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風詠と蟲姫  作者: 彩ぺん
六章 途絶神話の再生露呈

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209/316

ドメキア初恋迷路3

 水飛沫で作られた大きな虹にアシタカは息を飲んだ。ホースで水を()いて出来る小さな虹とは全く違う。


 隣でシュナが微笑みながら泣いている。声も立てずに静かに頬に雫を流している。肩を抱こうと手が動いたが、返事 はまだなので勝手に触る訳にはいかない。


 よくよく考えてみれば、常にベタベタと触れていた。姉や妹にそこまで過剰に構うことなどないし、恋人でも無い妙齢の女性に人目を(はば)からずに手を出すということもしたことが無い。


 指摘に指摘を重ねられて、考えてみると自分の言動がチグハグなことに気がついた。体調不良もシュナと共にいる時ばかり。これが恋い(した)うということならば、今までの恋人への感情は恋ではなく錯覚だったのか?


 誤認識で次々と女性に手を出していたことになる。


 アンリの激怒は、アシタカの気持ちに先に気がついたからだと合点がいった。


 せめてもの救いは一線を越えてこなかったということ。恋人と共に暮らすのが基本だったので堪え難い時もあったが、未婚で手を出すなど大技師一族の恥。男としても最低。古臭いと言われようが、恋人に文句を言われようが(ゆず)らなかった。結果逃げられたこともある。


 一生に一度きり、そう思うと手を出してはならないと常に理性が先行していた。ここのところのアシタカは逆だ。四六時中シュナに触っていた。恥をかいていたことと、情けなさが入り乱れる。馬鹿な自分を知って穴があったら入りたい。むしろ穴を掘って入りたい。


 大蛇蟲(バジリスコス)(うろこ)が太陽に乱反射している。特に何も言わずに、全身を現さずに姿が海の底へと消えていった。


 単に虹を見せてくれただけなのだろうか。ありがとうございます。胸の中で呟いてみたが届いたのだろうか。ティダやセリムは自由に蛇一族と語るようだが、アシタカはまだその方法を知らない。蟲の王(レークス)が介してくれないと何も話せない。


 波の音と心臓の音だけがする。シュナはずっと海を眺めている。何を考えているのだろうか。


 アシタカはもう一度シュナを盗み見した。恥ずかしさが余りにも強くて直視出来ない。潮風に崖の国で見た、実り豊かな稲穂と同色の髪が揺れて輝いている。陶磁器のような滑らかな肌。大空を閉じ込めたような色の瞳。


 少し見ただけなのに心臓がさらに強く脈打った。手汗も酷い。汗のせいか冷える。シュナのドレスや手袋は裏地が羊毛と言っていたが、肩、胸周りは(あら)わ。自分の上着を羽織らせたが、まだ肌が多く見える。寒く無いだろうか。


ーー生娘(きむすめ)でもあるまいし、放っておいてくださらない?手袋の裏地は羊毛。ドレスもそうです。とても温かく、風邪など無縁です


ーー今まで通り可愛がってやろう。中々(そそ)る声だしな


ーーそんなに眠れないのならば添い寝くらいしてやれば良かったか


ーー武力手にする為に乗り込んできたと疑う(わたくし)に真心()()与えなかった


 待て。


 待て。


 どれが真実だ?


 物凄く嫌な気分になった。こんなこと聞く訳にはいかない。どの道近いうちに手を出すので分かる。いや、知りたくない。でも知ることにはなる。


 アシタカは自分の思考で発熱したように熱くなった。昼間っから何を考えているんだ。


「アシタカ様……」


「っはひ!」


 邪推(じゃすい)とふしだらな考えをしていたせいで、変な声が出た。シュナが不思議そうにアシタカの顔を覗き込んだ。また全身が熱い。身長差による上目遣いが悩ましいくらい魅力的に感じられる。何故ついさっきまでこの感情に気がつかなかった。言動に顕著(けんちょ)に出ていたから(とが)められ、(たしな)められた。やはり穴を掘って入りたい。


 アシタカ本人が気づいてなかった自分の気持ちを、シュナやティダにとっくに見抜かれていた。だからティダは政治戦略で結婚などと言い出した。シュナも乗った。シュナとティダ、二人の政略結婚を吹き飛ばすのに、これ程都合の良い相手はいない。


 ドメキア王国に、シュナとティダの結婚は存在しなかったような雰囲気が出来上がっているのも二人が裏で手を回しているに違いない。


「考えてみましたがシュナの気持ちは変わりません。今までは嘘も織り交ぜましたので本当の事だけを言います」


 力強い目の光に、アシタカは思わず首を横に振った。シュナからの明け透けなない言葉、そのうち本心だっただろう台詞(セリフ)の数々が脳内を駆け巡る。これ以上何か言われたら心臓が止まってしまいそうだ。


