フェンリスとアンリエッタ4
【崖の国 城塔内 客室】
一瞬意識が飛んでいた。アンリがぼんやりと周りを見ると髪を撫でられていた。アンリの髪を指で弄ったり、他人の髪をぐしゃぐしゃにしたり、ティダが髪に触れるのは慕っているという合図の一つだなとそんなことを考えた。
ティダは遠くを見ている。何もない宙をぼんやりと、寂しそうに、申し訳なさそうに見つめている。こういう時、声を掛けるべきなのか思う存分浸らせてあげるべきなのか判断がつかない。アンリにはティダの虚無感は想像出来ない。独特な思考回路だからだけでなく、育ってきた環境が違い過ぎる。
「何だ。起きたならもう少し続きをしよう」
アンリは思わず伸びてきた手を拒否した。先程までの圧倒的な孤独はなりを潜め、男特有の熱を帯びた笑み。それが今度は不機嫌そうに歪んだ。
「分かった。分かった。なら起きる……。君は一体そういう手管をどこで身に付けた?」
あまりにも不機嫌だったので思わず抱きついただけなのに、手管。
「違うわよ。激しくてついていけないの。そんなに不機嫌になると思わなかった。だから抱きついたの。機嫌を直してくれないかな?って。駆け引きじゃなくて反省よ」
恥ずかしくてならないが、ティダには正直に言わないと全く伝わらない。今の発言もどう捩じくれるか分かったもんじゃない。しかし、少し楽しい。一挙一動にこんなにも反応されることなんて初めてだ。激しくて息が出来なくなりそうだが、溺れていたい。
ティダが自分は狂った、頭がイかれたというがアンリも同じだ。護衛人、もしくは同じような仕事をする以外なら何もかも曲げても良い。親や兄弟、友人に囲まれて、祝福される結婚式も捨てた。共働きだが平凡な家庭も捨てた。どちらも密かに夢だったが、それよりもずっと大切なものを見つけた。
「機嫌を直せ?なら相手をしてくれアンリエッタ。君が俺を楽しませろ。それは嫌だ、恥ずかしいとはどういうことだ。いい加減慣れるだろう?そういう偽装なら……。それはそれで楽しんでいる俺がいる。ふむ。どうしたものか」
ティダが覆い被さってきてアンリは固まった。
「あのね、だから激しくてついていけないのよ……」
ティダの唇が首筋に落ちてきた。まるで無視されている。
「そう言いながら毎回気分良さそうだが?アンリエッタという女は珍種だな。だから俺はイかれたんだろう」
それはティダだ。そう言いたいのに上手く声が出せなかった。一体どれだけの女を抱いて、経験を蓄積してきたのか。この手が何人触ったのかと考えるだけで、焼け焦げそうな程憎たらしい。こんな風に苦しいまでの嫉妬心なんて今まで知らなかった。
「そういえば確認しておこうと思っていることがある。女と遊ぶなはどこまでが範疇だ?」
出た。これはもう不毛なやり取りだと思っている。ティダの欲とそれに関する常識はアンリとは違い過ぎる。気持ちが良いから続けたいと思いながらも、ティダの体を必死に押して、アンリは体を起こした。ティダは絶対に嫌がることはしてこない。少し力を込められたら体を押し返すことなんて出来ないのに、絶対に自然に引いてくれる。
「その件なんだけど逆ならどう?貴方が許せることなら、私も許すことにするわ」
ティダが目を丸めた。二人きりだと無防備で完全に素なのか、この子供っぽい表情をよく見る気がする。密かに嬉しかったりするが、口にしたら拗ねるだろう。拗ねるのは可愛くて見たいが、その後の照れ隠しの反撃が嵐のようで大変なのでアンリは黙っておいた。
「逆?俺は君の何もかもを許す」
口癖の「最悪」を言い出す程、辛そうな表情をしたティダにアンリは慌てて手を横に振った。
「相手よ。ほら、言ってくれたでしょう?私が余所見したら血の海。きっとティダが今のようにずっと優しく大切にしてくれるから余所見はしないけど、どういう相手が血を見るのかしら?私に何をしたら?」
一瞬、ティダが嬉しそうに微笑んでくれた。恐らく「ずっと優しく大切にしてくれるから」を嬉しいと思ってくれたのだろう。これだ。これが可愛くてならない。しかしもう酷い顔色に、恐ろしく怖い目をしている。
