浮つき王子と星姫
【崖の国 城塔内 客室】
部屋に着くなりシュナは脱力した。想像以上の歓迎と人の視線で、思った以上に疲れたらしい。慣れないお酒を飲み過ぎたせいでふわふわもしている。
「やはり疲れたんだろう」
優しく、宝物を扱うようにアシタカがソファに座らせてくれた。次の会談まで数時間、ずっと部屋にいて休んでいたい。いいえ、と言いかけてシュナは素直に話すことにした。どうせ見抜かれる。
「ええ。楽しくてはしゃぎ過ぎたのもあります。正直食事は摂りたくないし、会談まで部屋から出たくありません」
視線が変化したとはいえ、注目を浴びることには変わらない。結局好奇。今迄とは違ってもう注目を浴びる容姿ではないので、針の筵なのは「セリムの客」にして「ラステルの友」だからだろう。
崖の国の民はセリムが大好きで仕方ないのだとヒシヒシと感じる。ラステルが帰国した際に楽しくて、嬉しくて仕方がなかったが酷く疲れた、そう言っていた理由をようやく理解した。過剰と言えるほど歓迎されている。
アシタカが隣に座ってコップに水を汲んでくれた。それからシュナの頭上の小蛇蟲を手に誘導し、床に離した。
「護衛君も疲れただろう。この部屋では好きに過ごして大丈夫だ。危険は何もない」
二人とも蛇一族とは話せない。小蛇蟲はシュルシュルと寝台の下に潜っていった。暗いところが好きなのだろう。
「アシタカ様は全然疲れていないようですね」
「僕は人に慣れている。普通に暮らしているつもりでも、ヒソヒソと指をさされるのが日常。有る事無い事を記事にされ国中に知らされる。街中で急に囲まれたりもする。だから仕事第一で部屋にこもってた。まあ仕事が楽しくてならないのは本心ですけどね。大技師一族の公務となると写真を撮られ、名を呼ばれ、ずっと愛想笑い。シュナの公務は少しずつにしないと体調を悪くさせてしまうから姉上達と相談しておく」
温かい眼差しに、頭を撫でてくれる優しい手つき。呑気そうな笑い声。なんて穏やかな時間なのだろう。感概無量だった。こんな瞬間が来るなんて未だに信じられない。
「大技師一族というのは大変なのですね。世界で一番励んでいるのは自分。そのくらいに思っていたのが恥ずかしいです」
アシタカがソファにもたれかかってシュナを引き寄せた。肩に回された手が、シュナの腕を優しく撫でる。ついこの間まで、シュナの一挙一動に赤くなって固まったり、変な言動を取ったりしていたのにアシタカはすっかり落ち着いてしまった。逆にシュナは胸が一杯で、締め付けられるようで落ち着かない。
「まさか。君が世界で一番励んでいただろう。違くてもそれでいい。僕はチヤホヤされて好き勝手生きてきただけだ。これからも続ける。こんなに素敵な女性まで手に入れて非難轟々だろうな。追放されて険しい大地だけで生きていけとなっても付いてきてくれるかい?」
アシタカに顔を覗き込まれて、その距離の近さに自然と目が泳いだ。こういうことは今迄無かったので、上手な態度を作れない。なのに、アシタカのこの落ち着きっぷり。歯が浮くような台詞の数々。過去を気にしても仕方ないのに、急に切なくなってきた。
「きっと無理です。シュナは何の役にも立ちません。料理も出来ませんし……」
目が合うとアシタカが固まっていた。顔色がすごぶる悪い。
「分かった。絶対に追放されないようにしよう。君が付いてきてくれないなら僕は絶対に追放されない。どんな卑怯な手を使ってもしがみつく」
少しだけ顔色が良くなったアシタカが、一人で納得したように首を縦に振った。
「そうではなくて、付いていってもシュナは役に立たないということです」
「君が役に立たない?何を言っている。シュナ、君は活躍しかしない。何だ、追放されても付いてきてくれるなら一安心だ。これだけ好き勝手していたら何があるか分からない」
あまりにも嬉しそうに笑うので、戸惑った。
「ん?どうした?僕は察しが悪いようなので話してくれ。そうだ、何で役に立たないんだ?」
「ですから料理も出来ませんし……」
アシタカが目を丸めた。
「料理?そんなものは僕が出来る。家事一切、一通り習得済みだ。そのうちシュナ、君が張り切って覚えてくれる。外界だけで生きてきた君は僕の先輩だ。ドメキア王国には君の味方ばかり。追放されたら世話になりっぱなしになる。今迄と違ってシュナが居ないと僕はやる気が半減。というより……」
またアシタカが青ざめた。シュナの肩から手を離し両手で顔を覆った。
