セリム王子の外交7
【風車塔 会議室風の間】
激しい雨が窓をガタガタと揺らす。セリムは、チラリとティダの横顔を確認した。アシタカの向こう、空席一つ空けて隣の座席に座るティダは不機嫌そうに頬杖ついている。頭に巻かれた包帯に、先日パストュムのオルゴーが殴って青痣になっている目の上。どうしても痛々しく見えてしまう。
「そんなにこの怪我が気になるならしかと反省しろヴァナルガンド。二度と俺を庇うなよ」
ティダがセリムを見ずに鼻を鳴らした。同じ台詞がもう四度目。わざと庇った訳ではなく、咄嗟に迷った結果だと言ってもティダはずっと苛々している。
ノックと共に風の間の扉が開いたので視線を向けると、息を切らしたアンリが現れた。その後にシュナとカール、そしてクイとラステル。ティダが頬杖を止めて背筋を伸ばしていた。
「案内ありがとうございますクイ姫。アンリ、シュナ、大した怪我をしてない。ったく顔の怪我も治っていないのに今度は頭。目立つところばかりで面倒だな。アシタカの野郎が大袈裟なんだよ。全く問題無い」
ティダが優しく微笑んで、アンリを見つめた。
「巨石が飛んできて頭にぶつかって酷い大怪我って……」
アンリが心配そうにティダの頭の包帯を見つめた。ラステルも絶句している。シュナの顔色も酷く青ざめている。
「小石の間違いだ。話が捩くれたんだな。おい、ヴァナルガンド。この表情、お前のせいだとしかと心に留めろ。二度と俺を庇って邪魔をするな。力量を見誤って采配の邪魔をするなど直下失格。いいか、二度とするな」
ティダが凍りつくような睨みをセリムに向けた。
「す、すまな……い……。気をつけ……」
「あ"あ"?二度とするなと言ったら二度とするな。嫌なら俺より上になれ」
全身から怒りを発しているティダに、セリムはそれ以上何も言えなくなった。ティダが立ち上がって入り口に近寄っていった。飛んできたのは小石なんかでは無いとはとても言える空気ではない。大怪我は、確かに話が捻じ曲がっているのだろうと思った。
「シュナ、入れ。クイ姫、案内をありがとうございました。また妻をよろしくお願いします。ラステルも頼む。だからそんな顔をするなアンリ。包帯が大袈裟なだけだ。月狼、付き添って欲しい。それから正確な話を伝えて貰いたい。ヴァナルガンドは杖で歩け」
ティダがアンリの頭をとても優しい手付きで撫でた。セリムの背後に伏せていた月狼がアンリに近寄っていって、体を包むように寄り添った。
〈心配するなアンリエッタ。フェンリスは俺達よりも石頭だ。人の生活に従って包帯をグルグル巻かれているが、本来必要ないくらいだ。ヴァナルガンドに庇われたことの方が辛く動揺激しいようなので、後で慰めてやってくれ。そんな顔をしているとフェンリスが辛くなる〉
アンリがティダと月狼を見比べてから、悲しそうに微笑んだ。
「ティダ、本当に大丈夫?」
「見ての通りピンピンしている。ったく久々に血を流したせいかスコールと上手く話せんな」
ティダがまた優しく笑って、アンリの頭を撫でた。アンリが一瞬セリムと目を合わせた。ティダはまだ月狼の言葉が分からないらしい。ティダがシュナを室内に促して、月狼とアンリを外に出してから扉を閉じた。閉ざされる扉の向こうで、ラステルが「大丈夫ならお茶を用意してくるわ」と月狼の顔を覗き込むのが見えた。
「話っていうのは人を介す程に捩くれる。これの何処が大怪我なんだよ」
「5針縫っただろう?それに頭だから今は大丈夫でもだな……。嘔吐や目眩、いや何か少しでも変なら直ぐに言え。それこそセリムに言っているように絶対に直ぐに言え」
アシタカが心配そうにティダを見上げた。
「当たり前だろう?痩せ我慢して死ぬかよ。今は全く問題無いから問題無いと言っているだけだ。シュナ、一体どんな話になっているんだ?」
ティダがシュナの背中を押しながら大きくため息を吐いた。
「セリムさんを庇って巨大な岩が頭に直撃。それなのに怪我人の確認をしたりして方々動き回って、倒れてしばらく意識が無かったって……」
シュナが震えた声を出した。今にも泣きそうに大空色の瞳を潤ませている。
「最悪だな。倒れていないし、意識もあった。そして軽傷だ。ヴァナルガンド、何もかもお前のせいだ。しかと心に刻み反省しろ。二度と俺を庇うな」
もう何度目かのティダの叱責にセリムは身を縮めた。同じことを何度も何度も、月狼が言っていた通りティダはかなり動揺しているらしい。ティダがシュナをアシタカの隣に座らせた。アシタカがシュナにティダの怪我の様子を説明しはじめた。
