セリム王子の外交6
【崖の国 城塔 応接室】
セリムはシッダルタと共にアシタカを訪ねた。応接室の扉を開いてくれたアシタカはアスベルとアラジンと三人で、和やかに談笑していたように見えた。
セリムとシッダルタはアシタカにソファに促された。セリムはティダがアリババに何をしたのか、それからセリム自身が言い過ぎた話をした。アシタカがティダを放置したのは、セリムに任せてくれたのだと思ったことも話した。
アシタカは優雅にティーカップに口を付けて、黙って話を聞いてくれた。アシタカの穏やかな雰囲気でティダにかなり苛立っていたのが、少し落ち着いた。
「そうか、アリババ王子の高い鼻は折れないで、的を得た指摘に屈辱だと腹を立てたのか。もう少し潰しても良いかもな」
アシタカの発言にセリムは目を見張った。アラジンも驚いた顔をしている。
「もう少し潰す?どういうことだアシタカ」
「アシタカ、もしかしてセリムがアリババ王子に追い打ちをかける事を期待していたのか?」
シッダルタがアシタカに問いかけると、アシタカが爽やかな笑顔で頷いた。
「勿論だともシッダルタ。弟一人上手く使ってやれない。人に頼る事も出来ない。正論に反発だとこの先迷惑だ。セリム、ありがとう。僕やティダの期待通りの働きをしてくれたようだ。次は僕が直々に潰す。丁度良くセリムが僕の企画書を渡してくれたようだし、フォンも使おう」
アラジンが立ち上がって、アシタカを見下ろした。
「どういう事ですか?」
不審と疑心の目をアシタカに向けて、アラジンは唇を噛んだ。
「言っただろう?僕が欲しいのはティダとセリムの代理。アリババ王子ならそのうち変わるだろうが、結婚式典までなので時間が足りない。これまでアリババ王子の鼻をヘシ折る者はいたか?いないだろう。ヘシ折って、踏み潰したら彼なら良い方に変わると僕は見込んでいる」
涼しい顔のアシタカに、アラジンがはっきりとした嫌悪感を示した。アシタカが呆れ顔でアラジンを見上げた。
「言っておくが君は各国の代表と渡り歩くには役不足過ぎる。この僕にそんな顔を向けて、祖国がどうなるのか判断がつかないのか?ジャルーシャ王にはこう言おうか。折角、医療支援の援助をしようと提案したのに拒否された。ボブル国との協定も考え直したい。僕は先に与えるし先に信じる。しかし返ってきたもので判断を変える」
「いえ、すみません。私はただ兄はそのように見下される者ではありませんと伝えたかっただけです。まだ会ったばかりで、語り足りないだけです。先程の話には是非参加させて下さい!失礼は深く謝罪します」
アラジンが頭を下げるとアシタカが顔を上げさせた。アシタカが大きくため息を吐いて、首を横に振った。
「これだ。アリババ王子に足りないものは。議題から逸れたり問いかけに答えない。強い自己主張は場を乱す。ティダ程突き抜けて場を支配するならアリだが、そうではない。味方である君への態度。発言を遮りこいつは無能なんですと言わんばかりとは酷い。まだ会ったばかりの信用して良いのか分からないティダに君が連れて行かれても追わない。庇いもしない。話を聞いたら日頃から君の否定ばかりのよう」
セリムはアシタカがアリババにこのような評価を付けているとは思いもしなかった。アラジンが複雑そうな表情になった。語り足りないだけ、と言ったアラジンへの否定。セリムも同じような事をアリババには感じていたので何も言えなかった。むしろ先程指摘したら、腹を立てて去ってしまったとアシタカに話したばかりだ。アラジンはそれでもアリババを庇った。
「目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえ。それが僕の新しい信念だ。弟さえ助けない男が僕を助けてくれるとは思えない。僕やセリムに激しい対抗心を燃やしているようだし、背中を刺してくるかもしれない。一方、君だアラジン。国民の為になると思えば、猛反対されても励める。思うところがあっても僕に兄の悪い所は語らず、良い所を話して後押し。僕はそういう者が好きだ。ボブル国に親愛寄せる理由は今の所君だ」
アラジンが大きく目を丸めた。アシタカが立ち上がってアラジンの肩を叩いた。