「そんなの決まっているだろう。邪な気持ちで君を見る相手が同じ空気を吸ったら嬲り殺しだ。しかしそれはやり過ぎなので、邪な気持ちで手を触れた瞬間にしよう。男が自分の服に手を掛けた瞬間も同様」
予想外に許容範囲が狭かった。ティダがまた機嫌良さそうになって、アンリの首筋にキスをして頭を撫でた。
「ならそれが丸々女と遊ぶなの範疇よ。あー、多少勝手に触られるくらいは許すわ。キスしたりしなければ」
ティダが頭を抱えて項垂れた。
「最悪だアンリエッタ。男と女はそもそも違うだろう?」
また出た。ティダ自論。アンリはもうこう呼ぶことにしている。同じベルセルグ皇国出身のシッダルタは至って普通の感覚を持っていそう。大狼かつ皇族なのでティダの自論は独特なのだろう。ベルセルグ皇国の皇族は一夫多妻で、さらには初指南役とかいう風習。それからティダの欲の強さ。
「そんなに耐えられないの?誓えとは言わないわよ。誓い破りで死ぬって言われても困るもの」
ティダが顔を上げてアンリを覗き込んだ。まだ不機嫌そうだ。
「なら許すと言うのか?」
「分からないわ。心底嫌でそっぽを向くかもしれないし、さようならかもしれない。あっさり許してしまうかも。そんなの直面しないと分からない。想像しただけで嫌だから嫌だって先に伝えただけ。他の女性が今の私みたいに扱われるなんて、胸が張り裂けそう……」
どう言ったら伝わるのかさっぱり分からない。アンリは枕を取って腕に抱きしめた。それから布団の中の足を折り曲げて少し丸まった。ここまで触るなと示したらもう触って来ないだろう。
「他の女性をアンリエッタのように扱うなんぞ俺の心臓が止まるまで無い。何を訳が分からないことを言っている」
ティダが心底不思議、そういう表情をした。心臓が止まる、嬉しくて心臓が止まるのはアンリの方だ。死ぬまで一生特別だと言われたのと同意義だ。
「なら他の人とキスしない?」
「だから善処すると言っている」
いつそんなことを言っただろうか。ムスッとしたティダがアンリの肩に手を回した。
「もう忘れたのか?善処するが、あるのは俺なりの誠心だけだ。俺はすぐ間違える。酒にも女にも弱く、本能の欲には逆らえん。睡眠、食欲、性欲なんざ減れば満たすだけだ。そこには別に感情も無い。アンリエッタ、君の思考はさっぱり理解出来ん。しかし他ならぬ君が嫌だと言うから善処するんだ」
そういうことだったのか、と少し納得した。そしてあまりにも嬉しかった。
「私とこういうことをするのも特に何とも思わないの?減れば満たすだけって」
ティダならアンリが想像もつかないような返事をくれる。しかも、真心しかない、貴方が大好きですという返事。今すぐティダに抱きついてキスしたい衝動が押し寄せている。
「そういえばそうだな。全く満たされん。いや、満足するがすぐ減る。他だと唆られんが、余りに減るのでまあ適当に食うかと思ったんだが、アンリエッタが余りに縛るので善処している。縛られる前に盛大に遊ぶかと思ったんだが先手先手と小賢しい」
アンリは全身熱くなった。何をどう気に入られたのか分からないが、相当好かれている。女を抱くのは一度で飽きるのに、アンリには飽きない。アンリにだけ唆られる。しかし余りに減るから適当に食うかという発想がとんでもない。盛大に遊ぶとは何をするつもりだったのか。時々指摘しないと、アンリの常識の範囲を超えた行動をしそうだ。
「ありがとう。ティダの善処、それで十分だわ。ねえ、何かしたらもう少し満たされるの?何がそんなに不満なの?欲しいものがあるとか?」
ティダを見上げると、ドキリとした。熱気を帯びた視線に射すくめられる。
「欲しいものなど別に無い。アンリエッタ、君が生きて隣にいる」
ティダの寂しそうな微笑みにアンリの目から涙が落ちた。アンリを見ているのに、遠くを見ている。漆黒の瞳の奥の、虚無感で胸が痛い。その表情はあっという間に消えて、面倒だという顔に変わった。
「怒ったり笑ったり泣いたりとアンリエッタは本当に気分屋だな。俺よりも気分屋とは直した方が良いのではないか?」
ティダの骨ばった指がアンリの涙を掬った。ティダの唇がアンリの唇にそっと触れた。いつも最初のキスはとても優しい。壊れないように、宝物のように扱ってくれる。そしていつも少しだけ震えている。
