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風詠と蟲姫  作者: 彩ぺん
外伝

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224/316

外伝【ティダとソアレ 4 】

【激情に燃える太陽 11〜13話:最愛大華】


 皇妃ソアレ。その名は国中に広まっている。皇居に自身の名を付けさせ、夫の寵愛を一身に受ける絶世の美女。


 皇妃となると、姿や名を隠す必要は無い。催事という催事にて、私は遺憾無く己の才媛を披露している。そして、有難い事に恵まれた容姿も見せつけている。


 新婚三ヶ月。テュール皇子は私にデレデレしている。浮気をしたと思われたら困ると、公務にて地方へ行く際に、私を帯同させるくらいである。秘密裏にするくらいの理性は残っているようだが、非難の的にならないか、不安である。


「そう言いながら、ソアレ様は実に上手く根回しをされるではないですか」


 明日、西の街へと向かう。窓から差し込む、夕焼けの明かりの中、側女マールがうっとりというように両手を握り締めた。支度をする側女が、ずっと手を動かしていない。


「上手くなんて無いわ。ラン妃に知られたみたいで、嫌がらせの嵐よ。あの方、シエルバ様がまた新しく後宮に寵姫を迎えたから、鬱憤が溜まっているみたい」


「ソアレ様は、すっかりあちこちの方々から、目の敵にされていますからね。テュール皇子の妃がねを目標にしていた娘達。魑魅魍魎渦巻く後宮の妃や寵姫」


 マールがそそそっと私に近寄ってきた。


「威津大社の古い御神木に、ソアレ様の名前が書かれた藁人形が打たれていたとか」


 何だって⁈ 私は手に持っていた半紙の束を畳の上に落とした。マールが慌てて搔き集める。


「ラン妃ですよ。先週から熱発したのは、呪い返しですよ、絶対」


「マール、皇妃が丑の刻に威津大社へ行ける訳ないじゃない。また、根も葉もない噂を仕入れてきて……」


 私が思っていたよりも、女の世界は恐ろしい。レオン宰相長男シエルバ皇子の正妃ランは、お飾り状態のせいか、私を虐めて憂さ晴らし。側室妃や、後宮のシエルバ皇子の寵姫も、標的が自分ではない事に安堵しつつ、火に油を注ぐ。


 私は格好の餌。御所外、皇居の廊下で妃の誰かに会えば足をかけられる。催事においても、あれこれと邪魔をされる。ラン妃はテュール皇子の義姉の立場なので、私の目上。呼ばれれば、会いに行かねばならない。シエルバ皇子は妃とは住まない主義らしく、後宮に住まう彼女に、ネチネチ嫌味を言われ、何か披露しろと言われる。


 まあ、教養をこれでもないかと叩き込んできた私は、澄まし顔で彼女の鼻を明かして帰る。琴、和歌、漢詩、歌、舞、碁、将棋などなど。隙なんてない。春霞局の(かずら)姫の頃から、やっかみの大嵐だった。怖い世界でも、自らの力で生き抜ける。


 政治哲学の勉学の為に官吏を呼ぶのも、男狂いだと噂を立てられている。そんな女なら私は……。私はそれ以上の事を考えるのを止めた。


「噂といえばソアレ様! なんと、ティダ皇子が帰られたそうです。何でも、先週の大嵐にてコウ河が大氾濫した時に現れたそうです。それはもう、素晴らしいご活躍だったとか」


 考えるのを止めたのに、そのティダ皇子の話を聞く羽目になるとは思っていなかった。


「ティダ皇子が……?」


 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。私はようやく、テュール皇子に心を傾けかけている。なのに、このように動揺したくない。そんな自分を発見したくなんてない。


「白い狼と共に颯爽と現れ、壊れかけた水路を直す。それに、的確な指示にて被害を減らしたとか。私の姪が、その街に住んでいて、昨日避難してきたので聞いた話です。それはもう、大変格好良かったそうですよ」