「あの、俺はそんな評価を貰えるような……。生活支援や医療支援といっても全然何も出来ていなくて、街で遊んでいるなどと揶揄されるくらいです」
「それは道が無かったからだ。相談相手もいなかった。しかし、これからは違う。国家規模で動いてもらうのでジャルーシャ王の支援が受けられる。というか僕がそうする。我が国の長官、崖の国アスベル宰相、ボブル国からも有能な人材を出してもらう。大きな事を成すには多くの人材が必要だ」
アスベルが苦笑いを浮かべた。
「私は返事をしていないぞアシタカ」
「先生の長年の夢ですから断りません。万が一断ったら薬草園を管理するケチャ姫ですね。アスベル先生の弟子のゴードンさん。興味を示していましたが師はそっぽを向くんです?」
アシタカがセリムを見つめた。ニコリ、と爽やかな笑顔にどう応えて良いのか分からなかった。この笑顔の意味が読めない。アシタカはいつの間にゴードンと接触したのか?アスベルに崖の国の街を案内して貰った時だろう。
アスベルがまた苦笑いを浮かべた。
「ユパ王と話をしてから返答する。そもそもボブル国、エルバ連合との協定の話もこれからなのに気が早い」
「その件とこの件は別件です。協定が結べなくても、この件を進める方法があると思います。というより進めます。進めています。僕は人材の推薦を任されただけで、この件は僕の仕事外です。結婚式典にてエンリヒ長官が僕が推薦した人材と会談するでしょう」
アシタカが机の上に置いてある書類を指差した。
国境を越えた医療活動
セリムが貰った提案書と同じ題名なので、改定案なのだろう。アシタカの名前ではなく「エンリヒ長官、医師アルベルト」と表紙に記入してある。
「何だ、てっきりお前と共にと思っていたんだが。余計に直ぐには返事が出来ない。しかし、何でもかんでも自分でしようとしていたのに……本当に肩の力が抜けたんだな」
アスベルがアシタカに温かい視線を投げた。
「ええ、僕は色々と人に任せる事にしました。アラジン、僕が推薦するのは有能で立派、という人間ではない。そんなもの後からでもなれる。大切なのはやる気、協調性。あとこの件に関しては奉仕心。アラジン、君はもっと自己評価を上げるべきだ。上に立たないと出来ないことはあるが、地に足つけて同じ目線で語り合うというのもとても大切なことだ。君はそれをしてきていると思う。誇って良い」
爽やかな笑顔のアシタカにアラジンが嬉しそうな表情を浮かべた。
「あの、こんな風に言ってもらったことはありません。王族らしくないとか、もっと王子としての自覚をと言われてきて……。兄はとても立派で俺なんかは……。しかしだからといって何もせずにいるのは嫌でした」
「僕も似たような事をしていた。祖先や父上が偉大過ぎて、反抗して飛び出した。色々とあって目が覚めたし、反抗して飛び出して良かったと思う事もある。人は変わる。人と出会って、何度でも変わる。良くも悪くも変化する。僕と話したことが君に良い影響を与えると嬉しい。僕は単にチヤホヤされるのが好きなんだ」
アシタカがアラジンの背中を叩いた。優しく三回。アシタカとアラジンは一つ違いのはずなのに、アシタカがとても大きく見える。
「では僕はアリババ王子と会ってくる。シッダルタ、君も来るかい?僕の味方は多い方が良い。セリム、君はアリババ王子とアラジン王子の仲直り役だ」
セリムとシッダルタの肩を三回叩くとアシタカは部屋を後にした。シッダルタが少し迷ってから、アシタカを追いかけて行った。
「座るといいアラジン王子。相手に流されて、物事の本質を見逃すのは良くない。この案もまだ内容を把握していないでしょう?」
アスベルがアラジンをソファに促した。
「相手に流されて?アシタカ殿のことは信用ならないと?アスベル殿とは旧知の仲だと聞いたばかりですが」
アラジンがソファに腰掛けて、机の上の提案書を手に取った。
「いや、逆だ。私はアシタカを信頼している。寝る間も惜しんで他人に奉仕し続ける男だ。それこそ批判され、殺されかけてもです。しかしこの件にはアシタカは不在。このラジープ長官や医師アルベルトとはどんな方なのか、そしてアラジン王子も私も立場的にペジテ大工房と国の間に立たねばならない。アシタカの推薦ということは、国の為に顔を立てないとならないので断り辛いぞ。相手に不要と言われるのも大恥だ」
