セリム王子の外交5
【崖の国 城塔】
突然、部屋を訪れたティダに引きずられてセリムは城塔内部を案内させられた。その次はアシタカの部屋。セリムの時とは違って、ティダはアシタカ達に用意した客室の扉はキチンとノックした。
「どうして僕の時はいきなり入室してきて、アシタカの時は……」
ティダに顔面を手で抑えられて、無視された。どうも気配を探れなくて避けられない。
「あれだけ騒がしかったら何も要らねえだろう」
ティダが部屋に現れた時、ラステルと、目を覚ましたソレイユの三人で回し将棋をしていた。ラステルとソレイユがぺちゃくちゃずっと喋っていたので、騒がしいとはその事だろう。ラステルの楽しそうな姿が、セリムは何より嬉しかった。ずっと心配ばかりかけていたので、この帰国はラステルにとっても良かった。そう感じている。シッダルタも読書に夢中で、しかも興味を持ったのがセリムと同じく気候関係なのが嬉しい。
ーー人を一人幸せにするというのはとても大変なことよ
クイの言葉が胸の底に静かに沈んでいる。ラステルとシッダルタ、二人が生涯幸せでいる。セリムが一番励むべき優先事項だろう。我儘を突き通す人生では、とても険しい道のり。
「何を黙り込んでいるんだ?」
ティダの手がセリムの顔から離れた。ティダはセリムが選んだ道の、かなり先を歩んでいる。相談したら、いつかセリムもティダの荷物を持つことが出来るかもしれない。
「僕は君に相談が出来た。いや、語り合うんだ。船の上の時のように」
ティダが嫌そうに顔を歪めた。更には舌打ちもしてきた。おまけに一回だけ。
「お前は飲み込みが悪いからシッダルタも連れて来い。弱すぎて相手にならん。喧しいのでラステルは却下。シュナやアンリと遊ばしておけ。ったく、今夜なんぞ雨で月も見えんというのに」
大きくため息を吐いたティダが、髪を掻き上げた。今夜とは一言も言っていない。飲み込みが悪いとは将棋のことか?シッダルタは覚えが早いと褒めてくれている。ティダは単にシッダルタと将棋を指したいのだろう。何故か嫌われたと勘違いしているティダの、シッダルタへ歩み寄りたいというこの気持ちをシッダルタ本人に教えておこうと思った。
扉がゆっくりと開いて、アシタカが現れた。部屋の奥のソファでシュナがのんびりと水を飲んでいる。セリムと目が合ったシュナが、親しみこもった笑顔を向けてくれた。
「二人揃ってどうした?自由時間の終わりには相当早い。何かあったか?」
アシタカがセリムとティダを交互に見た。ティダが無言で、しかも顎でアシタカに来いと示した。戸惑うアシタカが部屋の外に出て扉を閉めた。
部屋を出た瞬間、アシタカがティダに首を絞められた。
「新しい駒を蹴り上げる。あのヘソ曲げ小僧だ。あいつを和平交渉に入れるな」
ティダに引きずられるアシタカが藻搔いた。
「アラジンのことか?それならエンリヒ長官やラジープ長官と、あとこの国から誰かも誘って、医療支援の方を頼むつもりだ。セリムから人となりを聞いて、そういう気はしていた。会ってみて、アリババ王子から話を聞いて確信した」
「そこまで阿呆ではなかったか。なら単に蹴り上げといてやる」
ティダがアシタカの首から腕を離して、スタスタと前を歩いていく。アシタカが横に並んだ。互いに睨み合う。また始まった。セリムはまた忍耐の修行の時間が来たと思った。罵り合うのは止めて欲しいのたが、二人とも取りつく島もない。
「蹴り上げて欲しいのはアリババだ。あれじゃあ足りない。大陸和平の方はもう進んでいるから可及的速やかに蹴り上げろ。あの男、自信があり過ぎる。僕をボコボコに殴ったように踏み潰せ。僕に対しては四人でだったので、セリムとティダだけだと足りないがシュナをあの男に近寄らせたくない。あの目には腹が立った。クソ野郎が。よってアンリも却下だ」
アシタカの目が据わっている。セリムは固まった。尊敬するアリババとアラジンの酷い言われよう。おまけにシュナに始終見惚れていたアラジンではなく、アリババへの悪態。アシタカはいつになったら、この急に始まる口の悪さを治すのだろうか。
