り、セリムとアシタカを順に睨んだ。
セリムはラステルを思い浮かべた。ラステルはセリムの為ならば、前に出てきてくれる。共に背負うと横に並んでくれる。
「君の亡き妻へ冥福を」
窓へと掲げていたゴブレットを更に高く上げてから、アシタカが葡萄酒を一気に飲み込んだ。
「俺の妻ではない。テュールの嫁だ」
アシタカが怪訝そうに首を捻った。
「何もかも、俺の為に動いたようだが、ソアレの真意は知らん。通じ合ったのは、死ぬ間際だけだ。髪の毛に触れるだけで激怒されていたくらいでな。抱いてもいない女に、ここまで執着するとは自分でも驚いている。しかし、忘れられん。死ぬ間際のソアレの瞳の奥の激情的な恋慕。あの目と、王狼の目、それに女と遊んで酒を飲んでいれば生きていけると思っていた」
実際には無理だった。そう顔に描いてある。ずっと孤独だったとヒシヒシと伝わってくる。ティダが申し訳なさそうに窓の外を見つめた。いつの間にか雨足が弱まり、雲が薄れている。
「シュナには危うくソアレより恐ろしい目に合わされるところだった。まあ、本人が俺なんかを選ばない上に、シュナは血縁者のように感じる、抱くのには寒気がする女。別の絆で捕まったが、ギリギリ助かった。その前は胡蝶蘭の乙女だな……。幼く聞き分けも良いのでこれも助かった。他は、まあいないな。しかし、アンリ。また目が眩んだ。同じように男共も次々と現れる。全員、半年程度の事なので、恐らくここらで限界だったのだろう。これ以上、逃げても無駄だと思った」
心の底からすまない、というようにティダは額に手を当ててため息を吐いた。ソアレという女性の死に方が、未だティダを縛りつけている。人付き合いに背を向けるのも、失うことを恐れているから。しかし、ティダは一歩踏み出した。
--俺は力があり過ぎて時に踏み外す。人を惑わし不本意な騒動も起こす。必要があれば俺を壊せ。矜持に目的、命。何を壊されてもお前ならば文句を言わん。俺は俺にそう誓って人里に降りた
ドメキア王国の地に初めて足を下ろしたあの時、ティダはそう言ってくれた。あれは、セリムに助けて欲しい、セリムを信じたからもう一度踏み出した、そういう意味だ。お前ならその信頼を裏切らない。例え裏切られても、自分でセリムを選んだから文句を言わない。思い出したのと、新たな考察でセリムは身震いした。出航前同様、あまりにも強い喜び。自分が尊敬する男に、一人の男としてそこまで認められたということに、歓喜しかない。
ゴトリ、と音がしたのでその方向に顔を向けると、アシタカの手から落ちたゴブレットが、セリムの方へと転がってきた。アシタカが放心している。
「ああ、悪いな。シュナのことは口が滑った。まあ、どうせ分かるだろうが……」
「何も言うな。終わったことは変えられない。何を返したのかも知っているというか、目の当たりにしてきた。よって、僕は何も気にしない……ように努める……男たるもの器は大きくあらねばならん……」
吐きそうな様子で、アシタカがこめかみを指の関節で揉んだ。
「殴って気がすむなら殴れ。見る目が無く、悪手を選んだ負い目も、多少晴れるしな」
気まずそうにティダが苦笑いを浮かべた。今夜のようなティダは初めてだ。アシタカは下を向いて、少し震えている。
「僕が気にしているのは……シュナが気にしていないことだ。おまけに一世一代の晴れ舞台の話で、君との式を思い浮かべた様子だった。良い出会いだった。そう顔に描いてある」
「まあ、良い男に手ほどきされ……」
しまった、というような顔付きになったティダをアシタカがゆっくりと見上げた。少し乱れた髪を掻き上げて、背を伸ばして立ち上がる。ティダを見据える黒羽根色の瞳は鋭かった。薄笑いをしている。
怖い。
「黙れ。余計な事を喋るな。そういう話にした筈だ。歩んできた人生全てが彼女の魅力を形成した。この自信のなさや、心の狭さなど、シュナをしかとこちらを向かせてれば済むことだ。余裕ぶった顔を崩し、他所を見るとどうなるかも教える。ティダ・ベルセルグ、一夜で語り尽くせる人生ではないようなので、定期的に飲もう。いいか、僕は何もかも背負う。あらゆる道を整備する。君が歩くのはその新たな道だ。共に過ちから学び、踏み出そうではないか。今夜はしばし離れることになるアンリと楽しめ。あと、アンリにも話せ」
どこかで聞いたような台詞。確か、以前ティダが似たような事を言っていた。転がっているゴブレットを軽く蹴飛ばし、舌打ちをしてからアシタカが部屋を出ていった。かなり機嫌が悪い。態度も良くない。あんな様子でシュナの近くに行って大丈夫なのか?
