ドメキア初恋迷路2
シュナは青空の下に座って国の景色を眺められるという、想像もしていなかった人生に感無量だった。笑い者にされない。石が飛んでこない。弓矢も降ってこない。自室と地下室の寝室しかなかった本当の自分でいられる場所が一気に広がった。
蛇の女王とはおどろおどろしい響きで嫌だったが、噂では星姫などと呼ばれはじめているらしく密かに嬉しい。「醜い姫と流れ星」という古くから国に根付くおとぎ話を博識を自負する自分が知らなかったのは、母がこの国出身ではなかったからだろう。
シャルルは未だに嫌いだが、あの話を教えてくれただけで何もかも許せると思える。題材と内容が実に使いやすかった。これからも影響力は強いだろう。
いつの間にか民から話を聞き出すのはセリムの役に変わっていた。あっという間に人々を惹きつけて群衆を攫っていった。未だにシュナを追い詰めたという負い目があるのだろう。シッダルタがセリムの付き人だが親しい友人という絶妙な雰囲気を出しているのも好印象のようで、場の雰囲気が良い。
自分だけだと殺伐としたかもしれない。今の国民の掌返しはうんざりだし、嫌味の一つでも言いたくなる。セリムとシッダルタには助けられた。
「花で冠が作れるのね。ダイヤモンドのティアラよりも私はこちらの方が好きだわ」
手の中の不格好な冠に苦笑が漏れた。関節痛に浮腫のせいだと思っていたが、そもそも不器用だったらしい。
「ねえ、シュナ様。それでお姫様はどうなったの?」
膝の上に座るマーニャがシュナを見上げた。痩せすぎて骨と皮しかないように見える。それに比べて自分は随分と豊かに育った。これからだ。やっとこれから思い描いていた事が出来る。一つでも多く、何か一つでも残るように。
「蟲のお姫様は人に蟲、大狼、蛇、他にもうんと大勢の命を助けたので、蛇の神様に願いを一つ叶えてもらったの。人の形になって大好きな王子様と結婚して子供が生まれたのよ。生まれたのは蟲人間」
シュナの右腕に寄りかかるヒルデが「蟲人間?」と首を横に倒した。蟲の女王の伝説がねじ曲がっているので、さらにねじ曲げようと創作しているが面白い言葉が出てきた。
生まれたのは蟲人間。
アシタカ、シュナ、エリニースという三つ子は普通の人間ではなかったと推測している。エリニースが蛇神でこの地を耕したという創世記。内容が違ってもエリニースは知りうる文献中では必ず蛇と関連がある。一方シュナは鷲だ。危険に晒される人々を鷲を使役して逃したという伝承を読んだことがある。
鷲は小蛇蟲だろうが、蟲かもしれない。シュナは天から現れたとか空を飛んで国を守ったなどという言い伝えが多い。
ペジテ大工房の始祖テルムこと本名アシタカはどうだったのだろう。真の名前は歴史に埋もれ、兄妹とは別のそれも他人として神話になった人物。三つ子は心繋がっていたというが、敵国で一人生き続けた彼は何を見たのだろう。子孫を残したということは許した先に美しい世界を見たはずだ。
アシタカの祖先。許しの象徴。その人生をなぞれるならばなぞりたい。
「蟲でもあり、人でもある。どちらの良いところも持っているから命を差別しないとても優しかったという言い伝えがあるの。蛇神様や優しい蟲達にお魚をお願いしたセリム様のような方よ。人に生まれても後からなれる。苦しくても、辛くても、優しさを忘れないで。神様は見てくれているわ」
子供達の半分くらいが首を縦に振った。残りは興味ないというようにそっぽを向いているか、不信感を醸し出している。
「信じることは難しい。とても辛くて、苦しくて、嫌でたまらない時もある。それでも先に信じましょう。先に与えるの。損しかなくても心豊かであればいつか別の形で返ってくるわ」
シュナはマーニャの頭を撫でた。それから不器用で形が悪くなってしまった花の冠をヒルデの頭の上に乗せた。
「父ちゃんが言ってた。ヴァル兄ちゃんみたいになれって。石を投げられても、嘘つき呼ばわりされても人助け出来る奴は中々いないって」
立ち上がったのは一番やんちゃそうなハイドンだったら。セリムの背中をジッと見つめている。
