外伝【ティダとソアレ 6 】
【激情に燃える太陽:煌国破裂と業火大華】
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光陰矢の如し。
初秋。紅葉がまだ色付き始めたばかりで、爽やかな若草色の頃。テュール皇子と過ごす二度目の秋。
幕は切って落とされた。
世界はある日、突然、様変わりするもの。
ベルセルグ皇国、皇帝陛下崩御。
さあ、悲鳴が上がる。
∞ ∞ ∞
皇帝陛下の病死。心臓発作で片付けられた、突然死。私は喪服を身に纏いながら、姿見に写る自分へ自問自答。
どうする?
大狼狩りとは、皇帝陛下暗殺だったらしい。まさか、そこまでとは思ってもみなかった。不自然な突然死は、そうに違いない。証拠は無いが、確信がある。
ティダ皇子は自身の常日頃の発言通り、皇帝就任を拒否。若輩だの、力不足などと言い訳を並べて、叔父であるレオン宰相を皇帝に推薦した。
大狼狩りを始めた者は、さぞ肩透かしだろう。
しかし、皇帝レオン誕生を、多くの国民は受け入れない。
この国は、確実に分裂する。
「ソアレ、着替えは中止だ」
背後の襖が開く音がして、次にテュール皇子の声。私は振り返った。テュール皇子の顔色は悪い。
「皇居から避難だ。市街地の雰囲気が良くない」
私は、分からないという顔をした。
「避難?」
「念の為だ。今年は不作で、市民からの不満が多い。訴えが通らなくて、御所を襲撃とか、そういう歴史もあるのでな」
全然心配いらないというように、テュール皇子は私の両手を握り、柔らかく微笑んだ。しかし、その表情は固い。顔色も悪い。
テュール皇子は、皇帝レオン就任の危険性を理解している。ティダ皇子に散々、自分を取り巻く状況を考えろと訴えてきた。それに対するティダ皇子の認識は甘い。そしてテュール皇子こそが前に立てという激励ばかり。
「左様でございますか……。テュール様と長く離れ離れとは……寂しいです」
口にして、私は泣きそうになった。長く……下手したら、これが最後。長くではなく永く、だ。
私はテュール皇子の頬に右手を当てた。テュール皇子はそっと私を抱きしめてくれた。これから、自分がしようとしていることを考えると、体が震える。
この約二年、ちっとも、男としては好きになれなかった人。しかし、人としてはとても好いている。
——私に必要なことは、テュール皇子の恋心と真剣に向き合って、恋に落ちること。
真剣に向き合った事なんてあっただろうか? 私はいつも、いつも、この人の愛情から本心を隠す事に、神経を注いでいた。傷つけたくないと、必死になった。本音で、真剣になんて向き合った事は無い。
最悪な女だが、一つ良いところもある。最悪だから、忘れてもらえる。
テュール皇子を愛したかった。世間知らずな女、井の中の蛙でいるべきだった。それが、私が幸福になる道だったのに……。
「怯えるな。大丈夫だ」
テュール皇子が私から少し離れ、私の頬を撫でた。春の陽だまりを閉じ込めたような、優しい眼差し。誠実で、真っ直ぐな、素敵な皇子様。ティダ皇子の輝きに隠れているが、彼がいなければテュール皇子は誰よりも光り輝くかもしれない。
なんて、妻の欲目。
「ふふっ、テュール様が大丈夫と言って下さると大丈夫だと強く思えます」
私は目一杯の感謝を込めて、笑った。
「避難なら、目立たない服に着替えた方がよいのですよね?」
「ああ。私の部下が何人か来ているし、ミンメイ達にも支度させている。何でも自分でしたいという我儘も、今日は諦めなさい」
悪戯をする子供をあやすような声を出して、テュール皇子が私の手を引いた。
「はい、テュール様。あの……テュール様から戴いた文などを持って行きたいです。まとめるので、そのくらいは許されます? 念の為なら、急ぎではないのですよね?」
作戦変更。このままだと、私は動けなくなる。テュール皇子の傍にいるべきだと、理性が本能を脅かしている。
「私からの文? そんなもの、持っていかなくとも……」
「そんなもの? 私の宝物でございます。今の発言、聞き捨てなりません!」
よし、よい流れ。私は怒った振りをしてテュール皇子を部屋から追い出した。施錠音がしないように、細心の注意を払い、鍵を掛ける。
いつでも去れるようにと、喪服の下に着た服装になる。下位官吏の服。窓から外へ出て、もうかなり慣れた経路を、忍び足で進む。
目指すは龍王御所。
時が来るまで、状況判断の材料探し。陽月御所の床下に必要そうな物は、全て準備してある。
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龍王御所内を歩き周り、盗み見に盗み聞き。しかしまあ、この国の皇居の警備は手薄過ぎる。小娘が好き勝手にうろうろ出来るとは、要改善案件である。仕方が無いか。皇居の居住者以外だと、皇居に入るのに厳しい身体検査などがある。皇居と街を隔てる厳しい関所。あれのせい。
