帰国前の交流5
【十年前ベルセルグ皇国】
さあ、立ち上がれ!
戦え!戦え!自由を掴むために戦え!
龍が現れ、岩を砕き、ひらけた大地へ雨がそそがれ、命を育む!
自由を今こそ、この手に掴め!
龍が現れ、宝に満ちた穂を揺らし、命を繋ぐ!
ついに我らに龍の王が現れた!
我らこそが龍の民!
***
闇夜に並ぶ灯火で一面が真紅に染まっている。唐紅の激情が迫ってくる。
「我が名を騙り革命を扇動した者よ、名乗れ!」
王狼がティダへ放り投げてきた人物は男か女も分からなかった。
狼を模した仮面に漆黒の法衣。体格を似せられているがハリボテだとすぐ分かる。なのに人間というのは、騙されるのか。殺気もなく体は細そう。
背後に広がる蜂起した者達が動揺している。
そりゃあそうだ。ティダに促され、立ち上がり、希望を夢見て武器を手に取り、進軍してきた。本人達はそう思っている。
それなのに、頭が皇国軍を引き連れて対峙。
渦巻く絶望が伝わってくる。血の匂いが濃いのでここまででも相当死者が出ただろう。
留守にしがちだったのが仇になった。
語らぬことも悪影響だっただろう。
陰謀。
人里はなんて面倒だ。
「我こそが大狼と生きる唯一の皇族ティダ・ベルセルグ也!名乗れ!そして口を割れ!さすれば命はこの俺が預かる!革命軍よ背を向けよ!皇族は決してそちら側にはつかん!踊らされたとして見逃そう!去れ!」
引かないか。懇願の声、名を呼ばれ、叫ばれる。怒号に罵声も混じるが、何もかもが悲鳴だ。
これ程人の気を引いていると理解していなかった。
最悪だ。改革など一長一短にはいかない。身一つなのに散々手を掛けて、目を配ってきた。満足せずに、鍛錬怠り、背に乗り、主張だけは一丁前。弱きを囲うどころか死なせている。このような者達、囲いたくない。
「黙れ革命軍!本人だと見抜けぬままこの俺の敵に操られたことを何故恥じぬ!そのような矜持無き者、誰が囲うか!我が名はティダ・ベルセルグ!皇族の一人である!決して一族を裏切らん!」
革新的だが敵ばかり作った父親。皇帝を暗殺で蹴落とした阿呆な叔父。冷徹な義兄、散財癖ある義姉、軟弱臆病な義兄。どいつもこいつも気に入らないが身内であり群れの中心。性根正すなら兎も角、裏切れば矜持折れる。
裏切りこそ万死。
革命軍が裏切られたと嘆き、信じないと怒り、爆発しそうな雰囲気。何かした訳でもないのに、勝手に勘違いして裏切りだと批難。理解出来なくて頭が痛い。
「囮陽動役よ、俺に見つかれば死。この国に住む者なら誰も勝てぬということは子供でも知っている。投降せよ。主を吐けば命は守ろう」
裏切りに、裏切り。矜持無い者が多く、心身共に弱く、人とはどうも馬が合わない。元々人として生まれ落ちたからと、囲おうと考えた自分も浅はかだったのだと身に染みる。
強風に翻る黒い外套は三頭ハイエナの銀刺繍があしらわれていた。自分の匂いが微かにする。ティダの私物で間違いない。皇居に出入り出来る者。しかもティダの屋敷へも足を踏み入れられる者なら絞るのは容易い。
腐った卵の匂いに香辛料等を混ぜたもので体臭隠し。鼻が良いと把握して、なおかつ何が嗅覚を阻害するかまで分かっている身内の誰か。
テュールか?懐かれていると思っていたが、違うのならとんだ食わせ者。相当な役者。しかし違うと本能が囁やいている。
背に負ってきた皇国軍に対峙するか、このままでいるか。ティダが選んだ方が生き残る。最悪だ。大勢殺すことになる。
狼の仮面の者が短剣を両手で握って突っ込んできた。素手でもあしらえそうな程素人。
何だこいつは。
「おい貴様……」
突っ込んできたかと思ったら、近寄ってきながら短剣を自らの腹に向けた。
「無謀な愚か者が!」
一捻りで捕まえるかと思った時、距離が近くなったその時、短剣が狼の仮面の者の腹に突き刺さった。倒れずに胸元に掴みかかってきた。というより最早倒れ込んできたというのが正しいかもしれない。蹴るも殴るも出来なかった。無抵抗の、それもこれ程殺気が無い者に攻撃など誇り折れる。そこまで見抜かれているかもしれない。
どうしたものかと取り敢えず仮面を剥がした。
顔はほぼ全部火傷で爛れている。しかし即座に誰だか分かった。火傷少ない左側上部。焼かれてない左眉の上の二つ並んだ黒子と微かに香ってきた木蓮の匂い。
「ソア……レ……」
「握って。刺したってことにして……」
小さく発っせられた声はティダが知る音色ではなかった。何かで喉を潰してある。
「周りが疎かだからこうなるのよ。証拠ばら撒いたから後始末しなさい。どちらも助けてあげて……」
体がそっと離れた。
「死にたくない!投降する!騙されたんだ!裏切られた!」
嗄れた声が、土埃や強風に掻き消されそうになっている。しかし鮮明に届いてくる。嘘の匂いしかしない。
最後に殺せ。
ソアレの口が音を出さずにそう動いた。追いかけても、拐わかしても、他の女を使って気を引こうとも、何もかも与えられる男なのにこちらを見ない。指一本触れることすら拒絶。それどころか他の男に嫁いだ女。
なのに、今、燃えつきる最後の輝きといわんばかりの瞳。
黒翡翠のような美しい瞳。
目で語られるこの意味は……。
***
大狼なんでしょう?