「お気持ちは大変嬉しいのですが受け入れられません」


 頭を殴られたような衝撃に襲われた。ついさっき考えたのとは逆の意味で心臓が止まるかと思った。そして、吐きそう。態度に出したら気にされてしまうと笑顔を作ろうとしたが、筋肉が強張って動かない。


「アシタカ様?」


「ああ、ああ……(こく)な仕打ちをしたから当然……」


 シュナが目を大きく見開いて、困ったように微笑んだ。


「違います。今のは(わたくし)の言い方が間違いでした。多少嫌な気分になりましたが自ら招いた事でしたので気になさらないで下さい。そうではなくて、アシタカ様の要求に対する答えが何も思いつかないのです」


 安堵で力が抜けて倒れるかと思った。これ以上醜態(しゅうたい)(さら)せないと両足に目一杯力を入れた。


 シュナがアシタカから顔を逸らした。難しい事は求めていないつもりだったので、アシタカは戸惑った。


「シュナ、君が僕に告げる言葉と同じだ。ご自愛下さい。君が与える側にばかり立つので僕が君に何でも与える」


 シュナがまた不思議そうにアシタカを見上げた。


「与える側ばかり?可能な限り自分の務めを果たす。当然のことです。苦難もありましたが特別な地位に生まれ、不自由なく育ちました。守られてきました。アシタカ様と同じです。これからは以前より(わだかま)りなく、嫌悪感なく働けそうで軽やか。過剰な幸運になんだか罪悪感すら覚えます」


 シュナがまた不思議そうに首を傾けた。蟲の王(レークス)のシュナに対する評価の本質を垣間見た気がした。


ーー(しいた)げられ続けても自分の幸福など捨てて他者へ奉仕し続ける人の王


 (しいた)げられた苦痛よりも、守られたことへの感謝を選ぶ。悪いところよりも良いところを見つめる。シュナの中で葛藤(かっとう)があるのは知っている。シュナの本質はセリムと同じだ。むしろセリムと出会ってシュナの本質はより強化されたのだろう。


「欲しいものはやはりアシタカ様の隣です。公私共に、死後も誰にも(ゆず)りたくありません。とても欲張りだと思います。この気持ちが今だけなのか、死ぬまで続くのかは分かりません。亡命拒否している国の御曹司。やり場のない憎悪を勝手にぶつけていました。実権無いと聞いたときは役立たず、道具にならないとまで思いました。それが今や掌返(てのひらかえ)し」


「そうだな。人は変わる。僕もまさか自国を飛び出して、他国で暮らしていきたいと思うとは夢にも思わなかった。大自然に憧れてならまだ想像もしたが、たった一人の女性の為だけにというのは予想外。半分、国を捨てるようなものだ。でもそうしたい。ペジテ大工房は民主主義だし、そもそも父上は生きている。姉上に妹達もいて色々と手伝ってくれるから多少不在でも大丈夫だ」


 アシタカは恐る恐るシュナの腰に手を回した。拒否されなくて心底安堵した。シュナの頬が少し赤くなったのでアシタカもつられて恥ずかしくなった。胸も苦しい。これは単なる緊張とか不安だ。他にもありそうだが、とりあえず体調不良ではなかった。


「いいえ、アシタカ様はまた荷を増やそうとしているだけです。歩み寄って半分にしましょう」


「いや。いいんだ。外界で暮らしたいという幼少からの憧れが叶う。祖先のように賞賛(しょうさん)されたい。国民に感謝されたい。愛する妻も欲しい。物欲は無いが、君よりも恐ろしく欲張りだろう?代わりに他の者よりも働くつもりだったが、周りをもっと働かせて楽もする。君が最優先だからだ。器が小さいので卑怯に磨きをかけることにした」


 シュナが無邪気に笑った。この屈託の無さ、偽りない笑顔をもっと沢山見たいと願ってやまない。


「何を言いだすかと思えば、また目の下に(くま)を作っている方が何を。貴方はきっと休んでなんていられないですよ」


「僕は今後も年中無休。休暇が君一人に対する仕事になるからだ。この仕事は大変だ。シュナが歴史上類を見ない程大切にされた伴侶だという評価をつけられないとならない。でないと覇王になる僕の名折れだ。僕の為にうんと幸福になって欲しい。そうすると僕は大陸一の果報者になれる」


 シュナが両手を口元に当てて愉快(ゆかい)そうに笑い、肩を揺らした。


「では逆もにしましょう。今の気持ちがお互いに永劫(えいごう)続きますようにと次に流れ星を見たらお願いします。代わりに二人でうんと沢山、張り切って働いて世の中を良くする。それならきっと叶えてもらえるでしょう」


