大嵐への旅立ち
【ドメキア王国】
大蛇蟲の王の頭の上、セリムは三色の国旗が翻るドメキア王国の城下街とその眼前の平野に集まっている民に目を奪われた。
大歓声。
しかし呼ばれる名前はルイではなくシュナ。シュナの名の大合唱。
ティダに抱き上げられたシュナが手を振っている。
「掌返しめ。恩には恩。無血革命という偉業に対して国中に恩を返させるからな。あははははは!」
満面の笑みで毒づいたシュナを、ティダが更に高々と掲げた。アシタカはアンリと二人、不機嫌そうに紅茶を飲んでいる。お茶会開始からティダとシュナが二人で話し込み、そしてずっと仲良く寄り添っているので面白くないのだろう。
「見ろよ、カールはあの日と同じことをするな」
「まあ、まあ。お姉様。もう第四軍は解散ですのに。胸がすきますね」
ルイはアシタカが設営したテント前にて国王戴冠を宣言して、そのまま手を振っている。その後方に、紅旗を掲げる騎馬隊が並んでいく。先頭は真紅の甲冑身に纏う騎士。右の肘より先と左膝より下だけは黒い鎧。遠くてもカールだとすぐに分かる。カールは誰よりも巨大な紅の旗を持っていた。すぐ後方にオルゴーを乗せた騎士がいるのでゼロースだろう。二人は無地の白の旗と、三頭ハイエナの銀刺繍がされた黒国旗を持っていた。
騎士達は紅か白の外套を風になびかせているが、チラホラと黒い外套の者が混じっている。騎士宿舎近くで酒盛りしていたティダの部下はもう見当たらない。隊列に加わっている黒外套の騎士がティダの部下だろう。
「解散、あばよって言ったのに何やってるんだあいつら。俺に乗るなら嬲り殺さねばならんぞ」
「逆ですティダ。貴方に背負われないような者になる。そしていつでも、好きに、自由に会いにきて下さいという誠意。私、貴方のことを定期的にこの国へ引きずってきますからね」
ジュナがティダに告げると、ティダは心底嫌そうに肩を揺らした。しかし拒絶の言葉は口にしなかった。
〈あの凶悪な娘、二度も蟲使いで殺人。なのに蟲一族に許されるとは、やはりあの一族のドメキア人贔屓とペジテ人批難は目に余る。蟲の王はあの娘をよく許しているな〉
小蛇蟲の王が呆れたように告げた。セリムを見つめている。
〈カールが二度も蟲使いで殺人?一度は知っています。大蜂蟲の子が言っていました。人と蟲を争わせる為に利用され、道具にされた。それは元々ペジテ大工房がカールに酷いことをしたからだと。ペジテ大工房は罪まみれ……。ドメキア人とかペジテ人とはどうやって判断しているのでしょう?匂いです?彼等の嗅覚はとても優れているようです〉
ティダはセリムと小蛇蟲の王の会話が聞こえているのに無視している。小蛇蟲の王がセリムから頭部を逸らした。
〈我等もだが匂いで分かる。ペジテ人かそうではないか、だがな。あとは人が分類している見た目でドメキア人だとかグルド人と呼ぶだけ。あの娘は厄介だ。一度目が許されたのは蟲の王と蟲の女王の正統なる子孫だから。そして理由も同じ正統なる子孫を守る為だったから。それが、血を取り込んで蟲の意思疎通の輪に入った。だから今後、何度も蟲使いを許されるかもしれん。蟲一族から見ればあの娘は同胞。非常に特殊な存在だ〉
〈俺とは違うのか?小蛇蟲の王。俺も血を取り込んだから繋がった。大狼もだが、蟲一族や蛇一族の血は不思議だな。調べりゃ分かるんだろうが、人体実験されてたカールから何か判明してないのかアンリエッタ?君の班がその犯罪を調べていたと聞いたが〉
ティダは素知らぬ顔でシュナに笑顔を向けている。振り返ってセリムやアンリを見ることもしない。小蛇蟲の王が先にどうぞというように、アンリを見て頭部を揺らした。
〈ペジテ大工房では輸血と法律で定められた物質以外の血液分析は禁忌。遺伝子分析も禁止。関連機器の開発もよ。捜査資料に他の検査結果は無かった。カールさんに関しては生体培養及び神経接続義手義足という実験で、まさか蟲一族と繋がっているとかそんなこと研究者は知らない〉
輸血、血液分析、遺伝子分析、生体培養に神経接続義手義足。耳慣れない単語にセリムはアンリを見つめた。アンリの顔色は悪い。
〈知らん名称ばかりだな。訳が分からん。で、小蛇蟲の王?〉
ティダが声を掛けると小蛇蟲の王はティダに視線を向けた。
〈孤高ロトワの龍の皇子だから蟲の王の民とは別。完全分断の孤高ロトワは我等にも全容が分からん。凶悪娘と同じなのはセリム、貴方だ。いや凶悪娘は蟲の王がかなり輪外れさせているからセリムの方がより特殊。人形人間ラステルは恐らくこのまま子蟲。セリム、貴方ならどんな蟲使いも許されるだろう。ペジテ大工房破壊やペジテ人を殲滅する為なら尚更〉
セリムの背中に冷たい汗が流れた。
ーー殺戮兵器蟲の女王
セリムこそがその存在になったということか?
