蟲の民セリムの激昂2
ドメキア王国大蛇の間
***
二日前、大蛇の間でのセリムは傍観者だった。今日は違う。蟲の民としての第一歩。己が蟲の民として全てを背負って外交する。親や兄、見習うべき者達の背を追い続けていた。成せないという巨大な不安。潰れそうになる。
〈怖いよセリム。助けてセリム〉
心優しいアピスの子。セリムの愛する、そして未来担う子供達。
セリムは大きく深呼吸して、大蛇の間の扉を押し開いた。ドメキア王国の歴史を何度も見てきたであろう、そして今回無血革命を目指した者達が集まった尊き場所。胸を張って堂々と足を踏み入れる。
***
アシタカは羽ペンを持つ手を離した。王交代は昨日、呆気なく決定されたという。反乱軍指揮官ルイ。シュナが予言した、いや手繰り寄せたように反乱加担者四名以外に王へ名乗り出るものは、今の所いない。
閉ざされた空間、大蛇の間が王決定会議の全てを丸呑みして隠蔽している。そこにようやく呼ばれた。いや、予想よりも早い。
昨日、テントでアシタカへ甲斐甲斐しく、そして愛らしく世話を焼いたシュナは会議に出席すると去った。精悍な顔立ちに、遠くを見る決意強い大空色の瞳だった。国によっては、生まれるべき性別を間違えたと言われそうな程凛々しく大きな背中。それまでは、華奢で抱き締めるだけで壊れそうな程儚かったのに。
昨日から本日正午まで、シュナはアシタカの前に一度も姿を現していない。国中に反乱加担者がいかに民想いなのか、信義厚いかを、おそらく嘘を混ぜて真心で突き刺したシュナ。民を見捨てられない自分同様、逃られない者を作り出した。逃亡しなそうな者も鎖で拘束。会議で何を話してるか全く想像がつかない。
確信しているのは、シュナの独壇場だろうということ。
***
やはりそうか。
眼前の光景が、会議の中心はシュナだと有り有りと物語っている。
「ペジテ大工房大技師名代アシタカ様。どうぞ」
招かれた二度目の大蛇の間。上座にやはりシュナ。それもただ一人。ここは戦場と言わんばかりの凛々しい表情。
扉前の一番不用心な場所にシャルル。シュナから見て左手側にルイとカイン。右手側にヴラドとリチャード。一見、シュナとシャルルが傍観者という位置関係。しかしグスタフとの会談にてそれぞれの位置に誰がいたか、と上座がなんたるかを考えるとシュナの真意が見えるような気がした。グスタフはシャルルの向かって右側に座っていた。
王家側と民衆側という訳ではない。アシタカを案内したゼロースが外へ出て扉を閉めた。
「アシタカ様。私、シュナ・エリニュスは本日より姫の位を降りました。血の縁からの親しみを込めてシュナとお呼び下さい。さあ、こちら側へお願いします。私と兄上は傍観者。四人で話し合い、ついには王を決めました。先にゼロースから伝達いたしましたのでご存知だと思います。一刻も早く会談へ移りたいと熱望が出ましたのよ」
アシタカに絶対的な親愛の目をする一方で、シュナの鋭い視線がヴラドとカインへ投げられる。新王ルイを感嘆で見つめているので気がついていない。本人も高揚している様子。何とも先行き不安。シュナがこの五人を手離せるのは、かなり時が過ぎてからかもしれない。
アシタカが招かれたのは、上座シュナの左隣。重苦しい沈黙だが、アシタカは軽やかな足取りで席についた。これから目指す、大陸の各国家との会談。圧倒的強者としてこの地に立ったのとは違くなる。重圧は今のこの比では済まないだろう。少し足が震えたが、まずはここからだと目一杯力を入れた。
シュナが左手をそっと上へと掲げた。少しだけ。薬指だけをさらに宙高く伸ばした。これも少しだけ。
「まあ困ったわ……。軽いと思ったら誓いの指輪を失くしてしまいました。親子の誓いに作り直そうと思っていましたのに……」