「ふははははは!欲深いぞアシタカ。あの男、勝手にお前を抜かそうと走るというのに背中から追い風とは。まあ、それが望みならやってやろう。なら、ヴァナルガンドでフルボッコだな。遠くを見ていると足元掬われるってことを叩き込んでやろう」
心なしかティダの機嫌が悪い。アシタカも先程の悪態からして不機嫌。
「二人揃って何なんだ。アリババとアラジンは……何をするティダ!」
今度はセリムの首にティダの腕が巻きついて、引きずられるように引っ張られた。
「おいヴァナルガンド。このように俺達はまだまだアリババの良いところが分からん。アシタカなんて相当悪印象のようだ。紹介者としてそれで良いのか?」
「僕に何かさせたいのなら、しかと説明して正しく導いてくれ」
セリムは横目でティダを確認した。ティダの目の奥には嘘臭さしか無い。
「正しく導く?見込んで頼んでいるんだ。先程の会談とは違って自力で問題ないと思っている。俺達の目的も汲み取ってくれると期待しているのだが……。赤子じゃないのに手取り足取りが望みか?」
今度は本心そうだった。何か企んでいるが、悪い事ではなさそうだ。そしてこの期待。アシタカを見ると、セリムが必要だという表情だった。
「僕はアリババが素晴らしい男だと良く知っている。二人とも何か勘違いをしているんだ。アスベル先生の所に行こう。二人共、アリババともアラジンとももっと話した方が良い。15時から再度会談では、時間が足りなくなるだろう」
ティダがセリムの首から腕を離した。またアシタカと競うように歩いていく。
「で、アシタカ。ラジープ長官って誰だ?」
「何だ、アンリから聞いたのか?アンリの元婚約者だ」
アシタカの発言直後、寒気がする程の殺気がティダから発せられた。怖い。怖すぎる。なのに、アシタカは涼しい表情。
「へえ。そうか。そういうことか」
「いい加減にしろよ。終わったことを気にしても仕方ない」
不機嫌そうなティダに、爽やかな笑顔のアシタカ。これはアシタカの方が遥かに格好良い。ティダがアシタカを睨みつけたが、アシタカはどこ吹く風。
「俺はお前じゃなきゃいいんだよ」
「何の話だ?」
ティダがまたアシタカの肩に手を回して、引きずるように歩き出した。ティダの機嫌はかなり良さそうになっている。
「こっちの話だ。とっとと行くぞ」
歩きながらアシタカがティダの腕を払い、肩を殴ろうとして避けられた。アシタカはアリババの文句を言いながら、ティダはアラジンを貶しながら城塔内を進んでいく。アシタカは単なる嫉妬のようだし、ティダは誤解や偏見のよう。なのに文句を言う暇もない。
城塔を出て、大橋の中通路を歩く間も似たような状態だった。よくもまあ、ついさっき知り合った者の悪口をこんなに思いつくと感心してしまう。
急に二人が談笑し出した。中通路の向こう側からアスベルとアリババ、アラジンの三人の姿が見えた。アシタカもティダも目敏い。
「シュナに将棋を教わっている。シッダルタを僕の指南役につけて、一度手合わせしないか?」
「それならヴァナルガドと手合わせの方が良い。指南役対決、そして本人達も対決。中々愉快だと思うがな。どうだヴァナルガド?」
散々無視されていたのに、急に話を振られて戸惑った。
「指南役対決と言っても、僕の指南も今はシッダルタがしてくれている。……ティダが教えてくれるのか?船の時のように⁈」
質問責めの癖を治さないと、教える気にならないと言われていたので嬉しかった。教わるなら、知人の中で一番の者に限る。
「まあ、良いだろう」
「体術は?それに大狼の生態は?」
「お前を大狼に招いた俺の面子があるので体術くらいは教えよう。大狼のことは喋れるのだからウールヴに聞け。鍛錬方も教わるといい。小さき王からもだな」
ティダの微笑みに、セリムは飛び上がりそうになった。王狼は群れが多く大変なので質問責めをするなと言われていた。誠狼は群れが少ないか、教育熱心なのかもしれない。しかも、ティダが囲ったらしい、蛇一族の王子、小さき王とももう交流を持って良いらしい。