 マール以外の若い側女が全員手を止めて、興味深そうに彼女を見つめる。


「まあ、それではそのうち皇居にも戻られるでしょう。まだ見た事が無かったのですが、ついに噂のティダ皇子を見れるのですね」


 私の結婚に際して、皇居に出仕したアイラが頬を赤らめた。夢見る乙女全開の瞳。


「どうしましょう。ソアレ様、ティダ皇子はテュール皇子と懇意ですよね? この御屋敷でティダ様に見初められたら……大変。漢詩の勉強が足りてません」


 私に縋り付いてきたのはネージュ。またいつか、ティダ皇子のその言葉を励みに、嫌いな漢詩に打ち込んでいる。


「テュール皇子とティダ皇子が並ぶと……。大変目の保養です。ソアレ様、ティダ皇子がこの屋敷を訪ねてきておもてなしする際は、是非座敷にて雅楽や舞を披露させて下さい」


 マール、ネージュ、アイラが顔を見合わせて、きゃあきゃあ騒ぎ出す。


「無駄口叩いていないで、早う支度を進めなさい!」


 叱責したのは、上葛ミンメイである。彼女と同じ年頃のユニとイリーは澄まし顔。


「「「はーい」」」


「返事は短く、伸ばさない!」


 若い側女が、上葛に怒られる図。見慣れた日常。


「ソアレ様、また文が……」


 側女メアリが現れて、おずおずと私に近寄ってきた。


「また文ね……。ラン妃は本当に懲りずに……」


 蘭柄の半紙を帯紐にした文の差出人は一目瞭然。また、後宮に呼びつけられるのか……。ため息混じりに文を開いた。


「ひっ!」


 黒い物が転がり落ちて、私は文を手放した。畳に落下したのは、蜘蛛の死骸。


 文を摘むと、茶会のお誘いだった。


「今日という今日は許せませぬ!」


 気の強いマールがダンッと脚を踏み鳴らして立ち上がった。


「おやまあ、ソアレ様が全く気にしてないように見えるからと、可愛い悪戯だこと」


 蘭柄の帯紐を拾ったミンメイが、その帯紐半紙にて蜘蛛の死骸を摘んだ。


「ミンメイ様、可愛いだなんて!」


「ソアレ様が可哀想でございます!」


 マールとネージュが私を庇う発言。アイラはミンメイから蜘蛛入り帯紐半紙を奪い、捨てに行く。


「偶然、文に蜘蛛が紛れていて恐ろしかったです。蜘蛛にまで恋慕われているのでしょうか? 生憎、(わたくし)は唯一無二の大華ですので神の使いといえど、身も心も開けません」


 懐から扇を出して、私は自分の顔をあおった。驚いて熱くなったが、落ち着けば嫌味がポンポンと浮かぶ。


「ソアレ様! そのような発言を茶会でしたりしてはなりませんぞ!」


 ユニが私を睨む。


「言いません。内心、ほくそ笑むだけにしておきます。閨で言おうと思います」


 ふふふっと自然と笑えた。何を言っているんだと呆れながら、テュール皇子は私を愛でてくれる。照れ照れしながら。


 自分の旦那の相手でもない女に対して、嫉妬に狂う女達。一歩間違えば、私も向こう側だった。私は、正しい道を選んだのだ。こういう時に、そう思える。


「テュール様も、ソアレ様に夢中になっていないで、少しはラン妃や後宮の動向に目を向けてくれれば良いのですけどねえ」


「ソアレ様が一切言わないからですよ!」


「私達からの告げ口も禁止されるからです!」


 私は首を横に振った。


「良いのです。テュール様が側室妃に局、もしくは後宮にご自分の局を作られたら同じ様な事をするでしょうから。まあ、陰湿な事はせずに、真っ向勝負で叩き潰しますけどね」


 先日、街へ出掛けた際に、揃いの扇を買った。その扇を見つめる。未だ恋しいかと問われれば、頷けないのだが、嫉妬心は巨大である。私という娘は、独占欲の塊である。


 日没を告げる、鐘楼の音が鳴り響く。


「お喋りばかりで、荷造りがちっとも進まないわね。後は頼みましたよ。(わたくし)は夕餉の確認をしてきます」


 本来、食事の最終確認も上葛の仕事だが、最近は自分でしている。こっそりと料理人の手伝いという名の、少々邪魔をする為の名目。料理をすることは、華族令嬢の嗜みではなかったので、とても関心がある。