アラジンが自信なさげな顔付きになった。セリムにはアラジンはどことなくアシタカに似たところがあると思うので、アシタカやアスベルが支えるならば問題無いように感じる。これまでの孤軍奮闘とは違う。
「アラジンなら出来……」
「セリム。出来る出来ないではなく、先程アシタカが言っていたように猛反対されても進む気概があるのか?そういう話だ。アシタカも人が悪い。従者を外させる。国家規模の話で国同士の調整役の依頼なのに、自分を少し手伝ってくれないか?という誘い方。アリババ王子ととことん対立させようという事だろう」
セリムがアスベルを見つめると、アラジンも目を見張った。
「国同士の調整役……私がですか?アスベル宰相。兄はそんなにアシタカ殿に低評価なのですか?大国の王族の方々と見劣りしなかったと思います。私は発言すら出来ませんでした」
アスベルが腕を組んで、小さく唸った。それから申し訳なさそうにアリババを見つめた。
「アリババ王子を自分の隣に選んだのだろう。残念ながらアラジン王子は不合格。しかし、それでは君の面子もセリムの顔も、何よりエルバ連合の顔が立たない。アシタカはそれでこの話を持ちかけた。君の性格や活動を事前にセリムから聞いた上でだ」
セリムは思わず首を捻った。
「アラジンが不合格?アスベル先生、僕はそうは思いません」
「ジャルーシャ王の代理だぞ?アリババ王子の代わりになるなら次期王だ。そうでないなら徹底的に世話を出来る側近。アリババ王子を導けるくらいの者。今のアシタカならシュナ姫やティダ皇子だ。アシタカの代わりの頭脳、威厳、威圧感。どうだセリム?もっと大きな視野を持て」
アスベルの指摘にセリムはアラジンに視線を移動した。アラジンが苦笑いして、首を横に振った。
「それに王太子を押し退けてアラジンを押し上げるなど、他国を荒らします。アラジンにアリババを導くのは荷が重いです。アリババはアラジンの良いところをずっと見誤っている」
「俺の良いところ?」
「さっきアシタカが言っていた事だ。やる気と協調性。あと批判されても続けられる。王家では浮いていても、色々な人に相談しながらずっと城下で励んでいた。危険な目にも合っていたのも聞いている」
アラジンがターバンの隙間から髪を掻いた。
「セリム。逆はどうだ?どうしてアシタカは大陸和平からアラジン王子を外そうとしていると思う?」
アスベルの目に、しかと話せと描いてあるのでセリムは口を開いた。アラジンの顔を見辛くて、つい視線が下がった。
「萎縮して話せていなかったですし……ティダやシュナさんに完全に飲まれていました。特にシュナさんに見惚れていましたし。元々アラジンは強く言われるとすぐに引いてしまいます。我は通しますけど、説得が上手くないです」
セリムはそろそろとアラジンの顔を見上げた。アラジンは悲しそうだが、その通りだというように首を縦に振った。
「それに兄上と並ぶと俺は何もかも見劣りする。何も敵うものが無い。それにしてもシュナ姫は美しい。この世にあんなにも美しい方がいるなんて。アシタカ殿が羨やましい」
セリムは批判に動じないアラジンに感心した。アリババなど大激怒の様子だった。セリムはアラジンに向かって首を横に振った。
「アリババに敵うものが無い?今さっき話をしたばかりじゃないか。アリババには協調性は無い。時々我が強過ぎる。話を聞いているのか分からない時がある。何に関しても否定から入る。指摘したら反省ではなく君と違って怒った。身に覚えが無いのかもしれない」
アラジンがセリムに信じられないという顔をした。
「僕は常々思っていた。今日も思った。しかし、僕が言うべき事ではなかったから言わなかった。アリババにはジャルーシャ王や側近、世話役がいる。それにアリババにはそれ以上に素晴らしいところが沢山ある。欠点が無い者なんていない。今日はこのままだとアシタカやティダと揉めると思って僕なりに間に立ちたかった。大失敗だ。アリババを怒らせて耳を塞がせてしまった」
アスベルが突然クスクスと笑い出した。
「セリム。お前はいつも長所にばかり目を向けて、尊敬して慕ってくれるから、アリババ王子はセリムに批判されて相当傷ついただろう。身に覚えがあることを指摘されて考えもするだろう。そしてアシタカに接触する。ティダ皇子を探るため、アシタカ本人も見定めるため。セリムが自分よりもアシタカやティダ皇子擁護に回った理由を知りたいだろう」