適当な部屋に入り、自分も働き手の一人だというように書類を手にして座る。ここは資料室だか、図書室のようなところで、人の出入りが激しい。前髪で顔の半分を隠し、軽く顔色が悪いような化粧をした私は、この部屋で正体を見抜かれた事はない。親戚と間違えられるので、頷くだけ。
「聞いたか? ティダ皇子はレオン様の皇帝就任に不服らしい」
「当然だよな。しかし、皇太子を押し退けて皇帝就任とはどういう事だろうな?」
「まあ、中央政権を掌握されているのはレオン様だからな」
書類を読む振りをしながら、官吏達の会話に耳を傾ける。本人が皇帝就任を拒否した話は出回っていないらしい。
「ティダ皇子がまた消えたらしいが……ここだけの話……市民と共に不服申し立てをするんじゃないかって話だ」
「市民というより、最早中央政権以外じゃないか? レオン様が皇帝なんて……」
ヒソヒソ話だが、良く聞こえる。何の部屋か分からないが、新しい人物が入室してきたので、官吏達は口を閉じた。
それきり、何も聞かなくなった。気配を消して、去るか。私は読む振りをしていた書類を机に戻し、そっと立ち上がった。
ティダ皇子はまた不在。こんな大事な時に、一体どこへ行っている。テュール皇子の青ざめた表情はそのせいかもしれない。
龍王御所内では、大した情報は得られなかった。
私は西狼御所へと向かった。ティダ皇子が暮らす御所には、彼が取り立てた官吏も住まう。西狼御所では人に見つかると、かなり怪しまれる。見ない顔は不審者だから。気をつけて、隠れながら探らないとならない。裏庭から、床下に入り、聞き耳を立てるというのがいつもの手段。
「テュール様! ティダ皇子はどこへ行かれたのですか⁈」
男の怒声に、テュール皇子の名前が混じっている。
「知らん! とにかく、異議申し立てなどはするな!」
「しかし、テュール様! 我等が表に出なければ市民の爆発は止められません!」
「街での様子を報告されましたが、蜂起は間も無くです!」
「皇国兵と市民がぶつかるのを黙って見過ごせと⁈ 誰かがティダ皇子の名を語り、煽っています! 皇居内に皇国兵、市民、どちらも扇動しているようなのです!」
仕入れた情報通りの展開らしい。状況を把握しているのは、自分だけではなかったと安堵。私は、何もしなくても良いかもしれない。
「革命軍とは……私は街へ向かい、接触を試みる。中心人物達の検討はついているが……念の為誰か、ついてきて欲しい。ティダと街へ出ていた者を頼む」
「そのような危険な真似はさせられません。それは我等で既にしています! テュール様、貴方に何かあればティダ皇子の潔白を発言してくださる方が居なくなります!」
テュール皇子は板挟み。私が守るべきなのは、彼も、である。
聡いティダ皇子が、この状況を予想していなかったとは考え辛い。
「あの大馬鹿過剰男! 私達にどうにか出来る案件だとでも判断したのだろう。脇が甘過ぎる!」
テュール皇子のこんなに大きな声は初めて。悲鳴のような絶叫。
私の頬に、涙が伝う。テュール皇子の推測通りだと私も感じている。少々ごたつくが、自分以外の、自分が信頼寄せる者ならどうにか出来る。自分が居なくても問題ない。それが、ティダ皇子の判断。
彼の優劣は残酷である。
心を砕く、故郷か何処か——恐らく大狼達——が彼の最優先。この国は二の次。それを知らない、ティダ皇子こそが自分達を救う者だと信じて疑わない多くの国民達。
「馬鹿……。自分への好意の強さに気がつかないからこうなるのよ……」
震える手で、私は自分を抱きしめた。革命軍と名乗る市民。新皇帝への叛逆者を鎮圧せよという中央政権に軍部。間に入ろうとする、この西狼御所の官吏達は絶対にレオン新皇帝に潰される。
国に戻ってきたティダ皇子は、恐らく国家反逆者として逮捕、処刑台送り。
革命が上手くいったとしても、この西狼御所の官吏達は、革命軍達に官吏という括りで滅ぼされる。テュール皇子も同様。ティダ皇子が間に合えば、回避出来るかもしれないが、私の家族達や側女達はどうだろうか? 美しい皇居は蹂躙される。
地獄だ。
前後左右、どの道を選択しても、地獄しかない。ティダ皇子が守りたい者は包囲されている。道を切り拓けそうな、肝心の本人が不在。
今の状態だと、ただ一つの道を除いては地獄だろう……。
多分、私はその一つの道を作れる。
西狼御所の床下から出た。その際に、準備してあった文を懐にしまう。必要な所へ、必要な文を配置しないとならない。
なんとか誰にも捕まらずに、無事にやり遂げた。それで、私は一度陽月御所へと戻った。
床下に隠していた衣服に変える。ナイフを懐に忍ばせる。陽月御所内は慌しい。私の不在はとっくに見抜かれ、捜索されている。
深呼吸して、最後の自問自答。私はこの道を進むので良いのか?