それを忘れないで
生きて
***
【現代 ドメキア王国】
カチカチ煩いなと時計を握りつぶしそうになった。ティダは久々に深く寝たなとぼんやりと宙に目を彷徨わせた。気持ち良さそうに眠るアンリの顔を見て、ティダは時計の破壊を思いとどまった。
無防備で無邪気な寝顔、このまま眺めていたい。
「古い夢を見たな……」
ふわりと木蓮の香りがしたような錯覚に襲われた。しかし実際の芳香は金木犀に類似している。
隣で眠っているアンリの寝息は現実なのに、遠くに感じた。
アンリの額に汗で前髪が張り付いている。そっと髪を避けて顔が良く見えるようにした。大人しくついてくるとは思っていなかったが案の定、ドメキア王国に残ると言い出した。引きずってでも隣に置いておきたいのに、許してしまう。
ドメキア王国に残る理由が結局ティダの為だからだ。
この地に残すシュナ、アシタカ。それにうっかり気に入って本音をぶちまけてしまい部下だと言ってしまった男達。ティダの本音を読み取って王狼がシュナの守護神になると決意してくれたように、アンリもまた同じ行動に出た。
「ったく、本当に困った女だなアンリエッタ」
庇うなと言っても庇ってくる。
大人しく家にいて産んだ子を守る。子を守る力が無いのは困るが、女はそれで良い。しかしソアレといい本能が選ぶ女はどうも前に出る。そういう激しさ秘めた女が好みとは、自嘲するしかない。
自分の性格と生き方に、このような女。長くは共にいられないだろう。明日とは言わないが、次の嵐で死ぬかもしれない。
アンリを起こしてもう一度抱くかとも思ったが、時間が足りない。この地を去るにはまだやり残したことがある。
「グルド帝国に乗り込もうと思っているのも見透かして鍛えるつもりだろうな。何ていう女だ……」
布団から出ようとしたら腕を掴まれた。
「で?何処に行くの?あまり置いていかないで」
「寝たふりが巧みだな」
アンリに覆い被さると口を手で塞がれた。
「起こされたの。今日はお終い」
困ったというようにアンリが眉毛を下げた。
「そんなに良かったか?随分と乱れていたが」
ちょっと焦らして放置したらどうなるのか試してみたいと悪戯心がもたげてきた。アンリはすぐに涼しい顔に変わるので妙に表情を崩したくなる。
「そういうことを言わないで……ねえ、だから触らないで……」
欲しいという目なのに反対の言葉に態度。誘うような吐息。手を離すかそのまま触るか迷う。アンリが起き上がって体を押した。ティダは素直に離れた。もう慣れても良さそうなのに相変わらず手やら布団で体を隠す。おまけに恥ずかしそうに赤くなっている。この嫌だは、本気の嫌だだ。機嫌を損ねると面倒なことになる。
別に気にしたことがなかったが、アンリには弱い。このような状態、骨抜きと揶揄されるのも仕方がない。
「魔性の女かと思いきやほぼ生娘。かと思えば中々良い反応。アンリエッタという女はよく分からんな。それに遊ぶな、側室も却下。自分は異国の地。新手の拷問か?まあ許そう。何もかも許そうアンリエッタ」
すっかり燃え上がったアンリはしばらくは離れていかないだろう。次々男を捨てていたようなので油断も隙もあったもんじゃないが、今の主導権はこちらにある。
「魔性の女?多分、貴方の基準が変なのよ。拷問じゃなくてティダがヤキモチを焼くのと同じように私も焼くの。寂しくて仕方なくなったら職権乱用して会いに行くわ。我慢出来る訳ないじゃない。許す、じゃなくて会いたい寂しいって言って欲しいわ」
予想外の言葉にティダは目を丸めた。
「何で驚くのよ。私、相当ティダに入れ込んでいて言動に出ているけど分からないの?」
「違う。自分でこの地に残るといってその掌返し。そもそもこの件は俺の為だろうから無下にはしない。そんな台詞言う訳ないだろう?言ってどうなる。そんな言葉で気が変わる女じゃあるまい」
