外伝【ティダとソアレ 5 】
晩秋。もう、冬の到来。今朝、早くも庭先に微かに雪が積もっていた。庭の木々の葉を白化粧する粉雪に、朝日が乱反射して、きらきらと輝く。
縁側に腰を下ろして、ぼんやりと眺める。出仕するテュール皇子を見送ったばかり。用事まではまだ時間がある。
「おはようございますソアレ様。まあ、雪」
「おはよう、マール。もう、冬になるのね」
促すと、マールは私の隣に腰を下ろした。
「あの、ソアレ様。お願いがございます」
「何かしら?」
「琵琶の練習を積みまして、上達したと思いますので、今度ティダ皇子がいらしたら座敷に呼んでいただきたいです」
気合い十分という様子。マールは私に深く頭を下げた。
「以前のことを気にしていたのね。あの翌日、テュール様も申していましたけど、貴女に非は無かったのよ」
テュール皇子が側女を庇うか試しただけ。ティダ皇子がマールの琵琶を気に入らなかった訳ではないという。
「いいえ、ソアレ様。ティダ皇子は本心から褒める場合は、口説いて下さるそうです。このままでは、女としても、陽月御所の女官として悔しいです」
私は無理矢理微笑んだ。皇居内のどこにいても、自分の屋敷の中でさえも、ティダ皇子。ティダ皇子。ティダ皇子。
これでは、嫉妬心が燃え盛るだけで、忘れるのとは真逆である。
「ええ、分かりましたよマール。けれども、順番ですよ。貴女だけ贔屓すると、他の側女が怒るもの」
私はゆっくりと立ち上がり、さも気にしていませんというようにマールに背を向けた。彼女の艶やかな髪を掴み、庭へと投げてやりたい。背中を蹴り飛ばし……。
奥歯を噛み、袖の中に隠した手は拳を握る。笑顔を顔に貼り付ける。
「マール、明日から護身術の指導役の方がいらっしゃるのを覚えているわね?」
確か、中々の色男だった。妻帯者では無かった筈。
「はい。しかし、ソアレ様。テュール様も申していたように、護身術など不必要なのでは?」
「中々、容姿の整った方なの。テュール様が妬いていれば、その間くらい私から目を逸らさないでしょう? 指導者はラバンという方です。後宮のお茶事から戻って来る前にいらしたら、貴女がもてなして」
「そんなことをしなくても、テュール様の目にはソアレ様しか映っていないですよ」
ええ。そう呟いて、私はマールから離れた。昨日、お茶事用に準備した着物の確認。ラン妃よりも派手過ぎず、かといって地味過ぎても非難される。後宮に呼ばれると、嫌味しか言われない。
ふと、思い出す。
「負けた振りとか、もっとあしらいを覚えろ……。もっと地味な着物にしようかしら……」
舛花色に、暗めの紅葉柄の打掛を箪笥から探し出す。
「あら、ソアレ様。お召し物の変更ですか? それは……あまり……」
衣装部屋に顔を出したミンメイが、私の腕に乗る打掛を見て、眉間に皺を寄せた。
「良いのです。どうせあれこれ嫌味を言われるのなら、気に入りではない衣装が良いでしょう」
「まあ、そうでございますね。わざと抹茶を掛けられたりするかもしれませんし」
ミンメイが苦笑いを浮かべる。私もきっと、同じような表情だろう。
「今日は投げ込み花月と言っていたけど、多分嘘よ。香付花月とかかしら」
私の予想は当たるのか、外れるのか。後宮まで行きたくない。
「何だとしても、ソアレ様なら問題無いでしょう」
ミンメイと雑談をして、その後に衣服や髪を支度。今日はアイラを伴わせる。彼女の格好や髪型、装飾品も確認。晩秋に相応しいように、統一しないとならない。
準備が終わると陽月御所を出て、後宮へ向かった。後宮は、龍王御所の裏手側、ユルルングル山脈の峰に築かれている。
陽月御所を出て、まずは龍王御所へと向かう。かつて暮らしていた春霞局を通り、東狼御所を抜けて、龍王御所。
「こんな風に、広い皇居内を自由に歩けるようになったのよね……」