「約束出来ない。わざとじゃない。咄嗟に迷って、体が動かなかったんだ。しかし悪かった。本当にすまなかった。気をつける」
「その顔、まあ許してやるか。俺は基本的にお前の事を許すしかない。で、あの鼻高王子とヘソ曲げ小僧はまだかよ。ったく、目上を待たせるとは蹴り上げ足りねえのか?」
まだ約束の時間よりも随分早い。それに災害のせいで、アスベルの手がまだ空かないのかもしれない。
再び扉が開いた。今度はノック音はしなかった。
「本当にいらした。ティダ皇子が大怪我をしたのに会談をすると聞いてきたのですが……」
勢い良く入室してきたアリババがティダの姿を見つめて、困惑したように落ち葉色の瞳を揺らした。息を切らして、慌ててやってきたという様子だ。
「倒れていないし、意識もあった。そして軽傷。隣の隣に主治医もいる。どいつもこいつも何なんだ。見れば分かるだろう?」
ティダが頭の包帯を指差した。しかしその包帯こそが痛々しい。アリババが眉根を寄せた。後ろからアラジン、そして三人の従者が現れて、アリババと似たような台詞を告げた。アスベルはいない。ティダが舌打ちして同じ言葉を吐いた。
「面倒臭いな。街に出て否定するべきだな。よって俺は退席する。おい鼻高王子、どうせアシタカについて調べ回っただろう。裏切りは万死。俺はこの国でやる事があるので、バシレウスを代役に立てる」
アリババの体に小さき王が巻きついた。
〈だからアングイスだエリニース!しかしバジリスコスが従えと言うので従う。蛇の王の従者の監視役は重要任務〉
アリババが恐怖に引きつった表情になったが、手を出そうとするアラジンや従者を手で静止した。
「俺は貴方の人柄がサッパリ分からない。しかし身を呈して人を守る者を信頼しなければ、誰も信じられない。この蛇を受け入れよう」
〈蛇ではない!アングイスだ!バジリスコスの命令でなければ侮辱罪で噛むところだ!まあ下等なので噛むにも値しない。脅しだけしてやろう〉
小さき王がアリババの顔面に噛み付くように、威嚇体制を取った。
「蛇一族のアングイス。名は小さき王バシレウス。アングイスの王バジリスコスの倅だ。単なる爬虫類の蛇なんかと一緒にして侮辱罪で噛みたいところだが、あまりに下等なので脅しだけにするという。知性見抜けぬ愚かな目。蛇一族に認められもせぬ小物だから仕方ない。俺はお前が好かん」
ティダが呆れたようにアリババに軽蔑の目を向けた。アリババの頬が引きつった。ティダの声は静かで、淡々としていた。わざと威圧的に告げるよりも、遥かに胸に突き刺さる言い方だった。おまけに演技でも、扇動でもなく本心だと伝わってくる雰囲気なので場が凍りついた。
「ヴァナルガンドすら御せぬのに、鼻高王子なんぞまで背負えるか。アシタカ、ヴァナルガンドという荷は重そうなので俺を使うのは諦めろ。折角荷を減らしたんだ。俺の代役はバシレウスにしておこう」
ティダが今度はアラジンを見つめた。子供を見るような温かな瞳だが、それが返って見下しているように感じる。
「子狼のヘソ曲げ小僧に言うことは無い。子狼は自由に好きに生きよ。上を選ぶ権利がある」
アラジンが訳が分からないというように困惑を見せた。セリムもティダの発言の真意が分からなかった。アシタカが何か言いかけたが、ティダは有無を言わせないというように拒否の空気を纏って部屋を出ていった。
アシタカが目頭を指で押さえた。
「いつもいつも場の空気を奪いやがって……。アリババ王子、セリムやシュナが背中を押したのもあるが、僕はティダに対抗するように外界に飛び出した。あそこまで突き抜けたいのだが、何もかもが力量不足。よって僕は人と協力するしかない。午前中の会談でも言ったが、助けて欲しいのです」
アシタカが苦笑いしながら立ち上がった。それからアリババ達を椅子へどうぞと促した。小さき王がアリババから離れて壁際に移動した。アリババが複雑そうな表情で着席した。アラジンや従者も続いた。
「力量不足とは謙遜が過ぎやしませんか?ティダ皇子の指摘通り、貴方の国の方やドメキア王国の方に話を聞きました。いや、私にそういう機会を与えましたね。アラジンには別件の話まで」
アリババはほんの少しだけ眉間に皺を寄せてアシタカを見つめた。アシタカがニコリと微笑んだ。