「本当か!顔に本当だと描いてある!せ、先生!アスベル先生!聞いてください!」
セリムは走り出して、すぐに足を止めた。アスベル達の背後、天井に小さき王が這っている。セリムは振り返った。
〈バシレウスは名目上は護衛なので、国民外の二人を見張らせていた。さてヴァナルガド、俺はアリババ、アシタカはアラジンを連れ出す。好きな方についてこい〉
大狼の会話法でセリムにそう告げると、ティダが愛想笑いを浮かべた。いつも思うが、ティダの愛想笑いは本当に嘘臭い。逆にアシタカはいつもの穏やかで優しい笑顔。二人が並んで嘘の笑顔を作ってみて、アシタカの方が嘘の匂いがしない分恐ろしいかもしれないと思った。
「散策ですか?」
アリババの問いかけに、アシタカが顔を横に振った。
「いえ、アリババ王子と世間話でもと思いまして。探しに行こうかと。王の父上ジーク殿の側仕えとヴァナルガンドの目付監視役を拝命したので色々と聞いてみたくて。国民からはいつでも聞けますが、貴方からは滞在中にしか聞けないと思いまして」
アリババとティダの視線がぶつかり、火花が散ったように感じた。
「何だ。ティダはまたアラジン王子と過ごすのかと思っていたのに。アスベル先生、アラジン王子、相談があるのでのんびりお茶でもどうですか?昼食がまだなら、待っています」
アシタカとアラジンには火花は散らなかった。むしろアラジンは何処と無く嬉しそうに見える。
「親切な崖の国の民がもてなしてくれて、昼食は済みました。城下街での活動の件ですか?」
「そうだ。察しが良くて助かるな」
アシタカがアラジンの隣に並んで、来た道を戻り始めた。アスベルも付いていく。アスベルが応接室を使おうと、和かな話している。
ティダとアリババは互いに笑顔で、まだ火花を散らしていた。
どちらと一緒に過ごしたいかと言うと、答えは明白。
「僕も……」
「私達も寛ぎがてら話しでもどうですか?アリババ王子はチェスが得意だと聞きました。チェスでも指しながら。セリム、君の奥さんともキチンと挨拶したい。君の部屋でどうかな?」
「チェスはそこそこです。俺もヴァナルガンドの部屋も見てみたいので、彼が良いと言ってくれればそうしましょう」
アシタカとアラジン、アスベルが遠ざかって行く。向こうに行きたい。ティダとアリババは確実に喧嘩をする。そんな予感がしてならない。アシタカとティダの間のように、面倒な事になりそう。
〈簡単に釣れたな。行くぞヴァナルガンド。ほれ、仲立ちしろ。邪魔だからラステルは追い出せ。シュナと遊ばせておけ。俺の妹というのは後回しなので一緒に追い出せ〉
生き別れの妹、弟を何だかんだ無視しているティダをセリムは何となく薄情だなと感じた。
〈ティダ。その件なんだが……〉
〈俺は優劣つけると言っているだろう?訳の分からん弟妹よりも、お前とアシタカだ〉
ティダの瞳が今はアデスとソレイユの件は断固拒否と訴えてくる。セリムは渋々口を開いた。
「アリババ、疲れただろう?ティダもまだ殆ど休んでいないし、三人で僕の部屋へ行こう。アリババ、遅くなってしまったがラステルを紹介させて欲しい」
アリババが白い外套を広げて、セリムと肩を組もうとした。その前にティダの腕に捕まった。アリババは表情を変えなかったが、不愉快だと感じたのは伝わってきた。目の奥が怖い。
「では行こうヴァナルガンド」
ティダが歩き出した。さり気ない動きだが、セリムは引きずられるように連れて行かれる。
「随分仲が良いようですね。何故、セリムをヴァナルガドと?あと普通に接して貰って良いですよティダ皇子」
「ふむ。私は苛立つとかなり言動が悪くなってしまうんです。気をつけてはいるんですが……お恥ずかしい。我が一族には、親しい者にはあだ名を付ける習慣があるんです」
ティダの苦笑いは、アシタカの笑い方によく似ていた。苛立つとかなり言動が悪くなる、という大嘘をアリババが探っている。
「破壊、とは中々穏やかなあだ名ではありませんね」