ベルセルグ皇国の皇居は、別名天の原城。城下街はかなり眼下。薄雲がかかると、街は見えなくなることもある。
龍王御所の向こう、西狼御所の庭から喧騒が聞こえる。かなり遠いが、私にはそこに誰がいるのか分かった。
「きゃあ、ソアレ様! 向こうにいらっしゃるのはティダ皇子ではなくて? ほら、あの白狼はそうです」
アイラがうっとり、というように西狼御所の外庭を眺める。
「ああ、あの白狼は確かに……」
巨大な白い狼。その隣に黒装束の人物。ティダ皇子とヴィトニルという獣に間違いない。純白の毛並みに、一筋の舛花色。太陽の下で見ると、あのような姿だったのか。
「女官用の通路ではないと、このように殿方の姿を見れるのですね。何をしているのでしょう?」
期待の眼差しのアイラに対し、私は首を横に振った。
「遅刻すると嫌味ではすみません。行くわよ、アイラ」
「まだ、かなり早いです。もう少し近くへ。いえ、ソアレ様。龍王御所にて、少し見るだけでも」
「はいはい、分かったわよ。他の側女に自慢しないように。でないと、連れ回されるわ」
止めていた足をまた進める。アイラは扇で顔を隠しているが、私は堂々と素顔を見せて歩む。皇族正妃、それも後宮外に住まう妃だけの特権。準皇族扱い。今、この国においてその扱いは私のみ。
龍王御所まで行くと、西狼御所の外庭は目と鼻の先。大勢の人がいると思ったら、全員皇国兵。
「稽古でしょうか? 噂で聞いたのですが、ティダ皇子は皇国兵に色々と指南しているそうです」
頬を赤らめて、アイラはティダ皇子の背中を見つめ続けている。扇がもう口元まで下がっていて、良くない。私はアイラの扇を目の下まで引き上げた。
本当は目も隠さないとならない。アイラの熱視線に嫉妬心が湧いているので、余計に目も隠したい。しかし、私の気持ちは絶対に外へは出さない。そう、決めている。
「そうなのですか」
確かに、皇国兵と皇国兵は木刀を握り、二人一組で向かい合っている。ティダ皇子はそれを眺めている風に見える。
「はあ……。後ろ姿でも格好良い気がします。東部での落石事故にて、大活躍されたとか。身分関係なく取り立てて下さるそうですし、この国の未来は明るいですね。大勢の市民がティダ皇子が皇帝を継がれる日を待っております」
マールは私を見ないで、ティダ皇子の背中を凝視している。
私はマールの発言に、ぞわぞわと鳥肌を立てた。
ティダ皇子は皇帝にはならない。テュール皇子とそういう話をしている。
独裁体制で宰相や官吏に疎まれている皇帝。身分制度保持や、税の引き上げをしようとしている宰相とその取り巻き。
あちこちで、不穏な話を耳にする。
そして、そこに必ずティダ皇子の名が加わる。
ティダ皇子が居るから、ティダ皇子ならば、ティダ皇子が統治する国なら……。出征すれば大勝にて帰国。災害があれば我先にと、自ら災害対処や指示者となる。実力、人柄主義に、市街地では奴隷層の者とまで親しくしているとか。
ティダ皇子の期待は高まる一方らしい。今のマールと同じように、皆が噂をする。明日、明後日、来年、その先の国の行く末は明るいと夢を見ている。
なのに、その本人はこの国など要らないと吐き捨てている。
私には、この国の先行きは暗く思える。
ティダ皇子をきっかけに、いつかこの国は悲鳴を上げ、爆発する。悲惨な時代へと突入するような予感。
今、空を覆いはじめた黒い雲のように、ある日突然、この国は暗い谷底へ落下するのではないだろうか。
「ソアレ様?」
声を掛けられ、私はマールを見た。怪訝そうな表情。私はニコリと微笑んだ。
「大勢の殿の勇ましい姿、目の保養でしたね。そろそろ行きますよ」
名残惜しそうなマールに流し目。私は龍王御所の入口へと向かった。
見張りもなく、皇居内を自由に歩ける……か……。特に龍王御所。本来、女官さえ立ち入りできない場所。
