外伝【ティダとソアレ 3 】
【激情に燃える太陽 7話:檻内焦鳥】
昼が過ぎ、夕暮れも終わり、夜の来訪。全く望まない、テュール皇子との二晩目である。
特に彼から文などは届かないので、私は自分の部屋で紅葉草子を読んでいる。語り継がれ、転写されてきた、この地域に伝わる古典文学。もう、何度読んだだろう。
紅葉草子、それは身分格差のある男女の駆け落ち物語。燃え上がるような恋を、儚い紅葉に見立てた話。贅を捨ててでも結ばれたいと、手を取り合い、連れ戻されそうになれば、入水し、愛する者と寄り添う事を選択する華族娘の悲恋。
彼女は、自分の家族や一族の事を考えなかったのか……。何もかもを捨て、その人と引き裂かれるなら死ぬ。そこまでの激しい恋。
ああ……私もそのような恋に身を投げてみたい……。片想いではなく……想われたい。
「武陵桃源に迷い込んでしまったようだ」
ティダ皇子の声。私は紅葉草子の本から目を離し、部屋を見渡した。黒装束の男がいる。体格からして男で、装束の色は皇族のみが着ることを許される漆黒。しかし、女性のように、衣で顔を隠している。
夢? 何の音もしなかったのに、彼は私のすぐ近くに座っている。
「今宵の天女は笑ってくれ……ないのか」
やはり、この声はティダ皇子。彼は私の髪を手に取った。全身の体温が急上昇して、激しい動悸に襲われる。
「ティダ皇子……」
これは、夜這い……。何度も、何度も、何度も夢見た状況。嘘……。喜んではいけないのに、どうしようもなく嬉しい。
「テュールを連れ回して、酔い潰してしまった。今夜は二晩目だというので、代わりに連れ出しにきた」
代わりに? なら、夜這いではない……。
ティダ皇子の手が伸びてくる。彼が手に持つ扇子が私の顎に触れそうになった。私は思わず手に持つ紅葉草子の本で、扇子を払った。
「扇子でも触らないで下さいませ。大華を摘めるのは唯お一人のみです」
ティダ皇子が目を丸めた。
「指一本触れるなと言うから扇子にしたのに、これでも怒るのか……」
戸惑うティダ皇子に背を向ける。テュール皇子との婚姻前に、私を攫ってくれるのかと一瞬浮かれた。私の阿呆。でも、泣きそう。歓喜の強さ分、絶望感も強い。
「摘む覚悟がおありでしたらどうそ。たった二晩続けて逢いに来ることさえしない方に摘まれるよりは、良いでしょう」
私は体を丸めた。俯いて、袖で隠さないと涙を見られてしまう。
「意中の男で無かったからと泣くな」
はい? 今、何て言った? 何故、今の会話の流れでそういう台詞が出てくる。
思わず、私は背を伸ばして振り返っていた。涙が飛び散る。
「意中? 笑止! 身内を人質にし、嫁げ、恋せよと言う方など!」
口にしてから、やらかしたと慄く。全身が震える。視線が合ったティダ皇子の目の光は……分からない。何を考えているのか見抜けない色である。表情も乏しい。
「……いえ……聞かなかった事にして下さいませ……。今のは身勝手と、己の性根の悪さ故に飛び出した言葉でございます……」
私は逃げるようにティダ皇子から顔を背けた。懐から扇子を出して、顔を隠す。
「ふむ。手を出させなかった、が正しいのか。さて、どうしたものか……。ソアレ、あの男の何が気に入らない?」
問いかけに、私は言葉を詰まらせた。何が気に入らない? その答えは一つしかない。彼は、ティダ皇子ではない。だから、気に入らない。彼自身には何の落ち度もない。
