蟲の民セリムの激昂1
ドメキア王国無血革命後翌々日、明け方
***
助けてセリム
怖いよセリム
熱いよセリム
***
人がアラクランが守る貯蔵庫から奪おうとしにきた。リーマークスが丁寧に手入れした庭を踏み荒らされ、リベッルラの卵を大量に割った。巣が炎で燃え上がった。また笑いながら殺した。
牙には牙で贖ってもらう。
アピスは前線指揮官にして司令官。
蟲の民に告ぐ。古きテルムの子に敬意を示し、ここに高らかに宣言する。
報復を決行する。我らの領土の人の民、ドメキア王国の人が掟を破った。この代償を牙で贖ってもらう。
現王グスタフへ宣言する。
牙には牙。
償わせる時。
***
あまりの吐き気と頭痛、それに全身の震えで、セリムは飛び起きた。全身の血が勢いよく流れているような感覚。唸る憎悪、渦巻く激昂、喉を締めつける悲痛と苦悶。頭の上から足のつま先まで冷たい大量の汗が滲む。
突如猛襲してきた、アシタバの民大蜂蟲の唐紅の激情。今度は強制的に弾き飛ばされた。しかし、何があったのか、彼等が何を感じたのかセリムの中にはハッキリと残った。
「セリム……?」
隣で眠っていたラステルの瞳が深紅に変化していた。他は様子に変わりない。
「セリム、目が真っ赤だわ」
飛び起きたラステルがセリムを抱き締めた。身体中が大きく震えて、呼吸がしにくい。
〈助けてセリム。怖いよセリム。熱いよセリム。おこりんぼは嫌だよ。可哀想だよセリム〉
胸に飛び込んできたアピを、セリムは強く腕の中に閉じ込めた。
〈偉い子だ。アシタバアピスの子に寄り添おうと繋がったままなんだな。ホルフルアピスの子は皆優しい偉い子だ。親の言う通り閉じなさい。セリムがアシタバアピスの子を守るから大丈夫だ。誓いの蜜を食べただろう?僕から見たらホルフルの民もアシタバの民も見分けがつかない。だからセリムが助ける〉
健気さに涙が止まらない。優しさに嗚咽が漏れる。殺されたアシタバアパスの子達の悲鳴が耳から離れない。
憎い。
憎い
なんて憎い。
僕の愛する子達を奪い絶望に叩きつけた。
「ーーーーー!」
人間が何かを叫んでいる。
憎い相手の事など理解出来ない。
窓から差し込む月の光。窓とはなんだ?薄暗い部屋。巣ではない?ここは何処だ?何か包まれていて温かい。布団だ。布団?
どうする?
手を出すべきではない。
ホルフルの民が管理する人の匂い。
孤高ロトワの龍の民の匂い。
「セリム・レストニア!タリア川ほとりの村緑連に属する唄子ヴァルの息子!唄子ラステルの夫!ラステル・レストニアの愛する人!セリム!セリム!」
薄くて霞んでいた乳赤色の視界が一気に開けた。セリムに馬乗りになったラステルが、両腕を掴んでいる。静まり返る寝室に、セリムの脈打つ心臓の音だけが煩い。左側に、寝台に乗り上げたシッダルタもいて、セリムを背中側から包むように腕を掴んでいた。
「セリム・レストニア!崖の国レストニア前王ジークの息子にして現王の弟!第三王子セリム!セリム・レストニア!」
「タリア川ほとりの村緑連に属する唄子ヴァルの息子!唄子ラステルの夫セリム!」
体を揺らされ名前を呼ばれる。ノアグレス平野でセリムがラステルにしたこと。ラステルに話しておいたからか。セリムは震える腕を伸ばして二人の体を抱き寄せた。
引き波のような、強く激しいアシタバアピスの意識を思いっきり突き飛ばす。人と蟲の間に立つなら、大蜂蟲の意思疎通の輪の本流に飲まれる訳にはいかない。本流?