「議題は何故戦争など起こるのでしょう?どうしたら多くの者が豊かさと平和を享受できるのかです。論点をズラしたり、場をかき乱さないように。では前回発言が無かったアラジン王子から提案をして貰いましょう」
アシタカが黒板にチョークで議題を書いた。それから「多くの者が豊かさと平和を享受する方法」という議題の方を掌で示した。問いかけられたアラジンが視線を彷徨わせた。
「アシタカ殿。貴方はもう……」
「アリババ王子。僕はアラジン王子に意見を求めました。貴方ではありません。アラジン王子、僕は倣え右なんて求めてません。君の個人的な意見を聞きたいのです。今日、色々と話してくれたでしょう?」
アシタカはアリババを一切見なかった。アラジンへ温かい眼差しを向けている。
「私は豊かでない貧しい者が減れば、今より良い国になると思ってきました。なので直接本人達の声を拾い上げて、一つ一つ不満を潰していけばいつか大きな変化になると考えて街へ出ていました」
アシタカが従者の一人に視線を移動した。確かいつもジャルーシャ王の真横にいた男だ。名はミケランジェという筈。
「ミケランジェさん。アラジン王子の考えは僕と似ています。遠くから眺めていても物事の本質は分からないという主張です。アラジン王子は王や王太子が国政担うからと、別の道を模索してきていたようです。間に立っていた貴方は良く知っているでしょう。ではミケランジェさん、貴方は何か思いつきます?」
一度も自己紹介をしていないのに、アシタカはミケランジェの名を知っていた。質問されたミケランジェが僅かに目を丸めた。
「間に立っていた?ミケランジェはアラジンの世話……」
「アリババ王子。僕はミケランジェさんに問いかけました。貴方ではありません。同じ忠告をさせないで下さい。そんなに前に出たいのなら、議長を変わりましょう。僕は議論出来れば議長でなくて構いません。よろしくどうぞ」
アシタカが「さあ、どうぞ」とアリババを立つように掌で誘導した。アリババがうっすらと不愉快さを顔に滲ませた。
「いえ。アシタカ殿を差し置いてなど畏れ多いです」
「ならセリムに頼もう。僕はセリムをとても信頼して見習っています。セリム、怪我した足が痛むだろうから、座ったままで良いので進行役を頼む」
突然の頼みごとに、アシタカの微笑みに、セリムは一瞬言葉を失った。
「私、アシタカ様の代わりがセリム様ならこのまま会談に参加します」
アリババが議長なら、シュナは退席するという意味だろう。シュナがにこやかに笑いながら、鋭い光を帯びた瞳でアリババを見つめている。アリババは隠しているが、目元が痙攣したので動揺したと伝わってきた。
「指名されたので僕がアシタカの代わりを務めます……。アリババ王子がずっとアシタカの意見を聞きたいようなので、アシタカから話をお願いします。アリババ王子、一つ目と二つ目どちらが良いです?」
セリムの問いかけにアリババは「両方で」と小さく、ハッキリと答えた。アシタカがまた立ち上がって、黒板の前に出た。
「何故戦争など起こるのでしょう?僕が思うに他人よりも自分の身を第一に考えるからだ。貧しければ奪え、富が欲しいから奪え。憎悪、悲しみ、報復心。それに共通の敵がいれば団結出来て不都合なことから目も逸らせる。戦争は時に儲かる。争いが楽しいと思う者もいるだろう。これはもう人類の本質と脳の構造的問題です」
アシタカが黒板に書いた一つ目の議題の上に線を引いた。
「争いは無くならない。歴史が証明しています。なら僕は国同士の争いだけは起きないような仕組みを作りたい。ペジテ大工房は民主主義なので国内にはもう議員達がいる。決議議案が人権侵害や愚行なら大技師に棄却件がある。かつて大陸中を破壊し、蟲森さえ産んだ古代のペジテ大工房は最も反面教師にするべき存在。祖先は過剰な文明を領土外へ出すことと、外界への欲を禁じました」
アシタカが自席に戻ってきて、鞄から資料を出した。シュナ以外に資料を配っていく。渡された瞬間、アリババが資料を手に取って読み始めた。
「議題一は議論する価値も無い。回答が分かりきっている。午前中のうちにシュナが話した通りだ。では議題二。大まかに抜粋ですが、それは我が国の民向けに配布する資料です。古代のペジテ大工房はあまりにも残虐非道だった。これでも蛮行の内容は少し減らしていますがね。信心深い者がショック死すると困る。僕の主張としては、これを償え」