 市民の妻は、毎日家族の為に腕を振るうという。私が始めたら、華族の娘も料理を出来るかもしれない。仕事にする娘も出てくるかも。市民文学に憧れ、密かに料理に興味を持つ娘は絶対にいる。マールもその一人。


「ソアレ様。本日は何に触れてみますか?」


 私の我儘にもう慣れた、料理長コムが竹ざるに野菜を並べて、私に差し出した。トマト、茗荷、きゅうり、それにトウモロコシ。


「今日こそ包丁を……」


「怪我をされて、クビになりたくありません。勘弁して下さい」


 期待の眼差し攻撃は無駄だった。コムは私から目を逸らしている。父親より少し年上の彼には、私の美貌は通用しない。娘をあしらう様な態度を取られてしまう。天女と褒めそやされても、何もかも思い通りにはならないと、こうして何度も痛感させられる。


 ティダ皇子との事も……また考えそうになり私は顔を横に振った。久しぶりに名前を聞いたからと、考えてはいけない。


「クビになんてしません。激怒したテュール様がそんな事をしそうになったら、こう言います。コムの料理でないと、喉を通りません」


 私は悪戯っぽく笑ってみせた。


「しかし……出来る出来ると言う割に、ソアレ様は不器用でございます。指を少し切るならともかく……指そのものを切断しそうなので駄目です」


 確かに、私は不器用娘だ。人の何倍も努力してきただけ。だから、励めば料理だって出来る。


「まあ。何でもこなせるからと、少々天狗になっていましたが、もう反省しています。ね?」


 かなり可愛いだろう仕草と笑みを浮かべたが……無駄みたい。


「ではソアレ様。こちらのトウモロコシを岩石揚げにしますので、身を取っていただきます」


「揚げ物?」


「竃にも近寄らせませんぞ! ガンさん、ソアレ様の見張り……コホン。指導を頼む」


 呼ばれた料理人ガンが、くすくす笑いながら、私に近寄ってきた。一度もしていないのに、揚げ物禁止令とは解せない。


 私は渋々、トウモロコシの身を取る作業に勤しんだ。


 ふと気がついたら、上葛ミンメイに見張られていた。仁王立ちしている。


「ソアレ様、大変です。来客でございます」


 見張りではなく、呼びに来ただけだった。


「大変? 来客……」


 ミンメイの後ろに、次々と側女が集まった。キラキラ輝く若い側女の嬉しそうな表情に、私は嫌な予感がした。


「ティダ皇子です! ソアレ様!」


「ソアレ様! 雅楽ですか? 舞ですか?」


「将棋です?」


 きゃあああああという小さな黄色い声。浮かれ過ぎだ、君達。主の一人である、私を怒らせたいのか? 既に、苛々が津波のように押し寄せている。


「テュール皇子が、戻るまで待つと……」


 失踪していた皇太子が突然現れて困った。ミンメイの目はそういう目だ。チラチラと夕餉の確認もしている。皇族にしては質素な内容の夕餉なので……確かに困る。


 私の足が小さく震えた。折角、虐め以外は順調な生活だったのに……。


 鎮火したはずの、ティダ皇子への激しい恋心がもう燃え盛っている。今すぐ、走り出して、姿を見たい。


 ミンメイや側女達の声が、とても遠くに聞こえる。


——恋のまさる頃かな


 夏に梅など咲かないのに、梅の香りがした気がした。私は必死に床に足を貼り付けた。


 突然のティダ皇子来訪。私は必死に自分の本能と戦い、理性を総動員させた。若い側女に雅楽でもてなすように指示。


 ティダ皇子が、私の側女を愛でたりしたら、嫉妬で発狂するかもしれない。我慢だ我慢。ティダ皇子とは、永遠に結ばれない。私の夫ではない。だから、嫉妬なんてしてはいけない。