——私は太陽の名を持つ娘。たった一人の殿の為に生まれてきたのです
そうだな。その通りだなと私は自分に対して頷いた。
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馬小屋に行き、馬の確保。皇居侵入は難しいが、逆は容易。皇国兵の格好なら特にそう。自分にそう言い聞かせても、手汗が酷い。
乗馬はまだそんなに得意ではない。滑りそうな手綱を強く握りしめ、私は皇居関所へと向かった。案の定、簡単に抜けられた。名前と所属を言えば良いだけとは、こちらが心配になる。
関所より続く道は二種類。中央は万階段。その左右に馬や馬車、牛車も通れる坂道。私は左手側の坂道へと進み、しばらくゆっくりと下った。
皇居が遠ざかると、馬を止める。
「レージング! レージング聞こえるか! 化物聴覚ならば聞こえるのだろう! 主を呼べ! これより主の背に乗る何もかもが滅びる! ソアレが死ぬ!」
黒狼は西狼御所に居たのを確認している。
これで、あの黒狼が反応するかは不明。ティダ皇子を呼びに行くとは思えない。人の言葉を理解しているなら、西狼御所の喧騒の時点で黒狼はティダ皇子を呼びに行っている。
「テュールとソアレが死ぬぞ!」
大狼とテュール皇子、大事な弟分の妻である私。ティダ皇子の優劣はどちらだ?
私は馬を蹴り、市街地へと向かった。皇居坂道が終わるまでは順調。しかし、坂道を下り切ると、馬に放り投げられそうになった。滑り落ちるように地面に降り、馬の足から逃げる。
馬は逃げてしまった。あとは、走るしかない。しかし、鍛えてはきたが、所詮は温室育ちの令嬢。全速力も長くは続かない。
私は下準備してある空き家へと向かった。父の所有物の一つ。早歩きで街を進む。人が少ない。あちこちから、西へ、そういう話が聞こえてくる。
間に合え、間に合え、間に合え、そう念じながら、私は足を進める。
空き家で着替え。皇族を示す黒装束。背は厚底靴で誤魔化す。装束の下に、布で作ったものを仕込んで体格も大きく見せる。黒い外套はティダ皇子の私物。先月、テュール皇子と西狼御所を訪れ、寒いと嘘を付いて、口八丁で奪い取った。
国紋である、三頭ハイエナの銀刺繍にそっと口付けをして、岩窟龍へ祈る。これを羽織るのは、今ではない。
どうか、彼を慕う者を、この国の大勢の者に加護を……。
「酷い匂い。鼻が曲がりそう」
ティダ皇子は耳だけではなく鼻も良い。もしも、彼が戻ってきたら、寸前まで正体を見抜かれる訳にはいかない。
割れた窓で、自分の姿を確認。革命軍とやらと接触している、ティダ皇子の偽物よりは本物に見えるに違いない。
あとは……これから自分がしようとしている事に、身の毛がよだつ。喉を潰す。本当にそんな恐ろしい所業、出来るのだろうか? しかし、私の声のままだと、女声だと何も出来ない。練習しても、大きな男声は出せなかった。ボソボソと喋るならどうにかなるが、皇居内を男の振りをして忍び歩いていたのと、今からは違う。
この国で一番度数の高い酒を喉の奥に含み、顔を外套に押し当てて絶叫。これで駄目なら、物理的手段である。
肌に触れると激痛がする草も、同じく口に放り投げた。焼けるように熱い。
覚悟を決めろ、もう戻れない。自分に言い聞かせる。大粒の涙がいくつも落下していった。
努力の甲斐があり、見事に嗄れ声。やり過ぎず、不足過ぎない。ティダ皇子の声とはそんなに似てないが、女の声だとは分からない。どうにかするしかない。
狼を模した仮面を懐に忍ばせ、漆黒の法衣を羽織る。
後は、革命軍を探し出して、様子を探る。
西の外れにある、奴隷が住まうという農村地区だと調べはついている。
西へ早歩き。太陽が燃えあがる紅蓮となり、西へと向かっている。私と同じだ。
徐々に街外れになり、人が増えていく。興奮強そうな市民ばかり。
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さあ、立ち上がれ!
戦え!戦え!自由を掴むために戦え!
龍が現れ、岩を砕き、ひらけた大地へ雨がそそがれ、命を育む!
自由を今こそ、この手に掴め!
龍が現れ、宝に満ちた穂を揺らし、命を繋ぐ!
ついに我らに龍の王が現れた!
我らこそが龍の民!
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群衆の中で、私も歌う。こんなにも、この国は悲鳴を上げていたのか……。
皇居でのほほんと暮らしていて、現実感が薄かったが、全身が震える。自分達とは違う、痩せた体に、血走った目。子供の異常な手足の細さに涙が出そうになる。
農作物の不作と聞いて、食事量が減った。貴族の私と、国民では大きな隔たりがある。
こんな世界、知らないでいたかった。
「日没と共に皇居へ向かう!」
革命軍の主要人物を探さないとならない。その中に、ティダ皇子を騙る者がいる。
私は人混みをかき分け、方々歩いた。
日没、早くしないと日没となってしまう。
「シッダルタ、ティダ皇子が見当たらないのだが知らないか? 予想以上に人が増えていて、指示を仰ぎたい」
「ティダが居ない? さっきまで、酒を飲んでいただろう? 居ないとは……」
不意に、飛び込んできた台詞に足を止める。市街地でティダ皇子を呼び捨てにする者がいるなんて驚愕。土埃で汚れる黒髪を三つ編みにして、横流しにしている青年と、体格の良い壮年。
「シッダルタ、お前なら検討がつくだろう?」
「いや、まあ、多分……。何を考えているか、相変わらず分からない。今日は寡黙だし……」
ブツブツ言いながら、小走りで川の方へ向かった青年をこっそり追いかける。シッダルタ……シッダルタ……何処かで聞いた名前だ。何処でだろう?