「違うわよ!軽蔑したという目をしないで。難しいわね。そういう涼しい顔をされていると悲しいってことよ。寂しいって言われて、私もって話して甘えようと思ったの。遠回しなのは私の悪いところ……こんなこと何で恥ずかしいのに言わないと……」
アンリは赤い顔を背けて体を丸めた。嫌だと言ったり、甘えたいとねだったり、どうも心理を把握しきれない。
ティダはもう一度アンリを押し倒した。
「涼しい顔?アンリエッタ、君の目は変なのか?引きずってでも隣に置いておきたいのに君が離れると言うから許している」
アンリがティダの背中に手を回した。押したり引いたり本当に好き勝手な女。
「そう思っていてくれているなら良かった。嬉しい。離れるのは長い期間のほんの少しの期間よ。大人しく私のこと待っていてね。嫌よ、会いに行ったら居ないのは。辛過ぎて生きていけないかも……。私、きっと貴方と同じ道を考えるわ」
見上げてくる眩しいくらいの温かい光が滲む瞳に声が出なくなった。やはり見抜かれている。こんな懇願されたらグルド帝国に乗り込めない。二人で戦場に行くのだから少し待っていろ。単独行動したら追いかける。死んでたら引き継ぐ。そういう眼差し。
本当に厄介な女に落ちてしまった。末恐ろしくてならない。
「分かった。分かった、分かった。こちらが察していることを、わざわざ言葉にして刺してくるな。巨大な釘を刺すな。それで?今日はお終いなんだろう?」
誘ってきたのだからと頬に当てていた手を移動しようとしたら、止められた。
「嬉しいから気が変わったの。でもキスだけにして。やる事があるんでしょう?その後に時間があったら……」
耳元で「もう一回……お願い……」と恥ずかしそうに囁やかれた。こんな技を何処の誰に仕込まれたのかと、妙に腹が立つ。しかもその気にさせて、手を出すな。アンリの目が「離れて」と訴えている。
顔も知らないそこらの男、それもアンリに捨てられたような奴ならいざ知らず、本質的にはアンリを袖にしたアシタカにこの愛嬌や手管を仕込まれたなら最悪。個人的な戦闘能力以外、何もかも上となったアシタカというのだけは許し難い。
折角、盟友と言うようになったシュナまで取られた。
ドメキア王国に配置する大駒がアシタカに取られて、この地は掌に乗せられなくなった。何て男だ。穏やかさも、爽やかさも、余裕と自信溢れるようになった態度も、難題を自信満々に解決していくのも、いちいち堪に障る。
「ねえ、何でそんな怖い顔をしているの?私、酷いことを言った?」
「この件は情けないので言及したくなかったのだがやはり無理。アンリエッタ、こんなに掻き乱されるのは初だ。アシタカは紳士で未婚の女性に手を出さないと聞いたが本当か?」
器小さい男め、というアシタカの嘲りが聞こえるような気がした。兎にも角にもアシタカだと腹が立つ。しかし人の真似をしたり、急に親しげに接してきたり、可愛いところもある。変な男。自分よりも変な男はヴァナガンドとアシタカで、他にはそんなにいないだろう。
女はシュナだな。あんな女、大陸中探しても出てこない。虐げられても折れないどころか相手を変えていく。理性で逃げられる程度で助かったが、アンリよりもシュナと生きる方が地獄だろう。互いに国に縛られ二人して恋い焦がれても矜持を捨てられず離れ離れ。ティダの生きてきた方法ではアシタカのようにはいかない。
シュナは女ではなくどうも子狼達に感じるような庇護心しか出てこない。あの極上になった身姿にも欲が沸かない。自分も含めて誰も触るなと思う。愛娘、そう決めたのはまさしく正解。
手駒にするのに抱くのも、中身の具合は良いし声など高級品なのに苦痛でならなかった。軽蔑に含まれる疑心に混じる信頼。この国で突き刺され続けて育たなければヴァナガンドのような者になっただろう。現にもう変化してきている。