それでアシタカに感謝されたのか?アスベルの言葉から、失敗していないと伝わってくる。セリムとしては失敗だが、ティダやアシタカの目論見通りというのが正しいか。
「先生……ティダもアシタカも僕やアリババの性格を分かった上で使われたって事ですね。アシタカなんてアリババに何もしていない。ティダに蹴り上げろ、と頼んだだけだ」
「ティダ皇子のやり方や、それを後押ししたアシタカが嫌だったならその時点で手を打つべきだったな。もうそれなりに性格が分かっているのだろう?」
セリムは一度苦言を呈したが、悪いようにしないと思ったことを話した。
「アシタカもあれで中々自信が無いからな。ティダ皇子とセリムに抜けられるのが不安なのだろう。こんなに焦って、アリババ王子をつつくなんてな。ティダ皇子もそれを汲み取っている。アシタカは、アリババ王子がティダ皇子のように突き抜けると困るとも思っていそうだな。若者よ、大いに励め。新しいことをするという事は挫折の連続だ。セリム、間に立つと、大抵どちらかに傾きがちになる。今日のようにな」
ドメキア王国とアシタバの民の間に入ろうとして、セリムは蟲寄りに偏っていた。おまけにやり過ぎは余計なお世話だったと判明して、赤っ恥だった。
「アスベル先生……。僕は大きな背中をいくつも見つけて真似したり、励んでいるつもりなのに、どんどん後退しているようです」
「セリムは張り切ると周りが見えなくなるからな。突き抜けてとんでもない事が起こるから、感心するけど。アスベル宰相、ありがとうございます。この医療支援の事は兄上や父上としかと検討します。まずは崖の国に共に来てくれた従者と話します。私は困難が待っていても参加したいです。しかし個人での参加では役に立てません」
アラジンの図星にセリムは気落ちした。身に覚えしかない。アラジンが「ありがとう」と肩を叩いてくれたが、上手く笑えなかった。感謝されることは何もしていない。
「それでセリム。全く別件の話があるのではないか?」
セリムは小さく頷いた。しかし、こんな状態でセリムは新しい事を初めて、しかと成せるのだろうか?あんなに張り切っていたのに、不安しか無くなってきた。しかし、もうセリム一人の理想ではないので止める気もない。
「アスベル先生。医療支援の話で忙しくなると思いますが、僕も相談に乗って欲しい事があります。アシタカ達とアリババ達の件の後で大丈夫です。急いでいません」
アスベルは優しく微笑んでくれた。
「ジークやユパにも相談するといい。ユパもこれから国外に出るとなると、不安が強いだろう。クワトロも政治など乗り気ではないのに、ラステルさんの村との交渉に精を出している。明後日、研究塔で落ち合う予定なのでついて行ってやりなさい。お前が偉大だと言う相手も、私だって悩みばかりだ。分かち合えば多少は楽になるだろう」
セリムはソファから立ち上がった。帰ってきて良かったことは、この国ならセリムは素直に相談事が出来るということだ。
「大変です先生。急ぎになりました。明後日が来る前に、父上や兄上に僕の理想の話をしないとなりません。アシタカを探して、シッダルタとフォンを捕まえます。それからラステルも」
「おいセリム、せめて明日にしよう。アシタカの為にそうしてやれ。あとティダ皇子についてやらなくて良いのか?アシタカはセリムにその役を望んでいると思うが、どうだろう?優先をつけてみろ」
セリムはまた気が早ったと反省した。
「話は明日で間に合います。それにアシタカやティダにも一緒に聞いて欲しいから確かに今からは無理でした。ティダはなあ……いつになったら己に相応しい言動を伴わせるんだ。ああいうやり方はダメだと何度話せばいいんだ」
アスベルが立ち上がってセリムの背中を押してくれた。
「ティダ皇子は今日よりジークの側仕えなのでジークに報告するといい。あと、他にティダ皇子に苦言を呈せるのはシュナ姫か?」
「はい先生。いえ、ティダにはアンリさんがいます。アンリさんに相談します」
アスベルが何故か苦笑いした。酒場でティダとアンリの姿を見たので、ある程度察しがついているだろうが何か問題があるのだろうか?