〈殺戮兵器蟲の女王ではなく蟲の王か。まあ、蟲の王が次の王はヴァナルガンドかもしれんとまで言っていたからな。孤高ロトワの龍の皇子ね。そのうち何かさせられるのか?ったくどいつもこいつも名前しか知らないとは役立たずめ〉
「シュナ、まだ続けるのか?アシタカにやられた分はもうそろそろ良いだろう。アンリのあの視線、俺は割と辛い」
ティダは伝心術など使っていませんという顔でシュナの顔を覗き込んでいる。なんて器用なんだろう。小蛇蟲の王が「役立たず」発言の時にティダを睨んだが、ティダは気づいていそうなのに無視している。
「逆ですよ。貴方にされた仕打ちのお返事です。このくらい可愛い悪戯、許してくださいませ父上」
シュナがティダの額にキスした。アンリとアシタカが同時に立ち上がった。ティダは振り返らずに知らんぷり。シュナも素知らぬ顔で民に手を振り続けている。
〈僕が次の王?まさか⁈それに僕は蟲を道具にしたりしない〉
〈したではないかセリムよ。この地に奇跡を起こし革命の後押し。兵器にはしない、の間違いだ。蟲の王によれば蟲の民とはそういう存在らしい。強制的な使用から解放された蟲は、結局人と生きることを望んだ。古代、蟲の民は大勢いた。人の手によって絶滅したがその後も何度か生まれては消えている。蟲がもう望んでない存在。しかし深層では望んでいる。蟲一族は狩られる蟲の民を見たくないのだろう〉
小蛇蟲の王の指摘が的を得ているのでセリムの胸は軋んだ。自覚はあった。悪事だとは思わないが、正しかったという自信もない。今、蟲の王や蟲達が「蟲を道具にした」と責めてきたら、セリムは大人しく裁かれる覚悟がある。
「アシタカ。そろそろこの蛇鷲娘を引き取れ。俺への嫌がらせはもう十分なはずだ。これ以上は過剰にて拒否する」
〈加担した蟲一族にも責任はある。共に生き共に滅びる覚悟があるからヴァナルガンドと手を組んでいる。顔を下げるなヴァナルガンド。それから安心しろ。俺がいるからお前は狩られん。崖の国を巻き込みたくなければ歴史の裏側にいろ。人前で蟲一族との強い絆を見せないようにしろ。表舞台になるべく出てくるな〉
セリムは小さく頷いた。ティダは背中越しでも察してくれるだろう。
「シュナ、ティダをもっと爪で引っ掻いてやれ。君の新しい父上には、己に相応しい言動伴って貰わないとならない」
アシタカが爽やかな笑顔をティダとシュナに向けた。ティダが呆れたような顔をした。
「ええもちろんです。お父様、きちんと民衆に手をお振りになってくださいませ」
シュナがティダの首に片手を回し、反対側の手で肩を三回叩いた。ティダが民衆に背中を向けようとした瞬間、大咆哮が轟いた。
紅旗騎馬隊の先頭にいるカールの隣に、いつの間にか王狼が並んでいた。シュナの名前の他に、ティダの名が叫ばれ始めている。
「最悪だ……最悪だヴィトニル。常に俺の背中を蹴り上げる。ヴァナルガンドの次はアンリ、次はシュナ。そしてアシタカ。縛ろうとしやがって。人里なんざ御免だと……。しかし許そう……。俺はヴィトニルだけは無下に出来ん」
一瞬、心底嫌だという顔をしてからティダが嘘くさい笑顔を浮かべて手を振り始めた。不機嫌だったアンリが満足そうに微笑んだ。
小蛇蟲の王が突然空に向かって大咆哮した。騎馬隊が全員城の方に向き直り、剣を掲げた。カールの白馬と大狼、それにゼロースとオルゴーが乗る青毛馬が城側に移動した。騎士達が馬を降りて片膝をついて剣を地面に突き刺した。
「ラステル、スコール様。例の物をお願いします」
シュナが呼びかけるとラステルが何かを包んでいる布を開いた。
王冠。