「それでそんなに怖い顔をしていたの?でも、今はもっと辛そうだけど……。終わったことでそんなに妬かれてもと思っていたけど勘違いもあったのね。そうよ、最後というかそこまではないわよ。そういう人だと知っていたけど、だから余計に辛かったし耐えられなかっ……あー、やめましょう。この話」
ティダはアンリの言葉で鉛を飲んだような気分になった。シュナのことを思い出した上に、これはこれで更に不快。アンリはアシタカに抱かれたいほど焦がれていたという事実。聞くんじゃなかった。あと何処の誰だ。アンリに最初に手を出したのは。結局、器の小ささと情けなさに打ちのめされただけだ。
アシタカなど無意識下ではあれ程激怒していたのに、もう素知らぬ顔。なんだ、あの懐の広さ。小さい器かと思っていたのにどれほど大きい。
「もうっ!仕方ないじゃない!ティダと会ってなかったんだもの。同時に会っていたらアシタカに見向きもしなかったわよ!他の人もよ。だってあんな理性が吹き飛ばされたのは初よ。自分からほ、ほ、欲しいとか……さっきみたいにねだるとか……」
アシタカへの腹立たしさを、別の解釈をしたアンリが自分の言葉でみるみる真っ赤になった。すれ違いとはこういう風に起こる。しかし、今は良い方向に転んでいるので本音は言わないことにした。
「まあ俺がさんざん煽って抗える女などいない」
「違うわよ!それだけとても好きってことよ。何で分からないのかしら。貴方が遊んできた女と一緒にしないで。私は身持ちは固いの。余所見もしないし遊ぶとかも無理。好きでもない男にこういう意味で触れられるのは気持ち悪いわ」
ここまで心酔されていたのか、と胸がすいた。もうアシタカなどどうでも良い。アンリは知っている女とは相当違うらしい。この様子だと多少遊んでも許すだろう。
「その態度に目……。ダメよ。余裕ぶって他の女に手を出さないで。即座に離縁するわよ。大狼と違って永遠の誓いは気分次第なの。ティダの愛情は偽物だったって割り切って次に行くわ。次の人が私に一途なら貴方以上になるもの。ティダ、この件に関しては誓ってないものね?結婚するなら誓ってもらうわよ。これから先は生涯私だけ」
急に激しい怒りの目で貫かれたので思わずたじろい。やはり、とんでもない女だ。
「何ていう強欲だ。この俺を縛ろうだなんて。そんなの恐ろしくて誓えるか。強きが多くの子孫を残すのが男の本能。それは我慢する。子は君とだけ。俺なりの誠心にして善処だ。側室は管理が大変ですぐに闘争するから虫酸が走るが、他の女と遊ぶなとはアンリエッタ俺を殺す気か?」
「そうよ。欲深いの。誰にも渡したくない。何で貴方は良くて私はダメなのよ。誓わないなら私は貴方のものにはならない。悲しいけど仕事に打ち込む。そのうち新しい恋がやってくるわ。やっぱり今日はもう、というより今後も触らないで。嫌ったら嫌。特にラステルやシュナみたいに扱われている女性がいるから嫌!」
抱いて褒めそやすかと思ったら腹に鉄拳を食らった。痛くも痒くもないが心が痛い。女の駄々でこんなに傷つくとは。完全拒否という雰囲気がまず苦しい。こんな感情は知らない。アンリが素早く服を身に纏った。
「あのなあ、ヴァナルガンドやアシタカのように振る舞って遊んだら裏切りだろう。最大限の努力はするが男はそういう生物だから保証出来ん。特に俺はそういう男だ。俺は裏切りが嫌いだ。だから誓わん」
「誓わない時点で裏切りよ。ずーっと大事にされてうんと時間が経って今の気持ちが落ち着いていたら、もしかしたら許すかもしれないけど最初から裏切るつもりなのはもう既に裏切りよ。それが私の考えよ。ティダの価値観とは違うの。死ぬまで余所見をしないし殺されないように最大限の努力をするし、地獄にも行くから代わりに真心が欲しいの。言ったでしょう?貴方がいるだけで誰よりも幸せになれるって。でも無理そうね、さようなら」
さようなら
は?