「古い言葉なのに博識ですね。何を壊されても許す。そのぐらい信頼を寄せる。そういう意味です」
アリババがまた探るような視線でティダを見つめた。ティダは別段気にするようでもなく、のんびりと足を進める。完全にアシタカの真似のように見える。つくづく器用な男だなとセリムは感心した。
「アリババ。僕は大狼の群れに招かれたんだ。ヴァナルガンドは大狼としての名前だ」
ん?とアリババが首を傾げた。
「大狼の群れに招かれた?どういうことだセリム?」
「大狼は人さえ愚かと見下す気高い一族。我が友、王たる大狼ヴィトニルが彼を認めたということです」
ティダの言葉の端々から棘を感じる。セリムは場の空気を変えようと言葉を探した。
「アリババ、世界は広かったんだ。大狼は特殊な会話法を持っていて文明を築いている。人を愚かと言っても、すぐ見捨てたりしない。尊敬もしてくれる。ほぼ垂直な崖を雄大に駆け上がり、雪原を音もなく駆ける。素晴らしい一族だ。そうだ、部屋に月狼君がいるから紹介するよ」
アリババの冷ややかな視線が、セリムの向こうのティダに注がれている。ティダは素知らぬ顔でアシタカを真似た穏やかな笑顔だが、全身から拒否の気配を醸し出している。
セリムがティダの良いところ、アリババの良いところを紹介しても「そうなのかセリム」「そうかヴァナルガンド」の発言ばかり。
城塔内に入って、光苔の薄明かりの廊下を歩く頃には三人とも無言になった。ラステルとソレイユなら、この空気を変えてくれるかもしれないと思ったが、セリムの部屋には誰も居なかった。
【セリムへ。お仕事のようなのでシュナやアンリとお話ししに行きます。お義姉様の手伝いにも行きます。ラステル】
【クワトロ殿に呼ばれたので行ってきます。シッダルタ】
机の上に置き手紙が二枚。セリムはガッカリと肩を落とした。アリババがソファに腰掛けた。ティダはセリムの部屋をぐるりと一望している。
「飲み物を用意してくる」
「いらん。座れヴァナルガンド」
ティダが棚からチェス盤と駒を取り出して机の上に置いた。セリムは素直にアリババの隣に座ろうとしたが、ティダに椅子の方へ促された。アリババと対面する席。ティダはどうするのかと思ったら、床に直接座った。アリババとセリムの間。
「お互い胡散臭いのも面倒になってきただろうから、腹を割って話そうアリババ」
ティダがチェス盤の中央に白いキングの駒を置いた。
「それは助かる。貴方のその態度。俺もあまり気分が良くない」
ティダとアリババの視線にまた火花が散った。ティダはそうでもないが、アリババの視線が鋭い。何故、今日会ったばかりでこれほど敵対心を燃やしているのかセリムには分からなかった。
「ティダ、君の言動が中身に伴っていないから誤解を招く。アシタカにいつも言われているだ……」
「このキング。今、大陸の中央はペジテ大工房だ。阿呆なハイエナが蛇を唆かして、沈黙貫く覇王を怒らした」
セリムはティダに無視された。ティダはアリババを真っ直ぐに見据えた後、キングの隣に白いクイーンの駒を並べた。それから黒いキングを盤の端に、その隣に黒いナイト。白いキングとクイーンを挟んで真反対側に残りの黒い駒を全部置いた。
「このキングとクイーンがアシタカ殿とシュナ姫か。阿呆なハイエナとは自国のことだろう?」
挑発的なアリババにティダが口角を上げた。
「そうだ。阿呆過ぎて面倒見切れないので捨てた。俺が欲しいのは頂点。俺はちっぽけな国の器じゃねえ」
ティダが黒いナイトを白いキングとクイーンの間に置いた。
「アシタカ殿を蹴落としたいということか?」
アリババが不審な視線をティダに向けている。
「そのつもりだったが、風向きが悪い。侵略戦争を逆手に取ってドメキア王国とペジテ大工房の二大国家を掌に乗せるはずだった。誤算は言わずもがなアシタカとシュナの二名。手駒にしようとしたシュナには逃げられ、アシタカが何もかも総取り。覇王ペジテ大工房の御曹司。武力、権力、二千年続く聖人一族という血脈。おまけに人徳。通り名はペジテ大工房の至宝。ドメキア王国では国を救いにきた英雄、姫を救って奇跡まで起こした星の王子様。なんだこいつは。腹立たしい」