シュナが心底悲しいというように、左手の甲を頬に寄せた。それから気品溢れる所作でシャルルの左側に移動した。指輪は船の上から海へ投げ捨てたと言っていたのに、まるで今気がついたという大嘘。
背中に冷や汗が流れた。
気がついたのは他にルイただ一人。左側は誓いの指輪があるべき場所。シュナの左隣へ招かれたアシタカ。先程までシュナの向かって左側だったルイとカイン。今、シャルルはシュナの右隣。つまり、そういうことだ。シュナは素知らぬ顔をしている。指輪がなくて悲しくてならない。そういう表情。
とんだ策士にして皮肉屋。鋭い爪に真心を込めると言っていたが、蛇の牙も捨てないらしい。ルイを選出するように、話を誘導したのは丸分かりだ。ルイの唇が少し青いのがその証拠。
「ルイ・メルダエルダ。この場にいる者以外で他に王に名乗りを上げる者がいない場合、私が一度国を背負うと決めました。その際はルイ・エリニース・ドメキアの名を冠します。アシタカ様、本日は色々と相談がありまして、お招きしました」
一度。
その言葉の裏はまだ測れない。まだろくに口を利いていない。
すっと立ったルイがアシタカの真横へ移動した。やはり何処と無くセリムに似ている。猫のような瞳と少し癖毛だからだろう。毛色は栗色。シュナと同じような、澄み渡った大空を閉じ込めたような瞳。予想通りだった。堂々と胸を張る所作から、日々励んできたという自信みなぎっているのが伝わってくる。
しかし、何か物足りない。シュナの代わりとなる王の器。勘ではなく、違和感。
アシタカが立とうとした時、扉がゆっくりと押し開かれた。
現れた男に自然と血が逆流した。魂が揺さぶられるような畏敬と鳥肌。威風凜凜とした立ち姿の威圧感。
荘厳で、圧倒的な存在感を放つセリムにアシタカは唾を飲んだ。
これだ、これこそが器。
遅れてラステルと、シッダルタが入室したが扉の左側の壁際に移動して二人とも俯いた。ラステルは祈るように両手を握っている。ラステルのアタマにはアピがまるで兜のように張り付いている。アピの三つ目は冴えるような青。
ラステルの瞳は深紅……。
シュナが立ち上がり、ルイの背後に立った。正確にはルイとアシタカの間。セリムから目が離せない。視界の端のシュナから放たれているのは羨望と敵意に見える。敵意?
「失礼します。蟲の民の王子セリム・ヴァナルガンドです。蟲と人の間に立ち、仲裁決意する者。人と語れぬアシタバの民よりシャルル王太子へ伝言を預ってきました」
セリムは一呼吸おいたが、誰の発言も待たなかった。
「古きテルムの子に敬意を示し、ここに高らかに宣言する。報復を決行する。我らの領土の人の民、ドメキア王国の人が掟を破った。この代償を牙で贖ってもらう。要求はドメキア人へ提供してきた土地の剥奪。罪に相応しい代償」
低く敵意に満ち満ちた声は、まるで別人のように聞こえた。目つきも鋭く、品定めするような視線。少し目を細めているのも、軽蔑を浮かべているように感じられた。
「アシタバの民と交渉の末、二日、猶予を得ました。一日はアピスの中蟲をシュナ姫が庇ったからです。一日はシュナ姫を慕うアピスの子、特に末蟲からの嘆願です。このセリムがドメキア王と代理会談し、納得すればアシタバの民の王との交渉に付き添います。報復撤回となるかは保証出来ません」
正に声高々。セリムは昂然と言い切った。全員を見渡した怜悧な視線にまた面食らう。このようなセリムを見たことがない。アシタカとシュナにだけは、穏やかそうな笑顔を向けてくれた。それが余計に不気味で、アシタカは後退しそうになる足を踏ん張った。
真っ先に口を開いたのはシュナだった。セリムもやはり、という様子。
「セリム様。報復される原因をお教え願いたいです」
セリムが首を横に振った。それから諭すような視線をシュナにぶつけた。シュナは動揺せずに、むしろ一歩前に進み出て、もう一度口を開いた。