グスタフ王が身につけていたものだが、宝飾が変わっている。ダイヤモンドが色とりどりの宝石に置き換わっていた。
ラステルが月狼に渡すと、二本の尻尾の上で王冠が煌めいた。月狼が尾でセリムに王冠を差し出した。
「何が戴冠式は無しだ。ホワイトオパールが中央とは許せん。しかもルビーと真珠が左右とは」
「私の隣もアンリの隣も黒真珠にしましたよ。一人だけ二つと特別です。こちら側はエメラルドとサファイア。そしてアシタカ様の背中を預かるのはブルーオパール。城中の装飾品から簒奪しました。いけ好かない妃とか、その他もろもろ。豚に真珠と申しますでしょう?」
「エメラルドは私なのよセリム!セリムの隣なの!豚に真珠ってどういうことシュナ?」
「価値のわからない者には無意味なもの。そういう意味よ。なぜ贅沢が許されていたのか分からない妃は全員追放。さようなら。そういうことよ」
アシタカはシュナを怒らずに、困ったように笑うだけだった。シュナが一瞬顔を曇らせたが、アシタカが優しく微笑みかけるとシュナが泣きそうに笑った。アシタカはシュナの毒々しさも、飲み込めない辛さも全部包み込むつもりらしい。セリムはアシタカを見習おうと思った。正しくあれ、それが時に他者を押し潰すというのはもうよく分かったつもりだ。
アシタカがセリムが手に持つ王冠を眺めた。帽子型の王冠を包むような黄金の柱には蛇と鷲の細工がされている。そして王冠の頂上には反目し合う双頭竜、いや蛇。冠を乗せた大蛇蟲と小蛇蟲は二種族の王を示していると即座に分かる。
「この場の全員?」
シッダルタが王冠を眺めながら首を捻った。
「シッダルタ様はセリム様とティダの間です。蟲を青と緑の瞳だけにする三人ですのでエメラルドとサファイアを選びました。ラステルは当然エメラルドなのでシッダルタ様はサファイアです。念の為言っておきますがセリム様がブルーオパール。アシタカ様と対です」
シッダルタが目をこれでもかという程大きく見開いた。セリムもポカンとしてしまった。アシタカと対とは畏れ多い。
「このように、この場の全員が王冠にあしらわれております。裏側もご覧くださいませ」
セリムが内側を確認すると、帽子を作る赤い布に銀刺繍がされていた。牙を剥き出しにした、大蛇蟲、小蛇蟲、三頭の大狼、大蜂蟲。
「王に相応しくなければ内側の誰かが許さない。そういう事です。ドメキア王国の王とは大変ですわ。私には無理です」
妖しげに微笑んだシュナが王冠を持ってきて欲しいというように手を伸ばしてきた。セリムが立つ前に月狼が尾でシュナのところに運んでいった。
「何で俺がこのような……」
「先に与えるということです。期待と信頼よシッダルタ様。パズー様は騎士になりたいなど、この場にも居ないし残念でしたわね。まあ、ペジテ大工房で伝説の鳥となるので良いでしょう。私、もう貴方様が好きですよシッダルタ様。大好きな方々の友ですもの」
シュナが茫然としているシッダルタにウインクを投げた。直撃を受けたシッダルタが真っ赤になって固まり、アシタカが苦笑いを浮かべた。パズー不在は計算尽くかラステルに頼んだのだろう。
「まあパズー様は星の王子を連れてきた星の化身にして差し上げます」
楽しそうな笑顔のシュナに、セリムもアシタカ同様苦笑いを浮かべた。
「王位継承権を放棄したのに王の上に君臨するとはやりたい放題の女だな」
「稀代の悪女と呼んで下さい。良いのです。化物呼ばわりよりも胸がすきます。まあ化物でももう良いのです。私の真の姿を知る者がこんなに増えましたもの」
シュナが全員を見てから王冠を両手で空高く掲げた。気がついた民からまた大歓声が上がった。
「ではティダ、貴方なら見事ルイの頭上に王冠を乗せられるでしょう。お願いします」