 テュール皇子と一緒でないと、ティダ皇子には会いたくない。なので、ミンメイに碁を打つように伝え、彼の話し相手として、誰か官吏を呼ぶようにユニとイリーに任せた。


 私は……衣装替えや化粧直しをしたい衝動に駆られているが、耐えてトウモロコシの身を取っている。


「生け簀の魚、ティダ皇子用に使いなさい。刺身と焼き魚、両方です」


 トウモロコシを一心不乱に見つめながら、私は料理長コムに告げた。厨房と客間は遠い。なので……いや、気になる。


 百夜目、どうしてティダ皇子は来てくれなかったのか……。あの夜、テュール皇子との会話は、さっぱり覚えていない。ひたすら、ティダ皇子を待っていた。


 待てども、待てども、現れず、女を掛け持ちする殿と婚姻したら、こういう気持ちで毎日を過ごすのだと恐怖した。


 この三ヶ月あまり、彼は元気だったのだろうか? コウ河氾濫にて活躍したという話は……。


「ソアレ様……ソアレ様?」


 名を何度も呼ばれ、私は顔を上げた。料理長コムが私に皿を見せている。上には、刺身と飾り切りされたキュウリと人参。


「この程度の飾りしか出来ていませんが、遅いのもどうかと思いまして。如何でございましょうか?」


「え……ええ……あの方は……誠意ある対応には決して怒ったり……しません……」


 自分で口にした台詞が、刃になって深く突き刺さる。九十九夜も、酷い対応をした私に、百夜目を願える道理なんてなかった。


「ソアレ様……」


 か細いミンメイの声に、振り返る。彼女の顔は青かった。


「ティダ皇子、大変不機嫌でして……ソアレ様をお呼びです」


 私はよろよろと立ち上がった。皇太子に呼ばれれば、行くしかない。眉間に皺が出来る。


「ソアレ様……割烹着は……」


 割烹着? ああ、割烹着姿か。私は割烹着を脱いだ。ミンメイに渡す。コムから刺身皿を受け取り、膳に乗せた。箸、醤油皿、それに刺身皿。それに食前酒を注いだ盃。


 恐る恐る、足を進める。足元に針が敷き詰められているように感じる。ズキズキ、ズキズキと胸が痛む。


 客間の襖の前で、何度も深呼吸。雅楽の音がしない。静寂である。


「失礼致します」


 気合いを入れたので、声は震えないでくれた。そっと襖を開ける。飛び込んで来たのは純白。真っ白な毛並みの生き物。こちらを向いたその生き物は、狼だった。琥珀色の瞳と目が合う。何とも言えない、寂しげな眼差し。いつもの黒狼ではない。


「主人の代わりに現れないとは、どういう教育をされてるんだ」


 のんびりとした、呆れ声がした。ティダ皇子の声だとすぐに分かる。白い狼の向こう側にいるらしく、彼の姿は見えない。座るティダ皇子の姿が隠れるほどの体格の白狼とは……狼はこんなに巨大になるのか? 大型犬の三倍はある。狭い。客間がとても狭い。