河原に黒装束と黒い外套が翻る。私は草陰に身を隠した。
「ティダ! 何をしているんだ?」
ティダと呼ばれた人物が、シッダルタの掛け声にゆっくりと振り返った。私が持ってきた仮面と良く似た狼を模した仮面をしている。岩窟龍王の偶像を模したこの仮面。考える事は皆同じ。皇族しか使えない代物があれば、顔を隠しても騙される。
「少し、考え事だ。日没に出るぞ」
一瞬、ティダ皇子かと思った。そのくらい、似ている声だ。しかし、喋り方、声の出し方が全然違う。
「ああ。人も続々と集まっている。それで、困惑していて……」
「なら、すぐ戻る。状況やこれからの手筈を脳内整理していてな」
「そうか……。向こうで待っている。皇帝たる男が一部の者に邪魔されて皇帝になれないなどおかしい。国中がティダ、君の味方だ」
気合い十分というシッダルタに、ティダ皇子を騙る者は小さく頷いて、体の向きを戻した。
シッダルタの姿が遠ざかる。私は懐からナイフを取り出して、草陰を移動した。体格はティダ皇子よりやや小柄。つまり、今の私となら入れ替わっても気づかれ難いだろう。
「全く、こんな役回り……とっとと逃げないと……」
ティダ皇子として、国民を煽りに煽って、皇族とぶつからせる。この偽物が消えると、ティダ皇子が何と反論しようと、真相は闇の中。
やはり。こういう計画。調べ上げた計画通りである。
私はティダ皇子の偽物に突撃した。全身が震え、恐怖で叫び出しそうになる。しかし、声を出したら、シッダルタという青年に気がつかれる。
狙うは心臓を一突き。外したら、そこで終わり。護身術を学びたいとゴネて、この一年、かなり身のこなしが良くなった。隙も突いたので、私が手に握るナイフはティダ皇子の偽物の体に深く沈んだ。
これが、人を殺す感触……。
「なっ、何や……」
「さあな。地獄で会おう」
掴み掛かられる前に、突き飛ばす。次は蹴り。最後は体当たり。川に偽ティダ皇子が落ちた。泥色の川に、暗褐色が広がるも、激流へと流されていく。
これで、もう後戻りは出来ない。
私はサッと身を潜めて、周囲を窺った。シッダルタは今の殺人に気がついていないよう。
ティダ皇子として、革命軍の先頭に立つ。途中で投降して、皇国兵に偽物だと披露する。捕縛され拷問されるだろう。
問題は顔。それからこの体。顔は今から焼くが、女だという事実はどうするべきなのか、捕縛直後にサッサと誰の陰謀か吐けば体は見られなくて済むかもしれないと考えているが、拷問にまで進むとどうだろう?
顔を焼く。拷問。目眩と吐き気に襲われる。
皇居中にティダ皇子を蹴落とす計画を匂わせる文をばら撒いた。
人を殺した。
私は、この地獄の花道を進むしかない。
ここまでするとは、私は狂っている。しかし、瞼の裏には極楽のような梅園。どうしようもなく、愛しているのだ。
彼の愛する者まで守る事が、真実の愛だろう。私はそう思う。
——聞きました? ラン妃、ティダ皇子と良い仲だとか
——様子見してても何も気がつかない阿呆。見かねて少し整備した。後宮管理くらいしろ。妻の周辺にも気を配れ。
私の周りからは、いつも不穏が消えていく。
誰のお陰なのか、後から分かる。
——新妻は、唯一無二の大華を望んでいるらしいぞ。テュール、お前が裏切ったら、弟分として喉元を噛み切ってやろう。
テュール皇子にそれとなく回ってくる縁談話を潰すのも、ティダ皇子である。
そういう事を、私はこの二年の間、皇居内をうろついて知ってしまった。
蘇る、今年の春先の朧月夜。眠れなくて、こっそり陽月御所を抜け出し、龍王御所、皇居真っ正面にて酒を飲んでいるティダ皇子の姿と台詞。
白狼にもたれかかり、親愛こもった瞳で白狼を撫でるティダ皇子を見つけてしまった。それで、聞いてしまった。
——なあヴィトニル。あの女は訳が分からん。一度は友と恋仲だと思い、諦めた。なのに大嘘つき女。またその話? 黙れ、お前にしか話せんのだから聞け
隠れたが、匂いや音で気がつかれると思った。白狼と一瞬目が合ったので、慄いた。しかし、ティダ皇子はかなり飲んでいるせいか気がつかなかった。彼の傍に、酒瓶が何本も転がっていた。
——追いかけても、拐しても、他の女を使って気を引こうとも、何もかも与えられる男なのにこちらを見ない。指一本触れることすら拒絶。扇でも駄目だとよ
よしよし、というように白狼の尾がティダ皇子の頭を撫でた。
——それどころか他の男に嫁ぐ。おまけにその夫にも気がない。後宮に、いやこの世の女達に喧嘩を売る。全く、最悪だな。あれは本当に毒花だ。囲うのに手間暇ばかりかかる。何を考えているんだか……女帝か。あの軟弱臆病が皇帝になるから、その上に君臨するのか