アシタバアピスの子もセリムを外そうと必死になってくれている。なんて健気なのだろう。セリムは浅く早い呼吸を意識して深くゆっくりに変えた。腕で感じる人の優しい温もりにだけ意識を集中させる。
「セリム?戻ってきたのねセリム……」
セリムの胸元の服を体ごと掴むように、ラステルの手に力がこもった。
「セリム・レストニア!崖の国の王……。ラステルさん。もう大丈夫なのかい?」
シッダルタの安堵の声が、息だけのような声がセリムの耳元で漏れた。
「ありがとう。奮い立たねば誰も守れない。ラステル、ありがとう。シッダルタ、君が僕を受け入れてくれたからだ。ありがとう」
セリムは二人の体から腕を離した。それからしかと二人を見つめた。意識がハッキリして、大蜂蟲の声も感情も何もかも感じられない。まるで扉が今にも押し開かれるように、圧迫されている感覚。いつものように少し開く、そんなの今はとても無理そうだ。
「何があったセリム。息苦しくて目が覚めたらアピ君が顔に張り付いていた。俺は絶叫したよ!ガタガタ震えてて、脚で助けてっていうように俺の髪を弄っていた。アピ君はもう怖くなさそうだな」
ラステルの頭を包むようにアピが張り付いている。まるで兜だ。目は穏やかな青。ホルフルアピスの子達は親に守られている。
「突然セリムが飛び起きて、目が真っ赤で、アピ君が部屋から飛び出したの!セリム……」
セリムはぐしゃぐしゃな泣き顔のラステルの額にそっとキスした。ラステルの瞳はまだ赤い。
「ラステル、君は僕が守る人。なのに、ごめんな。呼んでくれてありがとう。ホルフルアピスの子は優しくて偉かった。僕がいるから大丈夫だ」
ラステルは不安そうに深紅の瞳を揺らしているだけだった。深紅の瞳なのにえらく穏やかな様子。ラステルは相当固く、しかと大蜂蟲の輪から外されているらしい。それなのに瞳が赤いのは何故なのか。
「シッダルタ、アシタバ蟲森がドメキア人に蹂躙……」
押し開かれる。
「その言葉はもう使わなくていい!それから今は、あー、今見た僕の目の色でも考えろ。ラステルさんとそのまま手を握って、ラステルさんの事を考える。他は何も考えない。まずは落ち着こう。立てるか?」
シッダルタの瞳は力強い大地の色。深い茶色は実を多く成らせる培養土の色。ラステルの手が震えている。ラステルは僕が守る人。セリムはシッダルタに支えられながら、ラステルの手を強く握り立ち上がった。震えが減った気がする。
「俺の考えが合っていそうで良かった。そうだ、まず昂ぶる感情を春風のようにしよう。牛がのんびり牧草を食べる。地にはタンポポの群れ。想像するんだ」
タンポポ?
「シッダルタ!タンポポとは何だ⁈地には、ということは植物か?別々に使ったから牧草とは違うんだろう?タンポポ、可愛い名前だ。花か?」
シッダルタが破顔した。さらに苦笑に変わる。
「セリム。いつもの目の色だ。良かった。赤から紫になったから、そのうち青く戻ると思って」
ラステルがセリムの手を繋いだまま、反対の手でシッダルタの首に飛びついた。
「千人力よ!いや、もっとよ!シッダルタ!セリムが風の神様から贈られた友だって言ってたもの!大親友より上は唯一無二の親友よ!」
シッダルタの顔が沸騰したように、一気に赤くなった。耳まで真っ赤。
「いや、あの、ラステルさん。離れて欲しい。セリムが嫌そうだ。セリム、ラステルさんだからじゃない。俺は女性自体に縁が薄く恥ずかしいだけだ」
シッダルタがまた苦笑いした。この状況で、またヤキモチとはなんて情けない。
「セリムって変なの。私がセリムが一番大好きで、それもうんっと大好きなのに全然伝わらないの。セリムの友達。セリムって付けないと伝わらないのよ」
シッダルタから離れたラステルが、呆れ返ったように肩を揺らした。何だって?昨日のシュナの態度に対するヤキモチ焼きのラステルがよく言う。シュナの忠告は心に強く留めねばならない。威風堂々と妻の手を引く男。父ジークとセリムの命と引き換えに亡くなった母の、肖像画のようになりたい。
「ね、セリム」
ね、と小首を傾げたあまりに可憐な微笑。恐ろしい兵器。
「あー、俺は一旦部屋に帰ろうか」
視線を彷徨せたシッダルタにラステルが首を横に振った。