もっと早く気付けば良かった。
多分いつもこう思われている。生きている。確かに生きている。気をつけないと隣から居なくなる。それから、ソアレに申し訳ない。だからティダはいつも少しだけ震えているのだろう。
「私は欲しいものがあるわ。それも沢山。善処してくれるのでしよう?」
ティダが怯んだ。アンリが欲しいものを与えられなかったら逃げられる。そういう怯えだ。段々ティダの考えが分かってきた気がする。
「ああ。善処するが必ず与えるとは言えん。俺を縛る上に更にとはなんて欲深い女だアンリエッタ」
言葉とは裏腹に満足そうな笑顔。優しい眼差しに、頭を撫でるこれまた優しい手つき。「期待に応えられる自信がない。しかし最大限努力をする。大切な君に言われると、そうするしかない。可愛い奴だな」ティダの言葉の裏側はこんなところか?可愛い、なんて可愛いのだろう。他の人はこんなティダを知らない筈だ。
「善処してくれればそれだけで嬉しいわ。もし手に入らなくても。こういうのは気持ちが大切だもの。ティダなら目一杯私のために色々してくれるでしょう?」
「その目を止めろアンリエッタ。世は結果だ。気持ちが大事?それこそどう推し量る。本当にアンリエッタは訳が分からん事ばかり言う」
やっぱり言葉とは裏腹に、すごぶる機嫌が良さそう。アンリはティダの首に両手を回した。それからそっとキスした。
「ティダの地獄に花など咲かないって言ったわね。咲くわ。私を大事にしてくれる貴方がいるもの」
ティダが破顔してからキスを仕返してくれた。ここまでの笑顔は滅多に見れない。幸せが爆発しそう。
しかし、このまま徐々に激しくなったらいつもと変わらない。ティダに必要なのはこの先だろう。
「本当に妙な女……」
アンリはティダの唇を唇で塞いだ。それから少し離れて真っ直ぐにティダを見つめた。
「燃えて炭になっても蘇るように咲く。血塗れの大地にだって咲く。私が咲かすわ。だから欲しいものをこれだけは頂戴。貴方の気持ちと子供。余所見もしないし死なない。私はティダの地獄を一緒に歩かない」
愕然としたティダは何を考えたのだろうか。子供なんて持って、自分は知らない土地で暮らしたら地獄。まあアンリが言うなら仕方ない。絶対そういう事を考えている。ティダがズルズルと倒れていった。最大限環境を整えたら子を作る、そう言っていたが絶対にそんな日は来ない。ティダはそういう生き方しか選ばない。
「分かった……許そ……」
アンリはティダの上に乗ってもう一度キスした。
「許さないで。隣に居ろって言って。死んだら許さないって言って。余所見をしたら殺すって言って。引っ張って地獄じゃない所へ連れて行くわ。そんな場所がないなら地獄に満開の花を咲かせる。私が死んでも二人の子が貴方を幸せにしてくれるわ。最大限善処して強くなるから、絶対に置いていかないで隣に居させて。勝手にどっかにいったら銃弾の雨の中でも突っ込んでいくからね」
青ざめているティダに更にもう一度キスした。多分、これが正解だ。愛されたい。違った。仕事をしたいのを許して欲しい。違った。追いかけて欲しい。違った。今迄の恋と何が違うかハッキリと感じる。
幸せにしたい。
傍若無人に振舞って、遠くを見て、人に与えることばかり考えている男。だったらアンリが与える。
「アンリエッタ……支離滅裂だな。銃弾の雨に突っ込んでくる?子はどうする。そんなに欲しいならかん……」
「待てない。欲しいったら欲しい。ティダが居るところなら何処にでも連れて行く。父親不在で何て育てない。私が守るから絶対に貴方と離さない。死なせたくないなら見ず知らずの他人よりも自分を大事にしなさい。貴方を生かしたソアレさん、貴方にこそ生きていて欲しいの。ティダ、それが彼女の望みよ。生きて幸せになって。それがティダを大好きだった死者の願いと祈りよ。折りたくない矜持に付き合うから、私と彼女の願いと祈りとの妥協点を探して」
泣きそうな表情のティダが顔を背けようとしたが、アンリは両手で頬を包んで真っ直ぐに目を見た。自分がどんな瞳をしているのか知らないが、この目に弱いならずっと見る。毎日、毎日、ずっと見つめる。
