外伝【ティダとソアレ 1 】
【激情に燃える太陽 1話:初恋梅園】
一面、淡い桃色。甘い匂いに囲まれて、私の胸は弾けそうなほど、とくとくと鳴っている。
春の訪れを知らせる、梅の楽園。ほんのりと橙に染まる空は、間も無く日が落ちるぞと告げている。
彼が、腕を伸ばして、枝の一つを手折った。まだ蕾の多い枝を、差し出された。
「あ、ありがとう……ございます……」
あまりにも嬉しくて、両目に涙が滲む。
「ん? 気に入らないのか?」
彼が、私の顔を覗き込んだ。知り合って2年、あっという間に背を抜かれ、頭一つ分も違う。だからか、彼は背中を丸めて、グッと下から見上げるように私を見た。
ち、近い……。
私は梅の枝をギュッと抱きしめて、首を横に振った。
「まさか。一生の宝物でございます」
彼の無骨な指が、私の涙をすくった。なんて、優しい笑みを浮かべるのだろう。
「それは大袈裟な表現だな。その枝、世話しても長くはもたない。次はカドュルの桜を見せてやろう」
「いえ。目に焼き付いたこの梅は、胸の内で永遠に咲くのです。山脈に桜が咲くのですか? そんな遠くへ、どうやって行くのです?」
私を皇居から連れ出して、市街地外れの梅園へ。それだけでも、驚きだったのに、北にあるカドュル山脈?
「山脈……人里ではナルガの森か。友が連れて行ってくれる。だが危ないので、枝を折ってきてやろう」
人里?
「人里?」
「ソアレ、日が落ちる。そろそろ皇居に戻るか」
話をはぐらかすように、彼は私を抱き上げた。着物分かなり重い私を軽々と持ち上げる逞しさ。
えいっと首に手を回したいけれど、そんな勇気は無い。どうしてこう、ドキドキ、ドキドキしているのだろう?
これこそ、きっと、世に言う——……。
————…………。
——……。
目を開いて見上げると、毎日眺める天井があった。梅の枝は無い。
机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
三年、いやもうすぐ四年前になる事を夢に見たのか。まだ、鼻孔を梅の香りがくすぐるような錯覚がする。
背を伸ばして、何をしていたのかと、周りの状況を確認。
半紙、筆、墨、硯……文、文を書こうとしていた。
目の前には、梅の小枝。庭に植えてある梅には、かつて贈られた宝物を添え木してある。上手くつき、今年も花を咲かせてくれた。
この小枝は、それとは別の場所から手折った。本当に文を書きたい相手には、何も書けない。
私は今日も、恋しい相手を思い浮かべて、恋しくない相手に何とか文を書く。
「君とこそ 春来ることも待たれしか……」
古典龍歌そのままで良いか……。私は筆を持ち、半紙にさららと文字を綴った。
「梅も桜も……たれとかは見む……」
貴方と一緒に春の訪れを待っていたのに、梅も桜も誰と見ればよいのでしょう。ふむ、これでは全くもって、恋文ではない。
梅や桜を眺めながら、来ない相手を待っている。単に、そういう侘しさを醸し出す歌。作者も確か……夫を亡くした後に歌った。
少し、変えれば良いか。
「貴方と一緒に春の訪れを待てれば良いのに……。よし、これでよし」
せっかくなので、梅の絵を添える。どうせならと、朱墨で梅の花を描く。我ながら美しい。半紙を乾かし、梅の枝に結ぶ。
後はこれを側女の女官に届けてもらうだけ。
……。
……。
私は文を結んだ枝を火鉢に放り投げた。
あっという間に文は燃え、梅の枝は赤く爛れて、悲鳴を上げていく。
梅の香りが部屋を満たす。
初恋の象徴。永遠に消えない幸福な思い出。
私は間も無く、顔もよく知らない皇子の元へ嫁ぐ。この火鉢の中の梅の枝のように、大火傷すれば回避出来るだろうか?