 アシタカは(うなず)いてポケットから指輪を取り出した。それから握りしめた。


「この指輪は預かっておきます。ペジテ大工房でもう一度高らかに宣誓する。その時に僕から贈ろう。(そろ)いの結婚指輪を考えておく。僕は誓いを変えないが、君は変えてくれ。課題だ。式典の日取りはまだ決まっていないので、それまでは表面上は夫婦。真実は単なる恋人。いや、婚約者か。そういうことでお願いします」


 シュナが不満そうに唇を(とが)らせた。


「難題なのに、答えなしでは許して下さらないんですね。アシタカ様から与えられるばかりとは一方的ではないですか」


「いや簡単な問いかけだ。シュナが僕に色々と求めたじゃないか。この課題は持ち越し、次の議題に移ろう。新居を何処にするかという話だ。通勤はこの国からペジテ大工房へ。きっと時々になるので多少不便な場所でも(かま)わない。君が勝手に決めた所は一度却下」


 アシタカはシュナの腰から手を離した。左手でシュナの右手を握って歩き出す。馬の手綱を右手で引いて、海岸線を散策。風は冷たいが微風。優しい陽だまりの下なのに、ちっとも心の中は穏やかではない。頻脈かというくらい心臓が(うるさ)い。やはり、こんなこと今まで一度も無かった。


「ヤン長官には内密のお願いは出来ないようですね。覚えておきます。場所は変えません。アシタカ様の移動だけではなく、色々と都合が良い場所です。景色も良いです。今度一緒に観に行きましょう」


 やはり小さい手だなとアシタカは何となく繋いだ手に力を入れたり、抜いたりした。


「観に行って僕も気に入ればそこにしよう。広いと落ち着かないので、そんなに大きな家にはしたくない。あと僕の貯金で建てられるくらいの広さで頼みます。ドメキア城のような絢爛(けんらん)なのは疲れるから嫌だな。君としてはああいう方が落ち着くかい?」


「まさか。偽りの庭のアシタカ様の家のような方が好きです。シュナの私室の書斎(しょさい)も質素でしょう?本は一度読めば大体覚えますが、読み返すこともあるので本を多めに置きたいです。予算は色々と確保する方法があるのですが、広さは家族が何人になるかによるのではないですか?」


 アシタカは足を止めた。横を見るとシュナがかなり赤くなっていた。


「そ、それは、後々増築にするとか?いや、計画性は持っていた方が……計画?ピアノが置けて、庭があって、会議室と来客者用の部屋と……これでは大技師本家のようになるな。広くなる。掃除が大変だ。自宅と分けるか?家なんて(ろく)に考えたことがなかった」


 アシタカは髪をぐしゃぐしゃと()いた。


ーー母上のように誰よりも子を大切にするの。宝物になるわ


 シュナを見つめた。悩ましいというように(うつむ)いている。シュナは子供が欲しい。つまり自分と。そういうことだ。シュナは自分が言った意味が分かっているのだろうか。もう25歳だったと思うので当然知っているか。知っているのか?色々と?この人が?


 25歳?誕生日はいつだ?祝わないとならない。欲しい物は無いと言いそうだが何を贈ろう。


「……様?」


「アシタカ様?」


 アシタカは我に返った。考え込んでいると周りが見えなくなる悪い(くせ)だ。


「すまない。色々考えていた。手間だがもう一度話してくれるかい?」


「議題から()れて何を考えていたのです?」


 頬が赤いのにシュナのは揶揄(からか)いのような視線を向けてきた。思考を読まれていそうで、恥ずかしくてならなかった。


「あー、ふと君の生まれた日はいつかと気になって。祝いたいから知らないとと思ってな。しかし、今は家の話だ。議題から()れるのは良くない」


「生誕日ですか?……まあ後回しにしてもう一度話しますからきちんと聞いて下さい。家を決める前にどう暮らしていくかです。アシタカ様が暮らすなど考えていませんでしたのでやり直しです。城に草案がありますのでそれを確認していただいて、訂正と追加。毎日通勤という時点で修正せねばと思っていましたが……」


 シュナがアシタカの手に少し力を入れて、はにかんだ。小さな「嬉しかったです」の言葉に軽い目眩(めまい)がした。今ならセリムがラステルを見つめてぼんやりしたり、ニヤニヤ笑っている理由が分かる。むしろ何故自分は今までこのような気持ちを知らなかった。