「ハイドン君、貴方の父上は人を見る目があるのね。きっと石を投げられたヴァナルガンド様を守ったでしょう」
ハイドンがびっくりしたように振り返った。子供は何て分かりやすい。
「父ちゃんアンリに庇われた。しかも怒られてた」
アンリが呼び捨てにされたことに、シュナは驚いた。
「何て怒られたのでしょう?」
「人を守るなら守れるだけの力がないとダメだって。弱くて怪我とかしたら守られた人が嫌な気分になるって言われた。でもアンリは父ちゃんを褒めてくれた。自慢の父親、夫だろうって」
ハイドンの顔が期待に満ちている。
「ええ、とても素晴らしいわ。ハイドン、お父上を呼んできてくれるかしら。人を見る目があって、勇気があるなら頼みたいことがあるの」
太陽を独り占めにしたようにハイドンが明るい顔になった。ハイドンがブンブンと首を縦に振ると走り出した。
子供達が次々と両親の良いところを話はじめた。我先に、一気に言葉が飛び交ったので流石に聞き取れない。
「一人一人順番に聞くわ。良いですか。私は自分なりに懸命に働きます。願い通りにならないことが沢山あるでしょう。思っていたのと違ったらどんどん文句を言うのよ」
シュナはもう一度「順番よ」と口にした。名前を呼んで一人一人、聞いていく。
助けてくれなかった、守ってくれなかった、もっと欲しい。何故あいつばかり。権力や金に目が眩む。人の欲は尽きない。元々善意など無いような者も生まれる。だから人の上に立つということは死ぬまで非難され、刺され続けるということだ。努力や真心が報われるとは限らない。正解だったのかも後世が評価する。
シュナは左薬指の指輪をそっと撫でた。
人は変わる。学んで変われる。不信、疑心で初恋を失った。なら次は信じるだけだ。たとえ相手にされなくても、今度は自分の気持ちを大切にしよう。
自惚れて、とりあえず奪われないようにと政略結婚に持ち込んだが、読みは外れていた。
ーーやめてくれ
あの言葉が全てだ。
血縁だから家族、本気で妹同様に思ってくれたのかもしれない。いつか彼はこちらを向くのだろうか。自分は嫌になって逃げるのだろうか。誰にも未来は見えない。
ノアグレス平野で人の死を多く目の当たりにした。あの時もっと別の策があった筈だと後悔した。きっと他に良い案があった。ペジテ大工房御曹司がアシタカでなかったら、自分も軍もこの地には帰ってこれなかった。報復という名の下にドメキア王国は火の海だったかもしれない。
恩には恩を返す。
恩が大き過ぎるがコツコツと返す。それだけだ。
銃弾に撃たれても一歩も引かずに、見知らぬ大勢の民を守った男は、生涯守られなければならない。あれ程民に愛される男が死ねば、大きな争いの火種になる。
逃げるくらいなら盾になって死にたい。いつ死んでもおかしくなかった人生だ。もっと長く、それも楽しく生きていきたいと欲が出ているが惜しくはない。それ程までにシュナの住む世界は変わった。
「シュナ姫様、星の王子様が来る」
「もう姫ではないのですよ。気さくにシュナと呼んで下さい。星の王子様?ああ、アシタカ様のことね。どうしたのかしら」
アシタカが走ってくる。全速力という様子に嫌な予感がした。何か悪いことでも起きたのだろう。
アシタカの登場に群衆が騒めいている。星の王子とは的を得ているかもしれない。惚れた欲目を抜いても、アシタカはいつもキラキラと輝いて見える。初対面の時に感じたあまりの穏やかさ。セリム同様に人を惹きつける空気。二人は違う雰囲気だが、根本にある温かさが同じなのだろう。愛されて育った性根の真っ直ぐさに、人間は性善だと言わんばかりだ。
手に入れたくても手に入らないその心の美しさ。手に入らないから焦がれてならない。
シュナは立ち上がった。護衛は要らないと言っても離れないエンリヒ長官がアシタカに険しい視線を送った。
「随分取り乱しているようですが何事でしょう?」
「事件ばかりですのでまた何かあったのでしょうか」
シュナは子供達の手を離して歩き出した。
「シュナ!そこにいろ!そのままそこにいてくれ!」
シュナが走ろうとするとアシタカが叫んだ。近寄ろうと思ったがまた「動くな」と叫ばれた。どういうことだ?