真っ赤に染まった炭を火箸で持ち上げる。
私はそっと炭を火鉢の中に戻した。
両親、親戚、彼等が抱える雇用者。私が背負うのはその全て。何もかもを捨てて、逃げるような娘にはなれない。
私はもう一度、同じ内容の文を書くことにした。貴方と見る梅は、全く色彩のないものだ。そんな皮肉を込めて、梅の絵に朱墨は使わなかった。実に可愛げのない行為だが、言わなければ相手には分からない。誰も、私の心の内など知らない。
【激情に燃える太陽 2話:流星搜索】
大陸中央、ベルセルグ皇国皇居。私の母は皇帝陛下の弟であるレオン宰相の第2妃側女。
母の役職は、上葛という、妃世話係の最高責任者。
皇居の春霞局。私は母と共に、大半の時間をそこで過ごして成長した。
レオン宰相の第2妃ナナリー様に大変気に入られている母の娘。その私にはナナリー様からあらゆる教養を与えられている。
ナナリー様の一人息子、テュール皇子の正妃候補。それが私。名はソアレ。この国で、女性の本名は隠すもの。私は母の役職名に因んで葛姫と呼ばれている。
葛とは、折角愛くるしい容姿に生まれたのに、実に可愛げのない別称。気に入らないが、仕方ない。私に命名権は無い。
葛姫は、ナナリー様御本人や彼女が選りすぐった女官から、手習い、文学、料理、茶道、華道、雅楽、和歌、古典、香道、舞踏、碁、将棋とあらゆる教養を教え込まれている。
それで、間も無く嫁入り可能な年齢、16歳。そろそろテュール皇子へ嫁ぐことになる。
華族の娘の花形、妃がね。式典の際に舞や雅楽を披露して、選ばれた娘をそう呼ぶ。幼少から教養を叩き込まれた、美しい娘にしかなれない。妃がねに選ばれても、皇帝陛下や皇子の指名を得られないと、皇妃にはなれない。
まあ、妃がねに選出されれば、名のある殿から縁談話は引く手数多。
しかし、私は違う。第2妃や両親の政治的思惑の元、最初から正妃になる事がほぼ約束された娘。余程の失態をしない限り、父や母が権力を失わない限り、この地位は揺るがない。むしろ、私の入内により、両親の地位は益々確固たるものになり、ナナリー様も強い後ろ盾を得る。
未来の夫であるテュール皇子を、私は催事の際に何度か見かけたことがある。遠くて分かりにくいが、整った容姿の穏やかそうな皇子だった。評判も同様。未だ、手を付けた娘のいない方だと聞いている。
私は非常に幸運な娘であろう。穏やかな格好良い皇子の正妃として、何不自由なく、贅沢をして生きていける予定。但し、テュール様の寵愛を受けられるかは、自分次第。
美しく生まれ、教養も叩き込まれてきた。自信はある。
春霞局の若い女官達は、皆して私を羨む。
確かに、私はこの世に生を受けてから、不自由なく、豊かに育った。更には、こうして輝かしい未来を約束されている。
しかし、籠の中で可愛らしく鳴くしかない鳥。そんなことを思うこともある。自由に焦がれてならない時がある。
なぜなら——………他の殿に、うっかり恋をしてしまったから………。
∞ ∞ ∞
神殿御所にて舞を練習した帰り。春霞局手前の東狼御所にて、私は久し振りに彼と会った。
私の中で、ぱちん、ぱちぱちと燻っていた火種が炎になる。一目見ただけで、胸が騒めいてしまう。
男性禁制の廊下なのに、向こう側から歩いてくる殿。
現皇帝の唯一の子。皇太子ティダ・ベルセルグ。突如現れた想い人。その威風凛々とした歩き姿に、息が止まるかと思った。
「春霞の中に隠されている太陽ではないか。その姿、舞の練習帰りでしょうか?」
穏やかで優しい微笑みなのに、ティダ皇子の目は笑っていない。さあ、この娘をどう揶揄い、弄んでやろうか、そういう視線。黒真珠のような瞳に吸い込まれそう。この目に見つめられて、好き放題されてみたい。
私は足を止め、廊下の端に寄り、頭を下げた。3人いる側女も私の隣に並び、同じような体勢になった。
手に持つ扇でしっかりと顔を隠す。