「大変失礼致しました……」


「最悪な匂いだなソアレ。まあ、仕方ない。来い」


 匂い? 木蓮(マグノリア)の事だろうか? 最悪と言いながら、手招きされたので、素直に膳を持って移動。少し、痩せた気がする。それに、髪の艶も減った。


 ティダ皇子の前まで移動すると、右足を投げ出して座っていた。脹脛の半分より下に巻かれている薄汚れた包帯。どうみても、彼の右足は腫れている。


「そのお怪我……」


「ん? まあ、名誉の負傷だ。毒性の植物か何かに触れたようで、治りが悪い」


 白狼がティダ皇子の頬に頭部を寄せる。それから、尻尾がティダ皇子の頭を撫でた。


「言い訳だが、唯一無二の友に頼られれば、帰るしかあるまい。自ら決めた選択肢に後悔など無いがな」


 にこやかに笑うと、ティダ皇子は白狼の頬を軽く撫でた。


「気に病むな。逆の立場なら同じ事をするだろう?」


 私にでは無い、小さな囁き声。まるで、白狼に話しかけているみたい。


 ティダ皇子が懐に手を入れ、何かを出した。麻袋を投げられて、慌てたら、麻袋は狙ったように私の膝の上に落下した。


「俺と友からの祝いだ。ナルガ山脈にて見つけた」


 促され、麻袋の中を見る。灰色っぽい石が入っていた。


「ナルガ山脈? ナルガは森でございます」


「ああ、人はそう呼ぶか」


「人は?」


「いいから見てみろ」


 ほれ、と顎で示されて、私は麻袋から石を出した。深い青い小さな石が二つ埋もれている。


「多分、蒼玉(サファイア)だろう。聖なる石は天女と、果報者の夫に似合う」


 私はふるふると首を横に振った。声を出したら泣く。絶対に泣く。


「だから、足は大した怪我では無い。泣くな」


 顔を見ると泣くから、畳を見つめる私に対するティダ皇子の勘違い。私はこれ幸いにと、大きく首を縦に揺らした。涙が溢れて頬を伝う。


「一世一代の晴れ舞台。可憐な白無垢姿を見そびれた。着替えて来い。で、テュールが帰ったらまたこの部屋へ来い。あいつの阿呆面を肴に酒を飲む」


 あはは、と呑気そうに笑うと、ティダ皇子は白狼に深くもたれかかった。


「明日には帰る。友の女に手は出さん。白無垢だけは見せろ」


 ティダ皇子は寂しげに微笑んだ。白狼の毛に顔を埋めて、拗ねたような声。色々な気持ちが押し寄せてきて、私は立ち上がった。白狼が、牙を剥き出しにして唸る。私に敵意を向けた後、ティダ皇子を見て、尻尾でベシベシベシベシ彼の頭を叩く。


「止めろヴィトニル。一度も靡かなかった強情な女だ……」


 一度も靡かなかった……。ティダ皇子からすると、そう見えるのか……。私は本当に阿呆、馬鹿、強情女である。こんなに、胸が苦しくて、ティダ皇子の胸に飛び込みたいのに、何故好機を捨てたのだろう。


——百夜後に折れてもらうからな


 その言葉が、私を頑なにさせる。


——皇居後宮において唯一無二の華など咲かんぞ


 あの言葉が、私に重りを付けている。


 私だけを愛でると言われない。どうしようもなく、譲れないのだ。それに、幸せそうなテュール皇子を裏切りたくない。私は自分の唯一の殿として彼を選んだ。


 白狼はヴィトニルと言うのか。黒狼は確かレージングと呼ばれていた。ティダ皇子が白狼の毛から顔を離し、白狼を見つめた。


「ああ、帰る。まあ、あと一、二年は行ったり来たりする」


 またしても、私への台詞には聞こえない囁き声。


 帰る? 帰るとは何処へ?