「失礼致しました。シュナ・エリニュスと申します。蟲の民セリム・ヴァナルガンド様、報復される原因をお教え願いたいです。私もまだ王族です。兄上シャルル王太子が驚きで戸惑っておりますので、不躾ながら質問させていただきました」
セリムが今度は首を縦に振った。
「現王グスタフがアシタバの民の巣であるアシタバ蟲森を蹂躙したからです。それも不可侵の掟を反故にするという裏切り行為。アラクランが守る貯蔵庫を荒し、リーマークスが丁寧に手入れした庭を踏み荒らし、リベッルラの卵を大量に割った。巣を炎で燃やし笑いながら殺した。罪状はこれだけではありません。最も重いのはこの国へ真心込めたアピスの子を、殺戮したこと。この子蟲殺しだけでも万死に値する。牙には牙で贖え。それがアシタバの民の総意です」
万死に値する。広くない部屋で木霊なんてしないのに、繰り返すように響いたように錯覚した。喉が一気に渇く。ラステルがさめざめと泣いていた。シッダルタが強く唇を真一文字にしている。
シュナが真っ青になった。他の者は状況を理解していないように見える。
シュナがルイを庇うように前へ躍り出た。仁王立ちし、堂々たる立ち姿はセリムに見劣りしない。しかしセリムはシュナを無視して、シャルルと向き直った。
「王グスタフは交渉権利を放棄しました。現在、交渉相手はシャルル王太子となります。それがアシタバの民の見解です。シャルル王太子が権利を放棄すればシュナ姫でしたが、彼女は王位継承権を自ら手放しました。よって王太子から指名があればその者が交渉相手となります。なおアシタバの民の王は人の心の偽りを暴きます。交渉相手は慎重に選んだ方が身の為です。シャルル王太子、このまま会談へ移行して宜しいでしょうか?誰か国王を指名しますか?会談自体を拒否しますか?」
シャルルが縋るようにシュナを見た。セリム以外の全員がシュナを見つめている。セリムが小さなため息を吐いた。
「一番幼き者、それも誰よりも国を想ったのにこの場にいるドメキア王国の民全員がシュナ姫を刺した。結果国を背負いきれないと、シュナ姫は王位継承権を放棄しました。それがなくともシュナ姫、貴方は懲罰対象外として指定されています。交渉相手ではありません。ノアグレス平野で蟲達の味方となった。中蟲を庇った。蟲達の慈悲に深く感謝し、慈悲に相応しい生き方を示しています。人だけではなく蟲達の未来にも平和への祈りと決意を捧げた。よって、アピスが選出する108名と共にこの地を去ってもらうそうです。シャルル王太子、どうされますか?」
ルイはセリムに気圧されて固まっている。ヴラドとリチャードは隠しもしない不信感をセリムへぶつけている。カインとシャルルは理解しきれていない様子。血の気が引いているような白い顔のシュナ以外、この状況を飲み込めていなさそうだ。
「いきなり何だ君は!アシタバの民?報復とは一体何の脅迫だ!」
「口を閉ざしなさいヴラド!」
シュナの低い嗜め声が大蛇の間に響いた。セリムがゆっくりとヴラドへ身体を向けて、見下すように見据えた。
「名を名乗らない。声を荒げて丸腰の者へ威嚇体制。説明したのに理解しない愚鈍さ。さらには疑いと不信感。あと、僕はシャルル王太子に話しかけました。大事な会話を妨げてはならない。だから人は下等で愚かだと嫌われるのです。会談傍聴は許しますが、大蛇の間にいるなら以後一切声を出すことを禁じます。貴方にはまだ会談に参加する資格がない」
セリムは淡々と告げた。さらに屈辱の表情を浮かべたヴラドを無視した。今度はアシタカへと向き直った。
「シャルル王太子が熟考中のようなので、発言をします。蟲の民の王子セリム。僕はペジテ大工房の大技師名代アシタカ。親しいと思っているので話し方は変えない。僕は異国の民だ。今後の人生の参考に傍聴を希望する。他国の政治には一切口を挟まない。セリムとシャルル王太子または指定された交渉相手が許してくれればだがどうだろうか」