「どうされました?アシタカ様?」
シュナの前に到着するとアシタカが体を折った。息が荒い。汗を放置すると風邪をひく。シュナはハンカチを出して差し出した。汗を拭くのに手を伸ばすのは躊躇われた。呼吸するように真心届けてくるアシタカについ酔ってしまい、踏み込んだり試してみて火傷する。自業自得。シュナは汗を拭くという行為は止めることにした。
「汗をお拭き下さいアシタカ様。また風邪を引きますよ」
アシタカが顔を上げた。荒かった息が少し整っている。長くも短くもない髪が汗で額や頬に張り付いていて、剥がしてあげたい衝動が込み上げてきた。ハンカチを差し出している手はそのまま、反対側の手は軽く握った。自制しないと大火傷を負う。
「また?風邪など十年以上ひいてない。そうだ、僕は健康そのものだ。シュナ、君は本音と建前を織り交ぜて話すから何が本当か分かりにくい」
アシタカが泣きそうな顔をしているので、胸が痛くなった。やり過ぎた。投げても投げても恋しいという言葉が、別のものに変換されてしまうのがちょっと、いやかなり楽しかった。口八丁で人を踊らすことも多いが、人の気持ちは操れないと良く分かる。
明け透けなく思慕を語ると嬉しい返事がついてくるからとやり過ぎた。もしかしたら好かれているかもと期待したが、この反応は違うと物語っている。
「厨房での件ですね。困らせるつもりはありませんでした。少々楽しくて浮かれいたのです。あの……応えて欲しいなどとは……いえ思っていますが良いのです。それよりも大切なものがあります」
手が伸びてきたと思った次の瞬間、アシタカの腕の中にいた。一瞬頭が真っ白になった。
「シュナ、もう一度言っておく。貴方に降りかかる火の粉は僕が払う。なるべくではなく、かなり大人しくしていて下さい。僕の前には絶対に出ないように」
悲しそうなのはこれか。しかし、突然どうした?
「いいえ。きっと無理です。そう思ってくださるならばむしろアシタカ様がご自愛下さい」
アシタカの腕に力がこもった。本当にどうしたのだろうか。
「私財を売ると聞いた」
いずれ耳に入るだろうとは思っていたが、早過ぎる。いや、ヤンか。アシタカ信者とまで呼ばれる護衛人長官。気遣ってくれたのだろう。
「ええ。必要ありませんもの。思い入れもありませんし、とても役に立つと思います」
一応唯一の姫だったのでそれなりに貴金属や装飾品を持っている。醜い化物と呼びながら、豚に真珠だと笑いながら貴族が贈ってきた品になど何の未練もない。母ナーナの形見もあるが、それこそ使うべきだ。折角見目麗しくなったのだから、むしろ飾りなど要らない。元々興味が無い。選んで残したものがあるからそれで十分だ。
「ナーナ様の形見もあると聞いている。手放すなんて……」
「母上は世のため人のためになるなら喜んでくれる方です。指輪一つとこのドレスがあればシュナは十分です。実はこのドレスも母上のものを作り直したのですよ。シュナには母上との思い出が沢山あります」
アシタカの片手がシュナの頭に添えられた。相当心配されている。
「ありがとうございます。しかし本当に……」
「軍法会議とは何だ」
ヤンはこっちも話したのか。話が違う。アシタカの為にならないから絶対に話すなと言ったが、何か天秤にかけられて負けたということか。
「正しく裁くというのは大切です。私は過ちを多くおかしましたが、それなりに、自分なりに励んで参りました。ペジテ大工房はそれを考慮してくださる国だと知っています」
またアシタカの腕の力が強くなった。少し息がしづらい。あと恥ずかしいし、切ない。心臓の音も煩い。
「カールの為だろう。行方不明で有耶無耶にしてきたが帰国したので無理だと判断した。カールを一切法廷に出さないつもりか。何故相談せずに勝手に長官達と話をした」
「過剰は反発を煽りますアシタカ様。そこまで私の盾になると、婚姻したという事実が仇となる。私情で独裁振りかざしているように見えると風向きが悪くなります。そういう見方をされてしまう前に、公私分離を見せつけるのは中々良い案ではありません?」
「ならそう話せ……」