泣きそうなアンリにティダは固まった。言っている意味が理解出来ない。しかしこのままだと本当に去っていく。でも面倒臭い女だ。厄介な女。まさに猛毒。
ティダはしぶしぶ手を伸ばした。
天秤にかけると手元に置きたいという気持ちの方が圧倒的に強い。
「アンリエッタ。実に面倒臭い。庇うなというのに庇うような生き方を選ぶ。殺されるなど許さんのに前に出て行こうとする。縛られるなど御免なのに縛ろうとし、おまけに誓い破りで俺を殺す気か。しかし本能で気に入ったから逃がさん。そしてその目だ。何で俺をそんなに信じるという目をする。本当にさい……」
アンリがあまりにも嬉しそうに笑ったのでティダは続きを言うのを止めた。苛立ちも苦しさも何もかも吹き飛んだ。
アンリが抱きついてきた。やりたい放題の女だなと呆れる。しかしどうしようもなく抱きしめたくてそっと腕を回した。
「そうよ。面倒臭い女なのよ。最悪でいいわよ。今みたいにとても好きだって伝えてくれるなら、それを信じるわ。誓ってくれるのね。ありがとう」
心の底から幸せだというようにアンリが上目遣いをして微笑んだので、却下と言えなかった。何がそんなに嬉しいのかが分からない。しかし気分は良い。酒を飲むより、達した時よりも高揚しているかもしれない。
頭がぶっ壊れている。
「その目を止めろ。そんなことは言っていない。しかし無駄な抵抗なようなので祝言の際に誓おう。偽りではないのでシュナの時のように屁理屈で誓い破りから逃がそうとしても無駄だ。女一人に逃げられるよりも殺された方がマシとは俺はイかれたな。狂ってる」
「ちょっと!祝言の際って今日、明日とかのうちにもう浮気するわけ?それこそ許さないわよ!誓うなら今この瞬間からよ。何なのよ。そんなに女が好きなの?過去はとやかく言わないけど、私を選んでここまで頼んでいるのに余所見をしたら即終了よ」
最後に盛大に遊ぶかというのも見透かされているらしい。可憐に笑ったと思ったら激怒。くるくる、くるくる、気分屋だなとティダはため息を吐いた。自分も非常に気分屋だがそれ以上を見せつけられるとかえって冷静になる。
「むしろそんなに嫌なのが俺には理解出来ん。性欲、食欲、睡眠欲。自然な欲だ。満たすのは当然。同じ相手など飽きるだろう?」
「飽きるの?」
アンリの問いかけにティダは大きく頷いた。不思議そうなアンリこそ不思議でならない。
「三日と問わず飽きる。というかほぼ一度で飽きるな。ふむ、では君は何だ?毎度毎度楽しく快感だが……。妙に唆られるしな」
またアンリが嬉しそうに笑った。「全然遊べてないのに」と続けるのは思いとどまった。また見たくない怒りの顔をする。アンリが頬にキスしてきた。なぜ口ではないと追いかけたら逃げられた。
「早くティダの用事を片付けましょう。たった今からお互い唯一無二の男と女よ。誓われたから私も誓うわ。お互いの心臓を止めないように常に相手に真心を持ちましょうね。嬉しいから大親友に話しておくわ。あとヴィトニルさんにも」
アンリがティダの両手を取ってまたニコリと笑った。この目と笑顔に弱い。信じているわ、という攻撃。なんでこう疑心が少ないというか見当たらないのか。
「周りから固めるとは策士め。そんなに俺を独占したいのか。どうしてこう恐ろしいことばかり……。しかし仕方ない。君を大事にしないのが一番矜持に反する。そう思ってしまう。負けだ負け。一度不敗神話が終わったら連敗。誓う。それからそんなにラステルやシュナが羨ましいならそれなりの態度を示そう」
「今のままでいいの。ティダの素が好きよ。でも人目があるところで、はしたない真似はしないで欲しいわ。恥ずかしいの。女の顔を外でしたくないの。私は代わりにティダを立てる」
何でこんなことになったのかとティダは呻きそうになった。好きに、自由にはもう生きられない。また痛感したが、完全にアンリに縛りつけられている。それもアンリにはもれなく人里がついてきた。弱くて囲いたくない人間を増やしている。多少危険を犯そうとすればアンリは自分の命を盾に止めてくる。しかもついてくる気満々。これでは駒を作って配置するのは骨が折れる。
少なくともアンリが合流するまで崖の国から勝手には消えられない。アンリが泣くと想像しただけで無理そうだった。そんなことで身動き出来なくなるなど、本能とは恐ろしくてならない。
ーー特にアンリ殿は利用してはいけない女性だ