セリムはゆっくりと、貫禄醸し出して頷いた。この雰囲気はセリムの兄、ユパ王に似ているとアシタカはまた唾を飲んだ。アシタカが知る中でも数少ない、これぞ指導者だと、見習いたいと感じた男。セリムの手本にして憧れ。
「勿論です。ペジテ大工房は蟲と交渉出来た偉大な大技師ヌーフ様を亡くした。アシタカ、君はもっと色々と知るべきだ。こちらの方とは違って、話が分かる。良かった」
セリムを睨み屈辱でワナワナとしているヴラドを、セリムが一瞥した。セリムの瞳が少しは態度を改めたか?と観察する目線から、あっという間に論外という目付きに変わった。疑心暗鬼に囚われいる、更には国を代表する者なのに未熟だと自ら露呈したヴラド。セリムはもうヴラドと会話をしないかもしれない。
「セリム、これから何……」
「だから突然何なんだ君は!このような人を見下したような態度……」
ヴラドが口を開けたまま固まった。セリムの氷のような目に、拒絶の雰囲気に飲まれている。
「僕は今、アシタカから話しかけられた。注意したのにどうしてすぐに改善せず、人の話を遮る。不必要に声を荒げる。大切な話の場合、人の話を遮らない。こんなにも簡単なことなのになっていない。そもそも貴方は交渉相手ではない。僕はシャルル王太子と話をしにきた。もしもシャルル王太子が貴方を指名したのならば、ドメキア王国は滅亡必須。なので僕は貴方を交渉相手と認める訳にはいかない。あまりに未熟。まだ半人前の僕よりも劣る。そのような方絶対に認めない。アシタバの民、ドメキア王国の民の為にならない。この国が滅びる。退席し、人の振り見て我が振り直せ」
さあ、というようにセリムが扉を開いて手の仕草でヴラドを誘導した。ヴラドは動かない。セリムが嘲りの冷笑を浮かべた。
「そもそも名前も名乗らない、基本中の基本の礼儀を知らない者と話をするつもりはありません。修行を初めたばかりの、僕の弟子以下です」
セリムはヴラドの自尊心を完膚なきまでに叩き潰しそうだ。セリムの意見は正しい。反論一つ出来ない。いや、してはならない。異様な雰囲気がそう伝えてくる。
シュナがさっとヴラドに近寄り、背中に手を回した。無言で背中を押して部屋の外へと連れて行く。シュナはセリムの前で会釈した。ヴラドは嫌そうだが、シュナに倣った。
「民を想い、声を上げて実行した。簡単に選べる復讐ではなく他者の命や平和を選び、奮い立った。シュナ姫はだからこそ貴方の謀反を許した。ずっと支援していたのに気がつかない見る目の無さも許した。シュナ姫が信じる、貴方の真の姿に合う言動を伴わせて下さい」
セリムがまるで親が子を諭さようにヴラドの肩に触れた。今日は失敗したが、次は大丈夫。僕は貴方の長所を知っていて信じている、そう励ますような温かい目。ヴラドが恥辱と、戸惑いを浮かべてシュナに背を押された。ヴラドが外へ出て、シュナが入室するとセリムはそっと扉を閉めた。
シュナがシャルルへと目配せし、話せと訴えた。シャルルの唇は紫で震えている。
「シャ、シャルル、シャルル王太子です。蟲の民の王子ヴァル殿。是非、会談をおね、お願いします。交渉相手は話をしながら決めさせて下さい」
セリムの目には「君ならそう言うと信じていた」という信頼と敬意が滲んでいる。
「セリム様。リチャードと申します。シャルル王太子は本日ルイ・エリニース・ドメキアを国王へと指名しました」
セリムがリチャードへ冷え冷えとした目線を投げつけた。それからルイを一瞥して小さくため息を吐いた。期待外れというように。
一方、気圧され続けていたルイが、国王と呼ばれたからか目に光を戻した。