それは違う。何故、そんな発想に至る。私は思わず心の中で突っ込んでいた。
——ふははははは! あれは年老いて容姿醜くなる程に、内側から光り輝くぞヴィトニル。あの気性の激しさは炎のようだ。里に帰っても見に来ないとならないな
ベシベシ、ベシベシと白狼の尾が強くティダ皇子の頭を殴った。
——固執するなと言われても本能だ。まあ、友の女に手は出せん。なのに、他の女に食指も動かなくなったし……。はあ……この俺の子を残せんのは、世界の損失なのに……化物女め
益々、白狼がティダ皇子の頭を殴った。私こそ彼を殴りたい。最悪、毒花、おまけに化物。何て言い草だ
——煩い。黙って聞け。親友の愚痴くらい聞け。性欲という本能を律しろ、誓え。誓いを破ったら死なないとならないのに、恐ろしい無理難題だろう? 本能に抗える生物なんざ存在しない。
駄目だ。この人は訳が分からない。思考回路がサッパリ分からない。誓いを破ったら死なないとならない?
バシバシ、バシバシ、バシバシとティダ皇子の頭を殴る白狼。少し、応援してしまった。
「痒いから止めろ。何だ、久々に決闘するか?」
私は、ぼんやりと白狼とティダ皇子の決闘とやらを眺めた。ティダ皇子は、人ではないのかもしれない。化物である大狼とじゃれ合うように、戦う姿にそう感じた。
私は、あの夜に自分の選んだ道が大間違いだと、よくよく理解した。彼の本質を見抜けなかった。もっと話をしてみれば、彼の本心を知れたかもしれない。お互いの妥協点を見つけられただろう。
そして、気がついた。私がこの国にいる限り、彼はベルセルグ皇国から完全に離れない。
それならば……。
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持ってきた麻酔薬を顔に塗る。一度試したので、効果は確認済み。
しかし、焼けるだろうか?
絶世の美女とまで謳われる、この顔をこの世から消滅させる。
しかし、もう人を一人殺してしまった。そして、今の状況。誰かが何かしない限り、このベルセルグ皇国は火の海になる。
私は意を決して、持ってきた小さな松明に火をつけて、顔に近づけた。熱い。熱過ぎる。こんな事……するしかない。もう、後戻りは出来ない。したくない。
今更、テュール皇子を裏切ってティダ皇子の胸に飛び込む事なんて出来ない。日増しに増える、テュール皇子への罪悪感で、いつか私は首をくくるか、入水する。
いつか死ぬなら、この命はこのベルセルグ皇国へ捧げる。そう、決めたのだ。
口に入れた布に、絶叫がくぐごもる。髪にうっかり火を燃え移らせてしまい、麻酔をしていない頭皮が焼けた。慌てて泥川へ顔を突っ込む。
頭に麻酔薬を塗るか迷ったが、松明、麻酔、その他、今後使わなそうな物は全部川へと捨てた。激痛が、ここまでしたのだから進めと、そう告げる。だから、これで良い。
仮面を被り、草陰に置いておいた外套を羽織る。ふらつく足に力を入れて、拳を握り、歯を食いしばる。
破滅へと歩むのだ。
それが、この国の太陽となる道である。そう信じて。私はシッダルタに近寄り、彼の肩を叩いた。
「行こう。陽が沈む」
心臓が爆発しそう。この声色、見抜かれる。
「酒の飲み過ぎだティダ。こんな時にまで飲むとは、酒好きではなく酒狂いだな」
呆れ顔を浮かべ、シッダルタが足を踏み出す。私も彼の隣にならび、進む。酒灼けと勘違いしてくれて助かった。
「なあ、ティダ。これだけの民が嘆願し、皇太子たる君が先頭に立てば、話し合いに持っていけるよな? 俺、皆を説得しているけど耳を貸さない。ティダからなら聞くだろう? 君ならそういう話をすると思って……」
私は返答に困った。このシッダルタは平和的な道を模索している。しかし、多分、ティダ皇子はそういう手段を選ばない。今のままだと……。
「ああ」
私は力強く頷いた。
背負いたくないという、優劣低いこのベルセルグ皇国をティダ皇子の中の最上位に引き上げる。
私の作戦の本質はそこにある。
安堵の表情を浮かべたシッダルタの額を、私は三回指で弾いた。黒革の手袋で誤魔化している。ティダ皇子がテュール皇子に良くする仕草。この青年にもしている気がする。案の定、シッダルタは少し嬉しそうな笑みを浮かべた。顔立ちはまるで違うのに、テュール皇子そっくりな笑い方。
ティダ皇子が好きで、尊敬している。説教されたり、認められて嬉しい。そういう顔である。
「行くぞ」
方向は何処だか分からないので、足を進めつつ、シッダルタにほんの少し先を歩かせる。
男の癖に男誑し。いや、人誑し。私は心の中で、ティダ皇子へ毒づいた。
——あの大馬鹿過剰男! 私達にどうにか出来る案件だとでも判断したのだろう。脇が甘過ぎる!