「こちらの道は、皇族男子といえど、通られてはならぬ場所でございます」
「ああ、知っている。しかし、こうでもせねば、まるで天女だという噂の、そなたの姿を拝めまい」
噂も何も、私の姿を知っているではないか。他人の振りをするなと、怒鳴りたい。
ティダ皇子が私の目の前に立ったのが分かる。視線の先に、漆黒に一文字雷のような紋様を施してある鉄革沓。この特殊な沓を履くのは彼しかいない。
顔を見なくても、この沓を見れば誰だか分かってしまう。御簾の向こうに、時折見かけるこの沓には、胸が甘くなったり苦しくなったりさせられている。
ティダ皇子が、私の扇を指でつまみ、ゆらゆらと揺らした。
「私の姿など、間もなく見られるではないですか」
ゆらゆら、ゆらゆらと揺れる緋色の扇。まるで、真っ赤に染まって、弾け飛んだ紅葉の葉のよう。奥歯を強く噛み、ティダ皇子が去ることを願う。
「そうか、間も無く初指南に婚姻の儀式か。そんな歳なのだな……」
ほうっと、小さな溜息のような声。この低い声色はどうも耳を擽る。ああ、本当に耳元で優しい言葉を囁いてもらいたい。そういう熱情が湧いてくる。
そんな歳もなにも、私と彼は同い年。なのに、彼はどうしてこうも大人の色気を纏い、成熟した壮年のように喋る。
私の扇から、ティダ皇子の手が離れた。
「義理の妹と遊ぶのも一興かもしれん。楽しみは取っておくか。さて、隣の白雪のような娘、名は何と?」
遊び。その言葉に私の心は深く傷つく。抉られ、膿み、眠れない夜を過ごすことになる。
「ネ、ネージュでございます……」
横目で見ると、ティダ皇子が私の側女ネージュの扇を取り上げていた。ティダ皇子はネージュの白くて滑らかな頬に手をあて、彼女の扇で顎を上げている。
「春霞局の葛姫付きの女官なら、琴を上手く弾けるな?」
「は、はい……」
獲物を射るような眼光で、ネージュだけを見つめるティダ皇子。私の中に、暴風が吹き荒れる。
こういう時に、一族、両親、何よりナナリー様の期待を背負っているというのは呪いだ。そうでなければ、ティダ皇子の澄ました横顔をひっぱたいてやる。それで、死刑台送りになるのだ。
唯一無二の華になれぬので、どうぞ首を刎ねて下さいませ。この世の地獄にて、恋の業火に燃えるよりも、安寧の死の方が幸福だというものでございます。
そう言ったら、このティダ皇子はどうするのだろうか? 私を唯一の妃に迎えてくれるだろうか? 多分、そうしてくれる。きっと、ティダ皇子は私を見捨てない。
また、このような不毛な思考に支配される。無駄な想像。現実に出来ない計略。現実逃避の妄想。
ティダ皇子は、兵士という兵士を鍛え、特製の沓で蹴る男だが、決して女性には手を挙げない。命を盾にすれば、彼の妃の座を手に入れられるかもしれない。
背負う期待、義務を全部放棄してしまえれば、の話だ。私にそんな勇気はない。
そうして手に入れても、ティダ皇子は私だけを見たりしない。彼は幾人もの女を渡り歩く。嫉妬で狂うだろう。そんなの、最低最悪の人生だ。それでも、嫌いになれない。大好きだと思ってしまう愚かな娘。
何故、こんなに激しい恋に落ちてしまったのだろう。
「テュールと将棋を指す。彩ってくれる女官を探しに行くところだった。この可愛い雪の姫君にしよう。葛姫、未来の夫に酒の手配をせよ」
「か、可愛い? ゆ、雪の姫君?」
ティダ皇子に熱視線で微笑みかけられたネージュが、顔を真っ赤にした。平凡な顔立ちの娘だが、今のはにかみ笑いは大変可愛らしい。ティダ皇子の親指が、ネージュの唇をなぞっている。
ネージュの反応に対して、とても満足そうなティダ皇子の腹を、殴りたい。男子禁制の廊下を歩き、このように女官を口説く、何たる破廉恥皇子。
しかし、皇居で奉公する若い華族の娘の多くは、このような好機を待っている。そして、女遊びは殿の中では雅で美しいもの。色恋は上流貴族の教養とさえ呼ばれる。
なんて国だ。
腹が立つ。苛々する!