ティダが嫌そうな表情で白いキングの駒をセリムの寝台に放り投げた。父ジークから誕生日に贈ってもらった、祖父の形見。
「ティダ!これはとても大事な品なんだ。祖父の形見。大切にしないなら仕舞う」
ティダが肩を竦めてから立ち上がった。投げた白いキングの駒を手に取って戻ってきた。それからセリムに白いキングの駒を渡した。
「キング唯一の弱点。それはこいつだ。ヴァナルガンド。何故かと言うと、アシタカが選んだ道はこいつが言い出したことだからだ。あいつは負けず嫌いで、賞賛が大好きだ。なのにペチャンコにされた。弱小貧乏小国の王太子でもない、何にも持ってないヴァナルガドがアシタカをぶん殴った。一生頭が上がらないだろう」
セリムはティダを睨みつけた。
「次から次へと嘘を言うなティダ。アシタカは昔から国内だけではなく、国外のことも考えていた。僕の提案は単なる理想で、アシタカはずっと準備してきていた。それに僕は殴ってない。アシタカはティダ、君と対抗しているだろう?」
セリムはまだ片付けていない荷物を探した。アシタカにもらった黒い革製の四角い鞄が部屋の隅に置いてあった。そこらへんに置きっぱなしだったので、ラステルが気を遣ってくれたのだろう。
「見てくれアリババ。アシタカは素晴らしい男だ。何もかも持っているのに、いつも他人のことを考えている。ペジテ大工房の聖人一族なのに、ずっと外界のことも考えていた」
セリムはアシタカから譲り受けた企画書の束をアリババに渡した。早くこうすれば良かった。これが一番アシタカの人柄を伝えられる。問題はティダだ。これではちっともティダの良いところをアリババに伝えられない。
アリババが書類に目を通そうとしたが、ティダが書類を奪ってセリムに戻してきた。
「こんなのはどうでもいいんだよ。アシタカを上に押し上げてどうする。引きずり落とすって話なのによ。お前は少し黙ってろ」
ティダが白いクイーンの駒を手に取った。アリババは完全にティダを不審と疑心の視線で見つめている。気取られないようにほぼ無表情だが、眼光が鋭い。
「俺と手を組もうって話なのか?」
ティダが白いクイーンをアリババに渡した。
「褒美にこいつをくれてやろう。大陸中を探しても見つからない良い女だ。中身がすごぶる良い女だが見た目が気に食わなかった。なのでアシタカに熨斗をつけて贈ってやったが、今じゃああの姿。アシタカの総取りが心底腹立たしいのでお前にやる。アシタカの頭脳が半減して、俺に都合が良い」
アリババが白いクイーンを見つめながら、首を横に振った。
「それこそ何故自分がしない」
「元の姿の時に女としての自尊心を傷つけ過ぎて、そういう意味では嫌われている。ドメキア王国掌握の足掛かりにする為に恩を売っておいて、助かった」
ティダが黒いナイトの駒を中央に置いた。
「アシタカの権力には誰も敵わない。これはもう仕方ない。別の方法で上に登らなければならない。俺の邪魔をするとどうなると思う?」
初めてティダがアリババに殺気を向けた。横から眺めるセリムでさえ、瞬き一つ出来ないほどの戦慄を覚えた。アリババの唇が少し震えている。ティダが少し感心したような目をアリババに向けた。
「へえ。俺にここまで睨まれて喋れるとは中々の大物だな。これなら話は早い。蛇一族の次期王、小さき王は俺の監視兼任従者だ。頂点に登るのは、蛇一族の王であるバジリスコス。海を統べる偉大なる王。盟友は実は知性と統制の取れている蟲一族。この大陸には人外の巨大権力があるんだよ。アシタカに勝るのはバジリスコス」
アリババは理解不能という様子だった。ティダがソファの中央に座るアリババを押し退けて、隣に乗った。座らずにしゃがんでアリババの胸倉を掴んだ。止めようと思ったが、いつの間にか小さき王が部屋にいて巻きつかれた。
「何をす……」
口まで小さき王に塞がれた。鼻は解放されているので呼吸は出来る。