ペジテ大工房の現在の伝承と、大技師が隠してきた真実が交互に並んでいる。分かりやすく絵も描いてある。
「国民は僕を疑うだろう。地下遺跡を少し公開するつもりですが、間違いなく不審と疑心で耳を閉ざす。しかし人は真実を求める。真実を知っているのは誰でしょう?」
不審と疑心という言葉の時にアシタカはアリババを見下ろした。アリババは資料を読み込んでいて気がつかなかった。アシタカが、真実を知っているのは誰でしょう?と発言した時はセリムを見ていた。
「アシタカ、蟲一族だ。そして蛇一族も。それに東の地は古代ペジテ大工房の手から流れた民が築いた地。彼等の協力があれば歴史を掘り起こせます」
アシタカがセリムにニコリと微笑んだ。
「ペジテ大工房には巨大武力があるが、他国にはペジテ大工房を非難する材料がある。探せば探す程見つかる。ペジテ大工房が他国を過剰に侵害すると、戦争を仕掛けると、蛇一族が止めると約束しました。詳細は当事者同士の秘密です。有利なのは内外どちらの国でしょう?外界だ。よってペジテ大工房は非難されない材料を早急に作らなければならない」
資料に大蛇蟲の王と小蛇蟲の王の絵があった。二匹の王の前にはアシタカ。そしてシュナ。古代からのドメキア王国と蛇一族との関係と、ティダが話した三竦みのことが簡単に記されている。
「セリムは歴史を掘り起こして、良いところは真似し悪しきは反面教師にするそうです。それから異種族との相互理解に境界の線引き。セリムは歴史、そして生物学者になります」
少し違うと言いたかったが、今手元に何も持ってきていないので発言を止めておいた。家族にもまだ説明していない上に、ラステル、シッダルタ、フォン不在のまま勝手に話す訳にはいかない。セリムは小さく頷いておいた。
「このままではペジテ大工房はいつかセリムの思想に蹴り上げられ、追い詰められます。その前に手を打たねばなりません。議題二への僕なりの答えが大陸連合です。大陸平和と安全の維持、経済・社会・医療・文化などに関する国際協力の実現」
大陸連合の概要が資料に載っている。アリババが資料から目を離した。アリババが口を開く前にアシタカが続けた。
「しかし実現しないと困るので、国境を越えた医療支援機関設立もしたい。他国に友がいれば争いの抑制になるかもしれない。よって異文化交流もするべきだ。政治的にも美術、文学、音楽、スポーツなど戦争ではなく文化で対立すれば良いと思います。他国の技術や文化を持ち帰りより良い国を作る人材教育の支援として、留学支援機関の設立。自国も含めて各国の生活、教育水準も上げたい。本当ならセリムの全面的支援もしたい」
アリババが資料から顔を上げると、アシタカが肩を竦めた。
「この身一つ、手足は二本ずつ。国内に7つ、僕が理事を務める機関がありましたが全部後進に譲りました。大陸連合以外の企画、提案も他の者に託しています。しかし体が足りないです。そして僕の個人的意見よりも有意義な意見を持つ者、指導力や実行力がある者も大勢います」
アシタカがゆっくりと歩き出してセリムの横に立った。
「セリムは蟲一族や蛇一族、大狼と話せます。異種生物との交流や歴史の研究をしたいと色々と考えているそうです。きっといつか僕が望む鮮やかな未来と交差するでしょう」
アシタカがまた歩き出した。今度はシュナの肩を叩いた。
「先日僕の妻となったシュナ。彼女はとても記憶力が良くてドメキア王国に絶対な影響力を持つ。なにせ生き様見せてドメキア王国で聖女と呼ばれるようになった女性だ。目指すものが同じなので僕の真横に立ってくれるそうです」
シュナが「ええ」と小さく返事をした。アシタカが嬉しそうに微笑み返した。その後アシタカは大きく深呼吸して、不機嫌そうに顔を歪めた。
「逃げられそうだが、ティダ皇子。ペジテ大工房、ドメキア王国、ベルセルグ皇国、崖の国に恩を売っています。セリム同様に蟲一族、蛇一族、大狼と繋がり話せるどころか、ティダ皇子はセリムと違って各一族の中で高い地位を有しています。何処にいても世界の中心となる圧倒的存在感と行動力。理不尽でも抗えない。腹立たしいくらいです」
アシタカは鼻を鳴らすと、穏やかな笑みを浮かべた。また歩き出した。ぐるりと机を迂回して、今度はアラジンの背後に立った。
「アラジン王子は国境を越えた医療支援機関に興味があるそうです。今まで似たようなことをしてきたからですね。エルバ連合の筆頭ボブル国の王子。肩書きは十分です。人道的支援は国や個人の名誉を高めます。医療従事者の中には高みを目指す者が多く、ペジテ大工房ではずっと国外支援をしたいという要望がありました」