「妻の尻に敷かれたくないお前が、ティダ皇子を女の尻に敷かせるのかと思ってな」
「ティダはもうペチャンコです。全然見本になりません。僕はアシタカを真似ます。ラステルが喜び、尊敬してくれて、僕の評価も上がります」
アスベルが目を丸めてから大声で笑い出した。
「それは良い事を聞いた。ジークにも教えてやろうセリム。あの男には手こずるぞ。お前はよくもまあ懐に入った」
「自分ではよく分かりません。シッダルタがティダは自分に懐く弟分に弱いと言っていました。ティダが僕に良くしてくれるのは、僕がいつでもどこでも末っ子になるからかもしれません。僕も妻にペチャンコ以外は、概ねティダのようになりたいです。言動ではなく中身の話ですよ」
アスベルが益々笑い出した。
「そんなにペチャンコなのか?」
「先生も見ていればすぐに分かりますよ。父上の所に行って、アンリさんに相談をします」
「ジークの所には私も行こう。ユパにこの医療支援の話もせねばならん」
アスベルとセリムが廊下に出ると、びしょ濡れの近衛兵ターボが廊下を走ってきた。
「セリム様!風車塔側の手摺が岩と風で壊れました!防護網に何人か落下してしまい、出動お願いします!」
聞いた瞬間、セリムは走り出した。城塔の屋上に急いで向かうと、雨足は酷くなっていて雷雨になっていた。
「いつの間にこんなに……」
びしょ濡れになりながら、望遠鏡で対崖の何処で災害があったのか確認をした。風車塔と観測塔の中間の、崖通路の手摺が壊れている。風凧三機、ボルス、トトリ、エルメラルダの機体が舞っている。
防護網にはまだ六人。向こう側の防護網の留め具が半分程壊れていて、斜めになった網が風に大きく煽られていた。
「あんなに壊れるなんて何年振りだ?被災者は防護網の上で耐えられるか?」
腰に下げていたゴーグルをつけると、セリムは大鷲凧に飛び乗って発進させた。風があまりにも強い。機体を保つのに相当苦労する。防護網にしがみついているのは、女二、男三。一人減っていた。トトリの機体が離れていくので一人救助が終わったのだろう。セリムが防護網に近寄ったのは、エスメラルダが女性の体を抱えた所だった。
「セリム!網が外れている方が先だ!彼女はもう少し大丈夫だろう!」
ボルスに向こうだと指で示された。
「はいボルスさ……」
ボルスの機体がセリムの横を通り過ぎた時、岩が飛んできた。風向きのせいで、同じような場所に岩がぶつかり、手摺が更に壊れた。
防護網の留め具も一緒に壊れ、悲鳴が轟いた。一名、投げ出されたのでセリムはボルスに合図をして追いかけた。エンジンで速度を出して、空中を舞う男性を掬うように抱きとめる。
「カグか!もう大丈夫だ」
平服なので分からなかったが近衛兵のカグだった。大雨と強風なので、非番なのに出動したか、手摺が壊れたので臨時で避難誘導に出たのだろう。
「セリム様!俺よりも早くあの者達を!こんな強風では耐えられません!」
「すぐ向かう!……まずいな」
半分以上の留め具を失った防護網が先程までよりも風に揺れる。早くしないと防護網にしがみついている者が、落下して海の藻屑となるしかし、慎重に近寄らないとロープが機体にぶつかってしまう。セリムはカグを崖通路に降ろしに行った。カグは崖通路近くまで行くと自ら飛び降りた。
機体を翻した時、大橋方面の崖通路に誠狼に跨るティダが見えた。
「ティダ!」
豪雨の壁を貫くように駆けてくる誠狼の力強い姿に、セリムは一瞬見惚れそうになった。
「俺がロープを引き上げる!とっとと行け!」
ロープを引き上げる?言われる前にセリムは防護網へと向かっていたが、一瞬振り返った。ティダがまだ外れていない留め具の方から防護網を引っ張っていく。まずは一本。どれだけの重さになっているのか想像もつかないが、投げ網を巻き上げるよりも早く、軽々とロープを手繰り寄せていく。
「やはり何ていう怪力なんだ」
荒ぶるロープが徐々に減っていく。セリムは次の被災者を救助して、また防護網から離れた。あっという間にティダが外れたロープを全て回収していた。誠狼の九つ尾に何本かロープが巻かれているが、大丈夫なのか?
崖通路に堂々と立つ誠狼の白い毛並みが雨と風に靡いているが、そこだけ光っているように目立つ。隣に立つティダは全身ほぼ黒い服なのに、セリムには浮き上がるように見えた。
防護網がしっかりと張られると、防護網の上を月狼が渡っていった。いつの間にか、来てくれていたらしい。最後の被災者を月狼の尾が捕らえて、崖通路へと戻っていく。
「避けろヴァナルガンド!」