〈バシレウス君、離してくれ!〉
〈アングイスだ!バジリスコスに確認を取ったが今はエリニースに従う〉
全身に力を入れても、全く歯が立たない。ティダが立ち上がってアリババを持ち上げた。
「不敗神話の大狼兵士。俺に力で敵う男はいない。噂さえ無視して随分尊大な態度だったな?残念ながら俺にはまだ権力がある。バジリスコスの直下。胡散臭いハイエナ?探れ?壁に耳あり大橋に耳ありというような言葉がございますでしょう?美しい淑女の忠告は聞いておくものだ」
シャルル王子を何やら脅した時と同じ作戦なのだろう。アリババをぺしゃんこにして、セリムに尻拭いをさせる。多分、アシタカにもさせる。
〈ティダ!バシレウス君を離させろ!こういう手を使うな!〉
呼び掛けにティダは無反応。恐らくセリムの大狼の会話法を拒否している。ティダはいつでもセリムに会話をぶつけてくるのに、ティダは自由自在。王狼達もそうだ。早く大狼についてもっと学ばないとセリムはいつも不利だ。
ティダの迫力が凄まじ過ぎて、流石のアリババでさえ青ざめて固まっている。
「あんな小物の弟に俺を探らせようとは間抜け過ぎるぞ。それとも殺して欲しかったのか?知らぬ名を教えてやろう。バジリスコスの配下エリニース。孤高ロトワ龍の皇子。俺は人外の国の皇太子だ。そして妻であるシュナを命懸けで助けてアシタカに熨斗をつけて贈ってやった。だからアシタカは心底嫌いな俺を隣に置く。格が違えんだよ」
ティダがアリババを放り投げた。次の瞬間にはアリババの上に馬乗り。
「探ろうだなんて……少し人となりを知りたいという意味で……」
ティダを一瞬睨みかけたアリババが、真っ青になって口を閉じた。いつの間にか喉元にティダの短旋棍が押し当てられていた。
「残念だったなアリババ。俺はお前が気に食わん。理由は単に何と無く気に食わない、だ。アシタカはお前をヴァナルガンドと俺の代わりにしようと考えているが邪魔をしてやろう。有る事無い事吹き込むのはお手の物。俺はお前よりも信頼されている。何せ単身ドメキア王国とペジテ大工房に乗り込んで生き様見せたからな!最後に蹴落とす為だ。目的の為なら俺は手段を選ばねえ。元々こんなだから勝手に裏を読んで良い方に解釈してくれる奴もいる」
ティダがわざとらしくセリムを見た。それからアリババの額の上に白いキングの駒を置いた。いつの間に手にしていたのだろう?
ティダの深い黒い瞳の奥から何も感情が読み取れない。大狼の会話法で呼んでもやはり無視されている。呼吸が上手く出来ないのだろう、アリババの顔が赤黒く変色していく。
「青二才よ。狭い世界で王様気取りだったのことが因縁因果。大狼と蛇一族でボブル国を支配下に置くことも可能。俺に気に入られたければ餌を寄越せ。お前が見下すアラジンを俺はそこそこ気に入った。お前を踏み潰して、アラジンをアシタカの隣の添え物にしてやる。ヴァナルガンドの知人だというので今日は許そう」
ティダがアリババから離れた。小さき王がセリムから離れて、ティダの体に巻きついた。まるでショールのように小さき王を纏うティダ。堂々たる貫禄にセリムは気圧されて、文句が言えなかった。
アリババがむせ返っている。ティダが追い討ちのようにアリババを蹴飛ばした。手加減なのは分かる。ティダがほんの少しでも本気を出すと、アリババの内臓は破裂する。
「ティダ!こういうやり方はアシタカも僕も好まない!毎度毎度わざわざ嫌な役を買って出るな。それも勝手に!」
ティダが肩を揺らして苦笑いした。
「まさか。発破をかけてやろうと思っただけだ。アシタカこそ、こいつを気に食わない奴だと判断しただろう?自分に対抗心を燃やし、妻も奪おうとするかもしれない。ヴァナルガンドよ、アシタカの仮面は厚いぞ。俺ならこういうことをするだろうと読んでいても止めない。更には御し易く素直なアラジンをもう懐に入れ始めている」
ティダが髪を掻き上げて、アリババの腕を掴んだ。弱々しくなっているアリババが引っ張り上げられて立たされた。