「何も……。誠実で……優しい方でございます……。私を慮って、一線引いて下さったのはテュール皇子です」
だから、歩み寄ろう。そう思っていたのに、いとも簡単に揺らいだ。ティダ皇子の姿を見ただけで、私の決意は吹き飛んでしまった。
「何も……ねえ……全身から拒絶の空気を出して……。ありつつも君をば待たむ……よくもまあ、そんな嘘が言えたものだ。いや、長年の文なども全て偽りか……」
「ええ。私が贄となれば、愛する一族の未来は明るい。憐れな生贄など真っ平御免です。なので、骨抜きではなく心抜きします」
私は机に向かい、墨仕込み筆を手にした。
「心抜き?」
「生まれてから、ただ一人の姫になるのだと縛られたのです。ならば、私もそういう扱いをされなければ、我慢出来ません」
自分の台詞が、ストンと自分の絶妙な位置に嵌った。焼け焦げそうな気持ちになるまで、ティダ皇子を想っているのに、踏み出せない理由はこれだ。磨きに磨いた私という宝石を、一晩で砕きたくない。私は輝き続けたい。寵愛を一心に受けたい。
来ない男を待って、侘しく過ごしたくない。袖を濡らす夜、嫉妬に狂って絶叫しそうな日々。皇居に飛び交う、女の恨み辛み。後宮なんて、もっと酷いに違いない。
歌や詩、物語に綴られて残って、語り継がれてきた女の叫び。私もその一人に加わるなんて嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
沈黙が続く。ティダ皇子は親しい友人であるテュール皇子の為に、私を迎えにきた。その行為が、私の全身を突き刺し、血塗れにするとも知らずに……。
半紙にさららと龍詩を綴る。半紙を折らずにティダ皇子へと渡した。
「菜花の昨日の花は枯れずとも……人の心をいかが頼まむ。おい……これを俺に持っていけと?」
貴方の事を全く信用出来ません。そういう文だ。人に頼むとは、という意味も掛けた。
「ええ。酔い潰れて寝ている方の枕元へ置いておいて下さいませ。昨日や本日の様子だと、慌てて逢いに来てくださるでしょうね」
私は花瓶に生けてある菜花もティダ皇子へ差し出した。水で濡れている茎を向けてである。私は立ち上がり、精一杯の笑みを浮かべた。
「人は手に入らないものにこそ、夢中になるでしょう? 手に入りそうで入らない。届いたと思ったら、するりと零れ落ちる」
ティダ皇子の膝の上に、菜花を落とした。
「動揺しながら逢いに来られたテュール皇子にこう言います。うら寂しい、可愛げのある態度でです。百夜通いでもしてくだされば……信じられると思います……」
私は、よよよよよ、と泣き真似をして、崩れるように腰を下ろした。
もしも、万が一、ティダ皇子が私に迫ったら、同じことを告げる。私を有象無象と一緒にするな。いや、有象無象などこの世にそんな女は存在しない。色恋遊びなど、滅ぼしてくれる。
皇族が一夫一妻となり、仲睦まじく暮らせば、少しは世間の風向きが変わる。世に埋もれる乙女の願いを私が叶える。私も幸福になるだろう。自らの手で、世界を切り開くのだ。
どう反応するかと思ったら、ティダ皇子は子供が新しい発見をしたというような、あどけない表情である。
「ふははははは! 我が友はなんつう毒花に惚れた。よし、気に入った。そなたに協力してやろう」