話したら猛反対するのは目に見えている。もう先手打ったが、どうひっくり返すか分かったものじゃない。ヤンという男、アシタカの利益にならないことはしないと読んだが間違えたか。
「いえ。話さない方が良いと判断しました」
益々アシタカの力が強くなった。
「あ、あの……アシタカ様……少々苦しいです……。心配ありがとうございます……」
アシタカの腕から力が抜けた。頭に添えられていた手が離れ、体も離れた。残念だなという気持ちと、同情されただけだという事実に対する切なさと、恥ずかしさがごちゃ混ぜになって上手く笑える自信が無かった。しかしそこは長年培ってきた能力。
「心配させてしまってすみません。ありがとうございます。後でヤン長官や他の方々も交えて検討してください。セリム様やティダの意見も参考になると思いますよ」
アシタカはかなり不機嫌そうだ。返事が無い。
「炊き出し準備がそろそろ終わります。ヒース長官が指揮を取りますが時間が作れるようでしたらアシタカ様もご参加ください」
期待に応えられなくてすまない、心底申し訳ない、アシタカはそういう表情。まさかここまでアシタカを追い詰めるとは夢にも思っていなかった。アシタカとアンリの今の関係は良好で、割り切り上手だと考えていた。
シュナはアシタカに背を向けた。逃げるが勝ち。シュナがアシタカを慕っていると自覚したならば、もうアシタカから過剰な真心は届いてこない。寂しいがこればかりは仕方がない。
子供達が不安そうにアシタカとシュナを眺めていた。
「アシタカ様はとても優しいので何でも心配してくださります。毎日は無理ですし、この国は食料難。それでもかき集めてスープを用意してくれたそうです。ほら、向こう」
炊き出しが行われると察した者はもう集まっていた。シュナは一番近くにいた子供の前に手を差し出した。本来ならば美しいだろう黄金色の髪は土と埃で霞んで指も通らなさそう。
「行きましょうかマリル。お腹を空かさせてしまってごめんなさい。少しづつ変えますからね」
マリルを走ってきた見知らぬ女性が持ち上げた。母親だろう。何とも言えない複雑そうな表情をしていた。ドメキア王族は重税で恨みを買ってきたのだから触らせたくないという気持ちは分かる。
「母上が連れて行ってくれるのならば私は帰ります」
ルイ達の会議を覗くかとシュナはドメキア城方面に体を向けた。あまり体を動かしてこなかったので、これからは体力をつけないとならない。もう関節が痛くないので、馬も乗りこなしてみたい。
シュナはざっと周囲を見渡した。セリムとシッダルタが熱心に民と話してくれている。擦り寄りにきた貴族まで乗せられているように見える。セリムもティダも去る、早急に代わりになりそうな者を増やさなけらばならない。
小粒だが何人か目星をつけてあるので、上手くルイへと集めるだけだ。シャルルはすっかりセリム信者らしく、ガラリと雰囲気が変わったのでそれを戻さないように恐怖から守ってやらねばならない。
ずっと構想を練ってきて、さらに他の意見もうんと沢山出てきている。
この国はやっと変わる。
変えていける。
変えていきたい。
「シュナ様お話の続きは?蟲人間はどうなったの?」
一番熱心に聞いていたヒルデがシュナに抱きついてきた。親がヒルデを心配そうに見ている。シュナはしゃがんでヒルデと目線を合わせた。
「蟲とも人とも仲良く暮らしたの。人の形をしているからこの国に馴染んで血が混じった。だから蟲達はお魚をくれたり、病気が治るものをくれたのよ。沢山は持ってないから、美しい景色で元気を出してって赤い宝石みたいな塩や虹色に光る苔を空に蒔いてくれた。とっても優しいわね。蟲森は彼等のお家だから勝手に入ってはダメよ。いきなり家に知らない人が入ってきたら怖いでしょう?」
ヒルデが「うーん」と首を捻った。
「遠いから行けないよ。お礼はどうしたらいいの?」
「いきなり襲ってくる化物なんて大嘘をきちんと直して、本当のことを伝える。それからシュナがお礼は何が良いですかと聞くわ。きっとやりたいことや欲しいものがあるもの。蟲の幼生は歌や踊り、それに飛び回るのが大好きなのよ。見せてあげるのは良いかもしれない」
ドレスを引っ張られた。ハイドンがシュナを見上げている。