 可愛らしいな、そう言いかけて慌てて口を閉じた。人前でみっともない。いや、人は居ない。いいのか?()めたら喜んでくれるだろうというのは想像出来る。時計がないので時間が分からない。一番大事な話は済んだし、山のように決めることがあるのでそろそろ戻らないとならない。


 ()めるなら今か。


「シュナ、君はとても可愛らしいな」


 シュナが足を止めてアシタカを見上げた。少ししてからシュナの白い肌が真っ赤に染まった。困ったように笑うのがまた可憐。この姿や所作をもっと見たい。


「な、何ですか急に」


 演技は自由自在そうだが、目を泳がせている今の様子は素だろう。嘘のようには見えない。


「今なら誰も聞いていないと思いまして。このままずっと見ていたいです」


 さらさらと風に(なび)くシュナの細い金髪を何となく指で摘んだ。アシタカとは髪質が随分違う。シュナが下を向いた。益々(ますます)赤くなったように見える。どんな表情をしているのだろうかと、アシタカはシュナの頬に手を添えて上を向かせた。


「あの、アシタカ様……」


 風で海岸の砂でも入ったのか、少し目が(うる)んで見える。それにしても美しい色の瞳だ。


「最初に会った時も思ったが青い瞳というのは僕からすると珍しいというのもあって美しいと思う。特に君の瞳は夏の空色というか、他の者と随分(ずいぶん)違う。宝石でも見たことがない色だ」


 また俯い(うつむい)てしまったので残念だった。しかし嬉しそうな微笑が見れた。これは楽しいかもしれない。シュナがアシタカの手を引いて歩き出した。


「来た道を戻ると小一時間くらいだと思います。長く不在だと心配もされますし帰りましょう」


 その通りなのだが名残惜しい。アシタカはシュナを馬に乗せようとシュナの腰を(つか)んだ。向かい合って見つめ合うようになると、更に帰るのが惜しくなった。


「僕はやはり仕事を減らす。それから効率化を追求する。君との時間が取れない。はあ……こんな事一度だってなかった。仕事をするよりも延々と君を見ていたい……」


 力が入らない。アシタカはシュナの額に額をくっつけた。綺麗な目がよく見える。その目が困惑で泳ぐのが楽しい。赤くなっているのは恥ずかしいからで、反応が可愛くてならない。


 これが好きだという気持ちなら、やはり今まで()れてもいない女性に手を出していたということだ。一瞬後ろめたさを感じたが、勝手に寄ってきて次々と去っていった。望まれて手を出した。自分からという記憶が無い。というより殆どの記憶が曖昧。しかし婚約までしてしまった者もいるので罪悪感が激しい。


 本人達には決して言わない。終わった話だと過ぎたことだと忘れよう。時間と労力の無駄という無意識の暴言だけは、アンリに()びないとならない。


 パキッ。


 アシタカは物音でシュナから離れた。背中にシュナを隠して周囲を見渡すと、離れた林の木陰に人影が見えた。目を凝らすと見覚えのあるお団子を連ねた髪が揺れて、木の幹に隠れた。


 今のはラステルの後姿(うしろすがた)だ。


 待て、今外で何をしようとしていた?


 危ない。


 シュナはアシタカにとって危険だ。


 油断していると公衆の面前でも破廉恥(はれんち)なことをしそうになる。それでは史上最悪、極悪非道なティダと同じ穴の(むじな)。あんなのと同じになりたくない。


 振り返るとシュナは不安そうに周囲を確認しているだけだった。アシタカのシャツを軽く掴んでいる。アシタカはさっとシュナを抱き上げて馬に乗せた。自分も登った。手綱を握る細い指は心許(こころもと)なすぎる。腕もすぐ折れてしまいそうだ。来る時と同様にアシタカは片腕をシュナの体に回した。落とすわけにはいかない。


「戻ろう」


 アシタカは馬を蹴った。ラステルが見えた方向を迂回(うかい)してから、途中で方向転換した。少し速度も速めた。


 油断していたのか、割と無警戒に歩き出していたラステルの前に馬を出した。上から月狼(スコール)が飛び降りてきてラステルの体にピタリと張り付いた。ラステルは目を大きく見開いて固まっている。


「こんにちはラステルさん。僕達の護衛かい?」


 いつから盗み見されていたのか分からないが、動揺したみっともない姿は見せたくない。ラステルにもシュナにも。


 アシタカはさっと周りを確認したが他にはいなさそうだ。ラステルだけならあしらうのは簡単。


「そ、そ、そうよ!ねえ月狼(スコール)君。私達任されたのよね」


 月狼(スコール)が尾でラステルの背中を軽く叩いた。勝手に来たのだろう。ということは下手すると近くに他の護衛が来ている。月狼(スコール)が遠吠えした。王狼(ヴィトニル)が近くにいるのだろう。