「リチャードさん。シャルル王太子は今、交渉相手は自分だと告げた。これから別の者を指名するかもしれないとも話しました。一臣下が主の発言を即座に否定するというのは、あまりにも不義理です。それについて何か申し開きはありますか?あるならシャルル王太子が嘘をついたと判断した理由とその推測過程について教えて下さい」
リチャードが押し黙った。シュナがリチャードに話せと目で訴えているが、リチャードはセリム、それからシャルルと睨んだ。セリムは表情を変えずにリチャードを観察していた。シュナが口を開こうとすると、セリムが首を横に振って静止させた。
「不信には不信を返します。蟲は即座に貴方を殺すでしょう。そしてドメキア王国も滅する。人の王の器とは認めない。僕が多少信頼を寄せるシャルル王子へのこの忠義なさ。僕は貴方の言葉を上っ面としか感じられないだろう。会談での発言を許しません。傍聴に徹するか退席せよ」
セリムが告げる前にシュナがリチャードを部屋から出て行くように顎で示していた。
「シャルル王子への忠義など元よ……」
「リチャード。セリム様の器を読めぬようだから、私を見抜けなかったのです。紅旗を利用しようとしたこと、不問にしました。私は、何もかも知っているのですよ。それでも貴方を許した理由、この国の未来担うのに必要だからです。兄上もです。今の発言は聞かなかったことにします。ヴラドに続いて、これ以上恥をかかせないで。退席なさい。良いですか、ドメキア王国の民には、貴方が必要です。だから素直に己を見つめ直しなさい。その時間を貴方に与えられていない、私の責任です」
シュナは俯いてリチャードと目を合わせなかった。すまなそうに小さく微笑しているが、深紅のドレスの後ろで強く拳を握り締めている。
アシタカはシュナの隣に移動した。シュナは今にも叫び出しそうに見える。いい加減にしろ!そう喚き出すのではないか。
手を取り、支えたいと思った。しかし過剰にシュナへ寄り添うのはこの場では難しい。
「アシタカ、シュナ姫を支えて座らせてあげて欲しい。とても具合が悪そうだ」
心底心配だというように、セリムがシュナへ悲痛を向けた。セリムは分かっている。この場の誰よりもシュナが交渉相手に相応しいと。そうでなければ、報復が決行される可能性が高いと踏んでいる。しかし、シュナの国を背負いきれない、いつでも逃げられるようにしておきたいという意志を尊重している。シュナは見透かして、板挟みに苦しんでいる。
セリムには先手を打たれた。王位継承権を放棄したシュナとは交渉しない。セリムは絶対にこの意見を曲げない。
シュナがアシタカの手を握り、それからよろめいた。頬に涙が流れ、小刻みに震えている。アシタカはシュナと一番近い上座左手側に腰を下ろした。握られた手の甲に、また爪が食い込んだ。リチャードを激しく憎んでいるのかもしれない。なのに、シュナは悲しそうに、リチャードへ可憐に微笑みを向けた。
「全てを愛し、全てを許せ。国を守り抜いた偉大な方の遺言です。カイン、盟友でしょう。リチャードを頼みます」
カインがリチャードを引きずるように外へ連れ出した。ヴラドが廊下で真っ青な表情で立ち尽くしている。隣にティダがいて、後ろ手を組んで涼しい顔をしていた。
「シュナ姫、盟友ティダ、この三名に王たる者や側近とはなんたるかを語っておきましょう。やはり二人追い出されたか。カイン、今度は踏み外さなかったようで安心した。しかし今のお前では邪魔するだけだ。行くぞ」
ティダがヴラドとリチャードの腕を掴み、カインに優しく微笑みかけた。それからゼロースに目配せし、最後にアシタカを不思議な瞳で見た。ゼロースが扉を閉めたので感情を読み取る時間が足りなかった。