世間話しかしたことのないレオン宰相。彼を取り巻く中央政権の官吏達。そしてティダ皇子との関係性。
私なら、それを探れる。
テュール皇子が時折告げる、ティダ皇子への苦言。以前から気になっていた。
——過ぎたるは猶及ばざるが如し。国を荒らすな
今なら、何となく、あの苦言の理由を推測出来る。
「ソアレ様は何故、皇太子の正妃を目指さなかったのですか? いいえ、長年の初恋を実らせたかったなんて惚気は聞きたくありません」
ふふふ、とマールが微笑ましそうに肩を揺らした。
笑みを返しながら、私は自分の足が泥沼に嵌っているような感覚に陥った。テュール皇子の妻なのに、ただ彼の唯一無二の女を目指すと決めたのに、私は違う道へと進もうとしている——……。
∞ ∞ ∞
間も無く、テュール皇子の正妃となって、初めての春。実に穏やかな天気。昼食後で少し眠い。私は縁側に座り、ぼんやりと庭の菜の花を見つめていた。
仄かに香ってくる、梅に惑わされる。
「ソアレ様。また菜の花を眺めているのですか?」
背後に人の気配。声で誰だか分かる。ネージュの問いかけに、私は軽く頷いた。
「ええ。私は菜花妃ですからね……」
日に日に、後宮からの呼び出しが減っている。今月はまだ一度も呼ばれていない。
「毎日、お熱い事でございますね。そういえば、聞きました? ラン妃、ティダ皇子と良い仲だとか」
私は思わず振り返った。ネージュを見上げる。
「まさか」
ネージュの隣に、マールが並んだ。これから、テュール皇子と共に菜の花畑に行く。全員の支度が出来て、二人は迎えなのだろう。
「ネージュ、私が聞いたところによると、ラン妃の完全なる片想いみたいよ。まあ、シエルバ様の妃ですからねえ」
愉快そうなマールに、ネージュも楽しそうな笑みを浮かべた。
「それで、ソアレ様虐めが減ったのでしょうね」
「今は、ティダ皇子のお手付き女官を探して虐める事に熱心らしいわ。あーあ、ティダ皇子って器量良しより教養有りが好みらしいのよ。私も一芸に秀でたい」
毎日、毎日、毎日、あっちでも、こっちでもティダ皇子。うんざりする。
私は立ち上がって、二人に背を向けた。
「私を呼びに来たのでしょう? 行きますよ」
足を動かそうとした時、風が私の衣服と髪を揺らした。
「よーう、菜花天女。テュールは居るか?」
屋敷の囲いの屋根の上に、突然ティダ皇子が現れた。白狼の上に乗っている。
マールとネージュが、感嘆の悲鳴を上げた。
「可愛い反応をありがとう。琵琶姫に桜雪姫。で、桜雪姫、テュールは居るか?」
親しげながらも、かなり引いた目線に、苛立つ。私に恋の龍歌を詠んでから、まだ1年も経過していないのに、この気の無い態度。無性に腹が立つ。
私は毎度毎度、自分の事を棚に上げて、怒り狂ってしまう。本当に、阿呆な女。
「テュール様は御在宅です。ソアレ様と物見遊山です。呼んできます」
上擦った声で、ネージュが返答をした。
白狼が体を揺らすと、ティダ皇子は反動で飛んだ。トンッと縁側に着地。ネージュ、マールの順に頭を撫でてから、私の前に立つ。
私には何も無し。素通りである。話しかけようにも、隙が無い。いつもこう。良くて挨拶しか出来ない。
「テュール!」
ティダ皇子の呼び掛けに、テュール皇子が玄関の方から姿を現した。
「ティダ。ああ、もしやこれから出掛ける事を聞いたのか? 共に行くなら将棋盤か囲碁……痛っ」
ピシッ、ピシッとティダ皇子はテュール皇子の額を指で弾いた。この光景、しょっ中見かける。
「本当に阿呆め。様子見してても何も気がつかない阿呆。見かねて少し整備した。後宮管理くらいしろ。妻の周辺にも気を配れ。しばし国を離れる。自分の群れは自分で管理しろよ」
低い声を出すと、ティダ皇子はテュール皇子の胸に指を突きつけた。
後宮管理に、妻への気配り?