「ふははははは!誰が頂点に立つか楽しみだなあ?アリババよ、小さい器で上には立てん。誰に付くか、何を疑い、何を信じるのか良く考えろ。青二才は王にはなれん。手の内を知っているのに、即座に応じるどころか疑心と探りをぶつける相手など駒以下。ボブル国の王太子ってのはどんな教育を受けているんだか。行くぞ小蛇蟲」
アリババのターバンの隙間から小蛇蟲が現れて、床に飛び降りた。アリババが驚愕していると、小蛇蟲がティダの体を登って肩に乗った。
ティダが無防備な背中をアリババに向けた。本当は敵意なしということをセリムに教える為だろう。
「だから待てティダ!アシタカはそんなこと……」
アシタカは確かにティダにアリババを蹴り上げろと言った。セリムは咳き込むアリババを見つめた。今、何をするべきなのか?アシタカはどうしてティダの横暴を許したのか。アシタカはティダの手の内くらい分かっている。むしろ、セリムが考えなしで放置してしまった。
「アシタカはティダ、君を信頼して頼んだんだ。僕の目付監視役となったから、もっと己に相応しい言動を取ってくれると。これはアシタカへの裏切りだ」
ティダがゆっくりと振り返った。かなり嫌そうな表情だった。
「だからお前を俺に付けたんだろう。ヴァナルガンド、その目を止めろ。ったく何でそう俺にそういう目を向ける。アリババよ、俺が頭蓋骨を噛み砕く相手が誰だか肝に命じろ。俺の群れに手を出したら一族郎党嬲り殺しだ。逆なら囲ってやっても良い。見る目があるのなら色々と見抜け。何が真実かよく考えるんだな」
すっかり殺気を消したティダが部屋から出て行った。やりたい放題。好き勝手。己に相応しい言動を伴わない。心底頭にきた。
「セリム、彼は一体……」
「何なんだティダは!いつになったら己に相応しい言動を伴わせるんだ!いくらアシタカがアリババを認めて、少しばかり尊大だからって、こんな手酷いことをしなくたっていい筈だ!」
毎度毎度、見込みがある、気に入ったからといって脅迫する理由なんて一つもない。目的を話してさあ、一緒に頑張ろう。それで済む。ティダの持ってる力なら説得力がある。なのに、これ。
「己に相応しい言動とはどういうことだ?それにセリム、俺が尊大だって?」
「そうだ。僕にアシタカを紹介してと頼んだのに、すぐにアシタカに不審な目を向けた。親書も貰っているんだろう?アシタカは自国でもないのに紅茶を自ら淹れたり、僕も立てつつボブル国や君に信頼を寄せたのに。それにアラジンの発言も邪魔しようとした。いつもそうだ。ティダは本当は気の良い奴なんだ。人助けばっかりしている」
自然と顔がむくれるのが分かる。その時部屋の扉が開いた。現れたのはシッダルタだった。
「物音がして、不機嫌そうなティダとすれ違ったが何かあったのかセリム?」
セリムは勢い良く立ち上がった。
「あった!あったとも!ティダの奴、酷いんだ。アリババに期待しているからとやりたい放題!何で素直にアシタカを立てつつ、しっかりと真横に立って欲しいって頼まないんだ!アシタカに頼まれたってことは、こんな手段をもう取らないって信頼されたのにわざとだ!分かっていてわざとこういう事をするんだ!」
セリムはアリババをソファに座らして、シッダルタに何があったのかを話した。アリババは無言で俯いている。あんな殺気に短旋棍で首を絞められたら、嫌な気分しかないのも無理はない。
「いやセリム。アシタカは多分こうなると分かっていた」
考えるように顎に手を当てていたシッダルタがセリムからアリババに視線を移した。アリババの表情が曇った。
「アシタカが?アシタカはそんな男じゃない」
「多分だけど君がティダの事をアリババ王子に話すと期待した上で、ティダに頼んだのだろう」
セリムはシッダルタの言葉でハッとした。
「そうだシッダルタ。アシタカがティダを放置したのはそういう事だ。アリババ、君はティダの事を何にも知らない。会談の時も、今も悪印象。どうせいつかティダは勝手に動くから先に手を打ったんだ」