「最悪だ。最悪な気分だ。家に帰って君が居なくて……家具も全部消えていたら……僕は倒れる自信がある……」
突然どうした?すっかり落ち込んだ様子のアシタカの背中をさすった。
「家具が全部消えていたら?そんなことしません。急にどうされたんです?」
アシタカが捨て犬のような目でシュナを見上げた。それから力無く笑った。
「ああ。少し思い出しました。史上最悪だと思ったがあんなの大したことなかった。窃盗に対する怒りと呆れしかなかった。アンリが言う通り僕は相手に興味や関心が無かったんだなと。捨てられたと思っていたが酷い事をしていたのは僕の方だ。身の回りのことをしてくれれば多分誰でも良かった。求められれば稀に応じる。それ以外は仕事を盾に断固拒否。そりゃあ捨てられる」
どういうことなのか分からなくて、悲しいのが更に強くなった。シュナと違ってアシタカは何度も恋をして、色々な女性と交流を持ってきた。アンリとも共に住んでいたというし、家具が全部消えたということは他の女性とも暮らしていたのかもしれない。
求められれば稀に応じる。
本人の口から事実を突きつけられると中々苦しい。アシタカはシュナから顔を背けた。背中を丸めて、肘を膝に当てて手を顔の前で合わせて遠い目をしている。取り繕う元気もないが、アシタカはシュナの様子には気がつかない。こっちを見て欲しいが、見られるのも怖かった。お互いのことを知らないと突きつけられて、益々胸が苦しい。
「褒めて機嫌を取るか。隙間時間くらい相手をしておくか。確かに義務感だ。おまけに時間と労力の無駄。史上最悪の極悪人間だな僕は……。そりゃあアンリは怒る訳だ。君との時間は無駄だった。労力をかけなきゃ良かった。あんなことを言って良くビンタだけで済んだ。シュナ、君にそんなことを言われたら寝込む自信がある……」
この一人反省会はどう評したら良いのだろう。アシタカが困ったようにシュナを見上げた。
「笑ってくれるから褒めたい。シュナ、君の嬉しそうな顔をずっと眺めていたい。仕事をするよりも延々と君を見ていたいよ。自分の誕生日さえ忘れて激怒される僕が、君の誕生日を指折り数えている。何を贈ったら幸せそうに笑ってくれるのか、そればかり考えている」
全身が燃えるように熱くなった。貴方は今迄の女性とは違います。そういう言葉に熱い眼差し。辛かったのが急に喜ばしくなって、涙が込み上げてきた。こんなに緩急激しいと演技もし難い。
「あの……。いえ……。何も要りません……。あの……。逆にアシタカ様は何が欲しいですか?」
アシタカが体を起こした。ソファにもたれて考えるように顎に手を当てた。それから小さく微笑んだ。
「疲れて帰ってきて君がおめでとう。眩しい笑顔でそう言ってくれたら嬉しいだろう。黒焦げになった目玉焼きがテーブルにあってもいい」
アシタカがクスクスと笑いだした。黒焦げになった目玉焼き⁈そんなものは用意しない。自然とふくれっ面になった。こちらを向いたアシタカが楽しそうに肩を揺らす。少し距離が近くなった気がした。物理的にも精神的にも。
「さあ待っていた。ニコニコしながら手を引いて玄関から部屋の奥に連れていってくれたら心底嬉しいだろう。一日そわそわしていた僕はもう胸が一杯になる。例えばこんなことは言わないし感じない。疲れているのに煩いな。今日は少し手間がかかった料理だが持ち運び出来るサンドイッチとかの方が助かる。半刻したら会議資料作成に手を掛けよう」
アシタカの言葉の端々から感じる棘。これか、アンリを含めたアシタカのかつての恋人達が受けてきたのは。
「アシタカ様……そんなことを言っていたんです?」
「まさか。言わない。だから会話なんて取り繕った建前ばかり。覚えてない。日常会話など疲れで面倒だからお礼や労いが中心。黙々と身の回りのことをしていてくれと要求し、碌に帰らない。外には外で恋人の立場を与えなくても世話好きな者がいるから色々してくれる。女性は感情を読み解くのが得意だ。僕は無自覚なのに、相手は僕の自己中心さと冷徹さに気づく。君への感情を知って、僕は如何に相手に無頓着で無慈悲だったのか分かった。シュナ、君を傷つけないように細心の注意を払わないとならない」
また距離が近くなった。アシタカの手がシュナの頬に添えられた。少しくすぐったくて身をよじった。アシタカの鳥羽色の瞳は鋭い。こっちを見ていろという激しさを感じる。