「あの……ティダ皇子……帰るとはどちらへ? それにこれまでどちらへ?」


「故郷だ故郷」


 とても、他人行儀な笑みを投げられた。これ以上聞ける雰囲気ではない。


「ほれ、早く着替えて来い。さもなきゃ一族郎党、滅するぞ。俺の機嫌を取らねえと、国ごと滅びる。良かったなあ、嫁ぎ先が俺の友で。でなければ……まあ、無理か。ソアレぐらいだ。俺の優劣を惑わすのは」


 私が口を開きかけると、ティダ皇子は首を横に振った。強い拒絶の光を帯びた、黒真珠のような瞳に気圧される。何も言うな、聞くな、黙って着替えて来い。そういう目。


 私は少し身震いをした。なんとか会釈をして、退室。


 外に出た時、廊下の向こうからテュール皇子が早歩きしてきた。


「ソアレ、ティダが来たと聞いた」


 少し息を切らしながら、テュール皇子は客間を覗いた。


「よーう、軟弱臆病! 邪魔している。お前の匂いに満ちた新妻に白無垢着せろ。お前も白装束だ。夫婦で並べ。優先事があって、祝いそびれたので祝う」


 白狼の体から、ティダ皇子の腕が伸びる。腕がヒラヒラと揺れた。黒装束がめくれ、日焼けした逞しい腕が覗く。傷跡がいくつかあった。


「ティダ! 毎度の事ながら一体何処……痛っ!」


 テュール皇子の額に何かが当たった。コロンと床に転がったのは黒い碁石。


「夫婦揃って着替えてから来いって言っただろう」


 低い、割と凄みのある声。私はこのようなティダ皇子の声を聞いた事がない。テュール皇子が青ざめ、私を見た。


「分かりましたティダ皇太子様。待ち時間は何を希望されますか?」


「ちったあ、成長したか。酒だけ持ってこい」


 テュール皇子は、とても恭しいという様子で、深いお辞儀をした。それから、優雅な手付きで襖を閉める。


「あれは、かなり機嫌が悪い。すまないソアレ、皇太子の言う通りにしてくれ。そのうち来ると思ったが……。あの怪我はどうした。大丈夫なのか?」


 テュール皇子が私の背中に手を回して歩き出した。廊下を歩きながら、ぶつぶつと、ティダ皇子の心配を呟くテュール皇子。


「友を祝いたいと申しておりました。蒼玉(サファイア)の原石を、私達夫婦にと。有り難いことです」


 私はテュール皇子へ、ティダ皇子から貰った麻袋を渡した。


「それは、礼を言わないとならないな」


 すまない、そう言いながら、テュール皇子は側女達に、私に白無垢を着せるようにと指示を出した。それから、ティダ皇子へ酒の提供をするように伝えている。


 私は、新婚三ヶ月にして、二度と袖を通さない筈の白無垢姿となった。


 私は白無垢。テュール皇子は参拝用の白装束。ティダ皇子の前に、2人で並んで正座。ティダ皇子は私に酌、テュール皇子には将棋の相手を命じた。


 私達が現れる前に、ティダ皇子はミンメイに御膳、酒、将棋の準備をさせていた。ティダ皇子に食事を促される。


「似合いの夫婦だな」


 将棋の駒を並べながら、ティダ皇子が零した。彼の柔らかな微笑みに対して、テュール皇子が照れ笑い。


「ありがとうございます。自分でもそう思います」


 叫び出しそうな気持ちを押し殺し、微笑む。ティダ皇子がもたれかかる白狼が低く唸った。


「ヴィトニル、止めろ」


 ティダ皇子が白狼を撫でる。白狼の尾がバシンッとティダ皇子の顔面に直撃した。


「ふはははは! 痒いわ! で、テュール。先日の災害にてあちこちで不都合が起こっているだろう?」


 大笑いすると、ティダ皇子は将棋の駒を動かした。彼は振り飛車党なのか。白狼はまだ唸っていて、正直怖い。琥珀色の瞳は、私を見据えている。動いたら、噛みついてくるような雰囲気。


「ああ、対応に追われている」


 パチリ、パチリと将棋を打ちながら、どこの街で何があったとか、どこぞの官吏が使えるとか、2人はそういう話を始めた。誰は横領しているから、そろそろ蹴落とすとか、ティダ皇子はそういう事も語る。私の知らなかった政治、統治の話。


 聞いていて良いのだろうか?