「セリム兄ちゃんが同じこと言ってた。ありがとうって思いながら歌ったらそれがお礼だって。遠いけどすごく耳が良いから届くって言ってた」
ドメキア人は蟲の女王アモレの血を引く者が多いからか、アシタバ蟲森の大蜂蟲にうっすらと国民の感情が届くとセリムが教えてくれた。大蛇蟲と小蛇蟲も同様らしい。
「母上や父上と歌いながらスープを貰いに行くと良いわ。貴方の声はとても素敵よヒルデ。ハイドンも元気が良くて素晴らしいわ」
シュナはヒルデの頭を軽く撫でてから、ヒルデの体を両親の方へ回転させた。それからそっと背中を押した。母親に駆け寄ったヒルデが抱き上げられた。次はハイドン。
「シュナ様蟲とお話出来るって!星姫だからお母さん?」
ヒルデの問いかけに母親は答えられない。シュナは首を縦に振っておいた。誤解の末に悪魔狩りにあったらしい、火炙りになったテルムと同じ道も悪くはない。今のうちに布石を置いて、テルムと同様に次の世代に祈りと願いを残す。
過激で印象的な程、人の胸に刻まれる。燃え盛る炎の中で高笑いしてやろう。殺しても、殺せないと大笑いして大技師教義のように生き残り続けてみせる。
「シュナ様、アシタカ様が囲まれてまして。こちらは我等がいるので遠巻きのようなんですが……」
いつの間にか子供達や貧困街の者だろう大人達にアシタカが取り囲まれている。セリムの前に連なる列から、パラパラとこちらに向かってくる者達も出てきた。
アシタカはチラチラとシュナを見ながらも一人一人と話をしている。
「ドメキア城に戻ろうかと思いましたがテントに戻ります。アシタカ様がこちらで働くなら、書類整理と検討をしなければ」
近くにいた騎士と腕を組んだ。カインの元部下、ヘンリー。カインから何を学んでいたのか年の割には使い物にならなそう。もっと上を目指して貰わねば困る。ヘンリーが驚愕したので苦笑いが出そうになった。
「護衛など必要ないのですが仕事を奪うわけにはいきません。参りましょうヘンリー」
「へ、ヘ、ヘムで御座いましゅる!シュ、シュナ様!」
噛んだ上に素っ頓狂な声を上げたヘンリーは真っ赤だった。やり過ぎたらしい。この容姿、どうも加減がまだ掴めない。そこそこ美しくなったのと、まだ姫の肩書き捨てたと認知されてないのでそっちの影響が大きいのだろう。何もかも道のりは遠い。
「ヘム?では、親しみ込めてヘムと呼びましょう」
「い、いえ!シュナ様!このヘンリー、ティダ皇子にへ、ヘムという名を賜わりました!」
アンリ、ヘンリーで綴りが同じだからか?シュナは後でティダをからかってやろうとヘンリーを引っ張った。
「我が盟友は気にいるところがあると勝手に名を付けます。励みなさいヘンリー・ヘム・アルチカバル。亡き父上、その部下カインも喜ぶでしょう」
ヘンリーの緑がかった瞳が燃えるように輝いた。
「あの、シュナ様。アシタカ様が大変なことになっておりますので、鼓舞が終わったのならばその手を離して下さい。あとテントではなくアシタカ様の隣へ」
エンリヒ長官がヘンリーの肩に手を置いて、シュナから離れるようにと目で訴えた。アシタカを見てみたら確かに怒っている。
「采配しなかったから怒らせてしまったのかしら。疲れているのかこのところアシタカ様はすぐに怒ります。おさまるとさざ波よりも穏やか。落差が激しく驚きます。昔からああなのです?」
エンリヒ長官が珍しいというようにシュナを見下ろした。それからいきなり苦笑した。
「この国の挨拶や習慣が我が国と違うのでヤキモキされているだけですよ。元々心配性ですし、シュナ様を誰にも触らせたくないようです。特にアシタカ様は大技師教義にのっとり厳格で、かなり古い思考というか……」
嫉妬ではなく単なる文化の違いなのかとようやく納得した。そういえばアンリに関してもティダに度々苦言を呈していた。シュナも苦笑いが込み上げてきた。アシタカの気持ちという答えが分かると、色々と残酷なまでに真実が見える。
「ああ、この格好でさえ慎みなくあられもないと怒っていたのはそういうことですか。てっきり妬いてくださったのかと思っていましたので残念です。まあ、そのうち慣れるでしょう」