「国を離れる? ティダ、待て。この間も話しをしたが、皇太子が行方をくらますな」
「皇帝にはならないし、こんな国は背負わん。父上と叔父上の次はお前。それこそ、この間も話しをしたぞ。軟弱臆病の子狼の癖に、この俺の背に乗ろうとするんじゃねえ」
何度も見たような光景。私は少し身震いした。テュール皇子の表情が険しい。
今の私には、その理由が分かる。こっそり、皇居内を歩き回って情報を集めているから。
ティダ皇子はあちこちで、皇帝にはならない。そう告げているが、誰もそれを信じていない。皇帝陛下からの強い希望に、レオン宰相からの過度な妬み。
彼の実力、人柄主義のせいで、蹴落とされつつある貴族達。
皇居内、中央政権の雰囲気はかなり悪い。日に日に悪化しているように感じる。
「ティダ。背負う、背負わない、そういう問題ではない」
「こんな矜持の無い国、叔父上と色々と教えたお前で十分。俺は誉れ高い大狼として生きる。あと一年も無く去る。しっかりしてくれ。早ければ一ヶ月、遅ければ半年後に一度戻る。成長しておけよ」
屋敷囲いの屋根の上で、白狼が大咆哮した。力強く、三度。ティダ皇子は一足飛びで白狼の背に乗った。
「あばよ」
瞬きをしたら、ティダ皇子と白狼の姿はもう見えなかった。
「ティダ! おいティダ! 異常な聴覚だから聴こえているのだろう!」
庭に向かって、テュール皇子が絶叫した。
しかし、返事はない。テュール皇子はその場に蹲り、くしゃりと髪を掻いた。
「頂点から順に下を守れ……。矜持ある者を見捨てたりせん……」
ポツリ、とテュール皇子が呟いた。
「私は上になど立てる器では無い。気概を持てとか、臆病とか、そういう事ではない。頂点のお前が眩し過ぎるからだ……」
独り言では無く、異常な聴覚らしいティダ皇子へ向けた台詞のようだ。
「優劣つけて見捨てる……。お前は何も捨てられん。手を伸ばす先を広げるばかりではないか。何故、視野が広いのに自分の事だけ見誤っている……」
私は、両手で顔を覆ったテュール皇子の隣にしゃがんだ。触れて良いのか迷いながら、彼の背中にそっと手を当てる。
「とても物見遊山という状況では無いですね」
「すまないソアレ。私は置いて行ってくれ」
私の顔を見ず、テュール皇子は自分の髪をぐしゃぐしゃにした。
「まさか。こういう時にこそ……」
私を見上げたテュール皇子の瞳に宿っているのは拒否。私は口を閉ざした。自分達の世界に、男の世界には踏み入るな。そのように感じた。
「分かりました。ネージュ、マール、行きますよ」
私は側女二人を連れて、テュール皇子から離れた。玄関まで来て、物見遊山の中止を告げる。
「私は支えにならないようです。色々と気持ちを落ち着かせたいので一人になりたいです。ネージュ、マール、私とテュール様抜きで行ってきて」
屋敷から人払いして欲しい。そういう意図を伝えるために、冷たい声色を出した。ネージュとマールは「畏まりました」と頭を下げた。
溜息混じりで、私室へと移動。
机に向かい、頭を抱える。
ベルセルグ皇国は、間も無く破裂する。
ティダ皇子は私とは全然話さない。テュール皇子も私を政治には決して踏み込ませない。そもそも、私は妃として知れる範囲の事ではない話まで仕入れてしまった。
「どうすれば良いの……」
近々、大狼狩りが行われるという。
一匹で、村一つ壊滅させる化物猛獣、それが大狼という生物らしい。時折、人と共に生きるという大狼の生態は謎に包まれている。人は、大狼を馬や赤鹿の代わりに従わせようと試みてきた。しかし従わせられず、どの国も諦めたらしい。
大狼とは群を大事にし必要最低限しか狩りはしない。忠義に厚い種族。激昂させれると、村一つ食い荒らし、酷いと国さえ滅びるという。龍王御所の図書室で、古い文献にそのような話が記載されていた。
龍王御所で聞いた大狼狩りは、この大狼を探し出して狩るという話ではない。
大きな四つ尾の白狼と共に暮らす皇帝陛下。そして、ヴィトニルやレージングと呼ばれる大狼と共にいるティダ皇子。この二人を狩るという意味。
狩りの結果など、考えたくもない。
私は私室の鍵を閉めて、打掛と着物を脱いだ。盗んだ官吏服に着替える。髪を長髪男性様にまとめた。もう、慣れたものである。窓から外へ脱出もそう。
ティダ皇子不在のうちに、また不穏な話が進むだろう。
私は、どうしようもなく、自分の行動を止める事が出来ない。
忍び足で裏庭を進んでいると、梅の香りに誘われた。
——ねやちかき 梅のにほひに朝な朝な あやしく恋のまさる頃かな
一日足りとも忘れられない龍歌。テュール皇子に愛でられるたびに、私は梅の匂いに敏感になっている。約一年になりそうな結婚生活の思い出よりも、ティダ皇子とのわずかな交流ばかりが蘇る。
——ソアレぐらいだ。俺の優劣を惑わすのは
ティダ皇子の優劣……。
私は、暗くて深い沼に、ズブズブと沈んでしまっている。