「注意などしなくても、いつも優しいですよ。アシタカ様……。シュナのことは他の方と違うと言ってくれているようですがどうしてです?わざわざこんなことを話すなんて……。あの……。あまり近いと恥ずかしいので……」
アシタカの唇がシュナの額に触れた。
「シュナ、君が寄る辺ないと僕は苦しい。何せ病気かと錯覚したくらいだ。料理も出来ないと誰かと比較したようなので話しておこうかと。なあ、何が欲しいです?アクセサリーは君の美しさに霞む。宝飾に興味無さそうだしな。花束は枯れてしまう。君が好きだという花なら庭を作って手入れしていつも見せる。似合う服、靴、化粧品。香水や小物。考えてもどれもしっくりこない」
今度は頬にキスされた。いつのまにか手を握られている。手が熱い。いや、身体中が熱い。発熱したようにクラクラする。なのに目の前のアシタカは涼しい、余裕綽々な態度。
「私が欲しいのはアシタカ様だけです……」
少し上目遣いで顔を近づけた。かなり恥ずかしい。しかし、少しは動揺するかと思ったのにまるで崩れない。満足そうな、楽しそうな視線で観察されている。
「ああ。何もかも与えよう。嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれるなら何でもだ。僕が何か贈ったら喜んでくれるだろう?だから考えている。どうせなら最上級の笑顔が見たいんです」
アシタカの唇が反対側の頬に触れた。
「でしたら指輪を返して……」
今度は首筋にキスされた。これはどういうことなのか。口ではない理由がよく分からない。普通にキスされるよりもくすぐったくて、恥ずかしい。しかも離れないのでまた次がくると身構えてしまう。
「あれは結婚指輪なので誕生日の贈与物とは別です。しかも勝手に用意されたもの。揃いの結婚指輪は別に用意しています。大技師一族の伝統のものがある。多少融通はきくので君が仕立てた指輪と重ねても似合うようにしてもらっている。しかし許可された者が作るというくだらない仕来りがある。ドレスも勝手に仕立てられている。申し訳ないです。一世一代の晴れ舞台、自由にさせてやれなくてすまない」
シュナは小さく首を横に振った。特に要望などない。アシタカの視線は益々鋭くて熱い。一世一代の晴れ舞台?弓矢と銃弾が飛び交う中で、その日会ったばかりの得体の知れない男と偽りの誓いの式を行った。残ったのは死地を共にした盟友。ある意味運命の晴れ舞台だった。
アシタカの目が細くなった。
「一生に一度、一世一代の晴れ舞台だ。嘘でいい……そう言ってくれ……。情けないな……。僕は心が狭いんです。何せ他の男と同じ空気も吸わせたくない」
今度は耳にキスされた。耳とは全く予想外で体が震えた。嫌ではないがゾクゾクして妙な気分。まだそういうことはしない。そう言っていたのは本心だろう。律儀で理性的なのは知っている。今も胸を触ってきたりは一切してこない。どこまでがアシタカの境界線なのだろう。ここまでのことは他の女性もされていたのか?
頬を撫でていた手はいつのまにか髪の毛を指でくるくるとしている。反対側の手もシュナの手を握っているだけではなく手の甲を指で擦ったりと弄って遊んでいる。これが世の中の男女のごく普通の交流なら、途轍もなく恥ずかしい。嬉しくて呼吸がし辛いくらいだが、アシタカが手慣れていることに対してどうしても悲しくなる。
「あの……本当に口がお上手で……」
アシタカは切なそうに瞳を揺らしてシュナを眺めている。言葉選びを間違えた。ここまで明け透けなく気持ちをぶつけられて、不信を投げるのは可愛げがない。
「こんな風に語ったことなどない。シュナ……。過去は消せない。その上に僕も君も立っている。むしろ今後嫉妬で焼け焦げるのは僕の方だ。共に追放は嫌だ。贈り物は要らない。晴れ舞台なのに特に望みも憧れもない。明け透けなく褒めてもそんなに嬉しくなさそう。僕はすっかり夢中なのに……」
アシタカの唇がシュナの額に触れると、アシタカはシュナから離れた。立ち上がったアシタカが困ったというように首に手を当てて寂しそうに笑った。
「すまない。こういう強引なのは嫌だと覚えておきます。こんなに無理矢理あちこち触ったことなどないのですが、どうも抑えがきかない」
アシタカが顔を背けて大きく伸びをした。ラステルの気持ちが初めて分かった。
ーーセリムは変なの。私がセリムを大好きだってちっとも伝わらないの