シュナがエンリヒ長官の腕に触れると、エンリヒ長官が飛び退いた。
「戯れでしたらお止め下さい。恐ろしい方だ」
かなり怯えたような顔のエンリヒ長官に戸惑った。
「戯れ?誤解は解きたいですので恐ろしい方の内容を説明してくださる?」
エンリヒ長官が面食らったように大きく目を丸めてから、また苦笑いした。
「失礼しました。そのような方ではないと思っているのですが、アシタカ様があまりに転がされているように見えまして。しかし、あのアシタカ様が……毎度毎度、女性に世話を焼かせるだけ焼かせて放置と感心出来ませんでしたが変わるものですね。取り巻きをはべらかして涼しい顔をしていたのに……」
思わぬ発言にシュナはエンリヒ長官の顔を覗き込んだ。またエンリヒ長官が怯えたように顔を引きつらせた。この距離で近いとは、やはり加減が難しい。
「取り巻きをはべらかして涼しい顔とは?参考にします」
「い、いえ。今後はきっとありません」
エンリヒ長官の頬が少し赤かったので、シュナは顔を少し近づけた。懇願というような表情ならばうっかり話すかもしれない。エンリヒ長官の胸元に手も置いた。嫌だというのならばこれで話すはずだ。
「話して下さいます?」
思惑通りエンリヒ長官が首を縦に振ったので、シュナはエンリヒ長官から離れた。
「大した事ではありません。我が国の御曹司ですから、老若男女が集まります。若い娘なんて特に。あの穏やかな笑顔や口上であしらいながら身の回りの世話をさせていたというか、まあそんな所です。シュナ様が嫌だと一言申せば……」
シュナはエンリヒ長官の言葉を無視してアシタカを眺めた。そんな器用な芸当を出来るようには見えないが、そうなのか。
「まあ、それだけ魅力的という事ですね。世話係を付けなかったのは、その中から伴侶が現れて子孫残してもらいたいからですね」
シュナもまんまとその取り巻きの一人。ティダのように自覚して使い分けしているというより、アシタカは元来の性格のせいだろう。助けてくれるのかありがとう。あの穏やかで爽やかな笑顔でそんな風に言われれば何でもしたくなる。本人も楽なので寄りかかる。空いた時間で仕事が出来る、効率が良いくらいにしか考えて無いのだろう。頭の中がやりたい事でいっぱいなのはこの短期間でもよく分かった。
「その通りです。アシタカ様は女性に世話させて自分は仕事ばかりなので皆逃げていく。手を出さない、ほぼ会えない、そんなのに付いて行く女性はいませんよ。婚約までしたご令嬢の親が純情踏みにじったと怒り狂ってちょっとした騒動になりまして、今はもうアシタカ様に近寄る女性は碌でも……。口が滑りました。とにかく、困っていたところにシュナ様。それもアシタカ様がこんなに変わるとは安心しました」
シュナは首を傾げた。その時、アシタカが人垣から飛び出てきた。
「エンリヒ長官!業務中に何で締まりがない顔をしている⁈祖国の妻や子に顔向け出来るのか?」
エンリヒ長官が肩を竦めた。
「文化の違いは誤解を招くとシュナ様に話しておきました。それから締まりのない顔などしておりまけん。このように美しい方につい見惚れてしまうのは当然。アシタカ様こそ大衆の前でみっともない態度を取らぬように。苛々を抑えて公務に集中して下さい」
アシタカが呆然としたように固まった。刺されてばかりも不愉快なのでとシュナも言葉を探した。
「多くの女性が泣いたと聞きまして、少し己を省みた方がよろしいですよ」
「あの、シュナ様。終わったことを蒸し返すのは……今のアシタカ様は……」
「人の心というのは誰にも縛れませんから寄ってきた方とどうしようが、それは私の預かり知らぬこと。アシタカ様のほつれかけたボタン一つ付けられない女なので、他の方が手を伸ばしても仕方のないことです」
何故か無言のアシタカ。先程から様子が変だ。シュナはアシタカの胸元のボタンを指で触った。ボタンが取れて地面に落ちたので拾い上げた。アシタカがボタンを受け取ろうと手を伸ばしてきた。
「自分でやる」
エンリヒ長官が大口開けて固まったので、アシタカは身の回りのことは本当に何もしない男なのだろう。