「セリムっていつもこうなの。少し、はしたないの。だから気にしないで」
少し、はしたないの。何だって⁈
「まてラステル!誤解だ!誤解にも程がある!」
セリムが大声で叫ぶと、ラステルが満面の笑みと白い歯を見せた。
「もう大丈夫ね。もっと落ち着いた?」
悪戯っぽいラステルに、セリムの頬が引きつった。尻に敷かれる、ではなくもう敷かれている。全身から血の気が引いていった。セリムはシッダルタの腕に掴みかかった。
「助けてくれシッダルタ。僕にはどうしても解決したい悩みがあるんだ。シュナ姫だけでは足りな……」
シッダルタの顔色が少し悪かった。それにほんの少しだけ震えている。
「僕が怖かったか?すまない……」
ラステルが村でどんな扱いをされていたのか、セリムは今思い至った。本当の意味で理解した。しかし、シッダルタの瞳に嫌悪はない。
「突然触られたりすると、どうも体が反射的に。習慣って中々抜けないようで。自分ではもう何も気にしてないんだけどな。驚きはしたが、話を聞いていたから君のことは怖くなかった。むしろ悲しかったくらいだ」
シッダルタが心底すまなそうな表情になった。奴隷だったからだ。セリムは今ラステルを真に理解した。セリムはまだシッダルタの全身を覆う苦悩を知らない。書物や崖の国での教えにより知った奴隷という身分。その実態。想像しても苦痛だろうと分かる。しかしその本質をセリムは一生知ることができない。奴隷にはなりたくない。
「僕は自分が恥ずかしい……」
セリムはシッダルタの腕から手を離した。
「突然どうした?」
話してごらんというような優しい微笑み。姉ケチャがよくこの表情をしてくれた。
「僕は温室育ちでちやほや大切に育てられた。だから今、シッダルタの本心が分からなかった。これから先、無意識に傷つけるかもしれない。悪しき習慣について、紙や言葉だけ聞いて理解したつもりになっていた。僕はいつもこうなんだ。自信満々で、驕ってしまう」
シッダルタが目を大きく見開いた。恥だがセリムはまだまだ若輩。奴隷になることは出来ないが、そんな勇気はないが、シッダルタから生の声を聞ける。彼の故郷へ支援を出来るような力を持てば助けになれる。セリムは胸を張った。
「しかし僕は学ぶ。毎回注意……」
「何だって⁈今、何て言った⁈」
今度はシッダルタがセリムの腕を掴んだ。パズーのような素っ頓狂な声を上げた。そうか、パズーに似ているのか。思慮深く、実力つけたパズーはこんな雰囲気になるかもしれない。この得も知らない親近感。
「まて、まて、今何を考えているんだセリム?」
先に口を開こうとしたら、首を横に振られた。何をって今話をしようとした。
「何を?」
「そうだ。今考えたことを素直に教えて欲しい。自信満々で驕ってしまうとはどういうことだ?そこを教えて欲しい。ほら、俺たちは互いのことを全然知らない。困難に立ち向かう前に、多少君の思考を知りたい。二人で話したのは最初と昨日だけだ。パズーからは相当聞いたけどな」
シッダルタがセリムの左肩をトントントンと三回叩いてくれた。
「そうか。僕も知りたい。僕は毎日、自分なりに勤しんでいる。だから自分を誇る。家族や民も褒めてくれるから合っているはずだ。しかし、ちやほやされて勘違いするのか尊大になりすぎる。だから今、驕りを恥じた。情けなすぎる。大恥だ。父上や兄上達に顔向け出来ない。しかし大丈夫だ。僕は毎日変わっていく。机上でしか知らなくて、理解したつもりになっていたがこれからは違う。シッダルタが話してくれるなら生の声から本当の悲惨さを学ぶ。力もつけてアシタカ達の支援をしシッダルタの故郷を助ける。奴隷層の本質を知るのに奴隷になる勇気がないなら、せめてそうするべきだ」
ラステルが何故か苦笑いを浮かべた。シッダルタは真摯な目でセリムを見つめている。考えるように黙っている。一呼吸おいて考えて察しようとするのがシッダルタという男らしい。シッダルタが「他には?」と問いかけてきた。
「シッダルタ、君の本質はパズーに似ている。鍛錬重ねて軽口が減ったパズー。未来のパズーはシッダルタのような雰囲気だと思う。僕は君の一旦止まって考えて察しようとする、この良いところを真似したい。僕は直動的だとよく注意されているから見習うべきだ」