それに……悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。
私だって、義務である未来が無ければ、扇を投げ捨ててティダ皇子の胸に飛び込みたい。
「西の言葉で、ネージュは雪の意味だ。しかし、このように桜色に染まる雪など見たことがない。春霞局の桜雪。皆にそう紹介しよう」
さあ、とティダ皇子がネージュの背中に手を回した。扇で顔を隠してあげている。
二人が歩き出して、隣から居なくなった。扇で顔を隠す私からは、もう二人の姿は見えない。
手を付けられた女官の噂話によれば、ネージュのように呼ばれた女官は彼の膝の上で酒のお酌をする。それから、命じられれば琴や舞などを披露。気に入られれば、ティダ皇子は彼女の床に入る。
紫陽花局の女官が、ティダ皇子が用意してくれた垂れ衣冠が大半可愛らしかったとか、あまりにも甘美で素敵な夜だったとか、言いふらしている。おまけに、書にまでしているとか。
思い出したら、ふつふつと、茶釜の水が沸き立つように、私の内側から怒りが噴出してきた。
「兄もおらぬのに、義理の妹などとは何のことでしょうか。それに私は太陽の名を持つ娘。たった一人の殿の為に生まれてきたのです」
つい扇を閉じて、ティダ皇子に突きつけていた。ここは男子禁制の場所。隠す道理は無い、そう自分に言い聞かせる。
ティダ皇子とテュール皇子は兄弟のように親しいが、従兄弟である。私がテュール皇子と婚姻しても、ティダ皇子の義妹にはならない。
次期皇帝の義妹、皇太子の義妹。その方が響きが良いのでこんなことは言ってならない。しかし、つい口から飛び出していた。
さあ、平凡で、そこらに沢山いるような容姿のネージュよりも、美貌の神に愛される私を見ろ。最後に顔を見せた時よりも、私は更に美しい大人の女性へと成長した。
私を盗み見る殿は、一様に私に恋をする。テュール皇子の妃候補でなければ、そういう暗喩を含めた恋文も大量に送られている。
しかし、ティダ皇子はニコニコと笑っただけだった。
「先程チラリと見た時もそうだが、やはりまだあどけないな。夢見る乙女なのは愛らしいが、皇居後宮において唯一無二の華など咲かんぞ」
子供の戯言は微笑ましい。そういうような態度に笑顔。
「いいえ、咲きます。名は古くは太陽。今はソアレという名の華で、大輪でございます」
穏やかで優しいという噂のテュール皇子。時折贈られてくる品や恋文から感じる義務感。心のこもってなさ。
誰もが羨む娘。その実態は、憐れな娘。初恋に身を焦がしながらも、勇気を出せずに、指を咥えて眺めている。嫁ぎ先の殿からも、関心を持たれていない。
何て惨めなのだろう。自分に足りないものが何たるか、私は分かっている。
愛嬌。
それから、強い独占欲を捨てられないこと。テュール皇子が私の他に妃を持つことは許せるのに、ティダ皇子だと許しがたい。彼を他の女性に指一本触れさせたくない。そんな手で触られたくない。
そなただけだと、甘やかされたくてならない。ティダ皇子の言う通り、私は現実が見えていない恋に恋する子供。
貴方の華になりたい。さめざめと泣いて、縋り付きたい。しがらみという葛で身動き出来ない私を、攫って欲しい。
誰にも口に出来ない、夢物語。
私はティダ皇子に会釈をして、背を向けた。
「雪有り詩無ければ人を俗了すと申します。ネージュ、名誉ある指名ですので励みなさい」
ネージュは龍詩や龍歌が苦手。雪が有っても詩がないようでは、せっかくの風景も平凡になる。
何で、こんな嫌味を口にしてしまったのだろう……。私は自分の体を支配する、どす黒い感情に慄き、早歩きでその場を立ち去ろうとした。
「ならばソアレ、側女の為に、未来の夫へ文を届けよ」
私は「はい」と短く告げて、春霞局へと逃げた。自分の部屋に閉じこもる。
恋文。
テュール皇子にそんなもの書けない。何も感じないからだ。テュール皇子と交わす文は、古い龍歌を使った、何とも無機質なやり取り。彼を想って恋歌を考えようとしても、そもそも彼の事など殆ど知らない。向こうも同じだろう。
時折、春霞局に忍び込んで、私と将棋を指していたティダ皇子とは違う。息が詰まる生活だと、つい零したら、ティダ皇子は夜中に皇居から連れ出してくれた。あの夜の、天の川が目に焼き付いて離れない。