「青筋立てて何を言っているんだか。それにあの目。吐き出して、さっさと前を見ろってか。王狼と同じだな。まあ、俺は粘着質な臆病者。あまりせっつかないで欲しいのだがな……。殺されかけたのも一度や二度ではないと聞いているのに、本当にあいつは清々しいほど潔ぎ良く真っ直ぐだな」
自らを臆病者と言い切ったティダに驚いた。自信家のようで、実は自尊心が低いティダ。自信がないといいながら、周りの評価により自尊心が高く、突き進めるアシタカ。そんなところも反対なのかと、少し面白かった。まるで互いを補うようではないか。
「そうなのか? もしや最悪な国とは崖の国の民がもうすっかり君を気に入っている様子だからか? そのうち去ると言っていたから、あまり気に入られると別れが寂しいのだろう」
「その通りだ。得体が知れない男も生物も、王族の信頼一つで受け入れる。実に好ましい。それに俺は慕われると無下にしきれん。十年、順調だったのにな。ヴァナルガンド、お前に気を許したら、糸が切れた。一目見た時から既にそうだった。お前は俺の生き方をぶっ壊した」
声にしないが、ありがとう、そう聞こえた気がした。ティダが愉快そうな笑顔を浮かべてくれたからだろう。
「しかし、シュナもとんでもない男に捕まって良かったんだか、悪かったんだか。俺やシュナのようなのには、お前やアシタカ、それにアンリみたいなのは毒にもなる。シュナも中々自尊心が低いからな。それなのに、式典まで手を出さんとは、意味が分からん。アンリ同様、新手の拷問か? ペジテ人の思考はどうも理解出来ん」
自分の事を棚に上げて、と言いかけるとティダがアシタカのゴブレットを拾い上げた。
「またシュナを刺すかもしれん。見張りついでに遊びに行くかヴァナルガンド。酌とは女にしてもらうもの。 景色も、調べもない薄月夜に酒など興醒め。胡蝶蘭の話は他言するなよ。教養があり可愛らしいので、俺の取っておきに贈った。良い女がペジテ大工房に見当たらなければアシタカの女にと考えていたのだが、もう必要が無い。旦那をアシタカの周りに飾るつもりだが、胡蝶蘭は用済み。ラステルと三つ子姫と遊ばせておけ」
「いや、話すも何も胡蝶蘭とは誰なんだ? ラステル達と遊ばせておけとは、そのうち会う予定があるのか?」
「テュールの側近リシュリの妻アルセ。愛くるしく、良い娘だ。匂いや中身がどことなくソアレに似ていてな。俺は危うく奈落の底に落とすところだった。しかし、幼くて弱いので助かった。結婚式典に帯同させろとテュールに伝えてある。アルセと俺と縁があるというのは、アンリに黙っていろよ」
懐かしそうな、それでいて微笑ましそうな表情を浮かべたティダに嫌な予感がした。アルセとやらに再会したティダは、今の表情を隠せない気がする。出会ったころとは随分と変わった。こういう温かな眼差しを隠さなくなっている。隠せなくなっている、の方かもしれない。
「ティダ、先程も口を滑らしていたし、君自身が気をつけるべきだと思う」
「俺はすっかりイカれた。どうも話し過ぎる。まあ、お前とアンリにぶっ壊されたからだ。アシタカが言っていただろう。過ぎたことは変えられない。アルセが何たるか知り、妬けば、アンリも多少譲歩するだろう。……月狼がシッダルタと子永狼を連れてくるらしい。迎えに行って好きに過ごせ。俺も好きにする」
「譲歩? それに子永狼? 誰のことだ? 」
「アンリは俺の何もかもを縛るつもりらしい。死ぬまで拷問されてたまるか。妥協させる。俺が鍛える王太子だ。何だあれは。あんなのが岩窟の皇居にいたら苦労などない。どういう教育方法を持っているんだこの国は。アンリに善処するなら、調べねばならん。つまり、今の俺に必要なのは女だ。アシタカ同様、むさ苦しい男と、風情のない酒などもう御免。俺の出自に、力、それに思惑など気になることがあれば好きな時に聞け。但し、津波のようなのは止めろ。あれは鬱陶しい」
死ぬまで拷問されるとは、何のことなのか思い至らなかった。とりあえず、ティダは一生アンリに頭が上がらず、尻の下に敷かれそうなのでその点は反面教師にしようと思った。
ティダが自分のゴブレットも手に取って、片手に二つのゴブレットを持ち、部屋から去ろうとした。部屋の入り口前で足を止めて、セリムと向かい合う。申し訳ないような、寄る辺ない微笑をたたえている。
「なあティダ……。ソアレさんという方がどのような気持ちで最後を迎えたのかは知らないが……」
きっとティダの幸福を祈って死んだ。愛する男を庇って死んだなら、きっとそうだ。ティダがいつまでも気に病んで、自分を蔑ろにしているとソアレという女性は怒るだろう。もう激怒しているかもしれない。アンリが現れたことに、祝福を与えているに違いない。ティダは今後、身の危険を多少なりとも回避する。アンリが地の果てまでついてくるから。
「今夜より、恐怖の人生の始まりだ。また俺は失うだろう。今まで以上に優劣つけて何でもする。その結果、意図していない厄介事を起こすだろうな。まあ、頼り甲斐のある男が頼って良いという。俺はアシタカに荷を分ける。よって、お前も俺にのしかかれ。お前は俺もアシタカをも支えるだろう。ドメキア王国の時のように、勝手に背負って潰れるなよ。しかと荷を分けよ。シッダルタもお前となら、自由に、そして誇らしく生きていけるだろうから頼り頼られよ。俺は何もしてやれなかったから頼む」
シッダルタとは飲めない。そういう悲しそうな、寂しそうな表情を残してティダが背中を向けた。それから、サッと外套を翻して部屋から去っていった。今夜はアシタカと飲む。そういう風に感じられた。いや、セリムがシッダルタと過ごすと、ティダが離れるだけか。
「アシタカとティダがこれ程、互いに気を許すのは良かった。それにしても僕だけ横並びじゃないなんて……。はあ、シッダルタへの誤解は二人にとって良くないことだ。兄上、いや父上に相談しよう。アンリさんもだな……」
ティダが言う通り、月狼に呼ばれたのでセリムは軽く片付けをして祭宴大広間へと向かった。
何となく、今夜は眠れない程長い夜になりそうだと、そういう予感がした。
雲間から覗く月に、セリムはティダの亡き愛しい女性へ感謝の祈りを捧げた。彼女の死はティダを苦しめているが、多くを救っている。
命はそうやって巡る。