高笑いをした後に、ティダ皇子は膝の上の菜花を掴んだ。反対の手には、いつの間にか折りたたんでいた半紙。彼がスッと立ち上がる。
「その百夜通い。俺が上手く話をつけてやろう。さめざめと泣くそなたに提案した、とかな。よし、明日は部屋にこもり、泣き真似しておけ」
ティダ皇子は、どことなく機嫌良さそうに見える。
「そうかそうか。群れの為の手練手管か。俺にしては阿呆な見誤りをしていた。ソアレ、破壊令嬢と呼ばれないようにしてやった礼がまだだ。明日、神楽殿にて返せ。いや……もっと良い場所がいいな」
それは、どういう意味? 問いかける前に、ティダ皇子は部屋から出て行った。それも、何故か鼻歌交じりである。
翌日、日没頃にテュール皇子が春霞局に現れた。私はというと、ティダ皇子に言われたのもあるが、テュール皇子の気を引くために、傷ついたような振る舞いをしていた。
内心、テュール皇子に抱かれる日が遠ざかって喜んでいたりする。
「我が娘にも等しい葛姫を、酒に飲まれて無下にするとは何事か! 丞相ロロ殿や我が春霞上葛に顔向け出来んであろう!」
私を訪ねてきたテュール皇子を捕まえたナナリー様が、そう激怒したらしい。というより、私は隣の部屋で聞かされている。
ナナリー様としては、私の父であるロロの後ろ盾が無くなるのは避けたい。レオン宰相の第1皇妃よりも勢いがあるのは、父や母のお陰だからである。
出仕を怠る程飲むとは何たる恥晒し! などなど、可哀想なくらい怒られているテュール皇子。彼は、一言も反論しない。ただ、すみませんでしたとだけ口にしている。
部屋に共にいる側女のネージュとマールは、テュール皇子に同情的な意見を述べた。
「長年、慕っていた菜花姫様といよいよ婚姻。そこにティダ皇子からの大祝杯で、有頂天になったそうですよ」
「菜花姫様、テュール皇子は出仕を怠っていないそうです。皇太子に直々に指名されて、共に仕事へ行かれたとか」
ほら、ね、機嫌を直して下さいというネージュとマール。多分、二人は臍を曲げた私の説得係。この情報は、ナナリー様経由のものだろう。
自分の事なのに、私の胸中は、ティダ皇子の事で頭が一杯。今日も会いに来てくれるらしいので、その事で胸が踊ってしょうがない。ニヤケ顔を隠すために、ずっと扇で顔を隠すか、机に突っ伏さないとならない程だ。
「まあ、浮かれる気持ちも分かります。菜花姫が嫁げる歳になるのを、指折り数えていましたからね」
え? 指折り数えていた? そうなの? 私は思わず声に出しそうな程驚愕した。
「昨夜、テュール皇子は何度も宴会を抜け出そうとしていたそうですよ」
「大勢の殿にやっかまれて、邪魔され、潰されたのです」
嘘か真か、ネージュとマールの発言に私の心は震えない。私の心は、どうしようもなく、ティダ皇子の事でしか揺れないらしい。
「はい。……あの、母上、菜花姫とは?」
「そう呼んでください。皆にそう告げた姫は大変、可愛らしかったですよ。それを……自ら……。誠実に謝りなさい」
衣擦れの音がして、ネージュとマールが立ち上がったので、テュール皇子が私の前に現れると分かった。
ほら、ここまで貴女の為に怒った。だから、息子を許しなさい。これは、ナナリー様からの圧力でもある。私は襖に背を向けた。人が遠ざかる気配と、人が近寄ってくる気配。私は俯いた。
「二人で、話をしたい」
文なら兎も角、見抜き上手そうなテュール皇子を、私は騙せるのだろうか?