あとは何だろうか。ラステルの前でこんな情けない姿を見せたくない。それも語るべきなのか。
「セリ……」
「ラステルにこのような恥晒しをしたくな……すまない。話を遮るつもりはなかった。先に声を上げたシッダルタが話すべきだ」
シッダルタが腹を抱えて笑い出した。
「分かった。分かったセリム。いやまだ全然分からないけれど。あはははは!セリムは底抜けに前向きだ。それに貪欲。まるでティダのようだ」
自然と眉根が寄り項垂れた。ティダは尊敬する兄のような存在だが、あの態度はいただけない。そこが似ているのなら直さないとならない。ティダも付き合わせる。
「ティダ師匠はセリムと似てないわ!アシタカさんなら分かるけど。でも優しいところは一緒ね。それに大狼なのも一緒。あら?似てるのかしら」
ラステルがセリムの顔を覗き込んだ。不思議そうにしている。それからラステルはシッダルタの顔も覗き込んだ。
「まあまた語ろう。俺の話もして……」
扉が開く音と人の気配がしたので顔を上げた。シッダルタも体の向きを変えている。
「俺が何だって?何でいるんだシッダルタ?来いヴァナルガンド。分かってるのに随分穏やかだな。グスタフを問い詰める」
セリムが動こうとするとシッダルタに腕を掴まれた。ティダが扉にもたれかかって立っていた。上半身裸で左側腹部の蟲の殻のようなものが剥き出し。青白い顔だが力強く立ち、アンリの腰に手を回している。
「ティダ、決めるのは俺達蟲の民だ。セリムとラステル。そして俺。君も入るなら話をまとめてから行動する」
ティダが明らかに動揺した。薄笑いしているが益々顔色が悪い。ティダのこんな弱々しい姿を初めてみた。シッダルタが怪訝そうにティダを見つめる。ああ、そういうことか。
「ティダ、僕はパズーに捨てられた。僕とは息苦しくて成長しにくいと。代わりにシッダルタが来た。手一杯の君から自立し、大きな男になって隣に立つためだ。蟲の民は人と蟲の間に立つ。人と大狼と蟲。均等な位置に立てるなら作戦会議に参加してくれ。しないなら、僕達の為に時間をくれ。まだ大丈夫だ。時間がある」
するすると言葉が出て来た。隣に同じ方向を向いた友がいるというのは、何て頼もしい。シッダルタが蟲の民は三人だと言ってくれた。三千力だ。ラステルは蟲の意識が強い、シッダルタは人寄り。セリムを真ん中にして均等な位置の三人になれる。
「そうか、分かったシッダルタ!昨夜の蟲達の祝福の意味が!そうか、そうだったんだ!ああ、時間が欲しい。しかし今は問題解決が先だ」
興奮してしまったが、部屋の張り付いた雰囲気で我に返った。
「シッダルタ。お前の器には注ぎきれん」
諭すように優しい声色。しかし何処と無く寂しそうだった。
「今はな。そういうことだろう?パズーをゼロースさんや俺に付けた意味。正直、ティダの大きな声とか猛々しさに反射的に萎縮するんだ。もうこれは本能だ。だから、のびのび出来そうなセリムの近くが良いと思った。パズーと色々話をして視界が開けた。それに俺は庇護はもう嫌だ。昨日のゼロースさんのように前に出るんだ。それも出来るだけ早く!」
シッダルタがまるでティダのように激しく吠えた。予想外なことにアンリがほろりと涙を流した。ティダは愕然とした様子で、顔色が一気に悪くなっていく。
「ヴァナルガンド。史上最悪の男だ。劇薬至宝よりも恐ろしい。さすが破壊神。テュールに配置するはずの大駒を奪うとは……」
テュールとはティダが祖国に残している信頼できる皇子だったはず。シッダルタが口をポカンと開き、目を丸めた。
「良かったわね。貴方の肩の荷を軽くして、大きな男になってから戻ってくるみたいよ」
アンリの発言に、ティダとシッダルタが驚愕したように目を丸めた。
「どうしてそんなに的確な……」
シッダルタが小さく呟きかけた時、ティダが放心したようにアンリの腰から手を離した。立ち尽くした、と言うのが正しい。アンリがよろめいて、へなへなと床に座り込んだ。
「離さないでよ。上手く立てないのに連れて行くなら、支えてて貰わないと困るわ。自力で歩けないなんてみっともない……」
アンリが困ったようにため息を吐くと、ティダが即座にアンリを横抱きにして持ち上げた。アンリは怪我でもしたのだろうか?