アシタカがアリババの背後を通り過ぎて、黒板の前に戻った。
「僕は、自分の理想が机上の空論で終わるのが悔しいです。しかし身を粉にして働いていても限界がありました。いつか国外へ、そう思っていた矢先に侵略戦争を仕掛けられた。おまけに、ペジテ大工房で至宝とまで賞賛して貰えている僕に、こう言う者がいました」
アシタカが一度目を瞑ってからゆっくりと呼吸をして、目を開いた。穏やかに、どこか懐かしそうに微笑んでいる。
「この世の汚濁を知らぬ無知な愚か者。権力も武力もあるのに何もしないクソ野郎。目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めているんじゃねえ。アリババ」
アシタカが低い声を出して、アリババをジッと見つめた。アシタカは懐かしそうな眼差しだが、つい最近の話だ。おまけにアリババ。
アリババが勢い良く立ち上がった。
「グルド帝国は間も無くエルバ連合へ戦争を仕掛けてくる。もう開戦したかもしれない。ペジテ大工房と蛇一族が後ろ盾となったドメキア王国への侵略は困難だからです。あの国は情報入手が早いからドメキア王国の革命や騒動を多少なりとも知っている筈だ。なのにアリババ王子、貴方は何もしていない」
「何もしていない?心外です。こうして国を背負ってアシタカ殿に会いにきました」
アリババの視線はアシタカを睨むようだった。
「その反抗的な目。何となく気に入らない。アラジン王子は医療支援に賛同して親愛寄せてくれると動き出したのに、こそこそ嗅ぎ回っているだけ。そんな男が次期王なら、手を組みたくない。飢饉だというので食料支援も準備していたが撤回。飢えを我慢する我が民の真心に相応しい国が他にあるだろう」
アシタカが席に戻ってアリババから目を逸らした。おまけにアシタカは退屈そうに右手の指を擦った。
「まあ。アラジン様が王なら考え直します?」
シュナがわざとらしく、クスクスと笑った。アリババは隠そうとしているが、青白くなった。
「まさか。アラジン王子は王の器ではない。亡命させて僕の腹心にしよう。大陸中へ医療支援をするのにとても役に立ってくれるに違いない。ペジテ大工房とボブル国が敵対しない理由になるので、断らないと思う」
「敵対?そんなつもりありません!だから会談したいと、いつ来るかも分からないアシタカ殿に会うために崖の国に来ました」
アシタカがわざとらしい大きなため息を吐いた。
「嘘を暴いてやる?手を組むのに相応しいか見定めてやる?お茶まで淹れさせて、覇王に随分尊大な態度だ。僕はてっきり敵対しにきたのかと思った。それがボブル国流なのか?同じエルバ連合の国でも崖の国とは随分違う。僕はセリムの推薦だからここまで我慢した」
アリババが更に青い顔に変わった。
「アシタカ、手を取り合おうというのにわざとこんな事を言うな。アリババの欠点を指摘するのにこんな回りくどいことをするな。君はもうアリババを隣だと決めている。これでは君が嫌がるティダのやり方と同じだ」
アシタカが立ち上がってセリムに苦笑いをした。
「そうだ。僕は手段を選びたい。しかし無理なら嫌な手も使う。ドメキア王国を武力で脅迫したようにだ。グスタフ元王は即座に判断した。全て要求を飲むとね。僕は自分の信念に権力を振りかざすことにしている。手段は問わない。僕の背後にある権力を舐めて貰っては困る。東の地など僕の気分次第で血の海、焼け野原だ。いいかアリババ、今君の背に乗るのはエルバ連合全ての国だ」
アシタカがアリババを睨みつけた。セリムはアリババに「早く謝れ」という口を作ったが、アリババは放心している。
「アシタカ殿、兄は同世代の者があまりにも高みにいるので悔しかっただけです。反抗心ではなく対抗心で……常に己を高めようとする勤勉家なだけなんです。悪気は無く、むしろ尊敬故です!」
アラジンが立ち上がって「すみません」と頭を下げた。
「尊敬?尊敬ならセリムのような目を向けてくれる筈だ。お前のような胡散臭い青二才。顔にそう描いてある。そしてアラジン王子。兄のアリババは謝る必要が無いのに、そういう顔をしているが?」
アシタカがアリババへ近寄っていった。アリババの方が背が高いので、アシタカが見上げる形になる。アリババは必死で動揺を抑えている、そういう風に見えた。