ティダの怒号と、背中からの突風でセリムは振り返った。岩がまた吹き飛んできている。
瞬間。避ければティダに直撃。そう思った。その時、機体がガクンと下がった。思わず頭が上を向き、頬に痛みが走り、岩がセリムの顔上を通り過ぎていった。全身に悪寒がした。
機体が下がらなかったら死んでいたかもしれない。かなりの重量感に大きな揺れで飛び辛い。バランスが上手くとれない。揺れる機体の下から白い毛並みが覗いた。
「スコール君!」
「早く戻れ!良くやった!あとは耐えろスコール!墜落するなよヴァナルガンド!」
ティダの声がしたが雨がさらに降り注ぎ、視界が悪くて禄に見えない。機体下の柄に飛び乗って、機体を下げてくれたのは月狼なのだろう。月狼が機体の下でゆれているのは辛うじて見える。二本の尾で被災者が掴まれていた。
崖通路に行きたいが、風が上手く捕らえられない。距離が近過ぎて、機体が重くて、エンジン使用は危険過ぎる。
風を探して、集中して機体を操作して、何とか崖通路に近寄ったがまだ遠い。
「あと僅かに近寄れ!スコールなら飛べる!」
ティダの絶叫と月狼の吠えが重なった。何とか崖通路へ機体を誘導すると、白い体が宙を舞った。回転するスコールが見事に崖通路に着陸し、被災者を連れてそのまま駆け出した。
「とっおと離れろヴァナルガンド!向こうの山で崖崩れだろう!また飛んでくる!」
ティダがロープを離して駆け出した。肩に二人担ぎ上げている。ティダの忠告通りまた岩が飛んできた。セリムは上昇気流を詠んで大鷲凧を急上昇させた。
強風で大砲の弾のように飛んでくる岩を、ティダの足が払った。人くらいの大きさの岩が砕け、海へと落下していく。今度は誠狼の尾が折れた大きな枝を薙ぎ払った。
ティダ達が開け放たれた崖内通路への扉をくぐったのを確認すると、セリムは更に急上昇した。雨で視界が悪過ぎる。他に被災者がいるのか見当もつかない。
雷がメルテ山脈の向こう側に落下した。雨のせいで風が上手く感知できないが、全身がぞわぞわとしている。セリムは同じく上空にいたボルスと合流した。
【ギャクトップウノカノウセイ】
【ハンハン アカシンゴウ】
セリムもボルスと同意見だった。逆突風が襲ってくる可能性は詠みきれない。確率としては半分、半分。念には念をというボルスの判断で、セリムは発煙弾を崖に向かって撃ち込んだ。緊急を知らせる赤い煙が風のせいで霧散していく。しかし、風車塔、そして城塔、最後に山脈間砦から鐘が鳴り響いた。
〈帰ったお祝いだから風に乗せる。姫の好きなロモ。セリム遊べ!シッダルタとも遊ぶ!遊ばないとバリムとは話さない!〉
不意に大蜂蟲の子の声がした。そんなことしなくて良いと告げても、今は遊びに行かないと話しても、反応が無かった。前回の帰国の時は魚、今度は果物が降ってくるのか?親蟲にも拒絶されているので、また勝手に崖の国に来たりはなさそうだと判断した。しかし、またバリム。馬鹿なセリムの呼び方はもう止めて欲しい。
【イワキケン カンソク ダンネンスル】
【ソレガヨイ】
風向きが変わり、岩が飛んでくる方向が変化している。観測定位置は危険地帯。あまりにも雨が強過ぎて観測どころではない。セリムとボルスは風車塔へ向かった。大鷲凧を停めて、風車塔に入ると一気に脱力してしまった。岩がかすめた頬がジンジンと痛む。
月狼がいなかったら、死んでいた。ペジテ大工房の巨大要塞からの発砲で、銃弾が兜に当たった時のことを思い出した。少しの判断誤りで命を落とす。改めて身が引き締まった。
「大丈夫かセリム。他に被災者が居ないと良いが……ここまで激しいと、もう捜索も困難ですな」
「ええ大丈夫ですボルスさん。僕は救助した被災者の確認をしています。あと崖内の居住区に混乱がないか。ユパ王が来るまで避難状況の確認をしなければ。クワトロ兄上が風車塔内の指揮を取っているでしょう」
セリムはびしょ濡れの服を脱いで、予備の服を羽織りながら階段を駆け下りた。全身が濡れているので寒くてならない。
「観測はこちらでやっておくので頼みましたよ!」
ボルスがタオルを投げてくれた。風車塔内も慌ただしい。一階まで一気に駆け下り、崖内通路を進んだ。円形広場まで行こうとすると、月狼が飛び掛かってきた。まるで体当たりのようだったが、避けて月狼の体を抱えると急に大人しくなった。
〈どうしたスコール君〉
セリムの右腕に抱えられる月狼は萎れていて、返事もない。円形広場に出ると、今度は誠狼が飛び掛かってきた。しかしセリムに前脚の爪が振り下ろされた瞬間、誠狼が天井へと投げられた。誠狼が、天井を蹴ってまたセリムに襲い掛かってきた。