「多少、会談に臨む心構えが出来たと思います。シャルル王太子は先行き明るいドメキア王国のみを貴方に託そうと、蟲との交渉という苦難は自らが負うと決意したようですが僕は認めません。交渉相手の王が誰か、僕はもう分かっています。ルイ・エリニース・ドメキア。選ばれた王よ、まだ器小さいと判断し、宰相に相応しきシャルル元王太子には発言を許します。シュナ姫は具合が悪い。それに報復対象でもない。シャルル元王太子共に僕と会談することを勧めます。一人が良いならそれでも構いません。会談自体を拒否するのならば、自力でアシタバの民と交渉して下さい」
精悍な表情をしたルイがセリムの前へと進み出た。
「ルイ・メルダエルダです。蟲の民の王子ヴァナルガンド殿、突然の訪問に突拍子もない発言に戸惑いました。しかし嘘を付いているようには見えません。まだ若輩故、理解に材料と時間を多く必要としています。根掘り葉掘り聞かせていただきたいですが宜しいでしょうか。会談にどのように臨むかはその後に決めたいです」
アシタカの目にはセリムが二人並んでいるように見えた。何処と無く似ているのは容姿だけではなく、中身もだ。まるで幼いセリムと大きく成長したセリム。シュナの手が少し緩んだ。それからルイに親愛の眼差しを向け、瞳を濡らした。
また呼吸し辛くなった。滅多に引かない風邪は頑固かもしれない。
「何でも、自由にとはいきません。可能な限り真実を語ります。嘘や欺瞞は己で見抜いて判断して下さい。何故王だと分かったか?シュナ姫が一番に守ろうとしたからです。何故新たな名前が分かったか?エリニースはこの国の始祖の男神。女神シュナと双子の兄。シュナ姫が宝石となりたいと願う理由にして、全ての裏切りを許す為の大切な名の由来。新たな王の名にきっと相応しいでしょう」
セリムの発言にルイが深々と会釈して、迷うことなく下座の席に着いた。セリムは反対側真正面に座った。ラステルがセリムの左隣、シッダルタが右隣に着席した。セリムの雰囲気がやっと柔らかくなった。
「シッダルタと申します。蟲の民の王子側近。右手となり彼を庇護する為に会談に臨みます」
ティダの側近風だった男の発言にアシタカは目を丸めた。そもそも何故この場にいるのかも考えあぐねていたのに、側近?
「ラステルと申します。蟲の民の王子の妻です。アピスの子と心通わす守られる存在。蟲と弱者の代弁をする為に会談に臨みます」
子供っぽいラステルの姿は何処にも見当たらなかった。シュナを真似したような所作と笑顔。そしてセリムと並んでも掻き消されない存在感。
右手は「服従と信頼」、左手は「権力と権威の象徴」というような文を何かの書籍で読んだと思い出した。シュナの意図は皮肉ではなく、祈りだったのかもしれない。
シュナがアシタカの手を離して、顔色悪くも堂々とルイの隣へと移動した。
ルイの右隣。シュナがそっとルイの右手をとって、自分の左薬指を絡ませて恭しく天井高く掲げた。
「シャルル王太子が王位継承権を放棄し、私、シュナ姫も王位継承権を放棄しました。本日、正午をもって、メルダエルダ家次期当主ルイが我が国の王です。私は愛する者が暮らす、その理由のみでドメキア王国へ心臓を捧げます。捧げてきました。死なば諸共、慈悲深いアシタバの民が私を見逃そうとも決してこの地を去りません。裏切りには反目。信頼すれば無防備に背中を預ける。例え心臓を剣で貫かれようとも信頼を選びます。それが私の命を守ってきた信念です。よって会談には傍聴ではなく参加を求めます。許されないのならば、どの道死ぬ身。今ここで自死します」
セリムが大きく目を見開いた。シュナがルイから手を離して、髪から飾りを抜いた。蛇の形の銀細工。櫛状の首飾りは二重になっていたようで、シュナが外装を外して床に放り投げた。
櫛を両の指でつまみ、先端を喉元に向けたシュナ。
「シュナ姫。決めたのは僕ではありません。その刃を下ろして下さい」