反乱軍というより、国民ではないか? どんどん集まっている人の数の多いこと。皇居で見たことのある官吏、皇国兵らしき者まで混じっている。
普通なら、ここまで望まれれば先頭に立つ。しかし、ティダ皇子は自分は背負わないと背を向けて、何処かへ消えた。
——俺は誉れ高い大狼の帝になる男だ。こんな国要るか。
何度も聞いた。耳にタコが出来るほど聞いた。テュール皇子にだけ言っていたとは思えない。催事でさえ、次期皇帝はレオン叔父上だと口にする男だ。市民にも口にしていただろう。
西の地へ、太陽は姿を隠した。人々が、手に松明を持ち、武器を持ち、立ち上がる。
私はその先頭に立った。シッダルタという青年は、私の真後ろである。ティダ皇子の背中を許されるとは、余程気に入られている人材……。
パチンッと思い出した。今の今まで、すっかり忘れていたが、シッダルタはティダ皇子が一度だけ口にした名前である。
かつて、まだ私が葛姫と呼ばれていた頃。梅を見ながら、ティダ皇子と将棋を指した際に聞いた。
——この手、この間シッダルタが使っていたな
もう、五年も前の事だ。あの頃から、ティダ皇子は市街地へ出ていたのか。
ドン。
ドン。
ドン。
誰かが始めた足踏みが、伝染して広がっていく。闇夜に浮かぶ、紅の炎。居並ぶ国民。
さあ、立ち上がれ!
戦え! 戦え! 自由を掴むために戦え!
龍が現れ、岩を砕き、ひらけた大地へ雨がそそがれ、命を育む!
自由を今こそ、この手に掴め!
龍が現れ、宝に満ちた穂を揺らし、命を繋ぐ!
ついに我らに龍の王が現れた!
我らこそが龍の民!
かつて、岩だらけだったこの地を開拓したという岩窟龍と彼に選ばれた皇帝、岩窟龍王。
岩窟ベルセルグ皇国の歴史は長く、間も無く五百年を迎える。
さあ、立ち上がれ!
戦え! 戦え! 自由を掴むために戦え!
龍が現れ、岩を砕き、ひらけた大地へ雨がそそがれ、命を育む!
自由を今こそ、この手に掴め!
龍が現れ、宝に満ちた穂を揺らし、命を繋ぐ!
ついに我らに龍の王が現れた!
我らこそが龍の民!
王朝の変わり目に、こうした反乱が、何度かあったと、そう歴史書に残っている。自分達の中から王を選ぶ。そういう選択肢でなく、今と同じく、龍王たる皇族から、最も信じられる王を選択。
国民こそ、龍の民こそが、皇帝を決める。そういう絶叫。
王とは、成る者ではなく、崇められるべき存在。
この国は、そうやって続いてきた。
さあ、立ち上がれ!
戦え! 戦え! 自由を掴むために戦え!
龍が現れ、岩を砕き、ひらけた大地へ雨がそそがれ、命を育む!
自由を今こそ、この手に掴め!
龍が現れ、宝に満ちた穂を揺らし、命を繋ぐ!
ついに我らに龍の王が現れた!
我らこそが龍の民!
熱気が渦を巻いて、歴史を作ろうと、突き進む。
この先は地獄。今、ベルセルグ皇国はこのような内戦をしているような国際情勢ではない。
西の大国、東の国々との小競り合い。疲弊した国は食われる。こうして守ろうとしている自分達を、滅びへと向かわせている。
自分が男だったなら、官吏だったなら、テュール皇子の立場だったなら、今の未来を見つけてしまった日から、そう願わなかった日は無い。
背中に負う激怒に悲憤。
私は……。
私は……。
私が地獄に大華を咲かせてみせる。
愛するティダ皇子。騙してしまったが大切なテュール皇子。二人を地獄へ落としてたまるか。
向こう側からも、灯りが迫ってきた。闇夜に並ぶ灯火で一面が真紅に染まっている。
そこに、白い大きな影。隣には闇夜に紛れそうな漆黒が揺らめく。
一目で誰だか分かる。
ティダ皇子。そして彼の白狼ヴィトニル。
帰ってきた。
不穏な気配を自ら察知したのか、私の叫びが黒狼に通じたのか、ティダ皇子は戻ってきた。
突風が私の前を吹き抜けた。湿気の匂い、遠くから聴こえてくる雷の音。私の体は白狼の尾に掴まれ、捕らえられた。この白狼、風よりも速いのではないか?