ティダ皇子に担架を切ったが、私はテュール皇子の心を鷲掴みに出来るのだろうか? それも、一生。死ぬまでとは、想像もつかない。おまけに逆は無理そうとは、酷い女。確かに毒花だ。
結局、私は圧力に屈して、流されるしかない。
扇で顔を隠したまま、無言で立ち上がり、テュール皇子の手を引く。私は部屋へテュール皇子を招き入れた。
私の部屋には、木蓮の香りが充満している。本当ならば、梅の香りで満たしたい。
部屋に入ると、私はテュール皇子から手を離した。扇で顔を隠したまま、向かい合う。
「氷洞、菜の花畑も見せられず……振り回されたり……叱られたり……情け無いところばかり見せて……。おまけに昨夜。惚れてもらうどころか逆だな……」
先に口を開いたのは、テュール皇子だった。はあ、と小さな溜息。開口一番、言い訳を口にするかと思っていたのに、これは予想外。
「ええ。少々ときめいた心がスッと冷めました」
私は扇を下ろした。今の言葉の後なら、どんなにつれない態度でも……どうだろう? とりあえず、悲しい、拗ねた、そういう表情を取り繕う。少々ときめいたとは、大嘘つき娘である。しかし、単に冷たいだけではいけない。
テュール皇子の口元だけ見れば、ティダ皇子に見えないことも無い。ティダ皇子に待ちぼうけさせられた。そう思えば、演技出来そう。
「すまない。そなたの立場だと……とても心配させたり……嫌な気分にさせただろう……。枕元に置いてあった文には……肝が冷えた」
そろそろと、テュール皇子の手が私の手に伸びてくる。私はそっと避けた。袖の中に手を引っ込める。
「ええ……」
さて、どうしよう。初恋を叶える事も出来ない女が、男を魅了する。そんな事、出来るのだろうか? 私が有するのは、噂や文学の知識のみ。実経験は零。
「あの……その……三晩通うのではなく、今日から百夜通う。輝き姫の元へ通った帝のように……。それで、少しは信頼を取り戻したい……」
ん? 百夜通う? 私はまだ提案していない。私はテュール皇子の口元を見るのを止めて、顔を上げた。心底申し訳なさそうな、そして悲しそうな表情に、素直に胸が痛む。
「百夜?」
「ええ。勿論、その後も約束したように大事にします。嫌われたくないと口にしたのに、約束したのにこの体たらく。必ずや行動を持って、信用を得ます」
真摯な眼差しに、私は慄いた。私はこの真っ直ぐな瞳に応えられるような娘ではない。
「死ぬる命 生きもやすると こころみに……」
急な龍歌。テュール皇子の手が恐る恐るというように、私の頬に向かってくる。
「玉の緒ばかり あはむと言はなむ」
古典で読んだ事はない龍歌。テュール皇子自身が考えてきた? この意味は……恋しくて死にそう。ほんの少しでも逢うと言ってくれ。
私は……テュール皇子の気持ちが分かる。叶わない恋の辛さは知っている。テュール皇子は私の頬に触れなかった。拳を握り、伸ばした手を下ろした。
「私に拒否権などございません。ただ、どうせなら……夫となる方と……恋をしてみたいと思ったのです……。傷ついた理由……分かりますか? 気の無い方なら……」
言いかけて、私は口を噤んだ。まったくもって傷ついていないし、気も無い。酷い女。
袖から手を出して、私はテュール皇子の頬に触れた。手練手管ではない。自然とそうしたいと思ったから。
ゆらゆらと、陽炎のように揺れる眼差し。私は親指の腹でテュール皇子の頬をなぞった。とても滑らか。
「私の心を掴み、彩り豊かな世界を見せて欲しいです」
私は可憐——多分可憐——に笑ってみせた。愛くるしい笑顔と言ってもらった、その笑顔を浮かべる。おそらく、ぎこちないが、今の空気には丁度良いだろう。
「あの……あまりにも寂しくて、つい酷い文を送ってしまいました。すみませんでした」
愛嬌。しおらしく。私の勝気さや本音は封印。
これで、ナナリー様の顔が立ち、テュール皇子は私をもっと大切にしようと思ってくれる筈である。