「僕の最大の大駒、ティダ・ベルセルグがお前のせいで逃げていった。ティダは好き嫌いと優劣で動く。あいつを僕の真横に戻すか、同じ巨大権力と特大の能力を僕に与えろ。見返りはボブル国の豊かさと平和だ。欲しければ僕に生き様見せろ。猶予は結婚式典までだ。国の為に直ぐに頭を下げられない、己の高い鼻を恨め。ティダなら内心激怒でも床に頭をつけるくらい頭を下げ媚びへつらうぞ鼻高王子。今日、大橋で見本を見せてもらったじゃないか」
アシタカの静かな怒り声にアリババは何も言わなかった。いや、何も言えないのかもしれない。
「アリババ、違うなら違うと声に出せ。僕はアリババがアシタカを軽んじたり、ましてや見下したりしないと知っている。アシタカ、アリババを追い詰めないで欲しい」
アシタカは返事をせずに、アリババを睨みつけている。アリババは固まったまま。静まり返った風の間に、軽快なノック音が響いた。
「失礼します。紅茶と一緒に美味しいロモモのタルトを用意していたら遅くなりました」
呑気そうなラステルの声がした。扉を開けたのはクイで、ラステルはティーセットを乗せたお盆を持っている。ラステルが入室すると、ハンナも現れた。お盆に美味しそうなタルトが乗っている。
「ありがとうございますクイ姫。ラステルとハンナもありがとう。本日の会談は終わりなので、皆さんを労って貰えると助かる。僕はユパ王とまた話がある。例の祝いの件だ」
アシタカがラステル達に微笑みかけて入り口へと歩いていった。先程までの怒りは、もうどこにも見当たらない。穏やかで優しい、陽だまりのような笑顔。本当は怒っていなかったと、ハッキリ伝わってくる。
「行儀が悪くてすみませんクイ姫。では僕は先に失礼します。ラステル、シュナとまた仲良く楽しく過ごして欲しい。君と居たくて仕方ないらしい。君もそうだろう?妬いてしまうくらいだ」
アシタカがタルトを手に取って頬張り、そのまま部屋を後にした。「美味いなこれ」というのんびりした声を残して。
クイは部屋を見渡して場の雰囲気の悪さを察したようだった。しかしラステルはそんなことはなく、ニコニコと紅茶を配る用意を始めた。ハンナも動揺しているので、ラステルだけが空気を読めていない。
「アシタカお兄様はいつか働き死してしまうわ。きっと病院と薬草園の視察に行ったのでしょう。後で行くと言っていたのを聞きましたもの。観光だから遊びだと言うけど、シュナお義姉様に心配をかけさせない為ね」
ラステルがテキパキと紅茶とタルトを用意していく。クイに目配せされたのでセリムはラステルに近寄った。ラステルを止めようとしたのに、タルトが乗った皿を満面の笑みで渡されたので何も言えなかった。
「ロモモのタルトとは美味しそうね。私も作れるようになるかしら?」
「ええシュナお義姉様。ハンナが覚えてくれましたから教わってくださいね。アシタバの民がきっとロモモの実を届けてくれます」
ね、セリム。ラステルがそういう信頼の眼差しをセリムに向けた。セリムは思わず首を縦に振った。
「アリババ王子もアラジン王子も甘いものが好きだと聞いています。ロモモが苦手ではないと良いです」
ラステルがアリババに微笑みかけた。一気に状況が変わったからか、アリババは我に返ったようだった。しかし、顔色が酷く悪い。
「きっと好きだと思う。ありがとうございますクイ姉上。そしてラステルとハンナ。話のキリが良く、小腹も空いたところだった」
セリムはアラジンに目配せした。アリババが先にラステルにぎこちない微笑みを投げた。
「とても美味しそうな匂いですね。ロモモとは聞いたことが無いですが、ペジテ大工房で採れる果物です?」
「いいえ。親しい者からの頂き物です。祖国とエルバ連合が仲良く豊かになるのが嬉しいと、お祝いに貰いました。先にお祝いをしてくれるんです。アシタカお兄様とアリババ様がセリム様を介して仲良くなりますからね」
ラステルのこの台詞はセリムの胸に突き刺さった。ついさっき、仲良くなるのと反対の事が起きたばかりだ。アリババの笑顔が引きっている。
セリムがラステルを手伝って、紅茶とタルトを配っているとアリババがラステルの隣に並んだ。
「ラステル姫、私は少々アシタカ殿を怒らせてしまいました。謝りたいのでセリム王子と共に間に入って頂けますか?このままではセリム王子の顔に泥を塗ってしまいます」