「ふはははははは!君は変すぎるアンリ。今、俺の存在が嫌悪の対象だと言い放った男が戻ってくる?君の目に映る世界は偏っている。しかし許そう。アンリが美しいからだ。ヴァナルガンド、俺は蟲を好かん。そこまで言うなら一旦引こう」
アンリしか見えていない、という熱視線と愛おしげな瞳をしたティダが背を向けた。呆れてしまうくらい、尻に敷かれている。あんな風にはなりたくない。そしてティダの思考がよく分からなかった。
「嫌悪⁈ふざけるな!」
シッダルタが今日一番大きな声を出した。振り返ったが、ティダは涼しい顔をしている。アンリがシッダルタに大きく頷いた。シッダルタは気がついていない。ティダを睨みつけている。
「変なのはお前だティダ。この十年、何をしていたか見てきた。ティダを信じられると思ったら、君が俺達に何をしてくれていたのか理解出来た。更には俺を戦場から救い、奴隷層から逃がし、行きていける場所を提供しようとしてくれている。シュナ姫の下だ。そう思ってたらテュール様?」
ティダが当然だというように柔らかく微笑んだ。
「この世は生き様こそ全て也。そういうことだ。俺は頓着しない。好きに生きろ」
シッダルタが顔を歪めてほろりと涙を流した。
「嫌悪?尊敬の間違いだ。アンリさんの方が正しい。俺はセリムから多くを学びたい。積み重なった暴力のせいで、怯むのが本能と反射になってる。だからティダの側は少々辛い。それでセリムの側だ。それに奴隷層なんかじゃ手に入らない、誇らしくなれる険しい道を見つけた。ベルセルグ皇国の近くは蟲森、だから帰る。毎晩将棋を指したい者もいる。だから帰る。遠くの地へ行く手段や連絡が取れる技術があるのも知った。帰っても道は続けられる。だから帰る」
シッダルタが突然部屋の隅へ行って何やら探し始めた。それから手に何かを持って戻ってきた。握られた拳に何が入っているのか分からない。シッダルタが近寄るとティダが後退した。
「何を訳が分からんことを。それから、止めろ」
シッダルタを睨むかと思ったが、ティダは斜め下に視線を落としているだけだった。声もかなり静か。
「ずっと隣に居てもらう女性なのだろう?知っておいてもらった方が良い」
シッダルタがわざとらしくアンリを見た。承知したというようにアンリがティダを見上げて可愛らしく微笑んだ。
「ティダ、貴方がずっと大切にして守ってきた弟が私に何か教えてくれるのなら是非知りたいわ」
アンリの発言でティダが途轍もなく不機嫌そうに唇を尖らせた。
「この猛毒妻め。ッチ。やれよシッダルタ」
シッダルタが険しい表情で、ティダの肩に拳を乗せ掌を開いた。
蜘蛛。
ティダが尊大そうな笑顔を浮かべた。
「凄い鳥肌ね……」
アンリがしげしげとティダの体を眺めた。セリムの位置からでも分かる。シッダルタが何をしたのか、理由が何か分かった。
「これが本能だ。だから別にティダがどうこうじゃない。先程セリムにも怯んだ。セリムにさえだ。大きな声、急に腕を振り上げる、悪意がないと知っていても誰でも同じで怖い。ティダが必要があるからそういう振る舞いをすると分かっている。だから俺は俺が嫌になる」
ティダが悲しそうに、穏やかな手つきでシッダルタの髪をぐしゃぐしゃにした。
「すまなかったな」
ティダがシッダルタの胸を拳で軽く三回叩いた。かなり優しい手つきだった。
「謝るなら内容が違う!突き放して、幸せに生きろってその態度が気に食わない。価値観の押し付け。共に滅びようと言われた時は胸がすいた。やっと聞けた!好きに生きろ?生きるさ!ティダの周りでだ。自力で生きていけるようにしてくれた男の近くでだ!テュール様?違う。ティダの役に立つために、俺はもっと上に行く。だからセリムだ」
シッダルタがビシッとセリムを指差した。嬉しくてならないが、なってない。指は全部揃えるべきだ。
「シッダルタ、指は揃えろだとよ」
ティダがセリムに向かって肩を揺らした。振り返ったシッダルタと目が合う。迷ったが首を縦に振った。シッダルタが指を揃えてくれた。これで心の底から喜べる。アンリが吹き出した。
ラステルがジッとティダを見つめていた。ハッとしたラステルがトコトコとティダの前へ移動した。軽くシッダルタを横に押しのけてティダの正面に立つ。