テュール皇子を骨抜き以上にすると意気込んだのは昨夜なのに、もうそんな気分ではない。この人に、恋を出来たらと、そう素直に思える。百夜後も、勿論大切にしたい。その言葉が嬉しかった。
ボッと火がついたように、テュール皇子の顔が紅葉色に染まった。これは、想定外である。私の笑顔はそんなに効果のある、愛くるしさなのか? いや、私を好む、テュール皇子限定だろう。ティダ皇子は私の笑顔に対して、こんな風にはならない。
目元に手を当てると、テュール皇子は俯いてしまった。
「いくら酒をしこたま飲まされ、捕まっていたとはいえ……。好機を自ら捨てたとは……。ソアレ……」
テュール皇子が目元から手を離し、熱っぽい視線で私を見据えた。手が、伸びてくる。私は後退し、扇でテュール皇子の手を軽く払った。
「百夜後に摘んで下さいませ。憧れが叶うことを、祈ります」
私はテュール皇子に背を向けた。後ろから抱きつかれたりしなかったので安堵。テュール皇子は「明日、また来ます」とだけ告げて、帰っていった。
【激情に燃える太陽 8話:独占強欲】
深く眠っていたところ、突然起こされた。急に体が浮いたので、一瞬にして目が覚めたというのが正しい。
悲鳴を上げそうになると、口を塞がれた。
「強欲姫、檻から連れ出しに来た」
ティダ皇子の小さな囁き声。耳元での、あまりにも小さな声に、背筋がぞわぞわして、胸が甘ったるくなる。私を抱きかかえる腕はとても逞しい。熱い、全身が熱くてならない。ティダ皇子は、昨晩と同じように、顔を衣で隠している。
そのまま、部屋から連れ出された。困る。こんなの困る。私は彼の首に手を回したい衝動を抑えながら、どうしたものかと思案した。
部屋を出て、廊下を歩き、庭先の方へと出る。庭に、ティダ皇子の黒狼がいた。彼が音も立てずに跳ねると、黒狼も跳ねた。庭の小石がジャリッと音を鳴らす。
ティダ皇子は私を抱いたまま、黒狼に乗った。大型犬の倍はある体格の黒狼は、そのままもう一度庭を蹴り、急上昇。
「全く、大きな音を立てて、まだまだだな。まあ、良いレージング。頼む」
ティダ皇子が私から手を離し、レージングと呼んだ黒狼の頭を撫でた。あまりにも優しげな声に笑顔。かつて、私に見せてくれた表情、聞かせてくれた声色。これは……夢だ。願望がついに夢となった。
黒狼は皇居屋敷の屋根に乗り、風のように駆け、次は囲い、更には飛び降りた。堀を飛び越えて、皇居背後のユルルングル霊峰の岩へ着地。岩から岩へと飛び移っていく。
狼? こんなの、普通の狼ではない。
何処へ向かうのかと思ったら……梅。それに滝。梅の木が何本かと、滝がある岩場。黒狼はそこで止まり、腰を落とした。ティダ皇子は黒狼の背から飛び降りた。
寒い。
片手で私を抱くと、ティダ皇子は被っていた衣を手にした。腰を下ろした黒狼の横腹、尾に衣を掛ける。私はその上に降ろされた。
ティダ皇子は私のすぐ隣に座った。黒狼の体に囲まれて、ピタリと寄り添う私達。これは……もう寒く無いが……逆に熱い。
「では、酌を頼むソアレ」
悪戯っぽい笑みを浮かべると、ティダ皇子は懐から小さめの酒瓶を出した。次は盃。はい、というように酒瓶を渡される。
「これは……どういうことで……。それに、この狼は何者です?」
「花見だ花見。友の女でないなら、遠慮などいらん。可愛いそなたを存分に愛でられる」
ティダ皇子の手と顔が近づいてきたので、私は拒否した。上半身を捻る。
「おやめ下さい。気まぐれな遊びには付き合いません。私は……」
「咲かない花を咲かす女だと強欲、強情な姫。幾人もの男を掌でころり、ころり、と良い身分だな」
ティダ皇子の体が離れた気配がして、私は体の向きを戻した。
「幾人もの男を?」
「左様。百夜通えば、極上の華を愛でられる。そういう噂になっているぞ。テュールは闘争心、嫉妬心を煽られて、必死になるだろうな」
