蟲森の深淵で
随分長く歩いていた。
慣れない土地に予想外の起伏や障害物で足がかなり疲労していて重たい。
はめたときは狭いと感じたが想像よりも視界が良好だったのが救いだった。
見失うといつの間にか現れ、先導するようにゆっくり低空飛行していたガンが突然速度を上げた。
追いかける間もなく姿が薄い霧の向こうに消えて行った。周囲を見渡しても人の姿も気配は無い。セリムは足の疲労を回復させてから散策しようと傍にある反り返った傘の白い茸らしき植物を触った。粘度がなく腰かけるには丁度良さそうだった。
まだ見たこともない植物の群れを前にしてもちっとも胸が躍らない。セリムはラステルの事が心配でならなかった。ガンを使いにしてセリムを呼んだのなら彼女が身動き出来ないという事もあり得る。
怪我か、病気か……不安で堪らない。 ガンはラステルと無関係で、全てがセリムの勘違いと偶然の一致かもしれない。
無意識にラステルの心を害し、それで会いに来なくなったという方が遥かにましだ。それはそれで胸が痛むが、ラステルが元気ならばそれが一番良い。
とりあえずセリムは植物に腰を下ろした。右も左も分からぬ場所を闇雲に歩き回るのは無意味で危険な行為でしかない。一体どうやってラステルの元へ向かうかをきちんと考えなければならない。
ほとんど毎日顔を合わせるうちに忘れていたが、本来ならば決して出会うことのない二人。会えない方が自然だ。
改めてよく見てみると蟲森の深淵は予想外に美しかった。
瑞々しい苔の絨毯。合間に点在する青白い光を発する植物。高いカザフにまとわりつき枝から垂れる淡黄の蔓。カザフに寄生する真っ赤な茸。舞い揺れる毒胞子も多種多様。
生き生きとした植物群。これこそがラステルの住む世界。
「セリム?」
懐かしい声だった。呼ばれたというより、独り言が耳に届いたくらいの声量に勢いよく振り返る。少し離れたところに森服を着ていないラステルの姿があった。戸惑った顔で小首を傾げている。
セリムは飛び上がるように立ち上がり勢いよく近づいた。走りながらラステルの全身を確認した。どこにも怪我などなかったし、顔色も悪くない。心底安堵してセリムは胸を撫で下ろした。
「ラステル!」
後退りしたラステルにセリムは叫んだ。彼女の足はその場に止まった。
「良かった。何ともなさそうで」
「やっぱりセリムなのね。その兜でそうかなって思ったんだけど、そのマスクは?」
手に持った兜は蟲森へ来る際にいつも身に着けていたものだった。互いの体を食い合う双頭竜の紋章。レストニア王家の証。確かに他では見ない代物だろう。
「君に呼ばれたと思ったんだけど違うんだ」
「私が?」
「ガンがさ、こっちに来いって言っているみたいだったんだ。それにこのマスクもガンが現れた時に見つけた。だからラステルがそうさせたのかと」
セリムが身に着けているマスクを触ると目を丸めてラステルは大きく首を振った。
「私、そんな事出来ないわ。少し蟲の気持ちは分かるけれど…。そのマスクは多分滝の村の……」
「滝の村?」
一瞬でラステルの表情が曇った。「うん」と呟いたきり俯いてしまったラステルをただ見つめ、セリムは途方に暮れた。身の安全は確認できたが、こうして健康な姿でいるということは別の理由でセリムに会えなかったということだ。
会いたくなかったのかもしれない。
だがラステルは逃げなかった。少なくとも嫌われたのではないのだろう。
では何故なのか。何がラステルを暗くさせ、悩ませているのだろうか。
「ねえセリム、危険だと思わなかったの?マスクが役立つ保証なんて…。セリムは知らないのに」
「君が心配だったんだ」
自分で思った以上の大きな声が出た。ラステルは驚いたのだろう、小さく体をビクつかせて目を丸くした。
「あの、本当に呼ばれているみたいだったんだ。結局思い込みだったみたいだけど。そうだね、死ぬかも知れなかったのに浅はかだった」
「セリム……」
ふいにラステルの瞳から涙がこぼれた。そしてそれは溢れ続けてラステルの目はみるみる赤く充血していった。
両手で顔を覆い体を震わせせる。
手を伸ばすとラステルはびくりと身を竦ませた。セリムを見上げる顔には恐怖が浮かんでいた。差し出した手が行く場所をなくしたまま固まる。けれども腕を下ろすとラステルとの距離が離れてしまう気がした。
「ごめんラステル」
一歩近寄る。ラステルは怯えた色を浮かべたが、その場からは動かなかった。
「違うの、分かっているの。怖くないって」
戸惑いに揺れる新緑色の瞳が涙に滲んだ。彼女が勢いよく横に首を振った。大粒の涙が零れた。その時セリムの中で何かが音を立てて弾けた。
華奢でしなやかな体だった。強く抱き締めたら折れてしまいそうだ。
自分とは異なる存在。柔かで小さい震える身体を腕の中に感じ、一体なぜ自分がこのような行動をしているのだろうと混乱しながらも離せなかった。