ラステルがキョトンと目を丸めた。
「怒る?全然怒っていない顔でしたよ。怒るとここに青筋が浮かんで怖いんです。あんなに優しいのに、急に言葉も汚くなるんです。きっと別人が中に住んでいるんだわ。夫が怒られた時はもう怖くて仕方なかったです」
ラステルがこめかみを指で示して、少しだけ体を震わせた。ドメキア王国でアシタカがセリムを罵倒した時のことを思い出したのだろう。アリババが困惑したように、セリムを見た。
「多分、そうだと思う。アシタカはアリババを試しているだけだ。あそこまで言われて、どう対応するのか。気分は悪いと思うが……」
「正式会談ははアシタカ様の国で行われます。西の至宝に対する非礼の数々。続くと多くの民に非難されますよ。アシタカ様の背後にはペジテ大工房だけではなく、ドメキア王国の民とベルセルグ皇国の奴隷達がいます」
シュナがラステルから受け取った紅茶を優雅な手付きで飲んだ。
「非礼の数々とは、そのような謂れのない……」
「忠告ありがとうございます。誤解を受ける表情なのかもしれない。手鏡で確認させて下さい。人を諭すようなつもりはないのに間違って伝わると困る。セリム様はこう言いましたよ。今のアシタカ様の権力を考えると誰もが格下です。常にアシタカ様を立て謙虚に振る舞うべきです。ティダのように突き抜けても良いですけどね。嫌ならご自身が時代の先陣に立つ」
シュナがアリババの言葉を遮り、セリムを見上げた。シャルル王子との話を聞いて貰ったので、手鏡の件ならその事だろう。
「まあ、シュナお義姉様。途中で話を遮ってはいけません。それにセリム様は変わっているの。話し相手が、いちいち手鏡で表情を確認したら怒るか呆れてしまうわ。会話にならないわよ」
ラステルにクスクスと笑われて、セリムは肩を落とした。
「そうだラステル。その通りだ。シュナさん、どうして僕にそう指摘してくれなかったんです?」
「申し訳ありませんでしたアリババ様。ラステルの言う通りでした。すみません。セリム様は結局手鏡は持ち歩いていませんので、そのぐらい気をつけたいという意志の提示かと思っていました。まさか本気だとは」
シュナがアリババに頭を下げ、それからセリムに向かってクスクスと笑い声を立てた。面白くない状況だが、ラステルと目を合わせて何か通じ合うように笑い合うシュナとラステルが可愛くて怒る気になれない。嫌味に皮肉なのに、シュナを何だか憎めないというのは彼女の新しい、そして強力な武器だ。
全員に紅茶とタルトが用意されたので、セリムは席に座った。ラステルがシュナの隣にハンナを座らせた。
「色々支度がありますので、お客様のおもてなしはラステルに任せます。不束な妹ですが、目一杯の親愛を込めますので何でもお申し付け下さい」
クイが全員と目を合わせて、最後にラステルに微笑みかけると会釈してから部屋を後にした。ラステルが嬉しそうに、そしてやる気に満ちた顔でセリムを見た。それからまだ立っているアリババとアラジンに椅子を引いて、さあどうぞと座らせた。
「難しい話をして疲れたと思います。甘いもので癒して下さい。紅茶のお代わりはお申し付け下さいね」
ラステルに微笑みかけられたアリババとアラジンが、戸惑いながら着席した。ラステルが黒板をジッと見つめて、両腕を組んでしかめっ面になった。
「とても難しい話だわ。毎日、毎日、色んな人がうんと沢山考えているのに解決しないんですもの。アシタカお兄様がこんな分厚い書類を作って、難しい取り決めを作っても穴だらけって言っていたわ。シュナお義姉様なんてずっと国の為に働いていたのに、もっと働くというの。やっぱり働き死してしまうわ。監視とお手伝いが必要だわ」
ラステルが目を細めて黒板を見つめている。ラステルの顔に、自分がシュナを助けるのだと描いてある。目にも強い決意が宿っている。
「ラステル、君も座ったらどうだい?」
「はい、セリム様」
ラステルがにこやかに返事をして、セリムの隣、アシタカが座っていた位置に腰掛けた。
「あの、お妃様はどう思います?どうしたら多くの者が豊かさと平和を享受できるのか」
アリババが何故ラステルに問いかけたのか、セリムには不思議だった。アリババは愛想笑いを浮かべている。今はしっかりと演技出来ているように見えた。