ティダ皇子は大笑いしながら、私から酒瓶を奪った。手酌で酒を飲み始める。
「噂になっているぞとは……もしや……」
「夢見る乙女の夢は、叶えてやるべきだからな。無駄だと思うぞソアレ。皇族や皇居の官吏男は一人の女を止まり木にはするが、必ず飛ぶ」
横目で、諭すように見られた。
「ご自分がそうだからと、他人もそうだと決めつけないで下さい」
口説かれるのかと思ったら、説教。気を許したら、彼に抱かれる数多の女の一人になるのか。この人に焦がれてならないが、私の頑なな心が彼の胸に飛び込むことを邪魔する。
急に、ティダ皇子が私の首に顔を寄せた。あまりにも突然だったので、避けられなかった。唇が触れるかと思って、体中に期待と嫌悪が駆け巡る。しかし、ティダ皇子は私に触れなかった。
「この俺に触れられたくないとは、本当に変人奇人だな」
「妻一人と決める方になら、幾らでも触れてもらいとうございます」
これは、夢ではなく現実。待ちに待ったティダ皇子の来訪だったが、苛々してきた。
「そなたが咲かせたいのは矜持の花か。咲かなかったらどうする。咲いてもすぐ枯れるぞ」
黒狼にもたれかかり、ティダ皇子は小さな溜息を吐いた。白い息が、ふわりと消えていく。梅の木にかかる雲のような息。呼吸だけで雅な人。
「分かりませぬ。十中八九、死ぬでしょう。他の方を愛でる殿に当てつけて、目の前で燃えるかもしれません。裏切り者の首を絞めるかもしれません」
「はあ?」
私はティダ皇子を見据えた。彼は明らかに狼狽し、顔色を悪くした。多分、私は物凄く可愛げのない表情をしているだろう。淡い紅色の満開の梅の香りに、くらくらする。意固地になっていないで、ティダ皇子の胸に飛び込める性格なら良いのに。
テュール皇子には、なかなか可愛げのある態度を取れたのに、今の私は正反対だ。
「忘らるる身をば思はず。そういうことです。そして、殿の性だと神が許そうとも、私は許しませぬ」
「忘れられても構わないとは大嘘ではないか。おい、最悪な事を申すなソアレ」
「縛られる事が最悪なのか、死ぬとまで言うのが最悪なのか、どちらでしょうか?」
ティダ皇子の上半身が少し、私から遠ざかった。
「どちらにも決まっているだろう」
「左様でございますか」
そっと手を伸ばして、ティダ皇子の頬に触れる。震えるかと思ったが、震えはしなかった。
「愛でる? 私はそこらの女とは違うのです。本気になるか、無理矢理組み敷くかどちらか一つ。私は決して誰とも遊びませぬ。そのようなこと、相手に許しません」
思いっきり、ティダ皇子の頬を抓った。ティダ皇子は女を組み敷いたりしない。それに、このぐらいでは怒らない。
痛いとも言わずに、ティダ皇子はポカンとしてしまった。茫然自失という様子。
「最悪だなソアレ。何ていう女だ」
頬をひきつらせると、ティダ皇子はスッと立ち上がり、スタスタと梅の木へと歩いていった。
最悪、最悪とは、ティダ皇子の方だ。嘘でも良いから「そなただけだ」と言え。そうしたら、私は何もかもを捨てて、彼の胸に飛び込める。
ティダ皇子は梅の枝を手折って、戻ってきた。
「ねやちかき」
小さな梅の小枝が、私の袖の上に置かれた。寝屋の近く?
「梅のにほひに朝な朝な あやしく恋のまさる頃かな」
へ?
梅の香りがする朝に……ひどく恋しく……。恋しく? そうだ、友の女で無いならと言っていた。ティダ皇子は、私がテュール皇子を恋い慕っていて、テュール皇子もそうであるからと、私から離れた。そういう事だったのかと今理解した。
どうしようもなく大好きな初恋の人から、思い出の花で告白。照れくさそうな表情に、胸がはちきれそう。
「人の心を振り回す最悪の毒花め。まあ、百夜後に折れてもらうからな」
立ち上がって、ティダ皇子に抱きつくつもりが、今の台詞で気持ちが砕かれた。ティダ皇子は飽きれ顔をした後、私に背中を向けた。百夜後? ティダ皇子は私に百夜通いする? 折れてもらう?
折れて?