 危なかった。


 手を出すならば誰もいない、二人きりの室内。思う存分触っても見られない所でだ。


 考えた瞬間、アシタカは馬から落ちそうになった。こんな時に何を考えているんだ。慌てて手綱を強く握りしめた。


「アシタカ様?」


「馬に乗るのが久々だっただけです。大丈夫だ。ではラステルさん、僕は君に怒られるべきかい?僕はシュナの大親友に注意されてとても大事なことが分かった。なので二度と怒られないように努める」


 何処から見られて、聞かれていたのか探りたかった。距離が離れていたので会話は聞こえなかったはず。アシタカはチラリと月狼(スコール)を見た。澄ました顔が背けられた。


 不信感たっぷりだったラステルの顔が輝いたように明るくなった。心底嬉しいというような満面の笑顔。


「私もシュナの目は宝石みたいだと思うわ!アシタカさんの宝物ね!」


 そこは聞かれていたのか。その前後の接触も見られていただろう。


 ラステルが両手を胸の前に握って左右に揺れた。それから「ふふっ」と笑った後に月狼(スコール)に抱きついた。


外聞(がいぶん)世間体(せけんてい)というものがあるのでシュナとラステルさんの二人だけで秘密を共有して欲しい。見聞きしたことはセリムにも話さないでくれないかい?」


 ラステルがブンブンと大きく頭を縦に振った。初対面を思い出してみたが、こんなに幼い娘だっただろうか。はしゃいでいても、どこか(うれ)いを帯びていて(はか)げで寂しそうだった気がする。それをセリムが変えたのか?


「まあアシタカ様。(わたくし)……」


「僕は君が友に嬉しいという気持ちを打ち明けたら、とても自慢だ。ラステルさんは言いふらしたりしないだろう。シュナ、僕からの課題をラステルさんに相談するといい。僕は君の友に駄目男(だめおとこ)だと思われたままでは困る」


 ラステルが胸を張った。これで距離感があったラステルに、少しは信頼寄せられる相手と認識してもらえるかもしれない。


「私、固い時は口が固いのよ。お義姉様(ねえさま)達に爆弾苔を投げられても大事なことは口を閉じていたわ。シュナと二人で紅茶を飲んでお話しするだけよ」


 あとはシュナがラステルを操縦するだろう。このような気恥ずかしいこと、言いふらされたくない。


月狼(スコール)君も私と一緒に秘密にするのよ。ティダ師匠にだって話してはダメ。良い男の条件は必要な時に口が固いことだってティダ師匠が言っていたわ」


 月狼(スコール)があくびをした。当然のことを話すな、そういう風に見えた。ラステルが「まあ、道のりは遠いわ」と呆れたように呟くと、月狼(スコール)がラステルの頭を尾で撫でた。ラステルが「伝わったのね」とニコリと笑った。月狼(スコール)は子供の戯言(ざれごと)に付き合ってやっている、そういう表情。


 シュナもアシタカと同意見なのか、くすくすと小さく笑った。今までどのくらい笑うことが出来ていたのか想像もつかないが、これから先は今まで以上に笑っていて欲しい。


 アシタカが馬を進め始めると、月狼(スコール)が尾でラステルを背中に乗せて歩き出した。


「よし、競争だ」


 アシタカは馬で駆け始めた。月狼(スコール)疾風(はやて)のように勢い良く走り出し、みるみる遠ざかっていった。まだ子供のようだが力強く、早く、圧巻の走り。


 気配もなく王狼(ヴィトニル)が馬の横に並んだ。やはり近くに居たのか。


「護衛をありがとうございますヴィトニル様。アシタカ様が突然馬で(さら)ったので驚きました。ラステルを連れてきてくれたのも貴方ですね。心配をしてくださりありがとうございます」


 シュナが軽く馬から身を乗り出して、王狼(ヴィトニル)に愛くるしい笑顔を向けた。相手は大狼なのに、自分ではない相手にこの上なく可愛いところを見せているというのは面白くなかった。


 胃のムカムカではなく嫉妬(しっと)。こういうことか。気づいてみれば答えは単純明快。アシタカは大笑いした。


「アシタカ様?」


「僕は大馬鹿な勘違い野郎だった。最近胃がムカムカすると思っていたら、君が愛想を振りまくと男達が見惚れるので不愉快(ふゆかい)だったらしい。これからは抑えてほくそ笑むことにする。手に入らなくて残念だなと腹の底で笑います」


 思い出したらまた腹が立った。美しくも可憐(かれん)な笑顔に心奪われるのは許せる。しかし視線の先が胸元だったりするのは許し(がた)い。ドレスの形状を変えないとならない。それか似合う上着を早急に用意しよう。