ティダが「はいはい」と口にすると「はいは一度ですよお父様」とシュナが頬を膨らませてティダの鼻をつまんだ。ティダは顔を振ってシュナの手を払った。
「いいかシュナ。この俺が王冠を乗せるということがどういうことか分かっているよな」
「この国が貴方の掌に乗るということです。優秀な片腕にして、そして互いを裏切らない相手。誓いと運命、そして直感でよくぞ見抜きました。いつでも使える愛娘だと忘れないで下さい。女ではありませんからね!あらティダ、そういえば綺麗な髪ね」
ティダが面食らったような顔になった。何の話だろう?二人はこの場にいる付き合いの浅い者の中でも、少し早く知り合っている。二人だけの絆があるのだろう。アシタカは複雑そうな表情だが、優しく微笑んでいた。セリムは特に見習うべき背中をようやく見つけたと思った。ティダが右手で王冠をシュナの両手から受け取った。
「ったく、何ていう記憶力だ。それに嘴でつつくな!」
ティダが王冠を思いっきり投げた。そのままシュナと二人で大きく手を振った。
〈小蛇蟲の王よもう一度吠えよ!〉
ティダが言うよりも早く、小蛇蟲の王にが大きく吠えた。
「蛇神の遣いエリニースが告げる!時代の夜明け!道を踏みはずすなドメキア王国の新国王と民よ!」
ティダが大声で叫んでから大きく手を振った。どこから出るのかという程大きな声。シュナの名前が呼ばれていたのが、蛇神信仰の中心となる二匹の蛇の王と、エリニースの名に変わっていった。
〈勇ましいな小蛇蟲の王よ。この大蛇蟲の王も真似たいがこの状況、無理だな。我等蛇一族は蛇の女王、蛇の王、そして蛇の子と共に生き共に滅びる覚悟。それこそが一族の本能也〉
王冠が見事にルイの頭上に乗っかった。正確には一度王狼の尾を介してルイの頭に乗った。歓声が更に増した。
〈ルイさんが蛇の王……〉
セリムの独り言に、大蛇蟲の王が大笑いした。
〈何を言っているセリム。あんな末蛇なんぞ王には程遠い。隣にいる男だ。大狼人間もそうしたいが孤高ロトワに激怒されそうだから諦める。王達らしき者、あまりにも怖い。セリム、貴方もだ。大蜂蟲の王候補。諦めるしかない〉
「アシタカ。ヴァナルガンドの隣の男は蛇の王。蛇の女王と同じく共に生き共に滅びる人間だとよ」
セリムの隣でアシタカが驚いたようにシッダルタを見つめた。シッダルタがブンブンと顔を横に振り「アシタカに決まっているだろう!」と叫んだ。
「僕が蛇の王?シュナの伴侶だからか。光栄だが畏れ多くもある。共に滅びるなど許さないので、滅びるならまず人が滅びる方向にしよう。まあ僕が人類の至宝になれば人が滅びるなどないので両者とも滅びない。セリム、君の道と僕の道が交わる時が二千年前に途絶えた、誰も見れなかった鮮やかな未来だ。神話の時代のその先を生きよう!」
アシタカがティーカップを持つ手を空に伸ばしてセリムに満面の笑顔を向けた。アシタカはシッダルタとラステルにも順番に視線を向けた。
「誰も見れなかった鮮やかな未来……。そうだアシタカ!僕は見たい!あらゆる命と平和かつ豊かに生きるんだ!」
セリムも意気揚々とティーカップを持つ手を伸ばした。
「私はセリムから離れないし、いつだって諦めないわ!」
「俺は絶対に裏切らない!」
ラステルとシッダルタも真似をした。
「私は全員の盾となるわ!常に自らを護り、私に護られなさい!」
アンリの発言にシッダルタが固まった。アンリが歯を見せて無邪気に笑うとシッダルタは益々困惑した。シッダルタはアンリの激しさを知らなかったらしい。ラステルに「アンリさんって変わってる?」とこっそりと聞いていた。ラステルが「アンリは負けず嫌いなの」と少し見当違いな返事をしていた。