12歳の春に、平民の格好で街を散策した事など、どうやったって忘れようがない。道すがら手折ってくれた梅の枝を、接木して今でも眺めていることを、ティダ皇子は知らない。
私は密かに期待していた。テュール皇子を押し退けて、ティダ皇子が私を妃に迎えたいと宣言する事を。しかし、12歳の秋を境にティダ皇子は私の前に現れなくなった。
ある日、不意に途絶えた足取り。待てども待てども、現れない。それは、夫に飽きられた妻と同じではないだろうか。創作物や、女官達の憂いた話に触れるたびに、私はそのように感じた。
手を付けられることもなく、去られた。遊び相手としてならと、揶揄われる。酷い男。そんな人にどうしようもなく恋心を募らせる自分。
【かくばかり恋ひつつあらずは高山の
磐根し枕きて死なましものを】
こんなに貴方を恋い慕っている苦しさに耐えているより、高い山の岩のもとで死んだほうが良い。
今日の気持ちを込めたら、そういう龍歌が出来た。
恋文に付けた香りは木蓮。テュール様から贈られた香料。
それから、絵を添えた。険しい岩山の下で、身を縮めている女性と我が国の象徴である岩窟龍。
乙女よ、死は忌むべきものである。さあ、立ち上がりなさい。そうして、岩窟龍に見つけられた娘は救出された。神話の一節「乙女と龍王」の場面を自分なりに絵にしたもの。
香料や絵は、溢れ出る恋の枯葉を隠す森。
この夜、私はティダ皇子に抱かれるネージュの姿を想像して、夜空を見ながら琴を弾いた。涙が頬を伝って、止まらない。
曲は流星の祈り唄。
流れ星に願いを込めて祈れば叶う。そういう曲。
空が白んでも、私の前で星は流れなかった。
【激情に燃える太陽 3話:寒月別離】
春霞局の神楽殿にて、一人で舞う。間も無く月が頭上まで登りそうな時間帯。
軽やかで雅な振り付けの舞なのに、気分は憂鬱。寒さで手足がかじかむ。春の気配を感じさせる梅が咲いても、まだ二月。深夜であるし、かなり冷えている。
明日、ナナリー様の誕生式典が執り行われる。こっそり部屋を抜け出し、最後の練習。舞が一番不安。
華族の娘にとって、催事で宴席を彩ることは花形。幸福な未来を得る為の第一歩。親の威信をかけて、皇族の妃に相応しい娘だと選ばれるように、日夜修練に励んでいる。
私は明日の宴、全ての席に参加する。雅楽、舞、龍歌、茶道、花道、将棋、唄読み合わせ。ナナリー様への奉納という名の元に行われる数々の宴。華族の娘が競い合って手に入れる座であるが、私は特別扱い。
依怙贔屓による参加だと、嫌がらせ、陰口を叩かれる。その通りだが、私が望んだのではない。楽器が壊されたり、酷い中傷話。
私がテュール皇子の正妃候補として、ナナリー様が直々に育てたのは、周知の事実。その娘が、ついに公の場に現れる。宴の席、全てに現れ、おまけに稀有な美貌の持ち主である私を、妃がねに選ばない官吏は居ない。
宴席で大失敗をしなければ、の話だ。ここまで道を敷かれて、無様な姿を見せたらどうしよう。
上手く役目を果たせば、明後日、私は官吏達に妃がねに選出される。
その次は初指南相手の指名、日取りの取り決め。
華族の娘に行われる初指南。礼儀作法を一通り確認され、最後に床への入り方を教わるという儀式。
父親の上官に教養の確認をされ、嫁ぐ為の手ほどきも受ける。そういう通過儀礼。愛し合った殿と甘い初夜が許されるのは、一般市民の世界の話。
名のある殿にお墨付きを貰った娘は、引く手数多。輝かしい未来が約束される。
この初指南、妃がねになると皇族を指名する事が可能。妃がねという名称は、そこからきている。
こんなにも素晴らしい娘です。どうか見初めて下さい。気に入って下さい。妃にして下さい。そういう意味を込めて、皇族に初指南という名の、お手付きにしてもらうのである。
前々から、教わっている風習だが、嫌でたまらない。女を磨いて、好きでもない男に処女を捧げる。こんな習わし、廃れてしまえば良いのに。
そういう乙女の叫び声がついに届いて、近年では、初指南の夜に最後まで致さない事の方が多いという。教養の確認まで。
しかし、私にはそのような夜は訪れない。私はテュール皇子と褥を共にし、そのまま三晩続けて抱かれ、正妃に就任する。それが私の人生における既定路線。
格好悪い不細工皇子と契る訳でもないのに、胸が張り裂けそう。テュール皇子の前で、嫌ではないと、演技を出来るだろうか?