 シュナが振り向いて(とが)めるような視線を送ってきた。王狼(ヴィトニル)が鼻息のように吠えた。三回なので悪い意味ではなさそうだ。


「あの、明け透けないのは続けるのですか?ペジテの殿方は違うと母から聞いたことがあります」


「姉上達と義理の兄達に教育されたのが大きいと思います。あと弟分に見本にならないなどと言われているという屈辱、返上しないとならない。ティダは手本にならないがアシタカはとても見習いたい背中だ、そう言わせます」


 怒りで我を忘れかけるのを直すのと、シュナに夢中になるのを抑えるのはどちらも理性と忍耐を使う。常に意識して目指す覇王に似合いの堂々として冷静沈着な男になろう。目標の人物像はセリムも好む姿だろう。


「セリム様にそんなことを言われたんです?」


「まさか。面と向かってではない。風の噂で耳にしました。ティダなんかと……」


ーー俺は非礼分を返しただけだ。一点、純潔奪ったのだけは一生返せねえかもな。


 急に思い出した。むしろ何故か今まで忘れていた。というか忘れていたかった。馬が大きく揺れたのでアシタカは落ち着こうと深呼吸した。


 利用する為に手を出し、手を出す必要がないので途中で止め、非礼分の借りを返すために革命幇助(ほうじょ)。アンリを置いて、自らの命を盾に前線に向かった。船ではシュナを庇い蟲に腕を切られたという。それに、シュナに対してだけは優しく接しているのを幾度となく見かけた。


ーーここまでされてうっかりほだされない女はいない。生理的に、本能が、逃げろというので逃げた


「いや、止めよう。僕はあの男が鼻持ちならないが認める面も多い。君に手を出したというのも、人道的な方法だったと思い込むことにする。気にしていると知られると僕はあの男を使えない。ティダには切り札を与えない」


 今ティダの顔を見たらぶん殴りそうだが、そもそも簡単に殴れない。力量差があり過ぎる。殴る理由を察したらティダは大人しく殴られるだろうが、無抵抗の者に手をあげるのは恥。ティダはシュナに相当借りを返した。アシタカのシュナへの気持ちを察して政略結婚しろと後押ししたのもそうだ。


「それは安心しました。アシタカ様がティダの下で転がされるのは気分不快ですもの。過剰は反発を招くのでアンリを利用するのは彼女の名誉の為にも控えてくださいね」


 澄ましたような声だったが、寂しそうにも感じられた。


「いや、使う。なるべくアンリがいないところにする。なにせ僕は後ろめたいことはほぼない。ティダは自滅するだけ」


 シュナからの反応は無し。アシタカはシュナの体を抑えている腕を、肩の方に移動させた。それから耳元で(ささや)いた。王狼(ヴィトニル)はどのくらい耳が良いのだろうか。ティダが地獄耳なので聞こえてしまうかもしれない。


「僕が最後まで手を出すのは妻だけだ。僕はそういう男です。よって後にも先にもシュナ、君だけが僕を手に入れる。式典までも何とか耐える。ティダはこのまま思い込みで一人相撲をして僕の犬。愛娘を取られて、後ろめたさもあってやはり僕の下だ」


 シュナの頬にそっと唇をつけた。外気が冷たいので冷えている。シュナの肌がみるみる真っ赤に変わった。こっちも恥ずかしいので顔を直視出来なかった。肩から手を離して両手で手綱を握った。


 アシタカはチラリと王狼(ヴィトニル)を見た。


「僕の下だと嫌でも人前に出ないとならない。それも己の中身に伴う言動をした上でだ。嫌がる人里で生きなければならない。きっとそうなるだろう。アンリには幸せになって欲しい。それがティダの為にもなる。よって僕はティダに最大限の嫌がらせをする」


 王狼(ヴィトニル)が大口開けた。大笑いしているような気がした。


「アシタカ様は割り切り上手な方ですよね」


「ヤキモチを()いていて欲しいです?」


 シュナが振り向いた。()ねたような顔をしている。まだ設営してあるテントは遠い。王狼(ヴィトニル)が馬よりも少し前へと進んだ。気を利かせてくれたのだろう。


揶揄(からか)いはおやめ下さい。単純に見習……」


 アシタカはさっとシュナの頬にまたキスした。シュナが唖然とした後に更に赤くなった。いちいち反応があるので楽しくてならない。


「心が(せま)いので他の不埒(ふらち)な男に指一本触れさせたくないし、むしろ喋るのも同じ空気を吸うのでさえ嫌です。しかし覇王はそれを利用されてはならない。余裕たっぷりだと見せつける。君を僕の弱点に見せてはならない。仕事の為には公私分離もせねば。アシタカの女よりも幸福にせねばと励む男もいますからね。友の人生が豊かになる」