思い出したら愉快でならなかった。アシタカが振り返った。穏やかで優しい笑顔。しかし、何処と無く寂しそうだった。
「いいえアシタカ様。あまりにも嬉しくて、恥ずかしくてどうして良いのか分かりませんでした。離れてしまわれて残念です。強引?優しいだけでしたよ」
やっとアシタカの涼しい顔が崩れた。目を少し大きく開いて、それから少し頬が赤らんだ。おまけにシュナの隣に戻ってくるなり、先程までと同じ体勢になった。
「そうか。ならもう少し触っていたい。君の反応はいちいち楽しい。然るべき場所にキスしてとねだるような様子もだ。我慢ならないが僕には僕の守るべき常識がある。大分破ってしまっているが名残惜しい」
貴方だけは特別だと伝わってくるのが、もう嬉しくて堪らない。しかし、然るべき場所にキスしてとねだるような素振りなどしていない。どうして?とは思ったが、単にアシタカの目には別の姿が映っている。長年培った演技力は恋愛分野では役に立たないと分かったので、素直でいるべきだと思った。それからなるべく本心を口にしないとまた妙なことになるかもしれない。
「あの……ティーセットが欲しいです。高価で無くて良いので二人で探して、二人共気に入ったものが欲しいです。結婚式典でも小蛇蟲がティアラの代わりです。これは譲れません。褒めるなら海辺の時のようなのが……うれ……し……」
やっと口にキスされた。やっと、ということはずっとそうして欲しかったということだ。無意識のうちにねだっていたのだろう。
「いっそ食器を一揃いにしよう。シュナ、君の反応はいちいち可愛らしい。キスをねだるようなのも可愛い。二人で探したいというのも愛くるしい。僕よりも長く君を見られる小蛇蟲が羨ましい。君の声が好きだ。真夜中に眠るよりも君の声が聞きたかった。あまりの寄る辺なさに国を飛び出した」
また耳にキスされて、思わず小さな悲鳴のような声が漏れた。前の容姿でもアシタカなら可愛いと言ってくれただろう。骨格を見れば分かるとはどういう視界を持っているのか。しかし、だからこんなにも満たされる。
「あの……私はその穏やかで温かい目がとても……す……好きです……。アシタカ様は何が欲しいです?」
これでもないという程、アシタカが満面の笑顔を浮かべてくれた。
「時間だ。鮮やかな未来を作る時間。君との時間。しかし有限で増やせない。時計にしよう。すぐに失くしてしまうんだ。シュナが僕の為にと選んでくれれば失くさない。ついつい見てしまうだろうから、しかと時間を管理出来る。机で突っ伏して寝ることもなくなるだろう」
「机で寝ていたら起こしますよ。眠れない夜にはアシタカ様が必要ですもの」
またアシタカが嬉しそうに笑ってくれた。尽くすのは得意だ。誠心誠意尽くせば、何かしら返ってくる。特に、この人からは返ってくる。万が一返ってこなくて落ち込んだとしても、愚痴を言う姉や友がいて、慰めて励ましてくれるのでやはり返ってくる。
「他にも欲しいものがあります。シュナ、君が欲しい。温かな食卓の灯りも欲しいし、子も欲しい。思い出も欲しい。そうだ、君のエプロンも欲しい。可愛いだろう。髪を纏め上げた姿を見たいので髪飾り。不埒な視線から君を隠す羽織り。僕が贈ったと自慢して欲しいのでネックレスやイヤリング」
それは女性が欲しがる物ではないのか?シュナがクスクス笑うとアシタカは至って真面目な視線で顔を覗き込んでくる。
「カメラを買おう。君の姿を残したい。離れている時に眺める。二人の思い出を記録すれば僕等の場合は永劫残る。歴史の偉人になるからです。シュナを幸せにしたと子々孫々に残す。それで僕も幸せだったと残る。世のため人のために励む者は幸せになるという常識を作らないとならない」
カメラ?何処かで聞いた名称だが、興味がなかったのか記憶が無い。アシタカが大きくため息を吐いた。シュナの肩に顔を埋めて動かなくなった。
「アシタカ様?」
「化粧品も欲しいです。雰囲気の違う君が見たい。ドレスも何着も必要だ。蛇一族も見たいというので白と青は必須。楽譜も色々と仕入れないと。花壇に色とりどりの花を咲かせたい。次から次へと出てくる。何が聖人一族。僕は欲まみれだ。今すぐシュナを抱きたい……しかしこれは却下。一生に一度なので国中に祝福される日、互いに誓いを立てる日が君に相応しい……待てない……あと何日だ……何時間だ……」