明日など来なければ良い。いっそこのまま、神楽殿から飛び降りて、逃げ出したい。皇居を囲う砦は高く、その向こうの堀も深い。よって、庭に出ても逃亡不可能。
私は雑念を捨てようと、踊り続けた。
初指南をティダ皇子にしてもらった。最近、そういう話を二度耳にした。優しくて天にも登るようだった。そんな自慢話。
そのうち、彼に初指南された妃がねの中から、ティダ皇子の妃が生まれる。三晩連続で褥を共にした妃がねが妃になる。そんな女性が現れたら最悪。顔を見たら殴るかもしれない。私もこっそり楽器を壊すかも。
「このように太陽の精が舞うと、夜が去ってしまうのではないか?」
急にした声に、心臓が口から飛び出るかと思った。ストンと神楽殿の屋根から降りてきた暗い影が二つ。私は虚を突かれて固まった。
ティダ皇子。それに彼が飼う巨大な黒い狼。
「人……人を呼びますよティダ皇子! 夜更けに乙女の……」
トンッと跳ねたティダ皇子が、私の目の前に着地した。腰を抱かれ、左手を握られる。
「かつては、このように逢瀬を重ねた事もあっただろう? ソアレ、一晩くらい遊んでくれないか?」
にこやかに笑うと、ティダ皇子が私の頬に顔を近づけた。かなり酒臭い。
一晩くらい。
遊び。
私は思わず、ティダ皇子の足を強く踏んづけた。
「逢瀬ではなく将棋の相手です! 指一本触れないで下さいませ! 私はテュール様の妃になる娘です」
ティダ皇子を力一杯突き飛ばす。彼は私の手を離し、後退した。
「そのような激怒の顔をして、戦争で死ぬかもしれん男を無下にするとは、薄情な娘だな」
困ったように笑うと、ティダ皇子は肩を竦めた。
怒って、罵って、不敬罪だと捕縛してくれれば良いのに。そうしたら、もう死ぬから伝えます。貴方が大好きです、なんて告白出来る。
絶対にあり得ない妄想。虚しくて、悲しいだけだ。一族の顔に泥を塗る事なんて出来ない。ティダ皇子も、足を踏まれたくらいでは怒らない。正当な理由で突き飛ばしただけで、激怒したりしない。
田植えの視察時に、子供が遊びで投げ合っていた泥団子が当たっても、「元気で何より」と大笑いして子の頭を撫でるような人だ。
井戸水を運んでいた官吏が転んで、全身水浸しにされたのに、水も滴る良い男だという意味か? と笑って許す殿だ。
怯えた表情で土下座する官吏と、豪快に笑って去るティダ皇子の絵。そんなものが、女官の間で回し見されている。
「戦争で死? どういう意味でございますか?」
「出征だ。明日の朝に出立する。催事の日に戦場へ向かえとは、酷い話だ。まあ、叔父上は俺の存在が邪魔だからな。父上も、弱い後継ならば要らん。名乗り上げて来いだとよ」
ティダ皇子はその場に座り込んでしまった。隣に音もなく、黒狼が移動してきた。ティダ皇子が黒狼にもたれかかる。実に絵になる姿。
妃の居ない、現皇帝陛下の一人息子。6年前にティダ皇子を何処からか連れてきて、彼こそ次期皇帝にして皇太子だと宣言した皇帝陛下。次期皇帝予定だった、皇帝の弟であるレオン宰相は影で激怒しているそう。
私はそのレオン宰相の次男テュール皇子に嫁ぐ娘として育てられた。父はレオン宰相の秘書官吏。母はレオン宰相の第2妃の上葛。だから、ティダ皇子とだけは結ばれることが許されない。
他の誰か、例えばレオン宰相だとか、彼の長男シエルバ皇子、彼等の周りにいる偉い官吏に手を付けられても問題ない。ティダ皇子だけは禁忌。自分だけではなく、一族郎党、滅びへ向かう。