「いいえ。ラステルかカールに教わります。自分の為にも針仕事くらい覚えます」
誰もがしていることくらい、覚えられる。覚えたい。
何もかも始まったばかりだ。未来は読めない。ドメキア城に戻るか、テントに行くか迷う。テントにはラステルが居るので、テントの方に行きたいが仕事的にはルイ達の所だ。
とりあえず歩きながら決めるかとシュナはヘンリーの腕を取って歩き出した。
「待て、何処に行くシュナ。仕事中に何の話をしていたエンリヒ長官。シュナはそのように無理して笑うな。君はどうして……」
「無理して笑う?何を言っているのですかアシタカ様。こんなにも自由で軽やかで楽しくてなりませんわ。長年頭の中でしか行えなかったことも成していける。今日は一度も嘲笑われたり、弓が飛んできて代わりに誰かが怪我をすることもありません。きっと今日も夕食に毒の匂いはしませんよ」
振り返るとアシタカが顔を曇らせていたのでシュナは慌てて口を閉じた。うっかりとはいえ、過去の不幸をひけらかすとは口が滑った。
「過ぎたことを申して嫌な気分にさせました」
「そんなことはどうでもいい。シュナ、君のことだ」
アシタカがツカツカと歩いてきてシュナとヘンリーの間に割って入った。
「お役目ご苦労。護衛は足りている。この僕だ。炊き出しでもセリムの手伝いでも何でも良いので何かしろ。エンリヒ長官、頼みたいことがある。テントに行って僕の代理」
アシタカがヘンリーの肩を叩いてにこやかに告げた。次にエンリヒ長官にも微笑みかけた。目が怒っている。
「僕はシュナと話がある。可及的速やかに行うべき大事な話だ。今ここにある仕事は僕でなくても問題ない。不本意ながらもう既に指示が終わっている。それからボタンは自分で付ける。シュナの手に針が刺さる」
アシタカが突然指笛を吹いた。それからシュナの手からボタンをひったくって上着のポケット突っ込んだ。テント脇でのんびりとしていた馬が駆け寄ってくる。
「アシタカ様、話でしたらこの場でどうぞ。それから針など刺しません」
アシタカが首を振ってシュナの手首を掴んで歩き出した。
「絶対に刺す」
「刺しません。このまま何も出来ない女でいたくありません」
アシタカが振り返った。また心底悲しそうな顔をしている。
「何にも出来ない?君の思考はどうなっているんだ……」
それは貴方の方だ、そう言う前にアシタカがシュナを掬い上げた。そのまま馬に乗せられて、アシタカもヒラリと登ってきた。
「全く集中出来ないので小一時間、仕事放棄をする。海と森ならどちらに行きたい?」
仕事放棄⁉︎
「あの、本当に突然どうされたのですか?」
アシタカが馬を歩かせはじめた。
「君からの誓いを撤回して欲しい」
鉛を飲んだように心が沈んだ。
「いいえ。破りません。アシタカ様はどうぞ好きに破って下さい。なので下ろしてください」
体を乗り出して確認すると飛び降りるには高そうだった。油断していたらアシタカに無理やり指輪を外された。
「よし、これで撤回だ。落ちて怪我をするから身を乗り出すのは止めなさい。危険なので後ろも向かない。大人しくしていて下さい。海と森、川もあるか。空は無理だ。散歩に出る。何処がいい?」
何だこの状況は。アシタカが馬を蹴って走らせた。アシタカの右腕がシュナの体に巻きついて、強めに体を引き寄せられた。
「あの……指輪を返して下さい。散歩?行くのは城です。そろそろ会議のかく……」
無理やり振り返ろうとも思ったが、アシタカのあまりに予想外の行動と密着に対する妙な緊張感で体を動かし辛い。心臓が煩いし、指輪を取られたのが悲しいのもあってどうして良いのか判断が出来ない。
「決めないなら僕が決めよう。寒いが海だな。僕の上着を貸す。そのドレスに似合う羽織を一刻も早く仕立てさせる。海辺を散策して居住地の候補を探そう。僕はこの国からペジテ大工房に通勤する」
「アシタカ様?どういうことです?」
「海辺の神殿と居住区は離す。君の私財は売らない。あの城の無駄な装飾品を売る。シャルルやジョン、それから彼等の妃の宝飾品を君のものとして売却。軍法会議は開くがジョンを槍玉に上げる。カールは帰国直後に僕を助けたとして恩赦となる。君は法廷に立つが必ず僕が隣に立つ。反対されたら僕は二度とペジテ大工房に帰らないと国中を脅す」