「だから酒にしろと言ったんだラステル。アシタカ、俺はそんなしまらねえ事はやらないからな。あとアンリ、盾になるな。前に出るな。ったくとんでもねえ奴らばかりだ。俺の手足は一組ずつしかねえんだよ。全員大人しくしろ」
ティダがシュナを抱えたままアシタカの前に座った。それからシュナをアシタカに渡そうとしたが、シュナはティダにしがみついた。
「私、心臓貫かれたその先も恩を返す生き様見せます。全員にですよ」
ラステルがシュナにティーカップを渡し、アンリが紅茶を注いだ。シュナがティダの頬にティーカップを押し付けた。
「止めろこのバカ娘!」
「愛娘です。お父様からペットにしますよ!」
「犬は餌がなきゃ懐かねえ。そうしよう」
「誓い破りで死にます?」
「今度は毒の牙かよ。最悪な愛娘だな。まだ性悪なら嫁に出せんな」
シュナがツンとそっぽを向いた。
「もう嫁にいきました」
「そうだな。最高の娘さんをありがとう」
アシタカが穏やかな笑みを浮かべて、ティダの頬にティーカップを押し付けた。アシタカがセリムとシッダルタに目配せしたのでセリムはティーカップを離してティダに手を伸ばした。シッダルタも続いた。既にラステルとアンリがティダの両腕にしがみついてしたり顔をしている。
シッダルタとセリムはティダの髪をぐしゃぐしゃにした。ティダは素知らぬ顔で目を瞑り、断固拒否の態度。軽々と逃げられるのに、逃げはしない。それがティダの返事だ。
〈何度も聞いているが、孤高ロトワとは何なんだ大蛇蟲の王に小蛇蟲の王よ。龍の皇子とは響きは良いが勝手な地位は腹が立つ〉
ティダの問いかけに小蛇蟲の王が頭部を揺らした。
〈分からない。ロトワ蟲森の何がしかの一族だろう。皇子というからにはそのうちお前を呼ぶだろうな。輪外れ分断が強固で俺達も蟲の王も接触出来ない。お前と同じだエリニース。今話した我等との誓い、忘れるなよ。三重会話とは器用で本当に特殊な生物だな〉
セリムがティダを見てもティダはまだ目を瞑っている。三重会話?何を話したのだろう?
〈我が頭の上で喧しい。そろそろどけ。目的は終わっただろう?アシタバ半島の姫、星姫シュナに伝えよ。天空城の背部も完全に我等の領土として返還してもらう。人はすぐに忘れて狩りにくる。いずれ戦争だ。生き様で我等との絆を残せ。蛇の女王と蛇の王の生き様によりいつかの日の許しと猶予の内容が変わる。狩りになる時はいつの時代か。まあ我等は死んでいるだろうな小蛇蟲の王。我等は素晴らしい時代を築くぞ!エリニースよ、息子を頼むぞ〉
ティダが立ち上がり、シュナを抱いたまま大蛇の間へと飛び降りた。ずっと大人しく寝そべっていた小さき王がティダの後ろに続いた。ティダはかなり高い位置から飛び降りたのに、特に問題なさそうだった。出鱈目な体の構造は生まれつきではないと言っていたが、生まれつきな気がしてならない。
シュナを床に下ろすとティダはシュナの額に軽くキスした。切り取ったらそのまま飾れそうな程、綺麗な瞬間だった。シュナが目を大きく開いた。
「解散だ解散!嵐が来るので出発は一刻半後!アンリ、来い!用事はあと一つだ付き合え!君との続きは崖の国でだ!」
ティダが呼ぶ前にアンリは大蛇蟲の王の頭から飛び降りていた。ティダが両手を広げてアンリを抱きとめた。
「却下よ!その用事は貴方の仕事ではないわ。アシタカの仕事。アシタカ、降りてきなさい!ティダ、付き合いなさい。それから仕事中に、はしたない真似を止めてって何度言えば分かるの?行くわよ」
アンリがティダのキスを躱し、腕から飛び降りた。そのままスタスタと歩き出した。