ラステルが手を伸ばすとティダが上体を逸らそうとして、体を止めた。ラステルが掌をティダの胸に当てた。
「何だラステル。俺のあまりに逞しい肉体に惚れたか?しかしその目の色はどうした。蟲に飲まれたにしては元気そうだな」
愉快そうにティダが口角を上げた。セリムは思わず駆け寄った。
「ティダ師匠。凄い鳥肌。それに冷や汗も」
ラステルが振り返ってセリムとシッダルタを交互に見た。それからもう一度ティダを見上げた。
「蟲なのよ。蟲に蟲と思われてるんじゃない。私、蟲そのものなんだわきっと。だからティダ師匠は私が嫌で嫌でならなかった。本能よ。私に対する雰囲気が随分違くなったのは、人もどきになったからもあるんだわ!セリム、私は蟲よ!」
ラステルがまた振り返った。不安そうだが、信頼しているというようにセリムを見つめてくれた。
「人だよラステル。しかし蟲だ。殆ど蟲に近い人として造られた。君は何処かで、恐らくグルド帝国で造られたのだろう。僕はそう推測している。確信を得てからと思ってた。誓いの蜜を食べた僕は君に近い。僕よりもずっと蟲に近いのがラステル。家族が君をはねつけているのはもっと人としても育ち、どちらの世界でも幸せになれという祈りと願いだ。僕とならラステルは二つの世界両方を得て誰よりも幸せになれるという家族の信頼。だから僕は家族に招かれた。何か知らないことがあったかい?」
ラステルが一目散にセリムに駆け寄り、飛びかかるように抱きついてきた。
「あるわ!造られたかもってところ!他は全部セリムが教えてくれていたわ!私、まだ蟲の民じゃないのね!だからシッダルタにお祝いが来たのよ!セリムの唯一無二の研究助手になるから、お祝いが先に来たのよ!蟲の民は二人よ!凄いわシッダルタ!」
ラステルがセリムから離れてシッダルタに勢いよく抱きつこうとして、止まった。ラステルがシッダルタにゆっくりと近寄った。それから静かに抱きついた。
「ティダ師匠って変なの。こんなに沢山好かれているのに分からないのよ。ネジが足りないのかもしれない。ネジってこうグルグルしている金属よ。だから刺さないといけないの。シッダルタが離れて教えてあげられないけど、アンリがいるから大丈夫よ。帰るまで、一緒に頑張りましょう。セリムをよろしくお願いしたいの」
シッダルタから離れたラステルが嬉しそうに破顔した。可憐すぎる破壊力にシッダルタがポーッとしている。しかし、そこまで嫌な気分にならなかった。
シッダルタはセリムの特別だ。特別中の特別。そんな予感で胸が踊る。ティダには悪いが、シッダルタはいつか帰る。その時、ティダは何を感じるのだろうか。きっと良い変化をもたらす。
「十年以上俺に虐げられ、やっと逃げるのというのにいつか帰ってくるとは、お前は変態だなシッダルタ。奇人変態過ぎる。俺の弱点をバラしやがって、やはり憎んでやがるな。まあ許すどころが気にもしない。好きに生きろ。ヴァナルガンド、俺の体は蟲のことを本能的に拒絶する。寄り添い生きろというのは却下。矜持に敬意を示して基本的に近寄らん。守るに値する矜持なら守る。それだけだ。グスタフを問い詰める時は呼べ」
片足で床を三回叩くとティダは部屋から離れていった。アンリを大切そうに抱いているのが、寄りかかっているようにも見えた。哀愁漂う、寂しそうな小さな背中。そんなに嫌なら嫌だと言えばよいのにしない。
自分よりも相手。難儀な男だ。
「こんなに言って俺が変態?ラステルの言う通りネジが足りない。うんと足りない。大狼に近づきすぎて人を忘れたのか?アンリさんは大丈夫なのか?あんな腰砕けで……。部屋に置いてこないって余程目を離すのが怖いのか。ティダの奴、何もかもが過剰なんだよな」
腰砕け⁈
ラステルが全身真っ赤になった。セリムも体が熱くなった。目と目が合って、余計に気恥ずかしくなった。怪我でもしているのか、何て見当違い。上半身裸なのは慌て、急いでこの部屋にきたからだろう。
つまり、そういうことだ。
「あー、シッダルタ。よし作戦会議をしよう。蟲の民、初めての試練だ」
シッダルタがセリムとラステルの反応を察して「しまった」という顔になった。それから苦笑いした。三人揃って吹き出して、それからきっと大丈夫だと、不安を吹き飛ばすように笑い合った。