皇帝陛下の宣言とは真逆に、皇帝にはならない。そのうち帰るべき場所へ帰ると飄々と言ってのけるティダ皇子。そんな彼は、私や一族の後ろ盾にはなり得ない。
「相変わらず、テュール、テュール。あの軟弱臆病も果報者だな。さて、死なないとは思うが少々侘しい夜だ。かつては親しくしていたし、明日披露する舞を見せてはくれないか?」
寂しげな、懇願の眼差しに、首を縦に振りたかった。
「疲労で明日、最善を尽くせないと困ります。それに、色恋遊び激しい方と共にいる所を見られると困ります。お休みなさいませ」
私はティダ皇子に背を向けて、足を踏み出した。
「御武運を……健やかな姿で戻られることを祈ります……」
震え声が出た。涙が溢れて、頬を伝う。
死なないと本人が言う通り、彼は鬼神の如く強いというから死なないだろう。人間離れした怪力と身のこなしらしいので、今夜が死に別れではない筈。
しかし、私は彼の戦う姿なんて見た事がない。戦に行くということは、死と隣り合わせ。
恋い慕う相手と、こんなやり取りで、今生の別れになったら最悪。足取りが重い。しかし、彼を見たら泣きながら抱きつく自信がある。そうしたら、私の背負う何もかもが粉々に砕け散る。
「ソアレ。次期皇帝はテュールである。それで、まあ、俺は時折帰る。待ち人が居ればだ……」
今、何て言った?
私は思わず振り返りそうになった。ティダ皇子の発言の意図が読み取れない。
「俺は酒と女が好きだ。本能には抗えない。しかし、まあ……その何だ? 最も良い座を与えるぞ。唯一無二の華は無理でも、常に中央に咲く大華だ」
それは、どういう意味? 私は振り返った。ティダ皇子は立って、私に背を向けている。
「危ない。飲み過ぎだ……。俺は友の女には手を出さん。眺めたり、話すくらいだけにせねばならん。それに、太陽は皇帝の上で輝きたいと言うからな」
私はその発言を聞いて、ティダ皇子に向かって駆け出しそうになった。彼に抱かれて、破滅したい。
しかし、足に力を入れて不動を貫く。一時の快楽の為に、幾多の犠牲を払おうというのだ。そんなこと、許されない。
「かつては親しくしていたのだし……可愛い笑顔と美しい舞を見せてくれると思ったのだが……。どうしてこうも嫌われたのかね」
スタスタと歩き出すと、ティダ皇子は神楽殿から飛び降りた。
嫌われた? 嫌ってなどいない。しかし、まあ、そういう態度を貫いている自覚はある。私は彼に誤解を与えて、初恋を失った?
今なら、まだ間に合う?
けれども、友の女には手を出さない。先程、そう言っていた。
「帰るつもりだが……一応あばよ、ソアレ。達者でな」
私の方へ体の向きを変えたティダ皇子は、爽やかな笑顔で大きく手を振った。
待って!
私の声は掠れて、殆ど出てこなかった。
待って、舞を披露するので見ていって欲しい。そう告げたいのに、声が上手く出てこない。
「あの軟弱臆病は、実に優しい男だ。泣いて、滝を見てみたいなどと言えば、手配してくれる。不自由な暮らしだろうが、テュールの傘の下でなるだけ自由に生きろ!」
「待っ……」
次の瞬間、瞬きをしたら、ティダ皇子と黒狼の姿は消えていた。
滝を見てみたいと泣いたのは、十歳の私だ。絵ではなく、本物の滝を見てみたい。紅葉草子に出てくる、華厳の大滝を見せてくれたのは、ティダ皇子だ。
黒狼と共に突然現れた、謎の男の子。皇太子だと知ったのは、しばらくしてからだった。
私はその場に崩れ落ちた。
嗚咽が漏れる。
震え声で、大好きです、死なないで帰ってきて、そう呟いても当然の如く返事は無かった。