シュナは耳を疑った。
「あの……そこまでして頂かなくても大丈夫です。本当にどうし……」
言い終わる前にアシタカが声を被せてきた。
「週休二日。基本的にお互い休日に働くのは禁止。君はすぐ働き過ぎるのでなるべく国外に出掛ける。ペジテ大工房か崖の国、その他行きたいところに二人でだ。僕はきちんと三食摂り、睡眠は三時間以上確保。そしてきちんと寝台で眠る。そうやって心配をかけないように努める。僕達の新居は場所や広さ、外観、内装、何もかもを二人で話し合って決めよう」
シュナはまた耳を疑った。
僕達の新居。
「君の伴侶は探さない。もういるからだ。花嫁修業も要らない。僕が教える」
アシタカの声が少し震えている。冷たい風が通り過ぎて行くのに熱くてならない。これでまた勘違いだったら立ち直るのに相当時間が掛かる。シュナは黙って聞いておくことにした。
「金の使い道が特にないので君が望むもの、欲しいものは何でも買う。僕の私財で買えるものならどんなものでも反対しない」
「私、欲しいものは……」
アシタカが続きを遮った。
「僕はチェスを覚える。あとピアノだ。君は音楽が好きだというので聞かせられるようにする。幼少時、習ったことがある。花も好きだというので庭を作って常に手入れをする」
反乱のあった夜、酒に呑まれたアシタカはティダに管を巻いていた。その近くでアンリやラステルとシュナが話していたお互いの趣味や好み。聞いていて、更には覚えているのか。
さすがにここまできたら勘違いでも、自惚れでもないだろう。
何があったのか、アシタカは自覚したらしい。シュナの読みは正解だった。こんなに早く変化があるとは思わなかった。それに、ここまで言ってもらえるとは夢のようだ。
夢かもしれない。
「我儘を好きなだけ言うといい。喧嘩になりそうなら僕が引く。どうせ君は大して自分勝手な振る舞いが出来ない。なので君の願いは余程の事だ。実現可能なことならば何でも叶える。我慢しないということを覚えて欲しい」
シュナは首を横に振った。多過ぎだ。
「僕はよく決めつけるし、随分と変な誤解もするようなのでどんどん文句を言うべきだ。側室は作らない。姉妹が七名もいて、もう甥と姪もいるので必要ない。側室どころか他の女性には一切手を出さない。この件に関しては君も同様。少し想像しただけで不快だ。最悪な気分。体調不良ではなくて、嫉妬だったらしい。僕はこんな複雑な感情は初なので方々から指摘されるまで分からなかった。正直、まだ腑に落ちない」
泣きそうになったのが引っ込んだ。これはどう判断すれば良いのだろうか。
「なら今まで恋だと思っていたのは何なんだ?シュナ、君と他の者はあまりにも違い過ぎる。君が寄る辺ないと仕事が全然手につかない。僕の中でシュナが最重要だということになる。よって今までのが勘違いで、君に対する気持ちが本物だと判断する。一先ずこれが具体案を伴う僕なりの誠心。思いついたらまた言う。もっと増やす。なので常に僕を頼り、僕を鼓舞し、置いていかないで下さい。君は僕の真横か少し後ろ。盾になるのは絶対に禁止」
涙が一気に込み上げてきて風に飛ばされていった。シュナはアシタカの腕に両手を添えた。喉の奥が熱くて、声が出せないので首を縦に振った。
「打算と利害の一致というのは破棄。不誠実に無自覚、それから中傷を詫びる。すまなかったシュナ。僕は阿呆で大馬鹿らしい。間抜けな男だ。僕のことが嫌になっていなければペジテ大工房での結婚式典で本当に誓い合おう。僕の人生は危険を伴う。共に生きても良いのかもう一度考えて下さい。誓う内容も僕は君のことが一番大事だということを踏まえて考え直して欲しい。返事は今すぐでなくて構わない」
それきりアシタカは口を閉ざした。馬が颯爽と丘を駆け抜けていく。シュナはずっと泣いていた。
雲一つ見当たらない澄み渡った空。しかし真紅の雪も、虹色の光もない。夜ではないので星は見えないし、当然流星も彗星も無い。
視界に現れた大海原の煌めきにシュナは息を飲んだ。
奇跡の光景よりも美しく感じられた。