シュナがそう評さなかったら少し見定めてやろうなどとは思わなかった。そして酔い。結果、隙を見せたせいでボコボコに殴られてアンリは懐に君臨した。そもそもヴィトニルがヴァナルガンドを使って後押ししたからだ。アンリに気を許したのはヴァナルガンドに先に気を許してしまったから。アンリがアシタカの女だと誤解したせい。出会って早々、アシタカを割と気に入ってしまったから。
先頭を探すとキリがない。ソアレが死に、ベルセルグ皇国を自分なりに囲うことにした瞬間からアンリの登場は決まっていたとさえ思えてくる。
「俺の脳みそと人生は滅茶苦茶にぶっ壊れた。愉快だ、実に愉快だアンリエッタ。ルイを蹴飛ばし、グスタフを刺しておこうと思ったのだが後回しだ。あと蛇一族の王と会っておこうかと。ルイにはシュナもいるから予定を一つ消す。よってアンリエッタ、もう一度だ。今度は君が俺を楽しませてみろ。そろそろ出来るだろう?」
アンリの服に手を掛けたら真っ赤な顔になって手を甲を抓られた。まるきり痛くするつもりがない、戯るような甘えた感じだった。つまり、続行しても良いということ。
「楽しませるって……その……分からないわ……。それにティダのことだから恥ずかしいこと……」
この態度、のせてしまえばこちらのものだとティダはアンリの唇を塞いだ。そろそろ加減なしで本気でやりたい。それとも勿体無いので小出しで遊ぶか。飽きないのは驚きだが、これは楽しくてならない。
「ティダ師匠!家族でお茶会の時間ですよー!」
ノック音とラステルの呑気な声がした。慌ててアンリが離れていった。また邪魔しやがって。間が悪い女。寝台から降りて床に投げ捨てていた服に手を掛けた。
「ティダ師匠!師匠!時間なので迎えにきたのよ!愛娘が待ってるわ!入りますよー!」
返事もしてないのに、扉の隙間からラステルが顔を出した。まだ上半身裸だったのでラステルが目を丸めた。しかし恥じらいも動揺もさほどない。お前になど興味ない、男として見てないという痛快なまでの無関心。吹き出しそうになった。
「まあごめんなさい。お着替え中だったのね。待ちますわ。あらアンリ、一緒にいたの。探す手間が省けたわ」
扉に体を滑らせるようにラステルが中に入ってきた。この娘は頭が痛くなる。危険時にと教えた、周囲を探りながら入室するという方法を何故今使う。しかも警戒心はなく無防備。教えた意味がまるでない。
「ラステル。王族の妃としてまるでなっていない。ノックをしたら返事を待て。入ってくるな。男が着替え中だと思ったら、旦那じゃないのだから外に出ろ。あとこの状況も察しろ」
ラステルが真剣な眼差しでティダを見据え、ふむふむと頷いた。子蟲に思いっきり飲まれてからというものの、感化されたのかラステルは子供っぽくなった。元々幼かったので余計にそう感じる。シュナが子狼なら、ラステルは赤子だ。
「ノックをして返事を待ったわ。返事がないので入りますって声を掛けて入ったのよ。着替えは見るべきではないのね。覚えました。あと……察する?」
ラステルが不思議そうに首を傾けた。人妻なのに何故分からない。ペジテ大工房を発ってから減ったが、基本ラステルからはセリムの匂いがする。何も知らないような顔をしているが、そんなことはない筈だ。なのにラステルはポカンとしている。
「お茶会の時間なのね。行きましょう」
アンリが「余計なことを言うな」というようにティダを叱るように睨んだ。それからラステルと扉の方へ向かった。ティダは仕方なくシャツと上着を身につけた。ルイ新国王戴冠が伝令、掲示される時間、ラステルとシュナがお茶会をするというのは聞いていたが誘われてはいない。
家族でお茶会の時間ですよ。いつ決まった。しかも家族。思い込みで決定事項のお茶会に、誰が呼ばれているのか。
「シュナはジャムを作ったのよ。材料は大蜂蟲が持ってきてくれたロモモの実とメルルの樹脂よ。だから贅沢とは少し違うわ。今は節約の時代だけど大丈夫。美味しいわよ」
ロモモの実とは聞いたことがない名前だった。メルルの樹脂も同様。同じ蟲森出身と言っても土地が違えば文化も名称も違うのだろう。
「俺はやることがあるのでアンリを連れて行くといい」
「ダメよ!しばらく離れ離れになるならなるべく一緒にいるのよ。アンリもティダ師匠も頑固だから忠告を聞かないで、離れるのでしょう?ならその時まで、二人は常に一緒にいるの。胸一杯の幸せな時間が困難を乗り越える力になるのよ。だからお茶会もするの」
腰に手を当てて、当然だという表情のラステル。ティダは大きくため息を吐いた。
「互いに尊重し合うってことよ。巡るんでしょう?ティダに必要だと思うことをするのに少しだけ別々になるだけ」