 静かな声色で、将棋を打ちながら語り合う2人。私は黙って耳を傾けて、2人へお酒の酌をする。


「新妻、誰かに琵琶を弾かせて欲しい」


 少々劣勢な状態の盤面を、沈思というように見つめる、ティダ皇子に頼まれた。


「それでしたら(わたくし)が弾きます」


「いや、花嫁は何もしなくて良い」


 パンパンッとティダ皇子が手を叩いた。隣室で控えているミンメイが襖を開く。


「熱燗の追加でしたら、今お持ち致します」


「マールでございます」


 ミンメイの隣に、琵琶を手にしたマールが座っていた。会釈をしたマールを、ティダ皇子が手招きする。


「朧薄月夜と龍王の調べ。歌は無くて良い」


「はい、かしこまりました」


 マールはティダ皇子が掌で示した位置に腰掛けた。私から見て右手側、将棋盤の隣。ティダ皇子とテュール皇子の間。ティダ皇子に目配せされたマールが、琵琶を弾き始める。


 寂しげな旋律。ティダ皇子の穏やかな瞳に、つい見惚れる。少し生やした顎鬚を撫でながら、朱色の盃で酒を飲んでいく。


 パチリ


 パチリ


 パチリ……。


 静かな部屋に響く駒音。かつて、ティダ皇子と向かい合って、将棋を指した思い出が、鮮やかに蘇る。


「お前には勿体無い娘だテュール。励めよ」


 ポツリとティダ皇子が呟くと、テュール皇子は大きく頷いた。


「自ら選んだものは、決して裏切るな。噂によると、新妻は、唯一無二の大華を望んでいるらしいぞ。テュール、お前が裏切ったら、弟分として喉元を噛み切ってやろう。それが大狼だ」


 大狼? 問いかけて良いのか迷っていたら、テュール皇子が口を開いた。


「またその話か。それに、あーしろ、こーしろ。大狼は皇族の比喩なんだろう? 言われなくても、私は彼女を大切にする」


「大切に、ねえ……。まあ、好きに解釈しろ。無様な生き様見せたら、容赦しないからな」


 張り詰めたような空気に、琵琶の音色が横たわる。


「弟分と言いながら、兄貴面ではないか。なあティダ、市民と深く交流していると耳にした。過ぎたるは猶及ばざるが如し。国を荒らすな」


「父上が身分改革を進めているから、後押しは当然。王や強者に従うのは世の常だ」


「陛下のお気持ちも分かるが……私の父上や取り巻き達がな……」


 これは、さっぱり会話の内容が分からない。私は飾り人形のように、2人にお酒の酌をするしかない。


「矜持よりも自己保身を選ぶ愚かな叔父上と、その腰巾着。まあ、適当におだてておく。全く、何故同じ群れの中で争う。人とは阿呆だ」


 大きな溜息を吐くと、ティダ皇子はマールからそっと琵琶を奪った。優しい手つきに微笑みだったが、目が笑っていない。


「天女の羽衣にしては、想定以下だな。下がりなさい」


 琵琶を少し鳴らすと、ティダ皇子はマールに琵琶を返した。マールは青ざめ、頭を下げて部屋から退室。


「彼女の腕はそう悪くない」


 テュール皇子がティダ皇子へ告げた。


「遅い。もっと早く庇え。可哀想に、真っ青だったぞ」


 ピシッ。テュール皇子の額が、ティダ皇子の指に弾かれる。自分がマールを蒼白にしたのに、ティダ皇子は何を言っている。


「痛っ」


「試したことに気がつかない阿呆め。こんな半人前以下が嫁取りか。全く、しっかりしろ。新妻をチラチラ見てはニヤニヤ、ニヤニヤ。腑抜けのままだと、背負う群が全滅するぞ」