「ウールヴ!止めろ!」
ティダの唸るような声が円形広場に響いた。誠狼がしゃがんだセリムの頭の上を通り過ぎて、向こう側に着地した。
「他に怪我人はいるか⁈」
ティダが円形広場をぐるりと見渡して叫んだ。そのティダ本人の頭から、血が流れている。
「ティダ!君こそ流血している!頭なんだから動くな!」
セリムが駆け寄ろうとすると、青白い顔のティダがセリムを睨んだ。あまりの迫力に声が出ない。
「おいヴァナルガンド。よくも俺を庇ったな。二度とするな」
思わず後退しそうになる程、強い殺気にセリムは動けなくなった。激しい怒りに射竦められる。セリムの喉が鳴ったと同時に、ティダに床に倒された。腕から力が抜けたので月狼がセリムから離れたが、また近寄ってきた。セリムの怪我をしている頬に月狼が頭部を寄せた。月狼の琥珀色の瞳が悲しそうに揺れている。
ティダの濡れた髪からセリムの顔にポタポタと雫が落ちてくる。ティダの黒い瞳も濡れているように見えた。掴まれた胸倉から、ティダの手が離れた。
「次は嬲り殺すからな。俺を庇うんじゃねえ!」
怒声の後、ティダはセリムの上からどいた。そう思ったらティダがセリムの左足首を両手で握り、捻った。
激痛に顔が歪む。突然の暴力に驚いていると、ティダが悲しげな表情をセリムに投げてから背中を向けた。
月狼がセリムの頬を舐めた。痛みと驚きで呆然としていると、誠狼の九つ尾がセリムの顔面を叩いた。軽く手加減とは分かるが、かなり痛かった。次は腹も叩かれた。
〈下に庇われるのは大狼最大の屈辱也。フェンリスに免じて噛み殺すのは中止だ。二度とするなヴァナルガンド。噛み殺す代わりが足を捻る程度とは、納得いかんがフェンリスの直下だから仕方ない〉
体を揺らして濡れた毛から雫を飛ばすと、誠狼がティダの脇に移動した。見ていた民は皆絶句している。
〈ヴァナルガンドが死ぬかと思った。フェンリスもヴァナルガンドに気を取られて頭に岩が当たったので死ぬかと思った。俺も死ぬかと思った〉
月狼が尾でセリムを立たせてくれた。しかし、捻られた右足に激痛が走り立たなかった。よろめいた体を月狼が支えてくれた。痛いには痛いが、折られてはいなそうだ。
〈あの怪我は僕のせいか。下を庇うな……〉
岩を避ければティダに当たると考えた事を、見抜かれたという事だ。
「他に怪我人がいねえなら避難系統に従え!」
ティダが円形広場にいる民の確認を取っていた。壁際に人を幾人か誘導している。
「ティダ!二度と庇ったりしないから、一先ず頭の手当をさせろ!」
セリムが月狼を支えにしてティダに近寄ると、また強く睨まれた。
「こんな血だけ大袈裟な大したことない傷なんざ後回しだ!軽症なら頂点は最後って決まっているんだよ!とっとと区画長に点呼を取らせるとかしろ!」
頂点は最後って決まっているんだよ、円形広場にティダの声が木霊した。区画長に点呼を取らせるとかしろ。区画長の話などいつ知った?セリムは教えていない。
ティダはセリムからタオルを奪って離れていった。それから壁際で左腕を抑えて呻く近衛兵に近づいていった。セリムが救助したガク。ティダがガクの口にタオルを突っ込んだ。
「噛んでろ。痛いが我慢しろ」
ティダがガクの左腕を握ると、ガクのくぐごもった叫びがした。ガクの目には大粒の涙が浮かんでいる。
「お前も俺を庇うと次は嬲り殺しだ。覚えておけ。しかし良く最後まで逃げずに救助に当たった」
背中から短旋棍を出したティダがガクの腕をタオルと短旋棍で固定し、それからガクの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
「誠狼、月狼、来い。ヴァナルガンドも乗せてだ。動ける者は働け!こういう国だから色々決まっているんだろう!後は子供を集めろ。退屈し出すと騒いで煩い。仕事の邪魔だ」
凛としたティダの声がまた円形広場に響いた。ティダが円形広場全体を確認するように体を動かした。全身が濡れて、頭からは血が流れているのに、青白い顔なのに堂々たる姿。セリムが怪我の手当をと話しかけようとすると、また睨まれた。
「ティダよ救助に代理までご苦労!残りは私がやる!ハーク、怪我人を頼んだ。アシタカ殿はティダ皇子をお願いします。子供は担当の女が既に集めている」
ユパの登場にセリムはホッとした。これでティダは休むだろう。隣に立つアシタカにも余計に安心した。ハーク医師が怪我人に駆け寄っていった。
医者、救護師、タオルなどを持った女達、そして誘導担当の近衛兵達。あらかた揃っている。ユパがティダの前に立つと、ティダが片膝ついた。