「それが分からないのよね。私はセリムとは離れないわ。でもアンリとティダ師匠は大丈夫ね。私とセリムは二人とも若輩だから二人でやっと一人分なの」
ラステルは理解しきれていないというように唸っている。
「まあいいわ。行きましょう」
アンリがラステルの背中を押した。それから振り返ってティダに笑顔を投げた。目が「一緒に」と訴えている。それから「当然」とも。
ーー生きていれば必ず幸福が訪れる。私が護りたいと思える方々ならば、必ず幸せの方から訪れてきますよ
ティダはラステルだけではなくアンリに向かってため息を吐いた。傾倒しなければ傷は浅くて済む。そうやって生きてきたのに、十年で終わってしまった。
ーー生きて
気を緩めると心中はあっという間に焼け野原。失った女の死に顔ばかりが脳裏によぎる。死に方が最悪だったせいで、未だに割り切れない。聞けなかった事も山積みだから余計だ。
ティダはアンリの手を取ろうとして、止めた。外で触るなと言うなら仕方がない。
「どんな味のジャムか楽しみね」
アンリがラステルに微笑みかけながらティダの手をそっと握った。
いや、握ってくれた。
死者には誰も勝てないが、生者にも誰も勝てない。
ティダはそっとアンリの手を握り返した。罪悪感と幸福感、相反する気持ちを抱いて今日もまた生きていく。
求めれば壊れる。欲すれば失う。それが世の常。過ぎ去った日には戻れない。前に進むしかない。
死んでいった者が生きたいと願っただろう時間。無駄には出来ない。しかし、残された命に何を祈られたのか分からない。可能な限り命の灯火を守れば良いだろうと思い、この世の何もかもを掌に乗せると決めた。
一国の王などでは足りない。王を育て、その下も育て、配置すれば足元に今よりも矜持の大輪が咲く。手向けにして、自己満足し誇れる人生への道。次は東の地。
「そういえばアンリ。アシタカの妹達、たおやかな三つ子娘に非礼を詫びるために誓いを立てた。成人祝いは大狼兵士と大狼が盛大に行う。成人の暁には極楽をその身に教えてやるとな。俺程、手ほどきが上手い男はいない。良いよな?遊びではない」
思い出したので一応聞いておかないとと口にしたら、アンリが鬼のような形相で睨んできた。
「良いよな⁈どんな思考回路をしているのよ!それに三つ子姫様に何て発言しているのよ!祝いは良いけど後半は却下よ!信じられない!」
「おいおい、そこまで俺を縛るとはむしろ不安な娘達へ非道な仕打ちだアンリ。それとも俺より良い初指南役がいるのか?華族の親も娘もこぞって俺を指名し、好みもあるから全員は相手しないというのに。特にララなんぞ、失恋の昇華にもなるのだがな」
アンリが固まった。ラステルも同様。
「誓い破りで死ぬのは御免なので、極楽は酒の飲み方にしてやるか。初指南と口にしていなくて助かったな」
アンリがブンブンと首を縦に振った。
「そうよね。異文化だもの。そうよ、異文化なの!ペジテ大工房には初指南なんて役は無いから覚えておいて。禁止。禁止よ。今後禁止!どんな理由があっても誓いを守って!何でそんな話を三つ子姫様達と……アシタカが聞いたら激怒よ……」
また禁止。生物としての欲求を禁止とはアンリの独占欲は強過ぎる。頭がイカれたからか気分は良いが、一生拷問されるようなものだ。
「そういや怒っていたな。おいおい、本気で俺を殺す気なのかよ……。そうか、分かった。そこまでか。その覚悟は気分が良いぞアンリ」
いつ何時相手をするし、飽きさせないように創意工夫するとはいじらしい。
「ティダ師匠、そんなに大勢の娘に護身術を教えているのね!だから教え方が上手いのだわ。どうして禁止なの?アンリ」
「あー、ラステル。お茶会の場所は何処かしら?準備は大丈夫?」
「ッハ!そうよ!準備が途中なのよ!大蛇の間に集合だから急いでね」
月狼が鼻先でラステルの背中を軽く押した。
〈慎みとやらはどうしたアンリエッタ。子狼の前でそのような話をするな。全く、フェンリスは人里でも生きるなら覇王アシタカを見習うべきだ。アンリエッタ、フェンリスをあまり縛るな。貴方となら何でも誓って、結果難題故に破ることになって死ぬぞ。放っておいてもフェンリスは囲った者には誠実だ〉
月狼の言葉でティダは固まった。月狼がラステルと連れ添って遠ざかっていく。
〈ふははははは!後輩に指摘されるとは育ててきた甲斐があるというものだ!しかしこのフェンリス、あらゆる王の上に立つ龍王になるなら、生存本能さえ律してやろう。アンリエッタ、強欲なる娘よ俺の心臓を握って気分が良いだろう?〉