「ったく、我儘な娘に我儘でつれない妻とは最悪な人生だ。愉快と思う俺の頭は狂ってるな。すっかりイカれた。生きるとは何て面倒で厳しい。ラステル、シュナの支度を手伝って欲しい。あの何とかとかいう小娘も連れて行くから用意させろよ」
「ハンナよ!愛娘のお世話係なんだから名前を覚えて師匠!」
「ラステルさん。僕があの失礼な犬を躾ますよ」
アシタカが蹴りかかるように飛び降りると、ティダがアシタカを器用に小脇に抱えて髪をぐしゃぐしゃにした。
「てんで弱いなアシタカ。まあその忙しさでそこそこ鍛錬してきたことは評価しよう」
「おいこの体勢はまるで威厳がない!離せ!」
ティダが文句を言うアシタカを抱えたまま歩き出し、アンリの横に並んだ。部屋を出る直前、アンリがティダの手を握っていた。ティダとアシタカは嫌味を言い合っている。ティダは相当アシタカが気に入っていて、アシタカも同様らしい。
シュナは三人を追いかけなかった。何か察しているのか複雑な顔をしている。
大蛇蟲の王がゆっくりと頭部を下げて、大蛇の間へ移動出来るようにしてくれた。
「嵐が来るのかセリム?」
シッダルタの問いにセリムは小さく頷いた。胸の奥が騒めいている。湿度の変化、風の変化だけではない。もっと別の予感。しかしそのさらに奥で光る何かを感じる。
「ああ。でも嵐を抜ければ晴天だ」
セリムはあっという間に荷物をまとめたラステルとシッダルタを両脇に抱えて大蛇の間へ飛び降りた。
〈我等は巣に帰る。三度目はまだ吠えん。ルイ新国王が末蛇から蛇の王に登りつめたら三度の敬意を示そう。ただの人シッダルタ、これは期待と信頼だ。蛇の女王の名より星姫が良いというシュナ姫に伝えて欲しいセリム。毎日祈りを捧げよ。今より少なくて構わないと。あと血の色ではなく海の色や無垢な白が似合う〉
大蛇蟲の王と小蛇蟲の王がセリム達に三回噛む真似をした。
「シッダルタ!期待と信頼だってさ!シュナさん、今みたいに毎日祈りを捧げて欲しいけど少なくして良いと言っている。あと血の色ではなく、海の色や無垢な白が似合うと言っています」
シュナは真紅のドレスを指でつまんで深々と頭を下げた。
「この色は罪深い娘に良く似合います。しかしありがたいお言葉。祝いの席ではなるべく青い色を纏いましょう。蛇と鷲をあしらいます」
シュナの頭にティアラのように寝ていた小蛇蟲が体を伸ばして、シュナの頬に頭部をくっつけた。シュナがくすぐったそうに身を捩り、小蛇蟲を撫でた。爬虫類が苦手と言っていたのに、話せないのに、シュナはもう蛇一族が心底好きだというように見える。
二匹の王の目はシッダルタを見つめている。シッダルタはまだ唖然としていた。セリムはシッダルタの背中を軽く叩いた。一回だけ。それからシュナを見るように促した。
「あ、あ、あ、ありがとうございます!き、期待に、期待に応えます。必ず」
シッダルタが胡座になって頭を下げた。ベルセルグ皇国流の挨拶なのだろう。
〈人は良くも悪くも激変するという。今なら蛇の子、ルイよりも更に下の末蛇くらいにはなれるかもしれんがセリムの横には相応しくない。励ませろ。逆に傾けさせるなよ。その者、根が暗い〉
大蛇蟲の王の痛烈な言葉をセリムはシッダルタに伝えられなかった。二匹の王は威風堂々とした姿で海へと去っていた。
顔を上げたシッダルタの頬をポツリと雨が濡らした。
いや、シッダルタはさめざめと泣いていた。シュナがシッダルタの隣に腰を下ろして寄り添っても、緊張や照れも見せない。むしろ益々泣き出した。
シッダルタがセリムをまだ理解してないというように、セリムもまたシッダルタを知らない。
「シッダルタには私がいるし、セリムの家族や先生もいるわ」