革命軍から離され、私はティダ皇子の前に放り投げられた。地面にぶつかった体が痛む。見上げると、ティダ皇子の背後にいるのは皇国兵だった。
「我が名を騙り革命を扇動した者よ、名乗れ!」
これは、一番望んでいた、それでいて最も確率が低いと想定していた事態。
「我こそが大狼と生きる唯一の皇族ティダ・ベルセルグ也! 名乗れ! そして口を割れ!さすれば命はこの俺が預かる! 革命軍よ背を向けよ! 皇族は決してそちら側にはつかん! 踊らされたとして見逃そう! 去れ!」
ああ、やはり彼は理解していない。革命軍は引いたりしない。ティダ皇子の名が呼ばれ、叫ばれる。怒号に罵声も混じるが、何もかもが悲鳴。どうか、自分達を背負って欲しいという嘆願。懇願。
「黙れ革命軍! 本人だと見抜けぬままこの俺の敵に操られたことを何故恥じぬ! そのような矜持無き者、誰が囲うか! 我が名はティダ・ベルセルグ! 皇族の一人である!決して一族を裏切らん!」
この台詞も、私は何となく想像がついていた。怖いくらい、ティダ皇子の思考が分かる。この二年、テュール皇子と二人で語り合うのをずっと聞いてきた。
「囮陽動役よ、俺に見つかれば死。この国に住む者なら誰も勝てぬということは子供でも知っている。投降せよ。主を吐けば命は守ろう」
何もかも、うんざり。そういう雰囲気を醸し出しているティダ皇子。このような者達、囲いたくない。そう、ヒシヒシと伝わってくる。
革命軍が裏切られたと嘆き、信じないと怒り、爆発しそうなのに、ティダ皇子の黒真珠のような瞳は冷えていく一方。
散々、この国の頂点には立たない。そう口にして、最低限の根回しはしたのに、裏切り者とは何たる無礼。そういう様子。
テュール皇子がティダ皇子の性格を嘆き続けてきたのも頷ける。
——過ぎたるは猶及ばざるが如し。国を荒らすな
ティダ皇子の最低限は過剰な庇護。だから、心惹かれる。心奪われる。背負う気がないなら、民に構うな。テュール皇子の忠告をティダ皇子が理解出来なかった結果がこれである。
ティダ皇子はため息混じりに、呆れ顔で革命軍や私を見ている。
ゆらゆら、ゆらゆら、瞳を揺らしながら、優劣を選択肢していそうな気配。自らの背後に負ってきた皇族か、眼前で悲鳴絶叫する革命軍か。
ティダ皇子に選ばれなかった方が滅びる。
大勢が死ぬ。
それを理解していて、ティダ皇子は優劣をつけようとしている。
シッダルタという青年が望んだ、話し合いの道もまた、蹴落とされる官吏や皇族は命を失うだろう。ティダ皇子は、この国を軽蔑し、背中を向けて去っていく。
私は意を決して立ち上がり、ティダ皇子へ突っ込んだ。一瞬、白狼が私の動きに反応したが、動きはしなかった。
「おい貴様……」
ティダ皇子は、こんな奴の動きなんてまるで意に介さない。そういう態度。白狼と同じである。私はティダ皇子に向かいながら、ナイフの刃を自分の腹に向けた。
「無謀な愚か者が!」
理解不能というように、ティダ皇子の顔色が変わった。つんのめり、体がティダ皇子の方へ倒れていく。まるで、私を支えるようにティダ皇子は私の肩を掴んだ。実に優しい手つき。
無抵抗の、殺気が無い者に攻撃など誇り折れる。そういう台詞を、聞いたことがある。案の定、こうなのか。それか、私が誰だか気がついた。
ティダ皇子の手で、私の仮面が剥がされる。
目が合った瞬間、正体を見抜かれたと分かった。
「ソア……レ……」
驚愕で見開かれた目に、私の姿が映っている。焼けただれているが、左側上部は火傷していなかったらしい。そのせい?
それか他に分かる材料があった? 匂い?
ティダ皇子の目を見たら、最後の迷いが吹き飛んだ。轟々と燃え上がる、唐紅の激情。
一世一代の大舞台。
燃えろ。
燃えろ。
燃えろ。
「握って。刺したってことにして……」
苦悶で嗚咽が漏れる。腹から抜いたナイフをティダ皇子へと差し出す。意識が薄れる。
燃えろ。
燃えろ。
燃えろ。
大好きな私が、大好きな友の妻が、貴女の為に命を賭した。この国を守ろうと、死に花散らす。
さあ、この国を背負うと、燃え盛れ!