私は袖の上の梅の枝を掴み、思いっきり投げていた。ティダ皇子の背中に梅の小枝がぶつかる。
「太陽を折るなど誰にもできませぬ!」
振り返ったティダ皇子は、みるみる顔色を悪くした。どうして、こうなる。
頑固で阿呆な私は、こうして初恋成就の好機を自らの手で捨て去った。
この時、一族がどうとか、背負うものについて、何も考えていなかった。単に「一生そなただけだ」と上辺だけでも言わないティダ皇子が、浮気三昧の日々を送る事に対する怒りしかなかった。怒りというより、憎悪である。
この激情的な恋慕は、私をいつか破滅させる。そういう予感がした。
∞ ∞ ∞
梅が散り、桜が咲いて、それも散った。もう、葉桜になる季節。
百夜通い。テュール皇子は本当にしてくれた。毎日、花と文を持って、春霞局へ現れるテュール皇子とは実に穏やかな交流。自然と笑えるし、日増しにこの人にもっと歩み寄ろうと感じる事が出来た。
一方、毎晩、夜更けに現れるティダ皇子とは日に日に険悪になっていった。恋心を口にしたら負け。口説かれたら負け。私の心は、ベルセルグ皇居を守護するユルルングル霊峰よりも強固になった。
「何故にこうも、靡かない女に惹かれてしまったのかね」
呆れ顔で言う台詞を、タコが出来る程聞かされた。口説き文句を告げられ、彼の手が伸びてくる度に拒絶。そういう時、指一本触れるなという私に対し、ティダ皇子は実に律儀なことに、指一本触れない。ほんの少し、触れられれば、容易く決壊しそうなのに、触れてくれない。
ティダ皇子は、初指南の話を全て拒否。皇居内での色恋遊びの噂もパタリと止んだ。異常事態に、街娘や皇居外の華族の娘が相手だとか、噂が噂を呼ぶ。女の情報網は複雑かつ迅速で、ティダ皇子は誰にも手を付けていない。おかしい。妙だ。そういう話が何度も耳に届いた。その意味は、つまり、私に本気だということ。
私に執着してくれるなら、何故、たった一言、嘘で良いのに永遠を誓ってくれないのか?
私は自分の愛嬌のなさ、勝気さ、そういう悪癖を棚に上げて、ティダ皇子を憎悪している。可愛さ余って憎さ百倍とは、まさにこの事。梅を投げた事に始まり、文を千切り、燃やし、桜の枝を突き返し、酷い有様。私は、本当に可愛げのない、最悪な娘である。
そうして、二人の殿と迎えた百夜目。テュール皇子は前夜と同じく現れ、ティダ皇子は現れなかった。
ティダ皇子はそのまま国から姿を消した。十歳の頃より、数えて百度目の失踪。皇居内ではそんなに話題にならなかった。気まぐれ皇太子は、またひょっこり戻ってくる。困った人だ。そんな呆れ声があちこちから噴出しているらしい。
むしろ、この三ヶ月余りの間、ティダ皇子が皇居内の女官に手を付けないことの方が大きな噂になっている。というより、女の私には、女の噂ばかりが届く。
こうして、百夜の翌日がやってきた。
テュール皇子と私の、婚姻の儀式の日である。百夜通いは、表向きは婚儀までの間、単にテュール皇子が通い婚をしている。そういうことになっていた。何せ、国中に妃だと披露されている。
今日の儀式を持って、私はテュール皇子の正式な妃。その座は正妃。皇居内にテュール皇子の屋敷が新設され、私は共に住まう事を許される。正妃にのみ許される特権。
皇族の婚姻の儀式は、四年振り。正妃となると五年振り。
儀式は盛大に執り行われた。テュール皇子と私の結婚は、長い年月を経た初恋成就物語して、多くの娘達の胸をときかせるだろう。しかし、その本人の心中は鉛を飲んだように重い。
婚姻の儀式中、笑顔を顔に貼り付けながら、私は自らの性格を呪うしかなかった。