ラステルがセリムに耳打ちした。
「ああラステル。しかし僕と君の、そしてシッダルタの家族だ。アシタカとティダもいるから僕の兄が五人になった。六人兄弟だ」
ラステルが嬉しそうに微笑んでくれた。ラステルはシュナと一緒にシッダルタの頭や背中を優しく撫でた。セリムはシッダルタの首根っこを掴んで立たせてからティダの真似をした。シッダルタの頭をぐしゃぐしゃに撫で回し、脇に抱えて両手の花は狡いと文句を言った。
シッダルタが泣き笑いしながら、反撃してきた。
人は変わる。
悲しみも苦しさも、本能も、何もかも乗り越えられる日が来る。
セリムはシッダルタこそがきっと蟲一族に寄り添える男になれると期待を込めて、大きく叫んだ。
「帰ろう!僕もシッダルタも一から出直しだ!近くではラステルが支えてくれる!遠くからも皆が助けてくれる!逆になるぞ!」
雨が強くなりはじめ、冷たい風がセリムの頬を殴るように通り過ぎていった。いつかは風の神からの怒りだと感じだが、今日は鼓舞だと感じた。
***
同じ頃
【ロトワ蟲森の地下国家。ラトナの泉】
「謝っても許さない。でも謝らないのも許さない。産まれたテルムは破壊も齎す。くるくる、狂狂、何度も巡る、くるくる、狂狂、くるくる」
ヘリオスはソレイユが歌いながらラトナの泉で泳ぐのを眺めた。深い青色の水面に銀色の鱗が煌めく。
「ねえ、ヘリオス。フェンリス兄様ったらちっとも帰国しない。いつ会えるの?生まれてこのかた、一度も会えてない。人里なんかで無事なのかしら?この十年なんかロトワ蟲森に帰ってこないから元気なのかも分からない。誰も教えてくれないし」
ソレイユがラトナの泉から飛び出した。それから尾にへばりつく蛙蟲を手に乗せてラトナの泉に帰した。いつ見ても、ソレイユはどの一族にも好かれている。尾を振って水を払うとソレイユの尾はあっというまに足に変わった。いつ見ても素早くて見事。
「またその話。仕方ないだろう?そもそも兄上はロトワのことを知らない。人里で十年育てさせるなんて変な風習。おまけに大狼に奪われ、怪物の大地にまで行ってしまったという。王達が何故か都合が良いと放置してもう二十八年。俺も会ってみたいけど三日に一度も聞くなよ」
ヘリオスはソレイユと並んで座った。大蜂蟲の子がまた歌っている。最近よく歌っているなと意思疎通の輪を覗こうとしたが、いつも通り拒否された。ヘリオスはやはり出来損ないだと痛感してしまう。案の定、ソレイユがしたり顔をした。
「ヘリオスは本当に下手くそ。さすがバリオス。私は得意よ!龍人一と言っても過言ではないわ。大蜂蟲の子を覗いたらね、蟲の民が生まれたらしいの。とっても素敵な方ですって!しかも大蜂蟲が番なんですって!これはもう会いに行かないと!怪物の大地は恐ろしいけど蟲の民には是非会うべきだわ。外界なんて、運命的にフェンリス兄様に会えるかも。きっと絵本の皇子様のような方よ」
ソレイユが両手を握りしめてうっとり、というように遠くを見つめた。呼応するように蛙蟲や大蜂蟲の子が合唱した。
「蟲の民?あんなの伝説だろう?また巣から勝手に出ると怒られるぞ。大蠍蟲から大目玉。兄だからと俺まで怒られるから止めてくれ。それに絵本の皇子様?」
「星姫物語よ!その皇子様よ!見る目があって、優しくて、穏やかで、爽やかで、慈愛に溢れていて、一途。髪はサラサラ。んー、髪は長い方が良いわね。束ねていると尚良いわ。きっと恐ろしい怪物から颯爽と助けてくれるわ!」
ヘリオスは呻いた。ソレイユの妄想癖がまた始まった。そもそも国で一番強い女のソレイユを助けられるなんて男、早々いない。