 シュナが前を向いて俯いた。口を手で押さえながら楽しそうに笑っている。


「随分と変わられたように見えますよ。妙ちくりんなアシタカ様も好きでしたが、今の方が本来のアシタカ様らしくて好きです」


 好きです。


 胸を貫かれたかと思った。一瞬、行き先をテントではなくドメキア城のシュナの部屋にしようかという本能にも(おそ)われた。これから関係が始まるというのに、今からこんなだと相当苦労しそうだ。


 アシタカは一度馬を止めた。シュナを抱き上げて横向きに座らせた。こういうことは面と向かって伝えるべきだ。


「そろそろ()に落ちた。シュナ、愛してる」


 笑ってくれるかと思ったが、シュナはみるみる目に涙を()めて顔をしかめた。これは予想していなかった。指で涙をすくうと、反対側の瞳からホロリと涙が(こぼ)れていった。


 (せき)を切ったようにシュナが泣き出した。アシタカの胸元に顔を埋めて声を押し殺すように震えている。アシタカはそっとシュナを抱き()めた。


「女は必ず泣くか……困ったな……常に笑っていて欲しいのだがこれはこれで(うれ)しくてならない」


 ポンポンとあやすようにシュナの背中を優しく叩いた。泣いているせいかシュナの体が熱い。シュナがアシタカの胸を押して離れた。


「それで良いのです。嬉し涙ですもの。アシタカ様……(わたくし)も貴方がこの国に来てくれた瞬間からお(した)いしております」


 度々向けられていた熱視線は尊敬ではなかったと、同じ目を向けられて(さと)った。本当に迷い子のように気持ちが()じ曲がっていた。早々に迷路から抜け出せて良かった。あのままだと、シュナを延々と傷つけていただろう。笑わせるのも、泣かせるのも、傷つけるのもアシタカの手の内。逆もそう。これは中々厄介な感情だ。


 しかし本当の意味で、築き上げたい平和や灯すべき人々の生活の明かりを知れるだろう。時間と労力が相当必要だが、有意義な消費となる。


 温かな食卓の灯りは、浴びるものではなくて灯すもの。そんなことはなかった。まだまだ短い人生で知らなかっただけ。これからも視界は広がり、自分は大きく変わっていくだろう。


 この気持ちはどうなのだろうか。突如燃え上がった恋はすぐに消えるのか。それとも光度を増していき、簡単には消せないほどの熱を持つのか。きっと後者だ。そうして輝き放つ。星のように。


 星が死に、新たな星を生むように、二人が死んだら新たな光が生まれるように歩んでいきたい。


(した)う?」


 他の言葉が欲しいと伝わるように、顔を覗き込んだ。シュナが恥じらう姿は楽しくてならない。


意地悪(いじわる)ですねアシタカ様。シュナもアシタカ様をあ、あい……」


 愛してます、そう消えそうな甘い声が()れた瞬間アシタカはシュナの唇にそっと唇を寄せた。三回と思ったが足りないので倍の六回にした。それでも満足出来ないと増やそうとしたらシュナに止められた。


 我を忘れかけていたが、今のシュナの顔を誰かに見せたくない。おまけに外で何をしているんだと、アシタカはティダのことを二度と極悪非道とは呼べないと苦笑した。


「身が入らない自分を蹴飛ばして大いに(はげ)みます。君との時間が作れなくなる。続きは夜だ」


「つ、続きですか?」


 やはり、反応が楽しい。しっかりと掴まってと告げてからアシタカは馬を走らせた。いつの間にか晴れ渡っていた空に雲が増えた。湿度も増したように感じる。肌で感じる大自然。ペジテ大工房の民にも、胸を張って堂々と感じて欲しい。その為に先陣を切る。うつつを抜かして止まるのではなく、この熱は原動力にする。


「全然足りない。働く理由がまた増えました。続きの続きの日取りも決めないとな。テルムの復活祭の翌日にして連日聖なる日にするのは痛快かもしれない。しかし三ヶ月も先だ。和平交渉開始もそんなに待てない。近いうちで何か意味のある日付ってあります?」