「離せアンリエッタ。そんなに血塗れにな……」
「何人殺したんだか知らないけど、何人助けたのよ。言っておくけど凶悪犯は即射殺。私も命に優劣つけてきた。ティダと同じよ。聖人君子だと思った?」
ティダがゆっくりと起き上がった。背中に回された腕の逞しさ。ここまできたら滅茶苦茶にされたい。手加減なしの本気でもっと乱して欲しい。
ここまで嫌なところを突き刺してもティダなら逃げない。そのぐらい気に入られた。そういう妙な自信がある。
「何を言い出すかと思えばそういう嘘はいらん。本当に好き放題だな。俺を大好きだった?あのなあソアレは……」
「嘘じゃないわよ。アシタカに聞けば?ヤンでもフォンでも、この国にくる私の部下でも、婚約して初めてを捧げて貴方以外で私を知るラジープでも、誰にでも自由に聞きなさい。ソアレさんがティダを大好きだったかなんて知らないわよ!何で死んでそんなに拘っているのかも何で私が二番手なのかも。何も教えてくれないから知らない!私が彼女だったらって話よ!貴方を好きでもなくてこんなに縛っている女なら、絶対に蹴落とす。絶対に私が一番になる」
嫉妬で狂え。私に狂え。イかれ続けろ。永遠の二番手に何てなってなるものか。死者には勝てない。けれども生きて添い遂げる私に敵う死者はいない。生きているという温もりを与えられるのは、生きている者だけだ。
「ラジープ?誰だそりゃあ?」
長々と告げたのに引っかかったところはそこだけらしい。燃えろ、燃えろ、燃え上がれ。
「結婚しても仕事を続けて良いって言っていたのに、部署を変えろ、やっぱり仕事を辞めて家にいてくれって頼むから捨てた男よ。欲しい物をくれない男なんて要らない。この世で私を一番甘やかして大事にしてくれて、私だけを見てくれる男。私以外の体に欲情しても指一本触らない理性保てる男。私が愛し続けるのはそういう男よ。今の所見所があるのはティダだけね」
ティダはこのぐらい高慢なぐらいの方が燃える男だ。案の定ティダが高笑いしはじめた。
「随分間抜けな男がいたもんだ。どんな女かなどすぐに分かるのに相当な阿呆だ。しかも折角君に手をつけたのに、アンリエッタはまるで生娘のようだった。本当はこんななのにな?」
どうしてこうも悩ましいくらい焦ったい。なのに絶妙に感じさせる触り方。この指の向こうに、唇の向こうに幾多の女がいるのか。
「ねえティダ。好きよ。大好きだから……」
幸せになって。いつか幸せだと言って。今のティダはまるで大狼の黄金太陽の瞳のような獣の視線。ソアレとかいう女とアンリの祈りと願いは届かないだろう。生きていると実感したくて堪らないのなら、満たして満たして溢れさせる。ティダの幸福はきっとその先だ。自分自身の虚無感と、人間の三大欲求がごちゃ混ぜになっているうちは、ティダは何も自覚しない。
「滅茶苦茶にして……好き勝手にされたいの……」
ティダの暗く、深く、悲しい瞳が欲情に染まっていく。この瞳の方がまだ良い。過ぎ去った戻らない日々よりも今を見て、いつか未来を見つめて欲しい。他人のではなく自分自身の明るい未来。
「へえ。なら俺を楽しませてみろアンリエッタ。褒美に極上を与えてやろう。そんなことまで言えるなら何でも出来るな?」
アンリは小さく頷いた。
また始まる。その合図のティダからのキスは噛み付くように凶暴だった。それなのにやっぱり優しくて、少し震えていた。
こんな激しく辛い恋があるなんて知らなかった。だから猛毒、か。全身に毒が回れば耐性がついて何とも思わなくなる。むしろ毒の苦しみから解放されて天にも登るような気持ちが現れるだろう。
アンリエッタありがとう、幸せだ。
そうティダに言われることがアンリの新しい夢だ。当たり前に言われたことがある台詞なのに、そんな夢を持つなんてそれこそ夢にも思わなかった。
***
病めるときも、辛いときも、悲しみのときも、貧しいときも、苦しいときも、恐怖に襲われていても、心臓を突き刺されようと、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、命ある限り、真心を尽くすことを誓います。