アシタカが次々とあれが欲しい、これが欲しいと口にしてはまた「あと何日」とぼやく。途中途中、シュナにキスを落とす。頭を撫で、頬も撫でる。それにしてもアシタカが欲しいと言うのはシュナの物ばかりだ。
「アシタカ様……思い出など買えないものはシュナも欲しいです。しかし他は要りません。そんなには買えません。置く場所もありません。シュナはそんなに沢山は要りません。足るを知る。アシタカ様のその気持ちで満足です。大満足です。欲張りなので子供は欲しいです。アシタカ様があれこれ買うと、シュナが男に何でも買わせる稀代の悪女になってしまいますよ」
「君の欲が無さ過ぎるからだ。エプロンくらいは許してくれるか?いやそうなるともっと欲しくなる。娘が生まれたら色々と揃いにしたい。息子なら僕と揃いの時計か?男はそのぐらいでないと嫌がられる。僕なら嫌だ。やはりカメラが必要だ。子供がいるならうんと沢山記録しないとならない。学習用の本も必要になるな。これは本家にあるか。それにしてもあと何日あるんだ……」
もう何度目かのキスをされた。それ以上はしてこない。段々と焦ったくなってきたが、アシタカの「国中に祝福される日、互いに誓いを立てる日が君に相応しい」という真心が嬉しい。
「アシタカ様……そんなに待てないのです……?」
そっと胸元に手を添えて、顔を近づけてみた。待てないなら、別に待つ必要なんて感じない。真心は嬉しいが、結婚式典までもうあと数日。アシタカの体が少し離れた。
「待てない。全くもって待てない。しかし僕の常識に反する。何より、君の尊厳を守らないとならない。シュナ、君からあまり近寄らないでくれ。無意識だったとはいえ人目を憚かららなかった僕たと、史上最悪、極悪非道な男になってしまう……」
アシタカがまたため息を吐いて、シュナの肩にもたれかかった。
「尊厳?そんなもの、とっくに守っていただいてます。史上最悪の極悪非道な男とはどういうことです?」
「伴侶以外の者に手を出すべからず。至極当然のことです」
アシタカの熱気を帯びた視線に射竦められた。
「あの……今は伴侶ではないということですか?」
恋人や婚約者は伴侶とは違うのだろうか?特に今のアシタカとシュナは、世間的にはもう夫婦で、アシタカの希望で夫婦という関係があとほんの数日保留なだけ。もう目の前に伴侶という関係性があり、境界線など曖昧。
「正式に、しかと宣誓する。僕は無自覚だったので自覚して再度誓わないと正式ではない」
切なそうなアシタカの表情で思い出した。考えておいて欲しいと言われた、新しい誓いの内容をまだ何も考えていない。
「分かりました。アシタカ様の事は何でも尊重します」
アシタカの思考を知るには、大技師教義やペジテ大工房の昔ながらの思想や習慣を学ばないとならない。顔色を伺いつつだが、アンリに聞いてみるしかない。シュナが質問出来る相手で、アシタカの本質を良く知るのはアンリしかいない。
「それにしても、シュナにはさっぱり欲がないな。これだけ僕が欲しいものをあげたのに、君はティーセットだけ」
アシタカがシュナの頭をそっと撫でた。欲がない?そうだろうか。この世で一番欲が深いのは自分だと感じている。
「欲深いですよ。強欲中の強欲。シュナはアシタカ様の隣にずっと居座ります。余所見をしようとすれば爪で引っ掻き、誰か近寄ってきたら毒の牙で噛み付きます。死後も、この座は誰にも渡しません」
「あはは。そうか。そうしてくれ。僕もそうする。ずっとこっちを見ていてください。なにせ愛しているなんて初めて口にした。シュナ、愛している。この世にこんな幸福があるのは知っていたが僕には無理、無関係、憧れは捨てるしかないと思っていた。ありがとう」
屈託無い笑顔が眩しかった。少し長めのキスをした。
ふわふわ、ふわふわ、ずっと夢を見ているみたいだ。そう思った。本で読んだ世界の中にいる。紙とインクの世界ではない。温もりと弾け飛びそうな激情。こんな風に生きていることを実感出来る日が訪れるなんて、夢にも思っていなかった。
アシタカの言葉こそシュナの気持ちだ。自分にだけは訪れないと思っていた。けれども、こんな日をずっと夢見てた。
私を守る者の為なら、死んでも惜しくないと思っていた命なのに、貴方に逢えた今では、いつまでも長くあって欲しいと思ってしまう。貴方の気持ちが変わらないようにとまで願ってしまう。
これを欲深いと言わずに、何が強欲だろう?
そう話したら、アシタカは何故かきつく抱きしめてくれた。