完全に人生も価値観も狂った、とティダは月狼とラステルの後ろに続いた。アンリの手を握って。
〈良くないわよ。何でそういう感想になるのよ。あの。約束でいいわ。誓わないで。口約束よ。そうしましょう。お互いを尊重し合うなら常に聞きましょう?私とティダは生きてきた世界が違い過ぎる。歩み寄るの。但し、遊ぶ件が禁止なのはそのまま〉
「歩み寄る?次々と難題ばかり突きつけてくるな。この話は保留だ。ったく誓えと言ったりやめようと言ったり、こんな気分屋の我儘娘を知らん。遊ばんとは先程誓ったのだから守ろう。ったく、何て女だ。俺はその目に弱い。俺は完全に狂ったな。おい、ラステル!紅茶なんぞ出す予定なら酒を用意しておけ!俺は酒だ!時間がないだろうからツマミはいらん」
アンリは何故か両手で顔を覆ってため息を吐いた。ラステルが振り返って花が咲くように笑った。この顔にも弱い。あれ程嫌悪感の塊で、今も蟲を嫌がる本能のせいか近寄られるとゾワゾワするのに随分気に入ってしまったものだ。
「昼間っからお酒は贅沢よ!師匠も紅茶にしましょうね。アシタカさんと優雅に、穏やかに語ればもっと仲良くなるわ。セリムが喜ぶ」
アンリがティダと腕を組んだ。
「逃げないで。行くわよティダ。はあ、私達の道のりは遥か遠いわね」
さあ行きましょう、とアンリがティダを引っ張った。
机や椅子が並べられ、会議室と化した玉座の間から階段を上がると吹きさらしの大蛇の間でヴァナルガンドとアシタカ、シッダルタが待っていた。
そして砦に乗り、鱗を輝かせる大蛇蟲の王と小蛇蟲の王。空は雲に覆われて世界は暗転。雨が降りそうな気配。しかも大雨だろう。
「雨と冷えは苦難の象徴。しかし恵も|
齎す。表裏一体。ルイさんは大嵐に一歩踏み出す。僕はいつかきっと手助け出来るような男になる」
決意の炎が取り囲むように、ヴァナルガンドは眼前に広がるドメキア王国を眩しそうに見つめている。ラステルが寄り添い、シッダルタがヴァナルガンドの隣で大きく頷いた。
***
流星と彗星が告げたという、ドメキア王国の新たな時代の夜明け。千年続いてきた、権威と権力の分離の開始。
奇跡の星姫が無血にて反乱鎮圧。蛇神から「王」の神託を受けたのに星姫は拒否して一族とドメキア王国を去ったという。理由は定かではない。
民に選ばれた反乱軍首領ルイ・メルダエルダは一度「ルイ・エリニース・ドメキア」の名を冠し、一度は王を名乗ったが次の王を指名せずに王政を終了させた。
最後の王は同時期に大陸で起こった、大陸中の大革命に埋もれる。しかし研究者は決して少なくない。
「また、好き放題考えるな」
「私、嘘ばかりです。しかし見抜く者には敬愛示して真実と美しい紅の宝石のごとき心を与えます。愛していますよティダ皇子。いえ、新しい父上」
「俺もだシュナ姫。気が変わったので一生愛してやろう。道が分かれるまで駆け抜けた仲だからな。いきなり愛娘が祝言とは最悪だが許そう。大陸中探してもあれ程相応しい男はいない」
「ええ。ええ!約束通り熨斗を付けたのでいつでも岩窟へ帰って下さい。蛇神の国、覇王、ヴァナルガンド様、東の王、蟲一族に蛇一族。大量で強力な熨斗でしょう?」
ティダはシュナを抱き上げた。アシタカとアンリの機嫌が悪そうだが仕方ない。命削って共闘した仲。この絆、死ぬまで続く。
「大鷲姫よ、自由に、好きに生きよ!呼べば地の果て、地獄の底からも駆けつけよう!但し妻と弟の次だ!」
「最強の護衛大狼兵士よ、いつか私と人類の至宝の隣に飾って差し上げます!首を洗って待っているがいい!好きに、自由に生きて、輝くが良い!背を預け合う双頭蛇は敵国の中心となった兄弟を守るシュナとエリニース兄妹よ!背中に突き刺さる刃は抑止と無抵抗の矜持オルゴー!失われた名はもしそうだとしても今日、今この瞬間より名が変わりました!シュナとティダ、鷲と蛇の双子神と矜持ヴァナルガンド!途絶した神話を別々の方法で再生させますよ!必ず交わる!」
シュナがティダに抱きついた瞬間、見渡す限りの場所に三色の国旗がはためいた。大狼なのに蛇にされたと文句を言ったが大蛇蟲の王に「人の世での俺の代理だから蛇だ」と睨まれた。小蛇蟲の王は自分の化身がシュナなことにご満悦そうだった。
ドメキア王国の赤国旗。
ペジテ大工房の白国旗。
ベルセルグ皇国の黒国旗。
刺繍がまだない白と黒の国旗にはいずれ国紋があしらわれる。
やがて、大歓声は大雨に掻き消されていった。