セリムはシッダルタをアリババの向かい側の椅子に座らせた。セリムの役目はアシタカとアリババの仲立ちではなくて、ティダとアリババの仲立ちだ。アシタカは接していれば人となりが良く分かる。ティダは分かり辛過ぎる。何故か本人が素を知られるのを嫌がっている。
「セリム。俺がアラジンの発言をいつも邪魔しているというのは本当か?それにアシタカ殿に不審な目を投げたというのは……」
アリババが不安に瞳を揺らしてセリムを見つめた。
「アリババは心配性でやる事なす事いつも口を出して、アラジンの発言を止めているじゃないか。でもアラジンだって心配してもらっていることは分かってくれていると思う。だから自立しようとアリババから離れた所で、しかし君の為にもなるように励んでいるだろう?アシタカは不信感に慣れているから気にしてないようだった。でも親書をくれて、僕という知人もいて、相手は大国の御曹司だからもっとアリババから歩み寄るべきだとは思った。不審をぶつけて敵対するのはあまり良い手段とは思えない」
アラジンが街に出て慈善活動をしているのは、アラジンと親しくしている者なら誰でも知っている。アシタカにも話してある。
「なあセリム。アラジン王子は俺にも気さくな方だったが、励んでいるとは何をしているんだ?ベルセルグ皇国の事も聞かれたけど、敵国なのに悪い印象を持ってないようだった」
そういえば酒場で、アラジンはシッダルタに話しかけていた。セリムがシッダルタを新しい友で、崖の国で暮らすと紹介したら親しげに接してくれていた。
「アラジンは生活支援とか医療支援に力を入れているんだ。ジャルーシャ王やアリババに、城勤めの者達が昼夜励んでも届かないところにも手を届けるために。ドメキア王国で僕はシャルル王子と貧困街に出たけど、アラジンに教えてもらったことを色々真似したんだ。シッダルタは僕の友だからと、気さくに接してくれたんだろう」
アリババの眉間に皺が寄った。
「セリム、あいつは堅苦しい王宮が嫌で街をぷらぷらしているだけだ。それに王室批判。君はいつも相手を過信する。アシタカ殿やティダ皇子の事も少々誤解しているんじゃないか?だから俺は君に話してもらいたかった。君の話ぶりと、自分の目線を比べれば色々と浮き彫りになるだろうと思ってな」
セリムも自然と眉間に皺が寄った。
「だからってアラジンの行動を批判する必要はない。むしろ支援して王室の手柄にするべきだ。僕はいつもそう思っていた。アリババは兄なのだからアラジンを導いてやるべきだろう?それを今日会ったアシタカがしようとしている。僕は思っていたよりも人を見る目があった。それで色々な人や異種生物にも気に入ってもらった。父上や兄上がアシタカやティダに信頼を寄せたから間違ってないと思う」
アリババの眉間の皺が益々深くなった。
「俺には見る目が足りないということか。お前にそんな事を言われるとは思ってなかった。アシタカ殿がアラジンを導く?どういう事だ?」
「そういう意味じゃない!アシタカは大陸和平と同時に、国境を越えて活動する医療支援団体の立ち上げも考えている。アシタカは裏方で筆頭はアシタカの部下や、望んでいた医師達と賛同してくれる各国の支援者。アラジンと話とはその事だ。アリババはアラジンの事を聞かれただろう?アラジンはアリババより大分王子としての自覚がないが、医療支援を任せて君の最大の支援者として他国に披露出来るようにするつもりなんだろう」
セリムは迷ったが言葉を足した。
「アリババが毎回アラジンを否定して、悪くとるからアラジンはいつも悩んでいた。アリババ、何に関しても否定から入るのはもう少し直した方が良いと思う。アシタカやティダは、きっとそういう所を見抜いたんだ。二人共よく人を見ている」
「セリム、俺やアラジンの事をそんな風に考えていたのか!お前はアラジンの味方なんだな!さっきのティダ皇子を庇うのも理解出来ない!」
それはティダの中身を知らないからだという前に、アリババが勢いよく部屋を出て行った。セリムを見る目が完全拒否だったので、後を追えなかった。