 遅くてもせいぜい半月以内。何か特別な意味を持つ日はあっただろうか?こういうのは知識豊かなシュナの方が得意だろう。


「九日後、(わたくし)の生誕日です。どうです?」


「実に運命的だ。それに間に合って良かった。大馬鹿野郎のまま君の大切な日が過ぎてしまう所だった。きっと最悪な扱いをしていたな」


 シュナが首を横に振った。


「いいえ。アシタカ様は優しい言葉ばかりくださるので傷は浅く、楽しい気持ち

がうんと多かったですよ」


「浅い?思い出しても非道な仕打ちをしていたと背筋が凍る。自分に置き換えたら最悪な気分です。君は激怒して殴っても良いくらいだ」


 シュナがまた首を横に振った。


「気づいたらその分、うんと返ってくると思いましたもの。正解でした。むしろ甘える口実が減ってしまいました」


 計算なのか天然なのか、このいじらしさと誘われるような声に弱い。特に声。そうか、夜な夜な()かれて、ついには手に入れようと異国の地まで飛んできたのか。とんでもない武器だな。


「九日後か。ドメキア王国と和平協定の正式締結。各国への宣戦布告。悪魔の炎の件も織り込みたい。蛇一族と約束した神殿と新居も建設にかからないとならない。軍法会議でないにしても権力でねじ伏せるにしてもカールの件は安易に不問には出来ない。早急に考えないとならないな。細々したこともあるし山積み。やる気が出る。使える者はどんどんこき使おう」


 この人生に平穏はないだろうが、強く前だけを向いて歩いて行けそうだ。シュナは元々激動を生き抜いてきた。生来の性格が彼女に逃げることを許さない。並んで支えあえば二人揃って今までより生き易くなるだろう。そういう風に明るい未来を見つめたい。


「シュナもある程度指針や人材を与えたので政治改革からは手を引きます」


「もう?」


「元々ルイを飾りにしようと布石を置いてきましたから。以前の見た目で表舞台に立つつもりはありませんでしたもの。ルイも悩みながら自分の足で歩けば自信がつく。勿論、手を引いた振りをして蹴り上げますよ」


 あはははは、とシュナが高笑いを上げた。このティダを真似た笑い方は治させたい。しかし、ガラリと雰囲気が変わって妖しげなのも良いなと思ってしまった。すっかり骨抜きにされてしまったらしい。


「天寿全うするまで生きながらえさせ、死ぬまで働かせる。何が政略結婚など非道な仕打ちをしたくないだ。化物を妻にしてでも立ち上がろうという気概(きがい)のなさ。かと言って(わたくし)の演技を見抜けぬ見る目のなさ。中途半端(ちゅうとはんぱ)な男だったことを後悔しているだろうけれど、もっと後悔させてやるわ!化物ではなく人として扱った善意の代償にこの国の歴史に賢王として刻んであげます。アシタカ様のうんと足元で(かす)みますけどね」


 シュナがアシタカに抱きついた。シュナのルイへの親しげな視線はそういうことか。面識があって、それなりの扱いをされていたということだろう。これだけなのに複雑な気分だ。


 もうそろそろテントが近くなり、人から見えるくらいまでの距離になった。


「アシタカ様、このまま貴方はシュナがうんと大切だと民に見せつけて欲しいです。理由は胸がすく、それだけです」


「僕の常識を逸脱(いつだつ)するがもちろんだ。君の可愛い我儘(わがまま)くらい叶える。胸がすく?どうせ爪で引っ掻いたり刺すんだろう」


 アシタカはシュナの肩に手を回した。シュナがアシタカに抱きつくのをやめて胸元にもたれかかった。それから小さく手を振りはじめた。大歓声が上がった。


 雪が降りはじめている。


 ふわふわと舞い降りてくる雪に、また赤い(きら)めきが混ざっていた。きっとラステルと彼女と繋がる大蜂蟲(アピス)からの祝いだろう。


「そうです。蛇の毒、(わし)の爪や(くちばし)、大狼の牙。何と呼んでも良いですよ」


 シュナが肩を(すく)めて苦笑いを浮かべた。


「僕の屁理屈は劇薬らしい。僕達は聖人聖女ではなくどうしようもない程(おろ)かなのに、光に焦がれる(いち)人間。とても似合いだから二人で仲良く焦がれて(もだ)えよう」


 シュナが面食らったように目を開いてから、歯を見せて屈託無く笑ってくれた。


「ええ。二人揃って強欲なので必死になって宝石を目指しましょう」


 清濁(せいだく)併せ持つからこそ、魅力的なのだろう。そう考えてしまうくらい何もかもが好ましい。


 きっと想像もつかないような人生が待っている。たとえ絶望や苦痛が待ち受けていても跳ね返す。今の幸せを維持したい、むしろ大きくしたい。失ったら取り戻す。その為により強く、逞しく生きていく。


 二人の幸福の先に別の者の幸せも続く。大陸中、可能な限り広く巡らせる。


 何度迷っても先を歩こうとする妻が道しるべ。


 アシタカはシュナの小さな肩に触れている手に力を込め、薬指で三回叩いた。

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