「日々の生活に追われてそんな事を考えた事もありませんでした。なのに忙しくても考えられる方は考えられる。同じ人なのが不思議です。でも助けが必要だって知っています。賢くて、素晴らしい事をしてくれる人を支えて手伝えば、きっと明るい未来が訪れる。私はお喋りと料理が得意なので、出来ることで役に立ちます」
ラステルの返答にアリババは特に表情を変えなかった。嘘臭さはなく、これが本来のアリババだとセリムは思い至った。しかと自分を隠して、場に相応しい振る舞いが出来る男。
アリババはアシタカ達に最初から潰されていたのだと思い至って、アリババに対して申し訳無くなった。知人であるセリムが、三人と対面側に座るのが嫌だったのだからアリババはもっとだろう。おまけに背中にはボブル国だけではなく、エルバ連合が乗っている。
「賢くて、素晴らしい事をしてくれる人とはお兄様のような?」
「そうです。それからシュナ義姉様、ティダ皇子。夫のセリム様も励んでます。アリババ様も自国で王の修行だけでも大変なのにセリム様を支えてくれて、崖の国を助けてくれていたと聞いています。これからは国民だけではなく、もっと大勢の人がアリババ様を支えるので安心して働いて下さい。アシタカお兄様がエルバ連合を支援して、逆もするから、良いことがぐるぐる巡っていくわ」
アリババが虚を突かれた、というように目を丸めた。セリムもこれには驚いた。ラステルがここまでアリババへ自分の意見を言えるとは思ってもみなかった。ラステルはアリババを尊敬の眼差しで見つめている。これこそセリムがやるべき仕事だった。
「そうですねラステル。ボブル国以外にも慈悲を与える方は援助しなければなりません。恩には恩。善行には善行が返ってきますもの。焼け石に水でしょうが、今頃ボブル国にいくばくかの食べ物が届いていたり、隣国にまだ起こっていない侵略戦争への停戦嘆願書が届いたり、そういう事です」
アリババが大きく目を見張って立ち上がった。セリムも自然と立っていた。アシタカはそういう男だ。やる事なす事、素早く、自らの行いをひけらかしたりしない。むしろ何故か隠す。シュナがアリババに優しく笑いかけた。
「アシタカ様は個人的な好き嫌いや、怒りで慈善活動を止める方ではありません。ボブル国が突っぱねようが、戦争を止めようと手を回し会ったこともない他国の民を助けようとします。敵国のベルセルグ皇国やドメキア王国の民の為に殺されかけました。だから私、アシタカ様と心中します」
シュナが手元のティーカップを、いや指輪の無い左手の薬指を見つめた。折角作ったのに、アシタカに奪われたと怒っていた。結婚式典まで短期間なのに外しているのが相当嫌らしい。シュナがアリババを見上げた。
「それなりの態度にはそれなりのものが返ってきます。信じるのは難しいですが、先に信じなさい。亡くなられたアシタカ様の父上の教えだそうです。先に親愛示し、見えないところでも手を回していたのは何故でしょう?何て言っていました?」
アリババなら答えが分かっていると思ったが、セリムは口を開いた。
「アリババ、アシタカは助けて欲しいと頼んでいた。何度も君に告げた。一緒に考えて欲しいと。君は何一つ提案していない。怒った振りまでして君から支援の提案が出るのを待っている。公の場でこう言いたいからだ。アリババ王子がわざわざ密会しに来て、エルバ連合とペジテ大工房の架け橋になると……」
セリムが言い終わる前にアリババが風の間を飛び出した。追いかけようとするアラジンに、シュナが「行ってはなりません!」と強く叫んだ。足を止めたアラジンにシュナが近寄っていった。
「これは単なる事前練習です。気負って駆け引きが出来ないと不利になりますからね。アラジン様は役不足ですのでここに居てください。兄弟格差は歴然。しかしそんな事は問題ありません。適材適所。奉仕心強く、協調性もあるアラジン様は兄上とは別の方法で高みに登るでしょう。今後の仕事の為に、私に見惚れない練習が必要ですね」
シュナがアラジンの胸に手をついて、そっと胸元のシャツを引っ張った。それから頬に軽くキスした。
「アシタカ様の提案を突っぱねて、セリム様の支援をして下さるとドメキア王国はボブル国に親愛寄せます。ペジテ大工房の心はアリババ様が捕まえるでしょう。アシタカ様を立てつつ袖にする方法を考えましょうね」
真っ赤になったアラジンを無視して、シュナがセリムにウインクした。こうなるともうシュナの独壇場になるだろう。この外交はやはり荷が重過ぎる。美味しい筈のロモモのタルトが飲み込み辛くてならなかった。