「周りが疎かだからこうなるのよ。証拠ばら撒いたから後始末しなさい。どちらも助けてあげて……」
私は一瞬、白狼を睨み、それから微笑んだ。
お前ら大狼なんかに、ティダ皇子を渡してたまるか。彼はこの国を照らす太陽となるのだ。私が育った、愛するこの地を守る皇帝となる。誠実で優しいテュール皇子がティダ皇子を支える。逆でも良い。
得体の知れない、訳の分からない大狼とかいう生物の帝になんてさせない。
白狼が低く唸った。敵意剥き出しである。こっちこそ、大嫌いだ。ティダ皇子に信頼され、好かれ、ベタベタ触る事を許され、誰よりも心を許されている。
ティダ皇子に抱かれた女達よりも、余程憎たらしい。いや、憎悪である。私の激しい嫉妬心は大狼やテュール皇子でさえ、例外ではない。
「死にたくない! 投降する! 騙されたんだ! 裏切られた!」
皇国兵に聞こえるように、大絶叫。嗄れた声は届くのだろうか? 革命軍にまで届けば良い。土埃で目が痛む。
大勢の前で、革命軍を扇動したのはティダ皇子ではないと示した。私の役目は終わり。捕縛、拷問とならなくて安堵。その方が険しい道だっただろう。
血と共に、体の力が抜けていく。
ティダ皇子は私の体を抱えた。まるで理解出来ない。そういう表情。
「最後に殺せ」
小さく、ティダ皇子にだけ聞こえるように囁く。目線は白狼。
思考を猛回転させて、状況把握と私の目的を考えているような瞳。私の馬鹿で激しい独占欲を見抜いているのか、唸り続けている。
自然と唇が歪む。白狼の蔑みの目が愉快でならない。私は目一杯、笑ってみせた。顔を焼き、喉を潰し、囮役を殺してすり替わり、そしてティダ皇子を庇って自死。
私の勝ちだ大狼。私がここまでしたら、ティダ皇子はベルセルグ皇国を捨てられない。人として生きる。
この先、どんなにティダ皇子が女に手を出そうとも、私の存在を忘れることは無い。大狼、テュール皇子、シッダルタとかいう青年、可愛い女達、教養ある女達、ティダ皇子が好む者達。
さあ、全員蹴散らしてくれる。
彼の心のど真ん中に君臨して、永遠に華を咲かすのは私だ。
一生、罪悪感に焼かれろ。しかし、ここまで愛されたと誇れ。手に入らなかった女の死は誰かが癒す。テュール皇子という、支える友がいる。
「大狼なんでしょう?」
裏切りを許せない、忠義に厚いのが大狼なら、彼は死ぬまで、ここまでした私を裏切れない。
白狼から目を離し、戸惑うティダ皇子を見据える。
「それを忘れないで」
私を忘れないで……そう言いたかったのに、別の言葉が出てきた。最後まで私は天邪鬼らしい。
愛していました。誰よりも、ずっと、恋しかった。
それは言えない。テュール皇子に操と義理を通さないとならない。ティダ皇子の胸に飛び込まないと、自分で選択したのだ。
愚かで、浅はかで、不器用で、天邪鬼な自分が恨めしくてならない。大馬鹿女。私の阿呆。
私はテュール皇子の妃、菜花妃——……。
梅の君を選ばなかった——……。
なのに、それでも焦がれた。彼の唯一無二の存在になりたいと願ってしまった。なれると考えてしまった。
「生きて……」
そう、生きて……。
テュール皇子と共にこの国で——……。
私をたまには思い出しながら——……。
霞む視界の先で、ティダ皇子は蒼白。小さく、何故とか、どうしてと呟いている。
「ティダ様、死なれたら情報を聞き出せません。手当を」
周りを囲う皇国兵が、ティダ皇子に話しかける。薄らぼんやりした視界で、ろくに目が見えない。
死に損なうのは困る。ここまできたら、テュール皇子の為にも、正体を見破られる訳にはいかない。
私は最後の力を振り絞り、立ち上がりながら、ティダ皇子を突き飛ばした。
ティダ皇子を睨みながら、隠し毒針で首を刺す。激痛が体を脳天から足先まで痺れさせた。
皇帝暗殺、それから革命軍の扇動の汚名は晴れた筈。ばら撒いた文も証拠となる。
ティダ皇子が、皇族、貴族、市民、何もかもを背負ってこの国で輝かしい光を放つ太陽のような皇帝になりますように。
ひらり。
私の前に、梅の花びらが舞ったような気がした。
回り灯篭のように、死に際にはこれまでの人生が蘇るという。私の思い出はティダ皇子と、それから……愛したかったテュール皇子の事ばかりらしい。
そうか……私はテュール皇子も守りたかったらしい……。内乱にて皇居が攻め入られると、テュール皇子の身も危険。
父を選ぶか、友を選ぶか、ティダ皇子が本気でこの国を背負うとなれば、そういう選択をしなくても済むだろう。二人は、私の家族や側女達も守ってくれる。きっと、大丈夫。この国の未来は明るい。私はそう思う。
梅園と菜の花畑が実に美麗。
しかし、最後はやはり梅らしい。
一面、淡い桃色。甘い匂いに囲まれて、私の胸は弾けそうなほど、とくとくと鳴っている。
春の訪れを知らせる、梅の楽園。ほんのりと橙に染まる空は、間も無く日が落ちるぞと告げている。
ティダ皇子が、腕を伸ばして、枝の一つを手折った。まだ蕾の多い枝を、差し出される。
大好きな、笑顔で、ほらっと——……。
「ヴィトニル!」
不意に、何かが壊れる音が鳴り響いた。
私の骨が折れる音。
きっと、鮮血の大華が咲いただろう。
∞ ∞ ∞
私は太陽の名を持つ娘。たった一人の殿の為に生まれてきたのです
∞ ∞ ∞
忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命とならん