「否。私の何がしかが情状酌量となったのならば、その一名分を我が王へ譲ります。生きていきたい熱望がありますが、この裏切りに加担すれば私は熱望を失います。私はそのような生き方をする自分など許せません」
セリムが首を横に振った。ルイが愕然としたように、シュナを見つめた。シャルルは椅子から落ちそうになっている。
「人の王シュナよ、アシタバの民が許そうと僕が許さない。此度の件、人の王たる器に乗り、簡単に安寧を享受することを許しません。今示した姿こそ、アシタバの民、いや蟲が人の王と呼び貴方個人の名を覚えて尊敬する理由。蟲は本来一括りにして個人を認識しません。僕の真意、推し量ってくれますか?シュナ姫が僕をどう思っているか、それは自惚れではないと思っています。妻と側近も同じ意見です。貴方は決して裏切らない。僕達はそんなことさせない。アシタカ、シュナ姫は横になった方が良い。アンリさんが待機してくれている」
セリムが初めて顔色を悪そうにした。ルイとシャルルを自分へ託せ、シュナの代わりに背負う。そういう意図の言葉だろう。セリムこそが今、奮い立っている。シュナに大きな器を見せつけられても、怯んでも、折れない固い決意だと胸を張っている。
シュナの手は借りない。ティダも自身から離した。両隣のシッダルタとラステルが、胸を張ってシュナへと大きく頷いた。それからアシタカには縋るような目をしてくれた。
共にセリムを守って欲しい。そう感じた。
「シュナ、行こう。貴方のために僕がいます。それに自死など許しません。僕とまた紅茶を飲み、語らうと約束しました。貴方には僕が居ますし、それにこのように友もいる。国に信念の背中を預けられる者がいなくとも、いつでも僕達が守りますし支えます。どうか気負わずにいて下さい」
アシタカは即座にシュナの元へと移動し、そっと櫛を奪おうとした。
「毒です。触らないで下さいアシタカ様。セリム様、私が少々尊大でした。ご厚意に甘えて退席します」
シュナは立ち上がって、床に投げた櫛の外装を手に取ると元に戻した。それからまた髪に飾った。
震える小さな手がアシタカに差し出された。シュナは複雑な表情な上に青白く倒れそうだった。
「セリム、シッダルタ、ラステルさん。傍聴人に発言権はあるか?ルイ王とシャルル宰相だけではなく、蟲の民への客観的指摘。僕はそれに相応しい男だと自負している」
セリムが首を横に振りかけたがシッダルタが先に口を開いた。
「是非お願いします。中立な方の意見が必要です。そして証人も必要です。記録もお願いしたいです」
セリムがシッダルタへ驚きの目線を向けた。打ち合わせと違うのだろう。シッダルタが三回セリムの背中を優しく叩いた。セリムの表情が一気に自信に満ち満ちた。
ーーかもしれない?お前の不確定な推測で崖の国を蟲森の底に沈没させるつもりだったのか⁈
ーーそんなつもりありません!可能性があるのに、目の前の救える命を自ら捻り潰すなんて……
崖の国への迷い蟲をセリムは守ろうとしたが、アスベルに突き放されて言葉を飲み込んだ。自分の行動は正しくなかったと、受け入れた。それでも嫌だという悲痛と苦悶の表情をアシタカは思い出した。
今、規模は違えど同じ状況。
ーー己を過信するな!たった1人で何が理解できる!1人で死ぬのは勝手だが、叶わぬ理想に他者を巻き込むな!
もう一人ではなく、そして指摘された業さえ受け入れて進もうというらしい。三人で成す。そして叶う理想だと強く信じて立ち上がった。
悔しい。
アシタカの胸の中には真っ先にその単語が浮かんだが、抱き締めたシュナの震える体と、小さな嗚咽で消された。
アシタカにはシュナが居る。支えているシュナが今、アシタカを支えている。そしてセリムを支えてやりたい。そうだ、彼は人だけではなく命そのものを愛でている。道のりが険しすぎる。