「二十歳も過ぎた成人だというのにまたそんな事を……。見合いも断固拒否。全く、どうするつもりだよ」
「ジメジメ、ウジウジ、蛞蝓蟲の粘液よりもネバネバ。おまけに見合い相手なんて弱い男ばっかりじゃない!それに格好良くないと嫌!絶対嫌よ!」
ヘリオスは大きくため息を吐いた。いくら姫でもこの我儘怪力娘の婿取りは大変だ。むしろこの高慢ちきは嫁にいけないだろう。ソレイユが大蜂蟲を抱きしめて産毛を撫で始めた。大蜂蟲の子はご満悦なのか、楽しそうに鳴いている。
「ヘリオス!難民が現れて判明したんだが、怪物がゴヤの巣を蹂躙していたらしい。小賢しくて我等の王達でも知らなかったと。しばらく逗留するという。兎に角、王達から呼び出しだ。ついにフェンリス兄上を迎えに行くとか行かないとか」
扉を開いて登場したアデスが早口でまくし立てた。
「あらアデス。丁度良かったわ。蟲の民に会いに行くけど一人は怖いの。大蜂蟲の子が案内してくれるって。ホルフルの巣までは道が繋がっているし、親蟲も送ってくれるそうなの。アデスが居れば大丈夫だわ」
ソレイユが大蜂蟲の子を小脇に抱えたまま、アデスに飛びかかった。アデスが心底嫌そうな顔をしたが、ソレイユがアデスを大蜂蟲の子と同じように脇に抱えた。アデスは諦めたというような、絶望した遠い目をしている。三つ子で一番権力を持つのはソレイユ。ヘリオスもアデスも兄なのに止められない。
「混乱は好機!蟲の民なら私達もフェンリス兄様を助けてくれるわ。ヘリオスは何もかも下手くそだし、弱いし、臆病だし、意気地無しだし、おまけにバリオス!役立たず!ヘリオス、可愛い妹をうまく庇ってね。外界だなんて万が一フェンリス兄様に会えたら奇跡だわ!アデス、奇跡は自ら起こすのよ!」
ソレイユがアデスと大蜂蟲の子を抱えて大きく跳ねた。そのままソレイユが勝手に掘った隠し通路へと消えていった。奇跡は起こる、自ら起こす、何度聞いた台詞だ?その度に兄であるヘリオスとアデスが激怒されてきた。
「おいソレイユ!うわぁ……最悪。最悪な妹だ。何が可愛い妹。怪力馬鹿のくせに、何がバリオスだ。バレイユめ!馬鹿なソレイユ!バレイユ!地上の巣ならまだしも外界にまで出るつもりなら、今度こそ大目玉じゃ済まないぜ。アデス兄には悪いが知らなかったことにしよう」
ヘリオスは思いっきり輪外れした。蟲一族に蛇一族に龍人、大狼、大蜘蛛、ロトワの民全てから意識を分断した。気づかれると大叱責。
二人が無事に帰ってくるか、さっさと連れ戻されることを祈るしかない。蟲森でもそこそこ危険なのに、外界だなんて怖いもの知らず。夢見がちで妄想大好きなソレイユならいつか飛び出すと思ったが、目の当たりにすると頭が痛いという感想しかない。
毎度毎度、アデスはソレイユに付き合わされて可哀想だが仕方ない。アデスがソレイユを甘やかしてきたから自業自得だ。
ソレイユはどんな土地でも逞しく生きていきそうなので連れ戻されるまで放置しよう。
蟲の民。
伝承ではあらゆる一族の絆を結ぶ怪物だというが、ヘリオスにはソレイユこそ蟲の民のように思える。ソレイユ程あらゆる種族と繋がっている龍人はいない。だからあの性格でも、チヤホヤされて好き勝手を許されている。
ーー紅の炎が燃え上がり大地が震える。風の友人は根を越えて絆を繋ぐ。その者蟲の民。
「何もかもおとぎ話だろうな」
ヘリオスは妙な胸騒ぎを蹴飛ばして神秘の広間を後にした。
この次の話は登場人物まとめです。
次の章は読まなくても問題のない「外伝」です。シリーズにあるものを、持ってきました。
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