「向こう端から重症度順です」
短く告げるとティダは立ち上がって、外套を翻して歩き出した。即座にユパがティダの腕を掴んで止めた。避けられるだろうに、ティダは大人しくユパに掴まれた。
「ハーク!向こう側から順に診てくれ!ティダ皇子、そんな姿で国中を歩かせるか。そのような怪我の姿、民の心配と不安を煽る。もうお前がやるべき事は無い。迅速な対応ご苦労」
「ユパ王。そんなに怪我人がいないので、僕が彼の手当をします」
ティダがユパに向かって首を縦に振った。アシタカには「大したことないので、俺は最後にしろ」と小さく呟いた。それからアシタカに向こうへ行け、とハーク医師の方に目配せした。アシタカが言っても無駄か、そういう諦めた顔をしてティダに背中を向けた。
セリムを背中に乗せた月狼がティダにピタリと寄り添った。
「よくぞ己を省みずに下を守ったスコール。流石我が直下。立派だった。我慢している歯を見せろ」
ティダがしゃがんで月狼の口腔内を確認した。口の中は血塗れで、月狼が血を吐き飛ばした。折れた牙も一緒に飛び出てきた。大鷲凧の柄に口でぶら下がっていたのだろう。セリムは全く気がつかなかった。
ティダが月狼の頭を優しく撫でて、柔らかく微笑んだ。
「俺の名誉を守ったので上を庇ったことはお咎め無しだ。ヴァナルガンドに対する教育不足は俺の責任だ。すまなかった。折れた牙は二本のみか。また顎が強くなったな」
月狼は何度か血を吐いて、口を閉じると嬉しそうにティダの体に頬を寄せた。ティダがまた月狼の頭を撫でた。それから軽く三回叩いた。
立ち上がったティダがまたセリムを睨んだ。
「下をほったらかすんじゃねえ。群れに問題無いか常に気を配れ。スコールはお前の直下だ。しかと管理しろ。スコール、ヴァナルガンドは群れ囲いするにはまだまだ足りな過ぎる。背中を追うのは良いが、基本的に俺に従え。今日は助かった。ありがとう」
ティダがまた月狼の頭を優しく労わるように撫でた。月狼も尾でティダの背中を撫でて、頭部を縦に揺らした。
「月狼、この程度なら勝手に治る。鎮痛剤を探してもらうからな。名誉の負傷に対してこれ以上の我慢などいらん」
ティダはもう一度月狼の頭を撫でて、とても優しい笑顔を投げた。その後ティダはよろめきながらら壁際に移動していった。怪我人が並ぶ中の一番後ろ。どう見てもティダは前の方に行くべきなのに、最後尾。おまけに月狼とセリムも自分より前に座らせた。話しかける隙が全然無い。
ティダは腕を組んで胡座。目を瞑り、背筋を伸ばして沈黙。すぐ隣に誠狼が座り、九つ尾をそっとティダの背中に回した。
〈フェンリスは伝心術を使えない程、動揺している。ヴァナルガンド、後でしかと謝れ。お前がフェンリスを庇って死にかけたのが余程恐ろしかったようだな〉
ティダは誰が話しかけても断固拒否の姿勢を貫いた。怪我人全員の応急処置が終わり、セリムの足に包帯が巻かれるとようやくティダはアシタカに頭の怪我を診せた。ハーク医師がセリムの足を診てくれたが、捻挫だと言われた。
ティダは怒りに任せてではなく、加減してわざとセリムを怪我をさせたのだと改めて分かった。ティダが本気なら折れるどころか、足首が引き千切られていたかもと思い至って恐ろしくなった。
誠狼の手前、お咎め無しに出来なかったのだろう。フェンリスに免じて噛み殺すのは中止、というのは本心に違いない。
〈ふん。フェンリスは甘過ぎる。上を庇って采配を邪魔し、自身を守らず、おまけに下に助けられるとはヴァナルガンドは追放ものだ。我等に招かれてから期間が短いというのと、フェンリスの直下なので見逃したが俺の下なら殺してたからな〉
誠狼の発言にティダは反応しなかった。セリムにだけ告げたか、先程誠狼が言っていた通り、ティダは動揺で大狼の会話が出来ないのだろう。
「薬の無駄だからこの程度を縫うのに麻酔なんざいらん。消毒薬もあるようだし場所もここで構わん。この薬なら月狼に使える。先に塗ってやれ」
まだティダの怪我を診ていないハーク医師とアシタカが目を見合わせた。ティダがアシタカとハーク医師が運ぶ医療鞄の中から小瓶を手に取った。アシタカとハーク医師は素直にティダの指示に従った。ティダが肯定以外拒否という、強い雰囲気を発しているからだろう。
アシタカが月狼の口腔内に薬を塗る間、ハーク医師がティダの頭の怪我を確認した。ティダの言う通り、縫った方が良いと判断された。ティダはその場で麻酔無しで、呻き声一つ出さずに頭を縫われた。
崖の国中にティダの一連の話はあっという間に伝わっていった。