 チラチラ? 私がテュール皇子を見ると、彼は頬を赤らめて苦笑い。ティダ皇子がテュール皇子の額を、またしても指で弾いた。


「痛っ」


「そういう目は褥でしろ。本当にどうしようもねえな。この国を背負うという気概を見せろ」


「何度も言っているが、器の大きさが違う。ティダ、お前が皇太子だぞ」


「俺は誉れ高い大狼の帝になる男だ。こんな国要るか。酒と女とごく一握りの気に入りがいるから、ちょこちょこ居座っているだけだ」


 先程から、私にはティダ皇子の発言内容が理解出来ない。皇太子であるし、次の皇帝だともっぱらの噂なのに……。


 それにしても、この2人は本当に親密そう。私は蚊帳の外で、まるで楽しくない。それに、ティダ皇子の顔をみているだけで、胸が苦しい。


 自ら選んだものは、決して裏切るな……か……。私に告げられた訳ではないのに、貫かれたように胸が痛い。


 ティダ皇子の中の優劣は、私よりもテュール皇子。


 ティダ皇子が、九十九夜、通ってくれているうちに素直になれなかった。折れる事が出来なかった。私は、もう永遠に彼を手に入れる事は出来ないだろう。


 テュール皇子と私が、白装束と白無垢で並んだ後から、ティダ皇子は私と目を合わせなかった。名前も呼ばれていない。


 この日、ティダ皇子とテュール皇子は政治の話や、2人だけにしか分からないような話をしながら、夜中まで対局を続けた。


 ティダ皇子は負け、大笑いしながら、上機嫌で私達の屋敷から去った。宿泊を促したテュール皇子の髪をぐしゃぐしゃにし、額を三回指で弾いて。


 去り際、ティダ皇子は私に小さな耳打ちをしていった。


「後宮の毒花も、更に強い毒花と競い合いか。負けた振りとか、もっとあしらいを覚えろ」


 え? と思ったら、私はテュール皇子へと軽く押されてた。後宮? 戸惑いのうちに、ティダ皇子の姿は消えていた。


「手加減してわざと負ける。結婚祝いがそれとは小さいな」


 玄関で、テュール皇子はクスリと笑った。ティダ皇子同様に機嫌が良い。


「将棋も囲碁も、私がティダに教えた。なのに、あっという間に追い抜かれ、五年振りの白星だ」


 テュール皇子は私と手を繋ぎ、ニコニコと笑いながら歩き出した。二人だけしかいない廊下に、テュール皇子の微かな鼻歌が響く。


「それで、ソアレ。唯一無二の大華とは何だい?」


 理解しているような、照れ臭そうな笑み。私はテュール皇子に必死に微笑み返した。


「数多の星の中の一番星ではなく、二つ並びの北極星のようになりとうございます」


 二つ並びの北極星は、決して隣から離れない夫婦の星だという。そういう神話がある。


 薄明かりでも分かるくらい、テュール皇子は赤くなった。


「そうか……」


「貴女様なら、願いを叶えてくれると信じて選んだのです」


——自ら選んだものは、決して裏切るな


 私は、目の前の夫を裏切らない。ティダ皇子に縋り付いたり、泣きついたり、テュール皇子を拒否したりしない。そう、自分に言い聞かせる。


「ああ、約束しよう。そうか、北極星か。あの神話は女性に人気がある」


「死後も寄り添う夫婦ですもの」


 テュール皇子は私を抱きしめて、そっと優しい口付けをしてくれた。


 全身が引き裂かれそう。強情な理性と、狂っている本能。私という娘は口から出まかせばかり、イカれている。誰にも言えない想いを胸に秘め、死ぬまで、身の内側に激しい葛藤の火を燃やす。


 その夜も、テュール皇子に抱かれながら、私は彼への可愛い恋を騙った。貴方がとても好きで、大切にして欲しいというおねだり。


 愛は無くても快感は得られるのだなとか、愛は芽生えなくても情はすくすくと育っているとか、そういうことばかり考えてしまう。


 時が去れば葛藤の火は消える。


 永遠に燃え続ける火、この世にそんなもなはない——……。

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